表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/8

3

 洋子と、それから隣室の美緒奈美も一緒に夕食と入浴を済ませた後、空は早々に床に就くことにした。荷解きはまだ終わっていなかったのだが、ダンボールから服を一枚取り出しては欠伸をして手を休めて、ということを繰り返す空に、「もう寝なよ」と洋子が終了勧告を出したのだ。

「明日学校行く準備はできてるんでしょ?だったらとりあえずそこまでにしておいて、またゆっくりやればいいじゃない。置いといたってたいして邪魔になるものでもないんだし」

「そうしようかな」

 目を擦りながら応じる。このままではクローゼットに顔を突っ込んだままうつらうつらしてしまいそうだ。というか今実際にそうなっていた。

「ふーん、ちゃんとはいてるみたいね」

 空がパジャマに着替えていると、洋子がからかうように言った。

「だからいつもははいてるってば」

 空だってどちらかというとはいている方がいい。洋子は少し真面目な調子に変わった。

「寮は大丈夫だと思うけど、今朝のことは誰かに言っておいた方がいいね。刈谷先生、はあんまり頼りにならないけど、誰か適当な人に伝えるぐらいはするだろうし」

「わたしこっちに来ない方がよかったのかな」

「そんなわけないじゃない」

 空の洩らした懸念を洋子は一蹴する。

「そりゃあゲストハウスは個室だし、バス・トイレも付いてて便利かもしれないけど、空だけ別の場所に住むなんて普通に無理だし。それにみんなと一緒の方が絶対心強いって。少しはうざったいこともあるけど慣れれば絶対楽しいから!」

 寮の良さを力説する。だが空の不安とは方向が真逆だった。

「わたしも洋子ちゃんとか美緒ちゃん奈美ちゃんと一緒の方がいいよ。でもそのせいで迷惑かけたりしないかなって。もし何かあったら伯母さんにも悪いし」

「おばさんって?」

「万智子伯母さん。凛英の卒業生で、今の理事長先生の教え子なんだって。わたしがここに来るように勧めてくれたの」

「それってまさか鈴木万智子首相?」

 洋子は半信半疑といった態で尋ねた。

「そうだよ。洋子ちゃんも伯母さんのこと知ってるの?」

「そりゃあこの国に住んでる人なら誰だって……ああ、そういうことか」

 洋子は拳と掌を打ち合わせた。

「先坂さんがいつにもまして突っかかると思ったらそういう理由があったんだ」

「始ちゃんがどうかしたの?」

「ナチュラルにあの子のこと下の名前で呼ぶわね。いいけど。で、その始ちゃんは先坂豪造の娘なの」

 洋子はこれで説明は十分だろうというように空を見た。

「誰だっけ、その人?」

「あんたそれ本気で言ってる?」

「凛英の先生?わたしまだ刈谷先生しか覚えてないから」

「先生には違いないかもしれないけど」

 洋子は指先で机を叩きながら説明する。

「自表同盟の、副代表だっけ、なんかそんな感じの。次期首相確実とか言われてたのに党の選挙で万智子首相に負けた人」

「じゃあ始ちゃんのお父さんってわたしの伯母さんと一緒に働いてるんだ。だからわたしに良くしてくれるのかな」

「……そんなふうに素で思える空は凄いなって、あたしは思えるようになってきたけど。でも先坂さんには言わない方がいいと思うよ」

「んんふわぁあ……?」

 空は相槌なのか欠伸なのかよく分らない声を出した。

「もう寝な。おやすみ、空」

 洋子は空をベッドに入らせると目隠し用のカーテンを引いた。

「おやすみなさい……」

 空は溶けるように眠りに落ちた。


     #


「……ちゃん、……子ちゃん」

 洋子はぼんやりと薄目を開けた。

「洋子ちゃん、お願い……」

 自分の体を揺すっている相手が誰なのかはスモールランプの弱い明かりの中でもすぐに分った。

「美緒……おしっこ?」

「うん。ごめんなさい」

「いいよ」

 ぽんっと美緒の頭に手を乗せる。いつものことだ。三日に一度ぐらいはこうして夜中に起こされる。

 だが身を起こした洋子は微妙な違和感を覚えた。目の前を塞がれているような、窮屈な気分だ。なんだろう?少し考えて、分った。天井が低い。いや逆だ。自分が昨日までより高い位置に寝ているのだ。

