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 寮にある風呂場の脱衣所は手狭ということはなかったが、銭湯でも温泉宿でもないのでゆっくり座って過ごせる場所などはない。

 洋子は脱衣籠の並んだ棚に背中を凭れ、着衣のまま周囲の様子に目を光らせていた。はっきりいって怪しい。まず全員が顔見知りに等しい寮内でなければ痴女として通報されてもやむをないところだ。

 せめてもの救いは、利用する子がもうほとんどいないことだった。もちろんそれを見越して遅い時間にしたのだが。

 脱衣所にいた最後の一人が出て行って、洋子はひとまず気詰まりから解放された。同じ六年生だったが、クラスが一緒になったこともなく余り親しくない相手だ。

 何度か洋子をちら見してきたものの、結局話し掛けてくることはなかった。気にはなるけど訊くのも気まずい。そんなところだろうか。なんにせよ洋子としては助かった。

 もし訊かれたとしても困るのだ。

 適当な口実が思い浮かばなかったので、「ちょっとね」などといっそう不審を煽るような答えしか返せない。

 そんな落ち着かない気分を味わいながらも洋子がこの場所に陣取っている理由は。

 もちろん女子小学生達の瑞々しい肢体を堪能するため、ではなかった。そんなもの今さら何の興味もない、といえば嘘になる。まるっきり子供の下級生はともかく、同じ年頃の相手の成長具合は気になるところだ。遥か発展途上の身としてはついどうしても己と引き比べ、いや思春期にある仲間としての共感を抱いてしまう。

 しかし今の洋子にとって大事なのは中身ではなかった。下着だ。

 などと口に出せば変態扱いは必定だが、もちろん違う。誰彼見境なく手を出そうというのではない。ターゲットは空のパンツだけだ。

 いやそれも違う。

「あれ、珍しいね」

「綾香」

 浴場利用時間が終わるまでもう十分を切っていた。このまま誰も来ないだろうと思っていたのだが、洋子の予想は外れた。

「今からなの?」

「私はいつもこのぐらいだよ。退院して寮に戻ってからは」

 洋子の疑問に答える間にも遊佐はさっさと服を脱いでいく。

「ああ……」

 洋子は咄嗟に顔を逸らしそうになり、だがそれも失礼な気がして目の焦点をずらした。遊佐の左足に残る火傷痕が水に絵の具を垂らしたみたいに視界の中で拡散する。

「入らないの?」

 タオルで前を隠した遊佐が訊いた。

「あたしはもう入ったから」

 なんとなく後ろめたく感じながら答える。それなら何をしているのか、と問われることはなかった。

「そう」

 遊佐は短く相槌を打っただけで浴室へ向かった。その淡白さに洋子はかえって全てを話したいという衝動に駆られる。

 もし遊佐が手を貸してくれたら、きっと心強い。

「あら」

「綾香ちゃん、こんばんはー」

 遊佐の目の前で浴室の戸が開いた。遊佐は一瞬だけ戸惑ったようだったが、相手が空だと分るとすぐに固さが抜けた。

「こんばんは逢田さん、王子様がお待ちかねみたいよ」

 誰が王子様よ、と洋子が突っ込む暇はなかった。空がすぐに否定した。

「違うよ綾香ちゃん、洋子ちゃんは王子様なんかじゃないよ」

「あら、そうなの?」

「うん、だって洋子ちゃんは空のお姫様だもん」

「そう。妬けるわね」

 遊佐は軽口を残して空と入れ違いに浴室に入った。カラカラと扉が閉められる。

「洋子ちゃん?」

「ああ、ごめん」

 洋子は棚の前からどいた。空は脱衣籠からバスタオルを取り出して体を拭き始める。こうして見ると、空はやっぱり、色々と大人だ。太っているわけではないのに体のところどころが丸みを帯びている。とてもきれいだ。触ってみたい。

「洋子ちゃん?」

 ぎくりとする。万引きを見つかったみたいな気分だった。

 だが空は洋子を咎めはしない。むしろ何かを期待するように火照った体を曝して迫る。

「だ、駄目だよ空、あたしだって空のことは嫌いじゃないけど、向こうには綾香だっているんだし、まだ誰か入って来るかもしれないし、だから早く来て、じゃなかった早く服着て!」

