EP01 うわっ...卵1パック高すぎ...?
練馬区・中村橋駅前。スーパー『テンドウ』の夕方の混雑。
「えっ、この卵、先週より上がってる……?」
宮内健介は値札をもう一度確かめた。十五円。たかが十五円。だが積み重なれば、月に数百円は消える。
「お会計、千二百八十円になります」
レジの店員が無機質に告げる。電子マネーのチャージが切れていたので宮内は黙って千円札と小銭を数えた。
「お先に失礼しまーす」
後ろの女性が会計を済ませ、足早に去る。カゴの中身は、半額シールの惣菜パックだけだった。
レジ脇、年配の女性が小銭を数えながら呟いていた。
「卵が一パック三百円超えるなんてねえ……」
誰に言うでもない呟きが、宮内の耳の奥に残った。スマートフォンが震えた。社内チャットの通知だった。
『明日十八時、本社一階ロビーにて株主総会後の祝賀会を開催します。経営企画室は全員出席のこと』
「……祝賀会、ね」
宮内はレシートを握り潰し、コートのポケットに押し込んだ。
渋谷『ネクスト・プルート』本社一階ロビー。シャンパングラスが、軽やかな音を立てて重なる。
「鶴見社長、上場以来の最高益、おめでとうございます!」
「いやいや、皆さんの頑張りのおかげですよ」
鶴見玲央が満面の笑みでグラスを掲げる。フラッシュが何度も焚かれた。
「社長、株主への説明はどうされるんですか」
「もちろん、しっかりとした説明責任を果たします。これからの経営は数字だけじゃない。パーパス経営です」
「社長は、社員の健康経営にも力を入れていらっしゃると伺いましたが」
「ええ。実は私自身、人体実験のつもりで、次世代型のスマート・ペースメーカーを胸に入れているんですよ。健康データをアプリと連携させて、心拍も血圧も、すべてクラウドで一元管理する。経営者が自ら体現する。それが、これからの『人的資本経営』のあるべき姿だと思っています」
軽い笑いとともに、フラッシュがさらに激しく焚かれた。
記者たちが一斉にメモを取った。会場の隅。宮内はグラスを片手に、誰とも話さず立っていた。
「宮内くん、浮かない顔だね」
声をかけたのは、同じ経営企画室の先輩社員だった。
「いえ。……昨日、卵が、ちょっと高かったので」
「は?」
宮内は短く笑い、グラスの泡を見つめた。
「いやいや、何でも無いです」
「それより、ウチの社長、また同じこと言ってるな」
鶴見の方を見やり、先輩が小さく肩をすくめる。
「でね。パーパス、人的資本経営。聞いてて飽きないっすか」
「飽きるよ。だが、給料の話になった瞬間だけは、不思議とパーパスを言わなくなる」
宮内が静かに言った。
数日後。『ネクスト・プルート』本社、人事評価面談室。
長机を挟んで宮内と鶴見が向き合う。傍らでは人事担当が一人、ノートパソコンを開いたまま黙って座っていた。
「数字は素晴らしいよ、宮内くん」
鶴見がタブレットをスクロールする。
「業務効率化プロジェクト、年間で二億四千万円のコスト削減。投資収益率は過去最高クラスだ」
「ありがとうございます。それを踏まえて、メンバークラスの基本給の見直しをお願いしたいのですが」
「うん、その話だよね」
鶴見はタブレットを置いた。
「気持ちはわかる。だが、今は時期が悪い」
「時期、ですか」
「上場直後だ。株主への説明責任がある。役員報酬と従業員給与の比率は、常にウォッチされている。下手に上げると、ガバナンスを疑われる」
「二億四千万円の成果に対して、私が要求している額がいくらか、ご存知ですか」
「いや、額の問題じゃないんだ」
鶴見は身を乗り出した。
「これからの時代は、お金じゃない。パーパスだよ」
「パーパス」
「会社の存在意義。社員一人ひとりが、社会的な意義を感じて働ける環境。それが今、何より大事なんだ。……代わりに、ストックオプションを多めに割り当てる方向で考えてもいい」
「上場後に価値が確定しない紙を、今の生活費の代わりにできるとお考えですか」
「君は優秀だ。だからこそ、長期で会社の成長に賭けてほしい」
「私は今月、卵が一パック三百円を超えたことへの対応に賭けています」
「……君は、そういう個人的な事情を会社に持ち込むのか」
「個人的な事情ではありません。日本中の現場で起きている話です」
鶴見はため息をつき、椅子に深く座り直した。
「分かった。来期、もう一度検討しよう」
「来期」
「ああ。今は無理だ」
人事担当の打鍵音だけが、室内に響いていた。
「……社長」
「何だ」
宮内は、しばらく黒いタブレットの画面に映る自分の顔を見つめていた。
「なんでROIがどーのとかいってる会社が、給料の話になったとたん精神論になるんだよ」
声は、ほとんど囁きに近かった。
「……は?」
「いや……」
鶴見は一瞬、笑いかけた。冗談だと思ったのだろう。だが、宮内の目には、笑いの余地が一切残っていなかった。
「君、今、何と――」
「いえ。何でもありません」
宮内は静かに一礼し、席を立った。人事担当は、何も聞いていないという顔のまま、ノートパソコンの画面に視線を落としていた。
*
数週間後。二〇三六年二月二十四日、午前二時。
渋谷の地下、複合商業ビル『サイバークロス・タワー』地下四階。重油の匂いがこもるボイラー室の最奥に、四人の男が集まっていた。
「ほら、施設部門長からくすねてきた、とっておきのバーボンだ」
佐藤徳治――トクジさんと呼ばれる初老男が、紙コップに琥珀色の液体を注いでいく。
「酒は全部終わってからにしますよ、トクジさん」
新城貴明が、ノートパソコンのケーブルをルーターに差し込みながら応じた。
「相変わらず堅いねえ、警視さんは」
「堅くなきゃ、警視庁の監視網は抜けられません」
「監視ログのバイパス、進んでます?」哲平が口を挟む。
「終わった。我々の通信は、存在しない幽霊のパケットとして処理される」
新城が眼鏡を押し上げる。
「さすが。国家権力の中枢にいる男は頼りになるねえ」
トクジさんが笑う。「で、俺は何の役に立ってるんだったかな」
「あなたの配管図と鍵束がなければ、このボイラー室自体に誰も近づけません」
宮内が静かに言った。
「お、買われてるねえ」
「こちらのハック状況も問題ないっす」徳原哲平がスマホをしまう。
「配送ルートの接収、バックドア設置、完了」
「ご苦労。これで足場は固まった」
「二日後の午前三時、同時決行」宮内が確認するように言う。「新城さんの防衛網麻痺を合図に、私が外資ECを接収する。哲平の部隊と新城さんで、大河内とメイナードを執行」
「予定通りだな」とトクジさん。
「ええ」
「……俺、未だに信じらんないんすけど」哲平が呟く。「警視庁の警視と、ビルの清掃のおっさんと、IT企業のマネージャーが、同じ部屋で人を殺す相談してるって」
「お前だって、匿流の生き残りだろ」新城が言う。
「俺は別に正義感とかじゃないっすよ。腹が立ってるだけで」
「それで十分だ」宮内が言った。「俺たちを繋いでるのは、思想じゃないだろ。腹立たしさだけだ」
「次に、もう一つ片付ける」