「空は?」

 美緒に囁く。

「知らない。たぶん寝てる」

 美緒は答えた。今夜から上の段で寝ることを伝えるのを忘れていたが、下を覗くことなしに直接こちらに来たらしい。だが洋子は驚かない。美緒はとても聡い子だ。その分ちょっと神経質なところがあるけれど。

「今降りるから。静かにね」

「うん」

 あえて注意するまでもなかったが、美緒は素直に返事をすると音を立てずに梯子を降りた。たぶん空は熟睡しているだろうから、そう簡単に目を覚ましたりはしないはず。そう思いはしたものの、洋子もできるだけそっとベッドを抜け出した。

 少しだけ中の様子を見てみようと下の段のカーテンに手を掛ける。

「ん……お兄ちゃん」

 慌てて引っ込めた。すぐに寝言だと気付き、洋子の口元は緩んだ。どうやら空にはお兄さんがいるらしい。心の中でメモを取る。明日の朝起きたら早速どんな夢を見ていたのか訊いてやろう。

「行こうか」

 美緒と手を繋いで部屋を出る。

 洋子もついでに用を足し、手を洗ったところでハンカチを忘れたことに気付いた。すぐに美緒が自分のハンカチを差し出す。

「ありがと、美緒」

 遠慮せずに借りる。これもいつものことだ。夜中のトイレで美緒がハンカチを忘れたことは一度もない。

 トイレの電気を消す。非常灯が点いているだけで廊下はかなり暗い。同じ一階とはいえ、洋子達の部屋からはほぼ建物の端と端ほど離れている。美緒ぐらいの歳の子が一人で来れなくても無理はない。

 ゴム底のサンダルはほとんど足音を立てない。寮の内も外も静まり返っている。もし今どこかの部屋のドアが開いたりしたら、他の子の姿に安心するより急な物音に驚いてしまうに違いない。

 だが結局そういうことはなかった。洋子と空の部屋の一つ手前、111号室のドアを開ける。

「え?」

 途端、洋子は声を上げた。美緒がすかさず背中に張り付く。

 だが別にたいしたことではない。少し驚いただけだ。

「奈美、どうかした?」

 奈美が二つの部屋を繋ぐドアの辺りに立っていた。こんなのは洋子の知る限り初めてだ。いったん眠ってしまえば奈美はまず朝まで目を覚まさない。

 美緒がほっとしたように洋子の陰から進み出た。怖がりなりに奈美に対してはしっかり保護義務を感じているらしい。奈美の傍らに歩み寄る。

「みおちゃん、はかせがいるよ」

 奈美は意味不明なことを言った。いや表面上の意味なら明白だ。しかし状況からすればおかしい。こんな時間に、いや何時であろうと、ワトソンがここにいるわけがない。少し舌っ足らずだが普段の奈美ははっきり喋る。なのに今は妙にぼんやりした口調だった。きっと悪い夢でも見たのだろう。

「ほら奈美、寝るよ」

 美緒が奈美の腕に手を掛けた。そして何気なくドアの向こうに目をやって、びくりと身を竦めた。

「……ちょっと、まさか」

 美緒の不穏な反応に洋子の警戒心が高まる。本当にワトソンがいるのか。

 だとすれば空のことを狙って?

 今さらながら不審に思う。ワトソンはいったいどうして空にパンツを渡そうとしていたのだろう。いくら変態とはいえ脈絡もなくそんなことをするとは考えづらい。

 つまりワトソンは空がノーパンだと知っていた?

 偶然スカートの中が見えたのか。それならいい。いやよくはないが、まだましだ。

 そうではなく、空がパンツをなくしたことを最初から把握していたのだとしたら。

 俄然として一つの疑惑が浮かび上がる。ワトソンこそ空の下着を盗んだ犯人なのではないか。

「ワトソン、いるの?」

 美緒と奈美を下がらせて部屋の中を覗く。ベッドの下の段のカーテンが海藻みたいに揺らめいていた。風に煽られているみたいだったが、そんなはずはない。寝る前に窓は閉めた。それにもし開いていたとしても、窓のカーテンはそよとも動いていない。

 何かとてもおかしなことが起こっている。洋子は回れ右したくなった。だが友達の操の危機かもしれないのだ、びびってる場合じゃない!

