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「……絵が喋った?」
ホームズを見た逢田兄はひどく驚いた顔をした。
「AIか?いやまさか、アバターの類だろう。……まあ気にしても仕方がない。どうせ夢だ。ネットに住まうロアだとしても文句はない。それで美しいお嬢さん、今のはどういう意味なんだろう。憑坐の中に入れていない、というのは?」
「ロア、確かヴードゥーの精霊だったね。成程」
ホームズは興味深そうに頷いた。
「はじめまして。空くんのお兄さんだね。きみの質問には後ほどお答えするよ。名前を聞いても?」
「逢田陸だ」
「陸くんか。よろしく。ぼくはホームズだ。もしよかったらホームズちゃんと呼んでくれたまえ」
ホームズが自己紹介する。人によってはふざけるなと怒り出しそうだが、陸は納得したようだった。
「ずいぶん洒落た格好をしていると思ったら、シャーロック・ホームズか。あなたの趣味ですか?」
タブレットを抱えたワトソンに尋ねる。
「本人の意思だ」
ワトソンは素っ気なく答える。
「本人というのはそのアバター、いやホームズちゃんのことですか」
陸は問いを重ねたが、ホームズが割って入った。
「ぼくのことはいいさ。それより話を先に進めてもいいかな」
「ああ失礼。どうぞ」
「ありがとう。ではまず状況の確認だけど、きみは現実の存在としてこの場所にいるわけではない。それはいいね?」
陸は少し考えた。
「それは哲学的な命題なのかな。現存在がどうとかいうような」
「いいや。ごく一般的な意味においてだ」
「ならば答えはイエスだ。僕がこんなところにいるはずがない。本物の僕は今頃……どうだろう。ちゃんと許可を貰って仮眠室にいるならいいが、また自席で船を漕いでいるとかだったらまずいな。あとで絶対主任にねちねち言われる」
陸がこぼした。その身を透かして眠っているように見える遊佐が中にいるのはなかなかにシュールな絵面だ。
「きみは今夢の中にいる。結構。それについてぼく達の見解は一致している。ところできみは『また』と言ったね。こうしたことは以前にもあったということかな」
「九月に異動になって、新しいプロジェクトに入ってからめちゃくちゃに忙しくて夜まともに家で寝てないんだ。ぼうっとして自分が別の場所にいるような感じがすることは何度かあった。さすがにこういうふうに意識のはっきりした明晰夢みたいなのは初めてだが」
「別の場所というのは?」
陸は答えることをためらった。ホームズは気安い調子で促した。
「隠すことはないさ。どうせきみには夢の中だ。旅の恥よりもっと掻き捨て易い。……きみがいたのは空くんのところだね」
ずばりと切り込む。陸は頬を張られたように妹の方に顔を向けた。
「……確かに、いつも空の傍にいた。学校や通学路、空の部屋や風呂場」
風呂場!?
洋子の闘争本能が瞬時に滾る。しかしどうやったら生き霊をぶん殴れるのか分らない。それに空は未だに兄妹で一緒に入っているようなことを言っていた。ひとまず制裁は保留する。
「そうしてきみは夢であるのをいいことに空くんの体を揉んだり吸ったり嘗めたり思うさま味わったというわけだ」
「そんなことはしていない!」
「していない?」
声を荒げて否定する陸に、ホームズはさも意外なことを耳にしたというように聞き返した。
「夢の中で何をしようときみは全く自由なのに?裁くべき法律も、守るべき倫理も、白い目で見る世間もない。空くんだってきみが相手なら拒否はしない。そうだろう?」
まるで今日朝ご飯を食べましたか、と尋ねられたみたいに空は頷いた。
洋子は血が出そうなほど唇を噛み締めた。空がブラコンなのは分っていたがここまで重症だったとは。なんとしてもあたしがこっちの道に引き入れてあげないと。
それがどっちの道なのかは洋子自身にも定かではない。
「なぜ空くんともっと仲良くしようとしなかったんだい?」
まるで責めているみたいに問う。陸の顔が歪んだ。
「……できなかったからだ」
「なぜ」
