4
あれ?
キャンバス地の手提げ袋の中を見て空は首を傾げた。体操服の下がない。確かに入れてきたはずなのに。なにしろ今朝のことだ。ちゃんと憶えている。
というか実は空の頭からはすっかり抜けていたのだが、洋子が注意してくれたので用意することができたのだ。
下だけ入れ忘れたのだろうか。可能性は低いと思う。準備するところを洋子も傍で見ていた。そんなミスがあれば気付いたはずだ。ではどこかで落とした。絶対ないとはいえないが、ちょっと考えにくい。途中で転んでもいないし、歩きながら鞄を振り回したわけでもない。
「空、早く着替えなって。遅れるよ」
下半身パンツのまま悩んでいると、洋子が近くにやって来て言った。
「ねえ洋子ちゃん、やっぱり体育って短パンはかないと駄目かな」
「んーっと、スカートのままじゃ駄目かって意味?それはそうでしょ。動きにくいし、汚れるし」
洋子の答えは空の意図とはずれていたが、いずれにしろ無い袖は振れぬ、ならぬ無い短パンははけない。
「どうしたのよ」
洋子も何か変だと気付いたらしい。空の手提げの中を覗き込む。
「もしかして、ないの?だって朝ちゃんと入れたじゃない」
「そうだよね。不思議」
「不思議、で済んだら魔法少女はいらないわよ」
洋子は怒ったように言った。
「ごめん」
「あたしに謝ったってしょうがないし」
「うん、ちょっと恥ずかしいけど、今日はパンツでやるよ」
「却下。見学にしなさい」
さすがに空も強いてやるとは言わなかった。いくら周りにいるのが女子ばかりとはいえ、屋外で下はパンツ一枚きりという格好が余り一般的でないということぐらい弁えている。
「体育やりたかったな」
体を動かすのは好きだし、転校して初めての機会なのでなおさら参加したかった。
「またすぐあさってあるから」
洋子が慰めの言葉を口にする。
「使う?」
すらりと背の高い少女が空にジャージのズボンを差し出した。
遊佐綾香だ。氷細工のような繊細な顔立ちに、細くて長い足を黒いストッキングに包んでいるのが印象的だ。まだ九月なのに暑くないのかなと空は些か気になっていた。もっとも今は体育のために白いハイソックスに履き替えている。
「綾香?だってあんた……」
洋子が驚いたように言うと、遊佐は淡白に頷いた。
「いいの。いつまでも隠してるつもりはなかったし、ちょうどいいきっかけだわ」
空はジャージを受け取った。遊佐は他の子より長めの、膝下丈のスカートを脱いだ。既に短パンは着用済みで、裾から伸びた素足は左の腿から下が赤黒く変色していた。火傷の痕か何かだろう。
洋子が早口になって言う。
「あのさ綾香、よかったら空には短パン貸してあげてくれないかな。ジャージは綾香がはけばいいよ」
「私は平気だから。逢田さんが使って。人の服を着るのは気持ちが悪い、とかじゃなければだけど」
もちろんそういうつまらないことを感じる神経は空にはない。
「ありがとう綾香ちゃん」
礼を言った後で、遅まきながら確認する。
「えっと、綾香ちゃんって呼んでもいい?」
「はい?」
「やっぱり駄目かな。始ちゃんにも呼ぶなって怒られちゃったし」
「言ってる傍から呼んでるじゃない」
「わ、そうだった。始ちゃん、じゃない、先坂さんには内緒にしてね」
小波が立つように遊佐は笑った。
「いいわ、黙っておく。それと私のことは好きに呼んでいいわよ。これからよろしくね、逢田さん」
先に着替えを済ませた遊佐は、空達を待たずに教室を後にする。
「どういう心境の変化だろ」
「何が?」
尋ねた空のことを、洋子はまるで珍獣か何かのように眺めた。
「でも意外と綾香には空みたいな子が合ってるのかもね。そしてあんたはさっさと支度する。せっかく貸してもらったのに遅刻したら悪いじゃない」
空は急いでジャージをはいた。
空が体育をやりたがったのは伊達ではなかった。
正直、授業が始まるまでは、空は運動神経の鈍い子に違いないと洋子は決めつけていた。
体は大きいから腕力はあるかもしれないが、いざ試合となったらぼうっとしていて味方のパスを顔にぶつけるタイプ。
ほとんどそう確信していた洋子は、準備体操をしている間、鼻血を出した空を保健室に連れていく場面を頭の中でシミュレーションしていたほどだった。