「だけどパンツは?」

 その一言で鉈を叩き付けられたみたいに洋子の意識が切り替わる。

「このままでいっか。スカートじゃないから見えないもんね」

 空は素肌に直接パジャマのズボンをはいた。スカートでも平気でノーパンで歩き回っていたくせに何を今さらと思ったが、そんなことは後回しだ。

「ちょっと待って空、あんたパンツは?」

「ないみたい。洋子ちゃんが他の子にあげちゃったの?」

「冗談言わないで。他の子にあげるぐらいならあたしが貰うわよ」

 図らずも本音をだだ洩らしながら洋子は籠の中を探った。棚の奥に顔を突っ込み、空がさっきまで着ていたデニムとシャツを裏返してもパンツはなかった。

「そんな……」

 信じられない。空が服を脱いだ後、棚の前には洋子がずっと立っていたのだ。誰も手を出せたはずがない。それこそ幽霊でもない限り。

「ごめん空、あたし役立たずだ」

 もう絶対に空の下着を盗ませない。そう決意して見張っていたというのに、犯人を捕まえるどころか、みすみす貴重なお宝を奪われてしまった。つくづく自分が情けなくなってくる。

「いいよ洋子ちゃん、こんなのなんでもないから」

 パジャマを着終わった空がふわりと抱き付く。

「お部屋に戻ろう。わたしもう眠くなってきちゃった」

「眠くって……まだ九時だよ」

 空に押されるようにして出口に向かう。浴室から水音が届き、どうせなら遊佐を待ったらとちらりと思ったが、向こうにすれば迷惑かもしれない。

「もう九時だよ」

 空は欠伸を洩らした。洋子を気遣っての口実とかではなくほんとに眠いようだ。

 廊下に出る。

 まだ消灯にはなっていなかったので、人がいることにはすぐに気付いた。それが誰であるのかも。

「先坂さん?」

 俯いていた先坂は、暗闇でいきなり光を浴びせられたみたいに身を強ばらせた。そして二人の姿を認めて大きく瞬きをする。

「姫木さんと逢田さん……どうして?」

「どうしてって、お風呂に決まってるじゃない」

 実際に入浴していたのは空だけだが、説明するとややこしくなるので黙っておく。

「お風呂……」

 先坂は霞のかかったような目でパジャマを着た空を見た。その視線がだんだん下がっていき、腰の位置で止まる。まるでその奥を透かし見ようとするみたいに目を凝らす。

「ちょっと、なんなのよいったい」

 洋子は空を隠すように前に出た。おかしい。苛立たしげに睨みつけるというのなら分る。先坂はたまにそういうことをする。でも今はそうじゃない。奇妙に熱っぽく、それでいて心ここに在らずというようなやけに虚ろな目付きだ。

「下着」

「え?」

 先坂がぽろりとこぼした。その単語は釣り針のように洋子の意識を引っ掛けた。

「下着がどうしたのよ。あんた何か知ってるの?」

 即座に食いついた。そもそも先坂はこんなところで一人で何をしていたのだ。余りにも怪し過ぎる。

 まさか先坂が空のパンツを盗んだのだろうか。しかしいったいどうやって。洋子が肌身離さず見張っていたのに。

 あれ、何か違う。心に微小な棘が刺さるが、正体を突き止めようとするより先に先坂が予想もつかない攻撃を繰り出した。

「やっ!?こらっ、何するのっ」

 洋子のショートパンツの前ポケットに先坂はいきなり手を突っ込んだ。それも左右の両刀遣い、ゴムのウエストは勢いに抗せずにひとたまりもなく足首までずり下がる。

「どういうつもりよこの変態!」

 洋子は赤面してしゃがみ込み、先坂のことを睨め上げた。

 先坂は無言で両手を前に突き出した。洋子は唖然と目を見開いた。直前までは確かに何も持っていなかったのに、今は左右のそれぞれに小さな布切れが載っていた。

「それ、どうして」

「どうしてかなんてあなたが一番よく知ってるでしょう。あなたのポケットの中に入ってたんだから」

 そんなわけがない、と言いたかった。先坂の右手にあるピンクの水玉は間違いなくさっきまで空がはいていたもので、左手のクリーム色の方は空がお風呂上がりにはこうとしていたものだ。