「あれをしようとかこうしたいとかはっきり考えられる状態じゃなかった。そもそも物に触れることもできなかった。空も僕がいることには気付かなくて……漠然と感じているような時もあったが、それで喜ぶどころかかえって不安そうにしていた。夜、空が眠っている間はまた違っていた気もする。だけどそういう場合は僕の方の意識もいつにも増して曖昧だったから、正直ほとんど覚えてない」
「しかしきみはここ三日ほどの間にそれまでとは違うタイプの経験をした」
「そう……なぜ知っているんだ?」
「推理しただけだよ。ぼくは探偵だからね」
ホームズは澄まして答える。
「話を続けてくれたまえ」
「おとといの朝のことだ。徹夜明けの僕は職場で茫然としていた。空が急に地方の学校に行くことになったという知らせを留守電で聞いたんだ。週百二十時間以上働いたおかげで、その日はようやく代休を取れることになっていた。ケーキでも買って帰ってまずは一眠りしよう。そして空が学校から戻ったら一緒に食べるんだ。その後もずっと一緒に過ごして、できる限り空分を補給しよう。そう思っていた。なのに空はもう家にいないっていうんだ……」
洋子は陸の経験を自分の身に置き換えた。物凄くハードな勉強合宿とかに連れて行かれて、一週間経ってようやく空に会えると縋るような思いで帰ってみたら、既にいなくなっていたとしたら。
これはひどい。想像しただけで心が折れる。
しかも知り合ってまだ間もない洋子に比べ、この人は空が生まれてからずっと傍にいたのだ。心が壊れてしまっても無理はない。
「ただ空のことばかり考えていた。今頃何をしているんだろう。夜はよく眠れただろうか。お腹を空かせてはいないだろうか。悪い虫は付いていないか。最近着け始めたブラジャーはきつくないか」
「お兄ちゃんがおみやげにくれたやつなら大丈夫だよ。少し大きめなぐらい」
「成長期だからな。ぴったりなのよりいいと思ったんだ」
心は元から壊れていたのかもしれない。洋子は陸の評価を下方修整する。
「ふと空の気配がするのを感じた。僕はいつのまにか全然知らない場所を走っていた。それもどうも自分は女の子になっているようだ。かなり奇天烈な状況だったが、その時の僕はほとんど奇妙と感じることもなく、空の匂いがする建物に入った。一階にある部屋のベッドの上にパンツが二枚置いてあった。間違えるはずもない。空のだ。僕は手に取って空の温もりに触れ、その最中に目が覚めた。その後も似たようなことがあった。比較的はっきりと覚えているのは、誰もいない教室で空の短パンに顔を埋めたことと、風呂の脱衣所で空のパンツにくちづけをしたことだ。空本人に触れようとしたこともあったが、その時は女の子ではなく自分のままだった気がする。しかしやはり自分の体では空には手が届かなかった」
陸は告白を終えた。ホームズが後を引き取る。
「ありがとう。これで大方の事情は明らかになった。姫木くんと先坂くんもいいね」
洋子と先坂は顔を見合わせた。言葉には出さなくても、互いに似たような心境でいるのが伝わる。
確かに突拍子もない内容だった。だがでたらめだと退ける気にもなれない。なにしろまさに現在進行形で常識はずれの存在を目の当りにしているのだ。
「つまり、あたしが見た白衣の怪人も、あたしと先坂さんにおかしな真似をさせたのも、全部空のお兄さんだったっていうわけね。空に会えない淋しさの余りに血迷ったのが原因で」
「おおむね正しい理解だ」
「それで結局どうするわけ?どうやって迷惑行為をやめさせるの?遊佐はいつ元に戻るの?」
原因が分ったところで解決できなければ意味がない。むしろ現状事態は悪化しているといっていい。もともと無関係だった遊佐が全面的に乗っ取られてしまっているのだ。
「だいたいどうして綾香なの?」
「遊佐くんなら憑かれるだけで済むからね。きみや先坂くんのように憑き動かされることはない。だから駆り出し先に使わせてもらった」
陸が思い出したように尋ねた。
「それが君が最初に言っていたことの意味か。憑坐に入れていないという」