いらぬ心配だった。
「逢田さんすっごい上手だねー。経験者なの?前の学校でクラブに入ってたとか」
「ううん、テレビとかで見たことはあったけどやったのは今日が初めてだったよ。すごく面白かった」
賛嘆するクラスメイトに、額に薄く汗をかいた空は答えた。
初体験ということ自体は驚くほどのことでもない。女子代表チームの世界的な活躍が話題になったりしたとはいえ、やはりサッカーは女子よりも男子がやる方が多いだろう。過去にやったことがなくても不思議はない。
「ほんとに?それで三点も取っちゃうなんてますますびっくりだよ。ね、洋子」
「……そうね」
洋子は思わず歯軋りしそうになった。空と敵チームに分かれた洋子は一得点で、それがそのままチームの総得点。つまり試合も三対一で完敗だ。
洋子も体育の授業の他に特に本格的に練習しているわけではない。それでも凛英女子学院という箱庭世界においては不動のエースとして君臨してきた身としては、正真正銘のど素人に遅れをとるのは悔しかった。これが才能の違いというものか。
しかし凛英での体育の試合など、しょせん球遊びの延長程度のものである。片付けを終えて教室に戻ろうという頃には、悔しは薄れて興味の方が強くなっていた。
「空さ、サッカーじゃないにしても何か他のスポーツはやってたんでしょ」
いくら天性の素質の持ち主とはいえ、使っていなければ体は鈍る。速さでも強さでも持久性でも、空は他の生徒達とは段が違っていた。普段から運動の習慣があったとしか思えない。
「うん、ミニバスケットボール部に入ってた。だいたい毎日練習してたよ」
「あんた背高いもんね。試合とかも出てたの?チームの得点源だったりとか」
「監督には、逢田は都女子学園のエーアイだからどんどん行けって言われてた」
「どういう意味?」
逢田の「あい」をローマ字にすれば“AI”だが、それではバスケと関係ない。何か他の由来があるはずだ。しかし空は首を傾げた。
「なんだろう。洋子ちゃん知ってる?」
「あたしが知るわけないじゃない。監督に聞かなかったの?」
「気にしたことなかったし」
「気にしなさいよ。気になるじゃない」
バスケのことはよく知らないが、空に付けられた呼び名には興味があった。
「じゃあ後で電話して訊いてみるね」
「しないでいいから」
転校した生徒がわざわざ電話を掛けてきたと思ったら、用件がそんなことではきっと脱力してしまう。
「人工知能のことかしら」
横から遊佐が話題に加わる。怪我をした足をさらしたことで、心ない態度を取る子は幸いにしていなかった。遊佐のためだけでなく洋子としてもほっとした。一つ間違えたらジャージを借りた空の方が白い眼で見られることになっていたかもしれない。
「AIっていったら、Artificial Intelligenceの略って考えるのが普通だと思うけど」
遊佐は綺麗だが硬い感じのする発音で説明した。だが理由付けとしては不十分だ。
「どうしてそれが空に当て嵌まるの?」
「そうね、例えば機械のように正確な動きをするとか、コンピューターみたいに計算して先を読むとか」
「うーん、あんまりそういうタイプには見えなかったけど」
むしろ真逆だ。まるで人間の子供の中に一匹だけチーターの子供が混ざっているみたいに、本能の赴くまま転がるボールを追い掛けてグラウンドを縦横無尽に駆け回る、という印象だった。
「空本人としてはどうなの。バスケの時は結構頭使ってやってたりしたの?」
今日が初挑戦のサッカーとは違って、日々練習を積み重ねたバスケでは戦術などもあっただろう。
「えっとね、攻めの時は、びゅんってかわして、ぎゅんって突っ込んで、ばってジャンプして、しゅってシュート打って、でも相手に邪魔されそうだったらちゃってパス出して、それで守りの時は」
「もういい。だいたい分った。どう?」
洋子が問うと、遊佐はアップにしていた髪を解きながら首を振った。
「違うみたいね。ホームズちゃんならともかく、そんなふうに臨機応変に活動できる人工知能があるわけないし」
「ホームズって。あんなの子供騙しでしょ」
洋子は鼻で笑った。低学年の子ならともかく、遊佐がまともに評価するようなものとは思えない。だが遊佐は洋子が考えるよりはるかに真剣だった。