「空?」

 部屋に一歩踏み入れる。途端、ひときわ激しくカーテンがめくれ上がった。その向こうに寝ているのはもちろん空だ。疲れて熟睡しているとは到底思えないほど苦しげに表情が歪んでいる。

「……あ、んっ」

 吐息とも呻きともつかない声が半開きの口から洩れる。布団は足先までめくれていて、パジャマはボタンが全て外れて前がはだけていた。洋子に比べればずいぶんふっくらした胸があらわになっている。ズボンは膝の辺りに、そして下着は股の付け根近くまでずり下がっていた。

 だがそれだけなら空が独りで何かそういう行為をしていたのだとどぎまぎしながらも納得して、美緒と奈美を即行で寝かしつけて、自分もすぐにベッドに入って頭から布団を被ってきつく目を閉じてしまえばよかった。

 しかし空の上には何かがいた。人の形をしている。体格からして寮の子とは思い難い。大人で、おそらくは男。下を向いていて顔は見えない。だが特徴的な格好をしている。白衣。学院をうろつく変態の愛用品。

「ワトソン、あんたっ!!」

 ほとんど金縛り状態だった洋子は、自身が上げた声に弾かれたようにしてベッドへと突進した。白衣の怪人が不意を衝かれたようにこちらに顔を上げる。

「きゃっ!?」

 いきなり突風が吹いた、気がした。洋子は思わず目を閉じて、そして再び開いた時にはまるで初めからそうだったみたいにカーテンは静かに垂れ下がっていた。

「何よ、今の……?」

 呆然と呟く。白衣の怪人の仕業だろうか。小型の強力扇風機でも動かしたのか。だがいったい何のために。

 いや今はそんなことに頭を悩ませている場合じゃない。

「空!」

 洋子は勉強机から缶のペン立てを引っ掴むと、ベッドに走り寄って一気にカーテンを引いた。

 振り上げたペン立てを思い切り怪人の頭に叩きつける、つもりだった洋子はしかし息を呑んだ。

「……いない?」

 怪人は消えていた。広くもないベッドの端から端まで視線を走らせても影も形も見当らない。空の足元に丸まっている毛布を剥いでみたが、体を縮めて潜んでいたりもしなかった。

 状況に頭が追い付かない。

「洋子ちゃん?」

 背後からの不安げな呼び掛けに、洋子は半ば反射のように答える。

「美緒、こっちはなんでもないから、早く奈美寝かせてあんたも寝て」

「でも」

「いいから……あ、でもその前に」

 洋子は隣の部屋へ行くと、びくついている美緒と半分眠っている奈美をベッドの方へ押しやった。部屋の電気を点け、室内をざっと見回したが異常はない。窓の鍵を念入りに奥まで押し込み、廊下に面したドアを施錠する。

「美緒、今日は奈美と一緒に寝て」

 ベッドの上の段から枕を取って美緒に渡す。

「うん」

「それとあたしが向こうに戻ったらドアの前に椅子を並べて置いておいて」

 二部屋を繋ぐドアには鍵がない。バリケードとしてはいかにも貧弱だが、押し通ろうとすれば音を立てる。ないよりはましだろう。

「もし何かあったらすぐに大声出してあたしを呼ぶのよ」

「洋子ちゃん、待って」

 自分の部屋に戻ろうとした洋子の袖を美緒が掴んだ。

「洋子ちゃんもこっちで寝ようよ。奈美のベッド使えばいいんだし。その方が安心だよ」

 提案を装ったお願いに、しかし洋子は首を振る。

「あたし一人ならそうするんだけど」

「洋子ちゃんだって奈美のことが心配でしょう?今日来た人ならもう六年生なんだから一人だって大丈夫だよ」

「こら美緒」

 洋子はきつい声を出した。

「あんたがそういうこと言うならあたしが奈美と一緒に向こうで寝るわ。もう二年生なんだから一人でも平気よね?」

 美緒の手を振り払い、立ったまま目を閉じている奈美を前に押しやる。ドアのところまで来て振り返ると、目に涙を溜めた美緒が、洋子へと中途半端に手を差し伸ばしていた。

「それでもいい?」

 美緒は口を開かなかった。反抗的になっているのではなく、洋子をこれ以上怒らせることを恐れているのだろう。

「美緒、ちゃんと答えて。一人で残るのと奈美と二人で寝るのとどっちがいい?」

「……奈美とがいい」

「分った」

 洋子は美緒の傍に戻ると奈美と二人まとめて抱き締めた。

「ねえ美緒、空があんたに何か意地悪なことした?」

「してない」

「なのに意地悪なこと言ったら駄目だよ」

「うん、ごめんなさい」

「じゃああたしは行くから。奈美は美緒が守るんだよ」

「はい」

「よし、いい子」

 洋子は美緒の頭を撫でると身を返した。

「さて、と」

 自室に入り、間のドアを閉じる。美緒には大人振ってみせたものの、洋子だって平静からはほど遠い。理解不能な体験をしていたさなかより、少し時間を置いた今の方がかえって色々と怖いことを考えてしまいそうだ。

