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「まずは簡単なことから済ませよう」
ホームズは切り出した。他の寮生の不審を招くのを承知でワトソンも部屋に入れたというのに、主導するのはあくまでホームズの方らしかった。
「最初に行うのは調査ではなく、単なる事実の確認だ。空くんのなくした二枚の縞パンと」
「一枚はチェックです」
「そうだったか。一見つまらないと思える細部こそが最も重要というのよくあることだからね。情報提供を感謝する」
空に話の腰を折られてもホームズはわずかもペースを乱さない。
「その二枚のパンツと体育着の短パンを持っているのは――きみだね」
洋子は顔色を変えた。全く薄っぺらい存在のくせに、亜麻色の髪を編み上げた少女がその鋭い砂色の瞳に誰を捉え、陶器のような繊手で誰を指差しているのかは明白だった。
「先坂始くん。きみの手によって空くんの衣類は持ち出されたんだ。一度目はおとといの朝、日課のランニングの途中でゲストハウスの傍を通りかかったきみは、入浴している空くんのシャンプーの香に誘われるようにして部屋の中に侵入、脱いだまま置かれていたパンツと新しく用意されていたパンツの両方を取り上げ、匂いを嗅いだり頬擦りをしたりしているさなかに、浴室から人が出る気配でふと我に返り、急に恐ろしくなってパンツを握り締めたまま逃走した」
そんなわけがないでしょう、縊るわよ。
先坂が憤激する様を洋子は当然予想した。
だがなぜか先坂は沈黙したままだ。余りの屈辱に、それとも馬鹿馬鹿し過ぎて反論する気にもなれないのか。
ホームズは背中の後ろで手を組んで部屋の中を行ったり来たりする。
いやそうではない。ホームズは画面の中から動いていない。タブレットPCを抱えた白衣姿の青年が、定員オーバーの室内を窮屈そうに歩き回っているだけだ。
「二度目は昨日。これはほとんど説明するまでもないね。その朝、姫木くんの言葉に腹を立てて教室を出たきみは、クラスの皆が理科室に行っている間に一人で教室に戻った。その時に空くんの手提げの中から短パンが持ち出され、きみの荷物の中にしまわれた。今朝きみが着用していたのは空くんのものだね」
「それは……」
「言ったはずだよ。これは質問ではなく事実の確認だと。それともやはりきみの部屋まで行って物的証拠を差し押さえなければ認められないかな」
先坂は真っ直ぐにホームズを見返した。
「いえ、その必要はありません。後できちんと洗濯して私から逢田さんに返します」
事実上の自白だった。
「……信じらんない。どうしてそんなこと」
洋子は我慢できずに口を挟んだ。ドーナツを食べ過ぎてしまった後みたいにひどく胸がむかむかしていた。
「嫌がらせ?やっぱり空が万智子首相の親戚なのが気に入らないの?」
「そんなのじゃないわ」
先坂は即座に否定する。
「じゃあなんなのよ」
だが洋子が追及すると答えずに顔を伏せる。
「言えないようなことなのね。もういい。ワトソン、あんたが処分の内容決めるのよね。どうするつもり?」
「未定だ。まだ事件は解決していない」
ワトソンは表情を動かさない。
「犯人は先坂さん。本人が認めてるんだからそれで十分じゃない。言いたくないっていうならこれ以上無理に聞かなくたっていいわ。やったことの責任だけ取って貰えれば」
「いや、語られるべきことはまだ多く残っている」
ワトソンとは対照的に、ホームズは明らかな意志を込めて主張する。
「何度も言わせないでくれたまえ。これまでのは単なる事実の確認だ。真相の解明でもなければ犯行の告白でもない。本番はこれからだよ。そこで、姫木くん」
「な、なによ」
「きみが先坂くんにしたのと同じ質問をする。きみはなぜ昨晩空くんのパンツを取ったのかな。それも物理的にきみ以外の実行者があり得ないような状況において」
洋子はみぞおちに穴を開けられたみたいに息を詰まらせた。
「あ、あたしは、もう空のパンツが盗まれたりしないよう見張ってただけで……」
「いくらきみでも、その説明がおかしいことぐらい自分で分るだろう?」
ホームズは容赦なく指摘した。
見張っていたのは事実だ。だがそれは空のパンツをポケットに入れる理由にはならないし、空に黙ったままでいるなら洋子こそ泥棒だ。そしてもし先坂が実力行使に出なければ実際にそうなっていたはずだった。
「ではもう少し答え易い質問にしようか。『はい』か『いいえ』で答えられる。難しいことはない」