「ホームズちゃんは間違いなく世界最高レベルの、いいえ、世界で唯一無二のAIよ。どうして全然話題にならないのか分らない。あれを作った和藤さんはエジソンやアインシュタインに匹敵するかそれ以上の天才だと思う」
「なかなか興味深い見解だね」
鈴の鳴るような声音が洋子達の後ろから届いた。
「ワトソン博士がある種の天才なのは確かだろう。なにしろこのぼくを生み出したのだから」
千鳥格子模様の茶色いジャケットにベスト、黒い膝丈の半ズボンという出で立ちの美少女が、手にしていたパイプの柄で臆面もなく自分の胸を指差した。
「しかしその才能が科学者としてのものかといえばぼくは些か疑問に思うね」
「ホームズちゃん、こんにちはー」
空はにこにこと手を振った。
「ごきげんよう、空くん。今日は縞パンではないのかな?」
「今日はピンクの水玉です。ホームズちゃんは?」
「ぼくは白と黒のツートーンだ。前が白地、後ろが黒地でなかなかシックで気に入っている。見せっこでもするかい」
「いいよ、それじゃあ」
「やめなさい」
短パンに手を掛けた空の脳天に洋子はチョップを落とした。相手の方が背が高いのでジャンピング唐竹割りだ。
亜麻色の髪にハンチングを被った少女を胡散臭げに眺め、それから後ろの白衣姿の青年を敵意を込めて睨みつける。
「ワトソン博士もこんにちは」
「こんにちは逢田さん。体育だったようだね。お疲れ様」
ワトソンはいつものように微妙に視線を逸らしながら応じる。
「あの、今のお話ですけど」
遊佐がワトソンに尋ねる。
「何か?」
「和藤さんの才能は科学者としてのものではないって。どういう意味ですか?」
「いや、僕に訊かれても……」
ワトソンは口籠った。目があちこちに忙しなく動き、挙動不審の度合が増している。
「変態としての才能しかないってことでしょ」
「いや洋子くん、それは違う」
ディスプレイ上の美少女は、人差指を左右に振って否定した。
「ワトソンには変態としての才能はもちろんあるが、決してそれだけにはとどまらない。他にもロリコンとしての才能、ペドフィリアとしての才能、引きこもり、ニート、オタク、変質者等々、枚挙にいとまがないほどだ」
「おいホームズ何を言って」
「用務員としてだってこれでなかなか立派なものだしね。医者としての才能はせいぜい並といったところだが」
「へえそうなんだすごいね」
洋子は全く抑揚を付けずに言った。
「洋子くんにはきっと意外だろうが、ジゴロとしての才能だってなくはない」
ホームズは真面目腐った調子で続ける。タブレットを持ったワトソンはひどく決まりが悪そうだ。
馬鹿馬鹿しい。洋子は思った。どういう仕組なのかは知らないが、ホームズが喋っているのは全部ワトソンが考えたことだろう。つまりは自作自演だ。
「今のが私の質問に対する答えなんですか?」
遊佐が不服そうに問うと、ホームズは肩を竦めた。
「まさか。これまで並べたのは全て瑣末なものだ。才能があるとはいっても一般の枠の中の話でしかない。天才というにはほど遠い」
「じゃあ一番重要なものが他にあるんですね?それはどんな才能なんですか?」
「それは」
ホームズは面を伏せた。
「ぼくの口からは言えないな」
遊佐は失望したようだった。だがそもそもちゃんとした答えが返ってくることを期待する方が間違っている。
「行こう、綾香、空。下手に近付くと危ないわよ。精神が汚染されるわ」
遊佐は頷くと歩き出した。空はもっと話していたそうな雰囲気だったが、洋子が視線でプレッシャーを掛けると、「またね、ホームズちゃん」と踵を返した。
「いいのかい、洋子くん」
凛とした声が呼び止める。薄っぺらい機械から出ているだけのくせに、やけに意味ありげな響きがあるのが気に入らない。
「きみは我々に相談したいことがあるのではないかな」
我慢できず、洋子は振り返った。小粋だが場違いな扮装をした少女が心を見透かそうとするように洋子を捉える。
けど錯覚だ。だってこんなのただの絵だ。本当にそこに存在しているわけじゃない。心も意思も持ってない。気後れする必要なんてない。しかしその持ち主はどうだろう?