 空はさっきうなされていたのが嘘のように安らかに寝入っている。そのせいで乱れた格好がいっそう際立って洋子の目に映る。

 女の子どうしなんだから別に意識することなんてない。ちょっと前にはお風呂だって一緒に入ったんだし。

 そう自分に言い聞かせながら、外れていた空のパジャマのボタンを留めて、ずり下がっていたパンツとスボンをはかせる。その間も空は全く目を覚ます気配がない。仕上げに足元に丸まっていた毛布を掛けると、洋子はほっと息をついた。手の甲で額を拭う。なんだか変な汗をかいてしまった。いや何も変じゃない。ばたばたしたせいで暑くなってきただけだ。まだ九月も半ばだし。

 落ち着け。あたしはいつも通りだ。

 ベッドのカーテンは開けたままにしておいた。視界から隠された途端に再び怪人が出現したらと想像すると嫌過ぎる。

 そんなことあるわけない、とは思う。だがあり得ないというなら窓もドアも開けずに人間が部屋から消えてしまうことだって同じくらいあり得ない。

 もっとも、窓は確かに閉まっていたが鍵は掛かっていなかった。だから物理的な出入りは可能だったことになる。廊下側のドアも同様だ。洋子は改めて両方とも施錠した。これでこの部屋は一応密室になった。

 調べるべきところはまだ残っていた。二つのクローゼットを開ける。中には誰もいない。次はさっきまで自分が寝ていたベッドの上段だ。もし本当に誰か潜んでいて、覗き込んだ途端に目が合ったりしたら梯子から転げ落ちかねない。まずは離れたところから眺めてみて、一応大丈夫そうだと当りを付けてから、ようやく実際に昇って確かめた。結果、問題なし。

 これでできることは全部やった。怪人が消え失せてしまったのは謎だが、洋子が目を瞑った一瞬の隙をついてドアなり窓なりから抜け出したのだと考えられないこともない。部屋は暗かったし、洋子は動転していた。可能性はある。

 というか他の可能性は思いつかない。

 もしこれで再び出現したら、もはや“怪しい人”などというレベルではない。“怪かし”そのものだ。

 今夜はずっと起きていることにしよう。別に幽霊が怖いとかじゃない。美緒と奈美のことも心配だし、不審者(そうだ、幽霊だの化物だのじゃない。あくまで不審者だ!)が戻って来ないとも限らない。ドアも窓も大人が本気になればいくらだって破れるだろう。

 部屋の電気は消さなかった。だってやっぱり怖いし――いやいや怖くなんかない。あくまで用心のためだ。眠るには眩しいが、空はもう熟睡しているし、洋子には眠るつもりがないのだから問題ない。

 とはいえ明日も学校がある。体だけでも休めておかないと。

「おやすみ、空」

 幸せそうな寝顔にくちづけして、その二秒後、自分が何をしたのかに気付いて洋子は沸騰した。逃げ出すように梯子を伝い昇って自分の寝床に転げ込む。

 まさか起きてたりしてなかったよね?