「その通り。きみはこちらではほとんど先坂くんの中にいた。時には浮遊したり姫木くんの中に入ったりすることもあったようだけどね。理由は分るかい?」
陸は慎重に答えを探る。
「その子、先坂さんは始終空のことを考えていた。だから同期し易かったのかもしれないな」
陸の推測を、先坂は否定しなかった。特に動揺することもなく素直に受け入れているように見える。
先坂、そうだったんだ。些か複雑な感情を抱きながらも洋子は納得する。やたらと空に突っ掛かっていたのも素直になれなかったせいなんだ。応援はできないけれど、おかしいとは思わない。だって空ぐらい可愛ければ好きになっても当然だ。それに空と同じく先坂だって洋子の大切な友達なのだ。
「きみが空くんとの突然の別離に放心していたのと同じ時、やはり空くんのことを考えていた先坂くんがたまたま空くんの近くを通り掛かった。その瞬間、想いが繋がったんだろうね」
「……想いが繋がった」
水面に波紋が広がるように、先坂が言葉をなぞった。
「とりわけ先坂くんの心情は屈折したものだったからね。プライベートに深く立ち入るつもりはないが、あえて抽象化していえば、義務と反発との板挟みといったところかな。やはり屈折したところのある陸くんと波長が合ったのも不思議はない。空くんの近くにいるという目的のためには姫木くんに憑いた方が都合はよかった。しかしそれは諸刃の剣だった。洋子くんの欲情に引きずられて暴走してしまう恐れがあったからね。長く憑いているのは危険だときみは直感的に覚ったんだろう。昨夜の出来事がいい例だ。一時的に姫木くんに取り込まれたきみは、すぐにこのままではまずいと気付いて先坂くんの中に戻った」
「確かにそういう感じだった気がする」
「片や遊佐くんが空くんに対して抱いているのは純粋に友人としての好意だけだ。故にきみが憑いても精神が融合してしまうことがない。いわば表面に“付いて”いるだけの状態だ。きみの意識がはっきりしている反面、体を動かすことができないのはそういう理由だよ」
「よく分ったよ」
陸は深く頷いた。先坂もすっきりした面持ちだ。空は静かに聞き入っている。
だが洋子は釈然としなかった。あたしの欲情のせいで暴走とか意味不明だし。事実無根だし。名誉毀損だし。空はあたしのものだし。あれ?
「最後に一つ教えてもらってもいいかな」
「構わないよ。もっとも、きみはもう自分で答えを知っているんじゃないのかい」
「自分のいる世界の正しさは自分では証明できないからね。……つまり、僕にとってこれは夢だ。だけど君達にとっては違うんだね?」
「その通り。ぼく達にとってここは現実だ。それこそ言葉で証明することは不可能だけれど、しかし」
陸はホームズを遮った。
「空、お願いがある」
「はい」
空はベッドに上がり、陸の正面で膝を揃えた。
「僕に電話を掛けてほしい」
「電話?」
「空の携帯からなら絶対に気付けるようになっている。マナーモードでも、近くにいなくても……それから、眠っていても」
「ちょっと待って」
空は自分の机のところまで移動して、置いてあった携帯電話を取り上げた。ほとんど通話機能だけに特化してあるような小型の機種だ。
番号は登録済みなのだろう、ボタンを二度押しただけで顔の横にあてがう。
一秒、二秒、誰かに肩を叩かれたみたいに陸が体を震わせた。
三秒、四秒、陸と空の視線が重なって。
五秒、大丈夫だよ、というふうに空が笑い。
六秒、陸は笑い返した。
それはまるで空に光が射したように美しくて。
この人は本当に空のお兄さんなんだ。洋子は心底から実感できた。
七秒、陸は消えた。
「お兄ちゃん?」
空が呼び掛ける。この場所にいない相手へ。
「うん、わたし――元気だよ、ありがとう。お兄ちゃんは?――そうなんだ。あんまり無理しないで大変だったらちゃんと休んでね――うん、いるよ。ホームズちゃんも、ワトソン博士も、洋子ちゃんも始ちゃんも、それから――」
空はベッドの方を振り返った。正気に返ったらしい遊佐がふわりと手を上げる。