「なんだ、洋子ちゃんが持ってたの?」

 すぐ後ろで聞こえた声に思わず身を竦める。

「そ、空、これはね、その」

 洋子はショートパンツをはき直し、おずおずと立ち上がった。

「そんなつもりじゃなくて、あたしはただ」

 ただ、なんだというのだ。そんなつもりじゃなかったのなら、どんなつもりだったというのだ。

 見苦しい言い訳はやめて神妙にお縄を頂戴しろ、これが動かぬ証拠だ、とばかりに先坂がぐいと空のパンツを迫らせる。そのどちらに顔を埋めてくんかくんかしようかと迷いながら、いやそんなのはさっきまではいていた方に決まっている、ではなく事ここに至っては本当のことを打ち明けようと洋子は決めた。

「空、あたしね!」

 がばりと振り向いて空の両肩に手を載せた。目と目を合わせて誠意を尽くせばきっと気持ちは伝わるはずだ。

「あたしほんとは……ええっと」

 なのに話さなければいけないことを一つとして思い付かなかった。あたしはどうして空のパンツをポケットの中にしまったんだっけ。もし自分の物にしたかったのなら、わざわざこんな機会を選ぶ必要はない。なにせ一緒の部屋に住んでいるのだ。いつでも手に取れるはずなのに。

 どうしても脱ぎたての味と香りを楽しみたかったから?

 うん、それはあるかもしれない。

 いやあってたまるか。

 空は可愛い。大好きだ。自分にそっちの趣味があるかもなんてこれまで考えたこともなかったけれど、ひょっとしたら女の子として女の子の空のことを好きになってしまったのかもしれないとさえ思う。だがたとえそうだとしても。

 こんなのは違う。汚れ物に変態っぽい欲情を抱いて盗むなんてあり得ない。そんな自分は認めない。というかそれ以前に。

 自分でやった覚えがない。

「いつまで私に持たせておくつもりよ」

 先坂は洋子の両頬にパンツを擦りつけんばかりにして近付けた。洋子が雛鳥を扱うように受け取ると、先坂は一呼吸置いてから指を離した。

「寮であんまり変な真似しないでほしいわね」

 不機嫌そうに言うと、早足で居室の方へ戻っていった。

 結局どういう理由でここにいたのだろう。不可解な疑問ばかりが残る。

「あれ、二人ともまだいたんだ」

 遊佐が早くも上がってきた。まだ五分ぐらいしか経ってない。だが長い髪はしっとりと湿っていて、体からは石鹸の香も漂っている。

「パンツなんか握り締めてどうしたの。今から手洗いでもするの?」

 遊佐はたぶん冗談で言ったのだろう。だが案外いい考えであるような気がした。

「そうしようかな。新しい方も勝手に触っちゃったし。空は先に部屋に戻ってて。お風呂場で洗ってくるから」

 だが空は受け入れなかった。

「洋子ちゃん、洗濯ならわたし自分でやるよ」

「そう。じゃあ、はい」

 洋子はすぐにパンツを返した。もしかすると空はこの場でズボンを脱いでパンツをはこうとするのではないかと思ったが、今回は一般常識が勝利を収めた。

 階段の所で遊佐と別れ、空と並んで廊下を歩く。そろそろ消灯時間が近く、他の子の姿は見られない。皆がもう寝てしまったわけもないだろうが、居室で騒ぐ声も聞こえなかった。いつもの通りの静かな夜だ。

 一階の東端、112号室の前まで来ると洋子は尻ポケットから鍵を出してドアに差した。今までは長期休暇で実家に帰省する時(といっても同じ桂木市内なのですぐだ)ぐらいにしか掛けていなかったのだが、錠は滑らかに動作する。