 黙っていればきっとばれはしないはず。でも本当にそれでいいのか。つき合っているわけでもない相手に眠っている間に勝手にキスするなんてセクハラどころか犯罪だ。

 例えば想像してみるといい。もし意識がないのをいいことにワトソンが洋子にそんな真似をしたとしたら。

 唇に蕁麻疹ができそうだ。

 でももし相手が空だったら。うん、全然許せる。むしろ嬉しい。幸せな夢を見れそうだ。これから毎日同じ部屋で寝られるなんて夢みたいだ。夢かな。

 初夜こそおかしなことになってしまったものの、これからいくらだってチャンスはある。いったい何のチャンスなのかはともかくとして。

「楽しみだね、空」

「うん、洋子ちゃん」

 ありありと空の声が聞こえた。

「だけど何が?」

「何ってそれは……」

 洋子はぼんやりと身を起こした。

「おはよう、洋子ちゃん」

 顔を向けると、パジャマ姿の空がこちらを見上げていた。

「もう目覚まし止めちゃってもいいよね」

 控えめな音量でアラームの電子音が鳴っている。

「あたし寝てた?」

 窓のカーテンは閉まっているが、外が明るくなっているのは分った。

「違うの?」

 空が問い返す。昨晩洋子が見た悩ましげな、いや苦しげな面影はどこにもない。ひょっとすると全部が洋子の夢だったのではないか。そんな気がしてくる。

 洋子は自分の両頬を平手ではたくと、梯子を伝ってベッドを降りた。

「空、変なこと訊くけど」

「なあに?」

 着替えを始めた空に尋ねる。思わず視線を向けると、ズボンの下にはちゃんとパンツをはいていた。ちょっとがっかり、ではなく安心する。

「昨日の夜、誰かに襲われたりしなかった?例えばワトソンとかに」

 スカートのファスナーを上げる途中で空は凍り付いたように動きを止めた。ひどく思い詰めた表情でひたぶるに手元を凝視する。

 失敗した。洋子は自分に舌打ちしたくなった。あれはやはり実際にあったことだったのだ。あるいは空には半分夢の中の出来事だったのかもしれないが、それでも心の奥に記憶は残っていて、洋子はその時の恐怖を不用意に呼び覚ましてしまったのだ。

「ごめんいいの、無理に思い出さなくても!」

 空を落ち着かせようとして腕に触れる。

「あっ」

 空が声を上げ、同時に勢いよく擦れるような音がして再び動きを取り戻す。

「よかった。布噛んじゃったのかと思った」

 一安心という口振りだ。

「え、なんのこと?」

「ファスナーが引っ掛かっちゃって。そういうことってない?」

「……ああ、うん。たまにあるよね」

 洋子は平板な口調で答えた。どうやら杞憂だったらしい。もちろんその方がいいんだけど。改めて尋ねてみる。

「やっぱり何も憶えてない?」

「博士は来てなかったと思うよ。それにどっちかっていうとゆうべは久し振りによく眠れた気がするし」

「じゃあ昨日までは寝不足だったってこと?」

 洋子も着替えを始める。まだ遅刻するような時間ではなかったが、食堂には余裕を持って行っておきたい。

「寝てはいたんだけど、うとうとするだけでぐっすりできないみたいな感じ」

「ちょっと意外ね。夜は熟睡ってタイプかと思ったけど」

 寝る子は育つ、みたいな。

 洋子は自分がまだ一枚も持っていない種類の下着を空が身に着けるところを盗み見た。

 やっぱり牛乳とか沢山飲むといいんだろうか。って、あたし別に気にしてないし。そんなの迷信に決まってるし。

「わたしね、最近変なの。夜ちゃんと眠れないせいで朝になっても頭がぼうっとしてたり、体が重かったりして。それで昼間に倒れちゃったりとか」

「ふーん……って大変じゃない!」

 思わず聞き流してしまいそうになったが、なおざりにしていい話ではない。

「そんな体調なのに転校して寮住まい始めるってどういうこと?何かよっぽど」

 のっぴきならない事情でもあったのか、と問おうとして躊躇する。親の急な転勤とかならともかく、もっと深刻な理由だったりしたら簡単には受け止められない。

「だからそれもあって、お母さんが万智子伯母さんに相談したら、環境を変えてみたらどうかって話になって。それに東京にいるよりこっちの方が安全だろうって」

「まあそうかもね。空気は綺麗だろうし、周りに何もないから静かだし」

 凛英は名門には違いないが、がちがちの進学校といった緊張感はなく、お嬢様学校らしい気取った雰囲気もない。よくいえばゆったりと和気藹々、悪くいえば締まりのない緩んだ校風だ。のんびり療養するには向いてるだろう。

「じゃあ良くなったらまた東京に戻っちゃうんだ」

 微妙に面白くなかった。この学校を愛しているとは言わないし、不満な点も多々あるが、洋子はここでの生活がさほど嫌いではない。初めからいなくなることが前提で来てほしくはなかった。制服のリボンの結び目を直しながら空が答える。