「綾香ちゃんも。なんともないみたい――うん、言っておく。あ、待って、お兄ちゃん、あのね、わたし……ごめんなさい。お兄ちゃんがそんなに辛いんだって気付いてあげられなくて――」
空は悪くない。洋子は思った。きっと、向こうにいる人も。
「――ううん、ほんとはわたしも寂しかったの。だけどお兄ちゃんはお仕事だから、わがまま言っちゃいけないって思って――それで、わたし」
空には自然な決断だったのだろう。
「お兄ちゃんがよければ、いつだってそっちに帰る」
洋子は下を向いた。
「ずっと傍にいる。お嫁さんにもなるよ。籍は入れられないだろうし、赤ちゃんを作るのは慎重にした方がいいかなって思うけど、でもお兄ちゃんが欲しいって言ってくれるなら、わたしも頑張る」
超噎せた。ジュースでも飲んでいる最中だったら毒霧みたいに部屋中に噴き散らしていたに違いない。
仰天したのはもちろん洋子一人ではなかった。先坂はまるで発作をこらえるみたいに胸を抑え、ワトソンは「え、いや、さすがにそれは、しかし、せめて義理なら」などとたわ言を垂れ流し、ホームズさえ開いた口が塞がらないという態で絶句する。そしてなぜか遊佐が身を二つ折にして笑い悶えていた。何が壺にはまったのかは皆目検討もつかなかったが、遊佐がこんなにうけているところを見るのは初めてだ。
そして彼方の相手にとっても、空の言葉は想像の範囲を五光年ぐらいはみ出していたらしい。洋子に劣らず咳き込んでいるのが携帯のスピーカーから洩れ聞こえた。
「お兄ちゃん大丈夫!?――うん、本気だよ。だってわたしお兄ちゃんのこと大好きだもん。空が傍にいるとお兄ちゃんが幸せになってくれるなら、わたしはそうしたい」
受け止め、落ち着き、考える。次の会話が始まるまでに沈黙の時間が挟まれた。
「――うん、だって前の学校の友達にも会いたいし……え」
空は息を止めたようだった。
洋子もだ。
空の瞳が潤んでいる。
「ううん、離れたくない」
震える声で首を振った。
「まだこっちにいたい。せっかく仲良くなれたんだから。もっともっと一緒にいたい……」
空がこっちを向いた。
「……いても、いい?」
「当り前でしょ!」
洋子は空に飛びついた。マシュマロみたいに柔らかい体を力いっぱい抱きすくめる。
「空はずっとここにいていいの。いなくちゃ駄目なの。あたしの……あたし達の場所に!」
頬にくちづけをして、流れる涙を掬い取る。
「うん――ありがとうお兄ちゃん」
ここではないどこかと繋がっていた不可視の線を、空は愛おしむように断ち切った。
* * *
「まったく、どうしてこんなに遠いのかしら。嫌になっちゃうわ」
先坂が不平を鳴らす。今日は授業は午前中だけだったので、掃除の時間もまだお昼前だ。九月下旬に入っても残暑は残り、陽光は強烈だった。
「そうだね。ちょっとだけ大変だね」
一つのゴミ箱を間に挟み、先坂と反対の縁を持った空が言う。
「だけどわたしはお散歩してるみたいで楽しいな。始ちゃんも一緒だし」
「それは……うん」
下を向いた先坂の口元がひそかに緩む。
「だけどどうせすぐに飽きるでしょうね。初めのうちは広くて新鮮に感じるかもしれないけど、通る道なんて決まってるし、結局毎日同じ景色を見続けるだけなんだから。そろそろ別の場所に行きたいなって、この頃思う」
空はいきなり足を止めた。ゴミ箱の片側が前に進まなくなったせいで先坂はつんのめる。
「い、今のは違うの!」
先坂は慌ただしく振り返った。
「私は長くいるからそう感じるってだけで、空さんといるのが楽しくないってことじゃないから!」
「ねえ始ちゃん、別の場所に行きたいんなら」
空はゴミ箱を離すと、代わりに先坂の手を握った。
「こうすればいいんだよ」
舗道の外に足を踏み出す。先坂はすぐには後を追わず、ためらうように尋ねる。
「でもどこに行くの?たぶんそっちには何もないわ」
空はふわりと笑った。
「どこへでも。わたし達の行きたいところに」
その後揃って迷子になった挙句、日も傾き始めた頃になってようやくホームズとワトソンに見付けてもらった二人は、戻ってからさんざん洋子に説教されたのだった。