ホームズは、というかワトソンは洋子の前で足を止めた。洋子は思わず身を固くした。空の勉強机の椅子に腰を掛けた先坂が顔を上げて洋子を見る。
「きみは空くんのパンツを取ったことを覚えているかな?」
下らない質問だった。洋子は長い時を生きて想い出に微睡む老人でもなければ、記憶を飛ばすほどの大酒をかっ喰らった酔っぱらいでもない。身心共に健康な十一歳児が昨日の夜に自分がやったことも忘れているなんて笑い話にもならない。
「覚えてない」
だが洋子はそう答えた。
遊佐と並んでベッドの奥に座った空が今どんな顔をしているのか気になってたまらない。ゆうべは洋子の言ったことを信じていないようだった。それでも二人の仲は壊れなかった。今度はどうだろう。およそありそうもない弁解を繰り返す洋子のことを、空は怒っているだろうか。それとも既に見捨てただろうか。
「成程。覚えていない、か」
ホームズが繰り返す。意外にシャープな線で造作された顔からはどんな感情も読み取れない。けれど当然だ。そもそも作り物のキャラクターにどんな感情もあるわけない。
「では先坂くんは」
「……覚えてます」
ややためらった後に、先坂は認めた。洋子はいっそう暗い気持ちになった。泥棒だが正直者の先坂と、未遂に終わったが嘘吐きの洋子。どちらが好印象かなんて考えるまでもない。だいたい洋子の犯行を未然に防いだのだって先坂だ。
「ではなぜそうしようと思ったんだろう。嫌がらせではないと言ったね」
「違います」
「下着や短パンが足りなくて困っていた」
「いいえ」
「誰のでもいいから同級生の女の子のパンツが欲しかった」
「液晶割るわよ」
「空くんが身に着けている物が欲しかった」
「そうだと思います……けど」
「けど?」
「やっぱりそんなの変です。どうして私が他人のパンツなんか欲しがらないといけないの。意味が分らないわ!」
なにその頭の悪そうな逆切れ、と普段の洋子なら突っ込んだかもしれない。だが今は全く同じ気持ちだった。
「わたしは可愛いパンツ見たら欲しいって思うけどな」
「逢田さん、たぶん今はそういう話はしていないわ。和藤さんの邪魔になるといけないから少し静かにしていましょう」
「はい、ごめんなさいでした」
ホームズは先坂との対話を続ける。
「先坂くん、きみは空くんのパンツが欲しかった。だがなぜ欲しくなってしまったのかは分らない。そういうことだね」
「自分でも変だとは思いますけど……っていうより、たぶん自分で自分が一番変だと思ってる」
「いや、きみはまだ変さを十分に認識しているとは言えないな」
「……どういう意味ですか」
先坂はさすがに鼻白む。
「空くんが転校してくることをきみは事前に知っていた?」
「一応。父から電話があったので」
不機嫌そうに答える。
「では空くんがゲストハウスに泊まることは」
「それは知りませんでした。ランニングして通り掛かった時に、もしかしたらいるのかなとは思いましたけど」
「空くんのことは以前から知っていたんだろうか。直接会ったことがなくても、写真などで顔を見たことがあったとか」
「いいえ。あ、でももしかしたらパーティーとかで擦れ違ったりとかは……ある?」
空の方を向いて尋ねる。
「ないと思う。わたしそういうの出たことないし」
政財界の社交の場などのことだろう。洋子も地元の有力者の集まりなどに顔を出させられることがある。もっともこっちはせいぜい町内会の延長程度のもので、先坂とはクラスが違うだろうが。
「今までの話を纏めると」
ホームズは両手の指先をつつき合わせた。
「先坂くんは顔を見たこともない女の子のパンツ欲しさに、当人がいるかも定かでない建物に侵入し、その場にたまたま放置されていた下着を盗み出した。これは普通に考えてかなり不合理な行動だ。目的も手段もちぐはぐに過ぎる。もし警察の取調べでそんな供述をしたとしたら、まずまともには取り合われないだろうね。きちんと筋の通った別の説明を厳しく要求されるはずだ」
「だけど私は本当に」
先坂は心細くなったように自分の身を抱き締めた。
「和藤さん、まさか警察に連絡するつもりですか?」
遊佐が厳しい面持ちになって尋ねる。ホームズは細い肩を竦めた。
「普通ならそうなるだろう」
「和藤さん!」「ちょっとあんた!」
遊佐はベッドを降り、洋子は椅子を蹴った。
「ま、待ってくれ」