「たぶんだけど、わたしが残りたいって言えばいさせてくれると思う」

「あ、そうなんだ、ふうん」

 洋子は髪を整える振りで顔を逸らした。それはできれば凛英にいたいと思っているという解釈でいいんだろうか。

「そういえば空の前の学校ってどこなの」

「都女子学園だよ」

「みやじょ!?まじで!?」

 予想の三段上を行く名前だった。はっきりいって凛英とは格が違う。お嬢様学校の前に超の字が付く。偏差値でも女子校としては全国で五本の指に入るだろう。

「それ絶対戻った方がいいって……その、何か行きたくない理由とかあるなら別だけど」

 例えばいじめにあっていたとか。夜眠れなかったのもそれが原因で。たぶん違うだろうという気はしたが、案の定空は首を振った。

「また行けたらいいなとは思うけど、でも」

「でも?」

「洋子ちゃん達とももっと一緒にいたいな」

「がふっ」

 鋭い一撃が的確に洋子の急所を捉えた。

「わっ、どうしたの洋子ちゃん、風邪!?」

「へ、へーきへーき、ちょっと唾が喉に絡んだだけ」

 空咳をして呼吸を整え、どうにか気を落ち着けて顔を上げる。すぐそこに空がいた。

「あひょっ?」

 思わずのけぞる。

「危ない!」

 後ろに倒れ掛かったところを、空がしっかりと抱き留める。存外に強い手だ。支え切れずに二人縺れ合ったまま倒れ込むというような素敵展開、ではなく残念な結果にはならなかった。

「ありがと、空」

「どこも痛いところとかない?」

「う、うん」

 息が詰まる。これはこれでおいしい体勢、もとい困惑させられる状況だった。まるで王子様に庇われるお姫様にでもなった気分だ。

 だけどこんなのは駄目だ。洋子の頭の中で勝ち気なゴーストが囁く。転校したばかりで色々不安なのは空の方。だからあたしが空を守るんだ。いくら空の方が背が高くて他の部分も成長しちゃってたりしても、あたしにか弱い妹の役は似合わない。

 洋子は力を入れて体を突っ張る。空は洋子を支えたまま少し下がり、おかげでようやく重心が安定した。それでもまだ空の腕の中だ。

 もう大丈夫だから、離して。そう言おうとして。

「あたしも、もっと空と一緒にいたい」

 口が勝手に動いていた。ついでに空のことを抱き締めていた。やっぱり女の子って柔らかい。男の子と抱き合うのとはぜんぜん違う(そんな経験ないけど)。

 ゆうべの空の唇も柔らかかった。またしたいな。

 その気になればすぐだ。一秒で届く。

 空はどう思うだろう。驚くだろうか。呆れるかな。女の子どうしでキスなんて気持ち悪いって洋子のことを軽蔑してしまうかも。

 ううん、そんなことあるわけない。空ならきっと大丈夫。

 だって。ほら。

 洋子は空の瞳を直ぐに見つめた。空は少しだけ戸惑ったように、だけど瞳を逸らさず見つめ返す。

 空はもう、受け入れてくれている。

 洋子は目を閉じた。そうっと背伸びをして、二人の間にある距離をゼロに縮める。

「何してるの?」

 美緒!?

 洋子は咄嗟に空のことを突き飛ばした。

「違うの、これはあんたが考えてるような変なことじゃなくて!」

 言い訳にもなっていないようなことを叫び立てる。だが敵は一人ではなかった。

「みおちゃん、へんなことってなあに?」

「知らない。空ちゃんに訊いてみれば?」

 心を抉るような奈美の問いに、突慳貪に美緒が答える。奈美は素直に空の元へ行く。

「そらちゃん、へんなことって?」

 問われて空は首を傾げた。洋子の不意打ちにもノーダメージだったらしい。それにはほっとした洋子だが、奈美にどう答えるのかと不安が募る。

「うーん、なんだろう?」

 素っとぼけているのではない。たぶん本気で理解していない。脱力感が洋子を襲った。奈美に困ったことを吹き込まなかったのはいいとして、今の洋子との一幕に何も感じるところはなかったのか。行き場のない気持ちが胸の裡で燻る。