何をされるか分らないから近付くな、と洋子は空に言った。だが洋子自身が今まで本当に警戒していただろうか。気持ち悪いし傍に来られると不快だが、どうせ何もできはしないと高を括り、取るに足りぬ相手だと見下してはいなかったか。
だが改めて見ればワトソンは女子小学生の洋子達よりも当り前に背が高く、肉体労働も多いだけあって体格もいい。もし本気で襲われたら為す術なく押し倒されてしまうに違いない。
もし、じゃない。洋子は寒気を覚えた。ほんの十何時間か前に実際にあったことだ。空に覆い被さっていた人影と似たような白衣を纏った男が、洋子の目の前に立っている。
これは脅しなのだろうか。余計なことを喋ったらただではおかないというような。それとも悪意の予告。次はお前の番だ、覚悟しておけ。
すぐにも走って逃げ出したい。ワトソンの目と手の届かない距離まで遠ざかりたい。
だがそれでどうなるというのか。学院の中にいる限りたいして違いはない。ホラー映画じみた場面が洋子の頭の中で再生される。月の出ていない夜闇を貫き、少女の悲鳴が沈黙の校舎を震わせる。徘徊するは白衣の怪人、幽霊のように現れては消え、誰も何の対策を取れずにいるうちに、被害者の数ばかりが増えていく。
あるいはサイコサスペンス風の展開だ。毎年一人、学院の少女が失踪する。行方は杳として知れない。自分の意思で出て行ったのか、何者かに拐かされたのかすら分らない。だが些細な偶然の悪戯により、ある生徒が気付いてしまう。少女達はいなくなったのではなかった。収集されていたのだ!少女という存在に対し、偏執的な愛情を抱く異常者の手によって。学院に棲息するその男は、昼は何喰わぬ顔で用務員として働き、夜はガラスケースに入れられた永遠の少女達のコレクションを鑑賞して悦に入る。そしてその秘密を知ってしまった生徒に白衣の殺人鬼の魔の手が伸びる……。
「ねえ、いつまでここにいるの?」
腕を揺すられて洋子は我に返った。
「あ、空……」
既にワトソンの姿は消えていた。周りを見渡してみてもクラスでまだグラウンドに残っているのは空と洋子の二人だけだ。
「あたしどのくらいぼうっとしてた?」
目眩にも似た不安を覚えて尋ねる。もしや質の悪い催眠術みたいなものを掛けられ、幻覚の世界に長時間に渡って捕えられていたのではないか。
「うーん、二分か三分だと思うけど」
「あ、そう」
別にそんなこともなかったらしい。少し反省する。妄想の世界に浸るのは、実家でビデオを観ている時か布団の中だけにしておこう。
だがワトソンが怪しいことには変わりない。昨夜の怪事の容疑者筆頭なのはもちろん、空の短パンがなくなっていたのも奴の仕業じゃないのか。
用務員なのだから校舎への出入りは自由だろう。実際、作業をしている姿を見掛けたこともある。今日の理科は実験だったから、皆が理科室に行っている間に誰もいない教室に忍び込んで短パンを盗むぐらい簡単だったはずだ。
なにしろ女の子の下着を普通に持っているような変態である。短パンに手を出しても何の不思議もない。さっき話し掛けてきたのだって、体育の授業をどこかでずっと盗み見していた直後だったのではないか。
またしても身の毛がよだつ。今度は恐怖よりも嫌悪の方が強かった。肌を舐められているみたいな気持ちの悪さ。
教室に戻ると既に次の授業が始まっていた。体操服姿のまま遅れて入った二人を見ても担任の刈谷は怒りも気遣いもせずに先に進める。
「じゃあ問四を、先坂さん」
「はい」
身を屈めるようにして自分の席へと向かいながら、洋子は「おや」と思った。朝に怒らせてしまった後ずっと雲隠れしていた先坂が四時間目にしてようやく復活したらしい。
屋上や校舎裏でうだうだしている図というのは想像しづらいので、たぶん気分が悪いとか適当な理由で保健室で寝ていたのだろう。
とにかくちゃんと謝っておかないと。
悪いことを言ってしまったのは間違いないし、空への誤解も解いておく必要がある。