二人に同時に詰め寄られて、ワトソンはおろおろと後退した。逃げ腰の態度がさらに洋子の怒りに油を注いだ。理事長の依頼とか偉そうなことを言っておきながら、結局は丸投げするのか。それも警察沙汰にするなんて最悪のやり方で。
いっそワトソンの方を逮捕させてやろうか。洋子は危険な考えを巡らせた。容疑は小学生への強制猥褻未遂だ。
「普通なら、そうだとしてさ」
偽装工作にと自らのブラウスのボタンに手を掛けた洋子を、空の声が引き止めた。
「だけど普通じゃなかったらどうなるの、ホームズちゃん」
#
砂が降り積もるような沈黙を破り、ホームズの声が響く。
「まさにそれこそが核心だ」
可憐にして凛としたその姿から皆は目を離せない。
「一連の事件は全くもって普通ではない。姫木くんには犯行時の記憶がなく、先坂くんには記憶こそあるものの、動機が実に曖昧だ。例えば浴室の外の廊下で姫木くんを待ち伏せて、空くんのパンツを見つけ出した時のことだが、なぜそんなことをしたのか、どうして姫木くんのしたことが分ったのかと訊かれたらきみはなんと答える?」
「……急にそうしたくなったとか、なんとなくそんな気がしたとしか」
この通りだよ、というようにホームズは両手を広げた。
「意識レベルに差はあるものの、主体性の欠如という点で二人の行動は共通している。そして本人にすら思いもよらぬ挙に出てしまうことをこの国では古来こう呼び慣わしてきた――まるで“もの”に憑かれたように、と」
次元を違えた彼方から、映し身の少女が現し身の少女達を見はるかす。
「うん、分るな。疲れてる時って変なことしちゃったりするもんね。わたしもバスケの試合が終わった後、いっぱい汗かいたしお風呂入ろうと思って、バスケットコートの上で服脱ごうとしちゃって」
「逢田さん、いい子だからちょっと黙って」
ベッドに戻った遊佐が空の口を塞いだ。
「あんたが何言いたいのか全然分んない」
洋子はまるで意地を張るみたいに言った。ホームズは心外そうだ。
「姫木くんは真っ先に理解してくれるはずだがね」
「なんでよ」
「きみは実際に目撃しているからだ。現世の則を踏み越えた“もの”が、空くんと情を交わそうとしている場面を」
初めて空と過ごした夜の怪事が、洋子の脳裡にありありと蘇った。なまめかしいあえぎ声を、いや苦し気な呻き声を洩らす空の上に覆い被さる白い人影。
「まさかきみは生身の人間が一陣の風と共に消え去るなどということが本当にあり得ると思っているのかい?それならば是非とも方法を教えてもらいたいね」
「知らないわよそんなの。でもどうせ手品かなんかでしょ」
「手品であれば種がある。テーブルマジックなら小手先の技でどうにかできるとしても、人体消失ともなればそれなりの仕掛けが必要だ。きみ達の部屋にはそういう物があったのかい?」
あるわけがない。
「だけど他に考えられないじゃない」
「背理法というものを知っているかな。今回のケースに当て嵌めてみると、もしきみが目撃したのが生身の人間だったとすれば一瞬で消え去ってしまうことなどあり得ない。だが実際には一瞬で消え去った。これは矛盾だ」
「だから?」
「最初の仮定が間違っていたんだよ。もし生身の人間ならば、という」
「要するになんなのよ。ちゃんと分るように言いなさいよ」
「つまり」
ホームズは結論を述べた。
「今回の一連の事件の犯人、即ち先坂くんと姫木くんの体を使って空くんの衣類を盗み出し、寝ている空くんと愛し合うことを欲して果たせず消え去ったのは、生身の人間にあらず、生霊だったということだ」
洋子は足下の床が急に抜け落ちてしまったような浮遊感にとらわれた。自分はいったい今どこにいるのだ。この茶番劇はなんなのだ。
「一応筋は通ってますね」
遊佐が認めた。ある意味ホームズのとんでも推理以上にショッキングだ。
「綾香、こんなでたらめ信じるの!?」
「半信半疑っていうところかしら。他にもっといい説明がないなら検討する価値はあると思う。『不可能を取り除いていって残ったものは、どんなにありそうもなくても真実に違いない』」
「あんたまでそんなわけの分んない小理屈を……」
脳がもう過負荷寸前だった。ホームズだけでも手に余っているというのに。誰か洋子の味方はいないのか。
救いを求めて見た先で。
「……お兄ちゃん?」
空が不意に呼び掛けた。
もちろんこの場に空の兄などいはしない。そして空はどう見ても目を覚ましている。寝呆けてワトソンと兄を取り違えたということはない。
ならばどういうことなのか。