「こら美緒、部屋に入る前はノックしなさいっていつも言ってるでしょ」

 なのでとりあえず怒っておく。

「一度も言われたことない」

 しかし美緒は淡々とやり返した。

「自分の部屋だと思っていつでも来ていいから、とは言われた」

 確かに言った。洋子はぐうの音も出ない。

「でも」

 美緒は仲良く手を繋いだ空と奈美の方を見やった。

「空ちゃんが来たから、もう前とは違うっていうなら、別にいい」

 空気が重い。どうにか流れを変えないと。

「美緒、もしかして嫉妬してるの?」

 軽くからかうように言ってみる。

「おかしいの。お母さんが赤ちゃんばっかり構ってるからって小っちゃい子供が拗ねてるみたい」

 美緒の顔つきが変わった。

 洋子は喉元に冷たいものを感じた。もしかして自分は触れてはいけないスイッチをオンにしてしまったのではないか。

「今の洋子ちゃんのたとえって」

 今にも泣き出しそうだった美緒の瞳に、氷の刃のような光が宿る。

「洋子ちゃんがお母さんで、空ちゃんが赤ちゃんってことだよね」

「まあ、そうなるわね」

「ぴったりだね」

「なっ……」

 別にあからさまな悪口というわけではない。だが間違っても褒めてはいない。というか絶対馬鹿にしている。

「あれ、どうして怒ってるの。親子じゃなくて恋人がよかった?」

 さすがに調子に乗り過ぎだ。

「美緒、いい加減わけの分らないこと言うのはやめなさい。大概にしないと怒るわよ」

「そうだよね、わけ分んないよね。だって洋子ちゃんも空ちゃんも女の子だもんね。恋人だなんておかしいし、キ、キスしたりなんかするわけないもんね」

「あ、当り前じゃない」

 あっという間にコーナーまで追い詰められる。実に見事な攻撃だ。

「ねえ空ちゃん、二人けんかしてるの?どうして?」

 まだ全面開戦までは至っていないが、洋子と美緒の間にばちばちと電流が走っているのは十分に感じているらしい。だがそれで物怖じするでもなく平気で質問できてしまうあたりが奈美である。

「きっと仲良しだからじゃないかな」

 奈美に劣らず緊張感に欠けた様子で空が答えた。そもそも自分が原因だと理解しているのかと洋子は小一時間問い詰めたくなる。

「なかよしなのにけんかするの?でもナミは、みおちゃんとも洋子ちゃんともクラスの子たちともけんかしたことないよ」

「奈美ちゃんはそれでいいの。だけどたまにね、仲が良過ぎるせいでちょっとだけ苛々しちゃったりすることがあるみたいだよ。痴話喧嘩っていうんだって」

 洋子は危うく噴きかけた。

「ちょっと空、奈美に変なこと教えないで!それと奈美、あたしと美緒は喧嘩なんてしてないから。そうだよね、美緒」

 美緒は頷かなかった。短く洋子のことを睨みつけた後、顔を背ける。

「行こう、奈美」

 奈美の手を取って引いた。

「でも空ちゃんと洋子ちゃんは?いっしょにごはん行かないの?」

「二人だけでいるのがいいみたいだから。邪魔したら悪いよ」

「えー」

 奈美が不満を表す。美緒はかっとした。

「嫌ならいいわよ。わたし一人で行くから」

「奈美、美緒と先に行って」

 洋子は慌てて割って入った。

「あたしと空はまだ用があるから。それが終わったらすぐ行くわ」

「はーい。じゃあまたあとでね」

 奈美は美緒の手を握り直した。

「行儀良くね。美緒、奈美のことお願い」

 美緒は返事をしなかった。

 朝からひどくエネルギーを使ってしまった。重力に引かれるまま洋子はベッドに腰を落とす。ふわりといい香りが漂って、下の段はもう空が使っていることを思い出したが、そのまま座り続ける。「勝手に座らないで」などと空が怒るはずもない。先坂とかならともかく。