無駄に気位が高かったり、下らないことで突っ掛かってきたりと、面倒なところもある先坂だが、クラスの一部からの信望はなかなか厚い。もし洋子と先坂が正面から敵対するようなことになったら、クラスが真っ二つに割れてしまう恐れもなきにしもあらずだ。
それにそういう姑息な話は抜きにしても、先坂なら傷つけても構わないなどと思うほど嫌っているわけでもない。
しかし仲直りする機会は得られなかった。どうも避けられてるっぽい雰囲気だった。目が合いそうになると寸前で逸らされる。こちらから席に近付こうとすると途端に席を立つ。そういったことが繰り返されて、だがそれを押してまでという気にもなれず、ついに放課後となった。
まあいいか、と思う。また仕切り直せばいい。向こうが話したくないという時に一方的に謝ってみせてもたぶんいい結果にはならない。急ぐ必要はない。
それに今はもっと気にすべきことが他にある。
「先生、ちょっといいですか」
帰りの会が終わり、生徒の誰より先に教室を出た刈谷教諭のことを洋子は廊下で呼び止めた。
「ああ、姫木さん」
刈谷は仕方なさそうに振り返る。
「いいわよ。ちょっとなら。でも面倒な事なら姫木さんに任せます。信頼してるからあなたがいいと思った通りにして頂戴。それじゃあさよなら」
「あの、あたしまだ何も言ってませんけど」
洋子はさすがに声を尖らせた。
「だって面倒な事なんでしょ」
間髪を容れずに刈谷が答える。
「どうしてそう思うんですか?」
「簡単に済むような事ならわざわざ先生に声を掛けたりなんてしないでしょう。自分で片付けようとするはずだわ。あなたはそういう子だもの」
確かにその通りかもしれない。少し己を省みる。
「あたし、もっとまめに先生に相談した方がいいでしょうか」
放置が基本の無責任系教師かと思っていたが、実は洋子があれこれやってしまうせいであえて好きにさせていたのかもしれない。それならば洋子にも改めるべき点がある。
「しない方がいいわね」
だと思った。
「それでも今回は聞いてもらいます。もし何もしないでいたら、もっと大変なことになるかもしれませんよ」
婉曲な脅迫だった。刈谷は渋い顔をした。
「なかなかこしゃくな言い回しを使ってくるじゃない」
「すいません」
「いいわ、聞きましょう。やらなければいけないことなら拙速に、って古典の本にもあるものね」
「手短に、だったと思いますけど」
「話は逢田さんのことね」
どうして分ったのか、などと驚きはしなかった。刈谷は空の方を見ている。一緒に連れて来たのだから関係があると思うのは当然だ。
「よろしくお願いします、先生」
空は頭を下げた。礼儀正しいのはいいことだが、今の場合は何かずれている気がする。
刈谷も似たようなことを感じたらしい。反応に困ったように束の間沈黙する。
「とりあえず場所を変えましょうか。立ったまま話してると疲れるわ」
既に疲れを感じているみたいな口振りだった。
てっきり職員室か相談室にでも行くのかと思ったら、刈谷が向かったのは屋外に設えられたベンチだった。しかも初等科の校舎からはだいぶ離れている。位置的にはむしろ中等科の方に近い。
刈谷はベンチに深く腰を掛け、黒いタイトスカートに包まれた足を高々と組むと天に向かって煙を吐いた。微かに青くてひどくいがらっぽい固まりが、寄る辺のない魂みたいにゆらゆらと昇っていく。
「もしかしてこのためにわざわざ来たんですか?」
洋子は煙を手で払いながら目を眇めた。
「先生、お煙草吸うんですね」
空は興味深そうに刈谷を眺める。
「美味しいわよ。逢田さんもどう?」
「ありがとうございます。じゃあ一本だけ」
「絶対駄目!刈谷先生、洒落にならない冗談はやめてください。他の先生に見つかったら首になりますよ?」
眉を逆立てる洋子に、刈谷は逆に目を細めた。
「そこで他の先生に告げ口しますよ、とならないのが姫木さんの美点よね。私が男の子だったら好きになってるわ」
「そんなことでごまかされませんから」
強気に答えつつも思わず頬が熱くなる。
「だけどお嫁さんにするなら逢田さんの方がいいわね。毎日ふわふわして幸せに暮らせそうだし」