空自身にも判然としないようだった。気配はすれど姿は見えず、とでもいうようにあちこちと視線をさまよわせ、やがて洋子のところで止まる。
「ど、どうかした?」
上擦った声で尋ねる。空はすぐに首を振る。
「やっぱり違う」
なんだか自分が駄目出しされたみたいで洋子は軽く凹んだ。その間に空の注目は先坂へ移った。
「……な、なにかしら」
先坂も対応に困っているようだ。
「お兄ちゃん、いるの?」
「そ、空さん?ちょっとあの」
なに馴れ馴れしく名前で呼んでるのよ、と目下の問題とは全く関係のないところで洋子は腹を立てる。
空はひどく先坂のことが気になるらしく、ベッドの上で膝を付いてにじり寄り、今にも落ちそうなほど縁から身を乗り出した。落ちた。
「空っ」「逢田さんっ」「空さんっ」
皆の心配をよそに、空は身軽く立ち上がった。空の椅子に座る先坂の前に立つと、身を屈めてぐぐっと顔を覗き込む。先坂は影を縫い止められてしまったみたいに動けない。
「どうして始ちゃんからお兄ちゃんの匂いがするの?」
「空さんのお兄さん?」
「始ちゃんとお兄ちゃん全然似てないから、今まではっきり気付かなかったけど。お兄ちゃんがここにいるみたいな感じがする」
「ごめんなさい、私にはなんのことだか」
「もしかして」
空はやけに真剣な面持ちで先坂の前にひざまずいた。
「始ちゃんのお腹の中に、わたしのお兄ちゃんの赤ちゃんがいるの?」
先坂が凍り付いた。たぶん脳のスイッチが切れたのだろう。
「さすがにその発想はなかったな」
ホームズが感心したように口を挟んだ。
「なかなかいい所を突いている。とはいえ、先坂くんときみのお兄さんが肉体的に親交を結んだという事実はまずないだろうね。ストラディバリウスを賭けてもいい」
洋子は先坂の元に駆け寄った。
「先坂さん、まずは落ち着いて。空の言うこといちいち真に受けてたら身が持たないから。適当に聞き流しとけばいいの。ねっ」
先坂は反応しない。「わたしの兄と子供を作ったか」などとクラスメイトからまじ顔で問われれば、たいていの女子小学生は驚くに違いない。
「もしもし、先坂さん?」
それでもこの茫然自失っぷりはただごとではない気がした。洋子をわざと無視しているのではない。そもそも声が届いていない。目からは理性の光が消え失せて、虚ろに空を見返すその姿は、さながら。
洋子の背に鳥肌が立った。
さながら “もの”に憑かれたかの如く。
「始めちゃん……お兄ちゃん?」
空が呼び掛けた瞬間だった。
換わった!
理性ではなく心で陽子は知った。今先坂の体を“つき”動かそうとしているのは先坂ではない。誰か別の魂だ!
「空っ!!」
「きゃっ!?」
〈先坂〉はバネが弾けるように空に抱き着き、一気に押し倒した。空の方が体は大きい。力だって強いだろう。いつもの先坂が相手なら空はその気になれば押し除けられる。でもあれは無理だ。先坂の姿に重なって、二回り以上も大きい白衣の男の姿を幻視する。瞬きした後には消えていたものの、ただの気のせいだとは思わなかった。たとえ洋子が全力を振り絞ったとしても、あれはきっと引き剥がせない。
いっそ襲っているのが本物の男ならば、殴ってでも最悪刃物を使ってでも空を守るために戦うけれど、体は先坂のものなのだ。傷つけるなど論外だ。
どうにかしてよ!!
この場にいる中ではぶっち切りの腕力の持ち主であるはずの青年のことを怒鳴りつけようとして、洋子は息を呑んだ。
誰よこれ?
こっちにも何か憑いたのかと戦慄しそうになった。決して不細工というわけではないのに、作り物めいた無表情のせいでいつも冴えない印象のワトソンが、今はまるで大出力エンジンが始動したみたいな精気に満ち満ちていた。
黒いサーチライトみたいな瞳が真っ直ぐに〈先坂〉を捉え、狙い定めて構えられた右手にあるのは他でもない――少女の絵が映し出されたタブレット。
どうしようっていうのよ、それで。
洋子は膝が脱けそうになった。一瞬でも気圧されてしまった自分が悔しい。やはりこんな男は頼るだけ無駄だ。自分だけでは難しくても、遊佐と力を合わせればきっとやれる。洋子は助けを求めて振り向いた。
「ホームズ!!」
「承知!!」
その刹那、ワトソンとホームズが鋭く掛け合い、続いて空間を何かが駆け抜けた。それはワトソンの持つタブレットから飛び出して先坂の中に飛び込み、先坂の中から弾き出された別の何が遊佐の中へと吸い込まれる。
……なに、今の?