 中に入り、まずざっと室内を見回す。特に異常はない。窓の鍵も掛かったままだ。隣室に通じるドアを控えめにノックする。

 奈美はもう寝ているらしかった。部屋の明かりが消えた中で、電気スタンドの光に照らされて美緒が勉強している。

「どう?」

 囁き声で尋ねる。

「別に。何もない」

 素っ気なく美緒は答える。朝のことをまだ根に持っているらしい。

「あんまり頑張り過ぎないようにね。適当なところで寝なよ。もし何かあったらいつでもこっちに来ていいから。じゃ、おやすみ」

「おやすみなさい」

 静かにドアを閉じる。空はもう新しいパンツをはき終えたらしい。古い方は洗濯物入れの中でいっときの眠りにつく。

 部屋に戻ってからもまだ空とは話ができていなかった。洋子がパンツを「盗もうとした」ことを空が怒っているから、ではない。洋子の気が重いからだ。いっそさっさと寝てしまおうか。一晩経てば少しは頭もすっきりすると思うし。

 だけど駄目だ。

「空、こっちに来て」

 ベッドの上で一緒に寝っ転がってお話という誘惑を振り払い、洋子は勉強机の椅子に腰掛けた。

「なあに?」

 空が目をしょぼつかせながら寄って来る。相当眠いらしい。

「あんたも座って」

「うん」

 空は洋子の言葉に従った。太腿の上に得も言われぬ柔らかな重みが加わり、肩に腕が回される。

「これでいい?」

 洋子より少し高い位置からとろりとした声が降ってくる。

「……どこに座ってるのよ」

 軽く失神しかかった意識を洋子はどうにか立て直す。

「洋子ちゃんのお膝の上」

 洋子に跨った空が体を密着させるようにしなだれかかる。やばい。この体勢は大変危険だ。前に寮で回し見した雑誌の特集記事に載っていた図が頭を過る。これじゃまるで座位、いやいや。あたしは女の子だし当然あれも付いてないからそれは無理、いやいやいや。

 洋子は空の匂いを胸いっぱいに吸い込みかけて、脳が途中で溶け出しそうになったので横隔膜の稼働を強制的に停止した。

「空、いけないことになるから早くどいて!あ、いけないことっていうのは、もちろん転んで怪我しちゃうかもって意味だから。勘違いしないように」

「あ、ごめんなさい。重かったよね」

 空は洋子の前の床に座り直した。

 自分の椅子持ってくればいいじゃない、と言おうとした洋子の膝に空が頭を乗せる。うん、やっぱり本人の意思を尊重しよう。

「ねえ空、あんたあたしに訊きたいことがあるよね」

 空の髪を撫でながら洋子は思い切って口を開いた。

「うん、いっぱいあるよ」

 寝言みたいにもごもごと空は答える。

「音楽の趣味とか、好きな男の子のタイプとか、感動した映画とか、お胸は気持ちいいかとか、得意な科目とか、好きな女の子は誰かとか、○○○○○○の回数とか、お料理のレパートリーとか、ご家族のこととか、あと」

「待って空、ちょっとストップ」

 一瞬空が考えた隙を捉えて割り込む。

「そんなの別に今じゃなくたっていいでしょ。これからだんだん知っていけば」

 放送コードに抵触する不適切な質問が幾つか混ざっていた気もするが、今は措く。

「さっきのことだけど、あたしはほんとに空のパンツを取るつもりなんてなかったし、そんなことをした覚えもないの。あんなにはっきりした証拠があるのに何言ってんだ、って思われるかもしれないけど……」

「うん、洋子ちゃん」

 猫が匂いつけをするみたいに、空は洋子の太腿にすり寄った。

「あ、空!」

 洋子は吐息を洩らした。うっとりと細めた目に涙が滲みかける。

 空はあたしを信じてくれる。それだけで怖いものなんて何もない。たとえ相手が幽霊だろうと超能力者だろうと、空におかしなちょっかいを出す奴がいればあたしが潰す。

「洋子ちゃん、普通の白いのしか持ってないもんね。たまには可愛いやつも付けてみたいよね。空のパンツならいつでもはいていいからね」

 きっとそれは親愛の一つの形。

 でも違うから、空。気持ちは嬉しいけど、そうじゃないから。

 だが洋子はそれ以上言うのをあきらめた。空は既に寝息を立てていた。


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