「ぎすぎすしてて悪かったですね。どうせあたしはがみがみとうるさい女です」
「そうつんつんしないの。逢田さんも何か言ってごらんなさい」
「はい……えーっと、洋子ちゃんはとってもきびきびしているので、いつものろのろしているわたしはとても助かっています。わたしは洋子ちゃんのことが大好きです。すくすくと育って大人になったら、洋子ちゃんのお婿さんになりたいです」
「よかったわね姫木さん、逢田さんがお嫁さんにしてくれるそうよ。でも人前ではあんまりいちゃいちゃしないようにね。やらしいことはこそこそとやりなさい」
「あの、もういいですから……」
洋子は頭を抱えた。擬態語を入れ込むのはいいとして、その例文は何なのだ。
「でも空に好きって言ってもらえたのは嬉しいな」
「おめでとう逢田さん。両想いよ」
「わーい」
「あ……」
心の声を表に出していた。恐々として横を向くと、刈谷は白けた様子で煙草をふかし、そのもう一つ隣では空の輝く瞳が洋子のことを見返した。
「洋子ちゃん大好き」
洋子は無言のまま立ち上がると全力ダッシュで駆け出した。
五分経過。
一番近くにあった手洗い場で顔を洗い、気後れしつつ戻ってみると、幸か不幸か二人ともまだ元のベンチに座っていた。先坂は引き続き喫煙中だ。吸い差しが長くなっているので新しい一本を点けたのだろう。
「お帰り、洋子ちゃん」
「ただいま」
手を振って迎えてくれた空に答え、空いている刈谷の左隣に座り直す。
「すいません先生、お待たせしました」
きっと不機嫌になっているだろう。刈谷は煙草を携帯灰皿に押し潰した。
「先生の方こそ悪かったわ」
「いえそんな」
茶化されていたたまれなくなったのは事実だが、教師という立場の大人から面と向かって謝罪されるほど腹を立てたわけではない。だいたい止めを刺したのは空だし。
もっとも、空にはからかったつもりなど毛ほどもないに違いない。だからこそ余計始末に困るのだけれど。
刈谷は率直に自らの過ち非を認めた。
「適当に聞き流してすぐに切り上げるつもりだったのに、下らない冗談で無駄に長引かせてしまうなんて馬鹿なことをしたと思うわ。自分に対して申し訳ない気持ちでいっぱいよ」
「じゃあ本題に入りますね」
洋子は速やかに流した。
空の身に起こった三つの出来事、縞パン消失事件、白衣の怪人襲撃事件、短パン蒸発事件について語る。
「で」
口を挟まず煙草も吸わず耳を傾けていた刈谷は、洋子が説明を終えるとおもむろに尋ねた。
「先生にどうしろというのかしら、姫木さんは?」
「ワトソンをどうにかしてください」
いきなり投げ遣りっぽい刈谷に洋子は正面から打ちかかった。
「あいつがいたら気が休まりません。取り返しのつかないことになる前に追い出すべきです。それで二度と学院に近付けないようにしてください」
「無理」
わずか二文字だった。余りに簡素に過ぎて、頭に意味が沁み込むのにかえって時間が必要だった。
「もちろん先生一人にどうにかしてほしいなんて言いません。でも職員会議とかで取り上げてもらえれば後は簡単じゃないでしょうか」
「あんたねえ」
刈谷は深くため息をついた。あんた呼ばわりされたことより、あからさまに呆れられてしまったらしいことに洋子は怯む。
「あなた達が気に入らないクラスメイトを仲間外れにするのとはわけが違うんだから。証拠もないのに正式に雇われてる職員を簡単に免職にできるわけないでしょう。理事長の鶴の一声でもあればどうか分らないけど、それにしたって理事長権限でどうこうっていうより、個人的に直接納得させた上で向こうから辞表を出させるって形になるでしょうね。下手に権力行使したりして後で訴訟でも起こされたら大変だもの」
「そ……」
そんなのおかしい、とは言えなかった。刈谷は適当な理屈を並べてごまかそうとしているわけではない。大人の社会の条理を説いている。