「用って何?」

 空は洋子の前の床にぺたんとお尻をついた。

「別に何もないから。いちいち真に受けないでよ」

「そっか、ごめん」

 つくりと胸が痛んだ。

 空は悪くない。マイペースっぷりに振り回されている部分があるのは確かだが、それより洋子が浮かれている方が問題だ。

 空のことはちゃんとフォローする。あとはできるだけいつも通りに。

「ううん、あたしこそごめん。ちょっと考え事してたから。じゃああたし達も朝ご飯行こっか」

 腹が減ってはなんとやら。洋子は勢いをつけてベッドから立ち上がると、空と一緒に食堂に向かった。



 同じ年頃の子と比べて空はよく食べる。本人としてはそれほど意識していないのだが、人からはよく言われる。

「ごめん空、ちょっと待ってて」

 空いた食器を返却して、水を注ぎ足したコップを持って戻ると、洋子のトレイの上にはまだ半分近くも朝食が残っていた。

「洋子ちゃん食欲ないの?気分でも悪い?」

 空は尋ねた。しかし洋子は否定する。

「昨日も思ったけど、あたしが遅いんじゃなくて空が早過ぎなの」

 二人とも全く同じメニューなのに、前回も今回も空の圧勝に終わっていた。

「そんなにがっついてるって感じでもないのにね。不思議」

 最後のパンの一かけを口の中に放り込むと、洋子はきちんとよく噛んでから牛乳と共に飲み下した。

「お腹が空いてるからかな」

 有り体にいって足りていない。もう一食分ぐらい余裕でいけそうだ。

「ご飯の時はお代わりできるよ。パンだと数が決まってるから無理だけど」

 洋子が耳よりな情報を教えてくれる。

「あんまりする子いないけどね。っていうかほとんど見たことないや。でも確かできたはず。今度頼んでみたら?」

「うん、お願いしてみる」

 他の人の分まで取ってしまうわけにはいかないが、せっかく作ったごはんが余るようなら、むしろ喜ばれるかもしれない。

「空ってば、成長期なんだねえ」

 洋子はなんだかしみじみと言った。

「洋子ちゃんだってそうじゃない。同い年なんだから」

「まーねー。人それぞれってやつ?」

 洋子は空の胸に辺りに目を向けると、妙に気合を入れて残りの牛乳を飲み干した。


     #


「おはよう逢田さん」

「望月さん、おはよう」

「はよー、洋子、逢田さんもおはよう」

「おはよ、なつき」

「おはよう、高野さん」

 転校してまだ二日目の空だが、既に大半のクラスメイト達に受け入れられていた。人望と実力とを兼ね備えた洋子の威光もあるのだろうが、空とて元より人見知りする質ではない。

「おはよう」

 始ちゃん、と続ける前に空は軌道を変えた。

「先坂さん」

「……おはよう、逢田さん」

 気を遣った甲斐があったのか、先坂は少なくとも無視はしなかった。

 仄かに嬉しく思いながら空は自分の席につく。廊下側の一番後ろで、六×五列の方形に並んだ机からここだけはみ出しているので、転入に伴って追加されたのが瞭然だ。

「ねえ先坂さん、一つ後ろにずれない?」

 洋子が言った。空の斜め前の席で先坂が不機嫌そうに応じる。

「どうして私がそんなことをしないといけないのかしら」

「だって空だけ隣がいないのって可哀相じゃない。忘れ物した時とか分んないことがあった時とかも不便だろうし」

「忘れ物はしなければいいのだし、授業中に分らないことがあったら手を挙げて質問するなり後で先生に訊きにいくなりすれば済むことでしょう。決まった並び順をわざわざ乱す理由になるとは思えないわね。だいいち」

 先坂は空を睨みつけた。だが短い間だけのことで、すぐに洋子に視線を戻した。

「後から入って来た余計な人のせいで、元からいる人が不便なのを我慢するなんて話が逆だわ」

 決して大きな声ではなかった。それでも周りに届くには十分だった。もちろん空のところにも。

「わたしもそう思うよ」

 空気が薄くなったみたいな沈黙を突いて空は言った。

「できるだけ迷惑掛けないようにする。だからもしわたしによくないところがあったら、先坂さんが教えてね」

 先坂の背中が強ばった。ぎこちない動きで机の中から教科書を取り出して眺め始める。

「私は暇じゃないの。あなたの面倒なんて見てられないわ」

 背中越しに投げられた言葉に空は面を伏せた。

「お勉強の邪魔しちゃったね。ごめんなさい」

「どうして空が謝る必要あるの。先坂さん学級委員なんだからクラスの人の面倒見るのなんて当り前じゃない」

「それは学級委員長さんにお願いするわ。私はしょせん副だから。そんな大役は無理よ」

「何それ、僻み?かっこ悪い。父親譲りって感じね」

「どういう意味よ」

 先坂の気圧が急激に低下した。あっという間に雷雲まで発生したかのようだった。

「私は私よ。親のことなんか関係ないわ。逢田さん、あなたが姫木さんに何か吹き込んだのね?上辺だけ取り繕って腹の中ではずっと私のこと見下してたんだわ。最低」

 怒気が蒼白い稲光となって閃いているみたいだった。

「始ちゃん、わたしは」

「その名前で呼ばないで」

 平手打ちのように先坂が遮る。

「先坂さん違う、空はあなたのことなんて全然」

「うるさい、もう沢山!」

 先坂はやにわに席を立って、そのまま教室を出て行ってしまった。

「……しょうがないね。親を持ち出したのは完全にあたしが悪かった」

 洋子はため息をついた。

「ごめんね空、なんかあんたのせいみたいに思わせちゃった。後でちゃんとあたしから謝っとくから。あんたは気にしないでいいよ」

 重い足取りで自分の席へ向かう。

 だが始業時間になっても先坂は教室に戻って来なかった。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