理解不能のまま室内に視線をやると、先坂はぐったりと突っ伏して、その下にいる空は〈先坂〉の狼藉のせいで服が乱れている他は平気そうだ。目が合うとふわりと洋子に向けて笑う。心の中でキスをしてから洋子はワトソンを見る。今回は心構えができていたせいかさっきほどの衝撃はなかったものの、それでも鈍だった刃物を研いだ直後みたいな凄みを感じる。ぶっちゃけずいぶんかっこよくなっている。でも近付きになりたいとは思えない。はっきりいって怖い。剥き出しの高圧電線の傍にでもいるみたいに肌がざわざわする。まさか本当に強力な電磁波を発して壊したわけではないだろうが、いつも持っているタブレットPCの画面が真っ黒だ。バッテリー切れだろうか、と思っている間にさっきとは逆に先坂からタブレットへと何かが走って思わず目を閉じる。再び開いた時には普段と変わりない取り澄ました美少女が貼り付いていて、ほっとする。いや洋子としては別に変態の持っているデータが消えようと機械が駄目になろうとどうでもいいのだが、人間さながらに受け答えのできる美少女キャラクターは、低学年の子達の間では意外と人気があったりするのだ。
「あれ……私」
夢から覚めたみたいに先坂がぼんやりと呟いた。
「始ちゃん、大丈夫?」
「ええ、別になんとも……って空さん?なんでここにいるのよ、あと二人きりの時以外は名前で呼ばないでって、違う、ここはええと、空さん、じゃなくて逢田さんの部屋か、どうして私」
「いいからさっさと空の上からどきなさい」
洋子は先坂の手を掴んで引っ張り上げた。先坂は重い動きながら抵抗することなく立ち上がる。意識の混乱はありそうだが、中身はいつもの先坂のようだ。どうにか正気に返ったらしい。それにしても今のはいったい何だったのか。
「ねえ綾香、あんたも感じたよね、なんか風みたいなのが……」
遊佐ならばきっと落ち着いて状況を整理してくれる。振り向いた洋子の期待はしかし完璧に裏切られた。
顔つきが違うとか目の色が尋常じゃないとかそういうちゃちなものでは断じてなかった。
遊佐の上に、白衣を着た男が被さっている。というか男を透かして遊佐が中にいるのが見える。意識がないのか、遊佐の目は閉じていた。だが穏やかに眠っているような感じで苦しそうな様子がないのは幸いだ。
「これは……まだ夢、か?」
半透明の白衣の男が言った。寒天みたいに影が薄いくせに意外とはっきりした声だ。
「君は、確か」
男は洋子に目を止めた。
「覚えがある。空のルームメイトだ。空と仲良くしてくれるのはありがたいが、同じ部屋で寝泊まりするのをいいことに不埒な真似をするのはやめてくれ。嫁入り前の大事な身だ」
根も葉もないひどい言い掛かりだ。
「あたしと空は友達です。友情を育むのに適度なスキンシップを取るのは当り前……っていうかとにかくおかしな心配しないでください。それに嫁入り前ってなんですか。どれだけ先の話してるんですか」
「空さえよければ今からでも」
また変態が増えた。頭を抱えたくなる。かなりの残念さ加減だ。見るからに格好だけといったワトソンとは違い、白衣は研究者然として様になっているし、凛々しくも優しい面立ちはかなりの美形だ。なのに女子小学生を嫁にすることを大真面目に語るこの罪人の正体はおそらく、いや間違いなく。
「お兄ちゃん!」
「空!!」
空を見た怪人、いや逢田兄は歓喜した。世間的にはどれだけ頭がおかしくても、空を心から愛していることだけは確からしい。
「お前は本当に可愛いなあ。新しい制服もよく似合ってるよ。傍においで。お兄ちゃんが抱っこして頭を撫でてあげるから……あれ」
逢田兄は空に手を差し伸べた格好のまま固まった。
「どうしたの、お兄ちゃん?」
空もベッドに近付こうとした途中で足を止める。
「分らない。体が重い。まるで縛り付けられてるみたいだ。ここから先に進めない。どういうことだ?」
もちろん洋子にだってまるで見当もつかない。だが答えを知る者がそこにいた。
「それはね、憑坐の中に入れていないせいだよ」
鈴の鳴るような声音が告げた。