「それに首尾よく辞めさせることができたとして、その後どうやって近付けないようにするのよ。敷地内に侵入してるところを見付けられたら通報だってできるけど、傍でうろちょろすることまでは止められないし、それにこれだけ広いんだもの、入り込む隙ぐらいいくらだってあるわ。いっそあんたが彼の首に縄を掛けてどっかに繋いでおく?やるっていうんなら勝手にどうぞ。私は関わらないわよ」
「……だけど実際に空が危ない目に遭ってるのに」
かろうじて思い付いたことを口にする。そうだ。たとえ刈谷が万の理を説こうとも、空の身が大切という一事には及ばない。
「じゃあ逢田さんに訊くけど」
「はい」
「あなた和藤さんにレイプされた?」
「ちょっ!」
余りに露骨な言い様に洋子は飛び上がった。空は目を瞠ったが、さほどショックを受けたというふうではない。意味が分らなかったのかもしれない、と洋子は思った。というかそう思いたかった。
「和藤さんってワトソン博士のことですか?」
慎重に考えを巡らせているような面持ちで空は問い返す。
「そうよ」
「いいえ。博士はわたしに親切にしてくれたことはあっても、何もひどいことはしていません」
「じゃあされそうになったことは」
「ありません」
「されるかもしれないって危険を感じたことは」
「いいえ」
全否定だった。それも明らかに刈谷の質問の意味と意図を理解した上で答えている。
「どうしてよ、空」
洋子は空の前に膝を付いた。肌に小石が喰い込んで痛む。
「どうしてワトソンのことなんか庇うの。まさかあんな奴のことが好きなの!?」
言った端から後悔した。余りに馬鹿げた質問だ。だってそんなことあるわけない。
だけどがもし万が一空が認めてしまったら。いったいどうすればいいんだろう。
何この意味不明な修羅場、と刈谷が呆れたように呟いた。しかし洋子の耳には届いていない。
「うん、好きだよ」
空はどうということもないように答えた。洋子の顔が泣き出しそうに歪む。空はその手を取ると胸の前に引き寄せた。
「だけど洋子ちゃんの方がもっと大事。わたし言ったよね、もし洋子ちゃんが嫌なら博士とはなるべく一人では会わないようにするし、必要以上に仲良くしたりもしないって。忘れちゃった?」
「……憶えてる」
「それじゃあわたしのことが信じられない?」
今度は無言で首を振った。正直考えていることはかなり謎だし、予想もつかない行動に出ることも多い空だが、友達に心を偽るような真似はしない。洋子にだってそのぐらいは分る。
「別に庇ってるとかじゃなくて、わたしはただありのままを答えてるだけだよ。だって本当に博士には何もされてないんだから」
「あたしだってそう思いたいけど……見たんだもん。ワトソンがあんたに、その、のしかかってるところ。空は寝てたから覚えてないみたいだけど」
「あれはお兄ちゃんだよ」
「は?」
思考が空回る。文脈がゲシュタルト崩壊を起こしている。
「お兄ちゃんってワトソンが?空の?」
「え、違うよ。空のお兄ちゃんは博士だけど、博士は空のお兄ちゃんじゃないよ」
「ごめん、本気で意味分んない……」
洋子はオーバーヒートしたように空の膝の上に突っ伏した。空は洋子の頭を撫でながら繰り返した。
「だからね、お兄ちゃんは博士なの。だけど博士はお兄ちゃんじゃないの」
「そっかーそうなんだねー」
情報エントロピーは1ビットも減少していなかった。だがもはやどうでもよくなっていた。空の太腿の柔らかさと掌の優しさとに包まれて原始の海へ蕩けていきそうだ。
「じゃあ私はもう消えるから。服を脱ぐのはその後にして頂戴。本当は寮の部屋に戻ってからの方がいいと思うけど、屋外プレイも気持ちいいものね。せいぜい人目に気を付けなさい」
一瞬で熱が引いた。洋子は跳ね上がると刈谷のブラウスの背中を掴んだ。
「先生違います、今のなしですっ!」
必死過ぎて意味不明の弁解を繰り出す洋子に、刈谷は生温かい眼差しを注ぐ。
「安心していいわよ。見なかったことにするから。それに下級生に手を出したとかならともかく、あんた達が好きでやってる分にはもしばれたって謹慎処分ぐらいで済むわよ。敬愛と寛容がうちの校訓なんだから」
「だからそういうんじゃありませんってば!そうだ、先生は空の言ってること理解できました?」
苦し紛れに露骨に話題を切り替える。刈谷は簡単に筋の通った解釈をしてみせた。
「逢田さんのお兄さんが博士号を持ってるってことじゃないの。だけど和藤さんは当然逢田さんのお兄さんではない」
「あ、そうです。わたしのお兄ちゃんは、えっと確か、工学博士です」
それは自称博士とはだいぶ差があるだろう。昨夜も寝言で「お兄ちゃん」とか呟いていたのを洋子は思い出した。
「自慢のお兄ちゃんって感じ?きっとずいぶん仲もいいんでしょうね」
「普通だと思うよ。週に二、三回、一緒にお風呂入ったり寝たりするぐらいで」
「それ全然普通じゃないから。むしろ犯罪だから」
もし空の兄に会う機会があったらきっちりと性根を叩きのめし、いや存念を質しておく必要があるようだ。
「だけど今月に入ってからすごく忙しくなっちゃったみたいで、顔もあんまり見てないぐらいなの」
ぴんと来るものがあった。
「空さ、最近よく眠れないみたいなこと言ってたけど、それってお兄さんが忙しくなってからじゃないの?」
「そういえばそうかも。ここ二週間ぐらいだし」
つまりそういうことなのだ。些か複雑な気分で洋子は納得した。空は重度のブラコンで、兄に会えない寂しさから不眠症気味となり、そして兄に会いたいという気持ちが現実のワトソンと夢の中の兄を取り違えさせたのだ。
「先生、やっぱりゆうべの怪人はワトソンだったと思います」
推理の結果を告げる。刈谷の反応はさっきに輪をかけて薄かった。
「……で?」
後に言葉を続けようともしない。もし洋子がまた同じ話を繰り返すだけだったら今度は完全に無視しそうだ。それでも引くわけにはいかない。
「すぐに逮捕とか懲戒免職は無理でも、取調べ、いえ事情を訊くぐらいはするべきだと思います。だってあたしは見たんですから。何の対策もされないままなんて不安で落ち着けません」
「ただの妄想よ。それと一応警告しておくけど、もし他の先生とか生徒にそんな話を触れ回ったりしたら、あらぬ噂を立てて職員を中傷する問題行動として取り上げられるわよ。中等科への進学適格も慎重に検討されることになるでしょうね」
「く、卑怯な大人め……」
是が非でも内部進学をしたいというわけではなかったが、できるものならばしたいし、それにもし不許可になったら空と別の学校に離れてしまう。けれど掛かっているのはその空の身の安全なのだ。
ダブルバインドめいた状況に文字通り身動きもならなくなった洋子の手を空が握り締めた。
温もりと一緒に心の声が伝わる。洋子ちゃんのしたいようにしていいんだよ。その結果がどうなってもわたしの気持ちは変わらない。洋子ちゃんのことが好き。洋子ちゃんにならわたしの全てを任せられる。わたしを洋子ちゃんのものにして――。
最後の方はちょっと作り過ぎた。浅く反省する。ともあれ決意は固まった。
「約束します。ちゃんとした証拠もなしに無闇に騒ぎ立てるようなことはしません。ワトソンは犯罪者だから捕まえてください、みたいなことを他の先生方に訴えたりもしません」
「賢明な判断ね」
刈谷の雰囲気が和らいだ。もっとも初めからたいして険悪だったわけではない。単に面倒臭そうだっただけだ。
「だけどそれは刈谷先生に遠慮してとか、自分の内申が大切だからとかじゃありません。空が変な噂の的になったりするのが嫌だからです」
おためごかしでも綺麗事でもない。洋子の大切な人が、つまり、大切な友達という意味だが、その空が洋子の軽はずみな行動のせいで好奇の視線に晒されるなんてあってはならない。
それがきっかけとなって皆が空の素敵さに気付いたりしたら独り占めが難しく、いや空の生活が窮屈なものになってしまうかもしれない。もしそうなったら洋子の嫉妬心が疼く、ではなく良心が咎める。
「でも実際におかしなことが起こっている以上、放っておくこともできません」
刈谷は一応という感じで尋ねた。
「要するに姫木さんはどうしたいわけ?」
「あたしが犯人を捕まえてみせます」
力を込めて宣言する。
「空はあたしが守る!!」




