第3話 壊れた水門と、小さな帳簿
難産でした...
南門の水門は、日が傾くほど不気味な音を立てた。
石組みの仮締切にぶつかった水が、門の奥で低く唸っている。
昼のうちに測った水位は、朝よりさらに二寸高かった。
三日後に山で大雨が降れば、この音は王都の南半分まで届くのかもしれない。
セレスティアは、門番小屋の粗末な机に広げられた帳面を見下ろした。
四十年分の大帳簿の横に、手のひらほどの小さな帳簿が置かれている。
革表紙は水に濡れ、角が丸くなっていた。
「こちらは、どなたの帳簿ですの」
デイモンが、白い髭を撫でた。
「わしの孫のだよ。名はトビアス。五年前まで、ここで荷の数を数えとった」
「水門番のお仕事を、ですか」
「いや。字を書けるから、船頭たちに頼まれてな。穀物が何袋来た、誰の船がいつ出た、そんなことを写していただけだ」
王都土木局の帳簿には、門の開閉時刻と工事の進み具合だけが残る。
水路を使う人々の小さな遅れは、そこには記されない。
セレスティアは表紙をそっと開いた。
二年前の夏、仮締切が置かれた日の頁に、子どもらしい丸い字が並んでいる。
穀物船二艘、薬草を積んだ小舟一艘、南部救援の荷車三台。最後の行だけ、何度も書き直されていた。
――夕刻、舟着き場に水があふれ、荷の引き渡しは明日へ。
「この日の遅れは、公の記録にはございませんわね」
「工事が済めば元どおりになる、と役人さんは言った。だから皆、待ったんだ」
その翌日には、薬草を積んだ舟の荷が半分になっていた。
濡れた袋を開けて、使えるものだけを選び直したとある。
母が亡くなった年の冬、セレスティアは王族妃教育の課題として、南部の救援配分を写した。
届いた薬の数と、必要だった村の数。
その差を赤い線で結んだとき、父は難しい顔で言った。
「帳簿は、届いたものだけを正しいとはしない。届かなかったものも、同じだけ数えなさい」
当時のセレスティアは、その意味を半分しか分かっていなかった。
けれど今なら分かる。
濡れて失われた薬草にも、荷を待った人にも、名前のない時間があったのだ。
母は病の床でも、南部の医師から届く礼状だけは読ませてほしいと言った。
礼状には助かった患者の名ではなく、届かなかった薬の名まで並んでいた。
それが辛い理由を、幼いセレスティアは尋ねられなかった。
今なら、母が数え続けたかったのは損失ではなく、次に同じものを失わせないための手がかりだったのだと理解ができる。
「ルシアン様。水門が壊れていると判断するには、何が必要ですの」
図面に数字を書き込んでいた測量官が、顔を上げた。
「壊れている、というより、本来の排水量を出せていません。仮締切と、第二水門の軸の歪みが重なっています」
「第二水門も、ですか」
「雨期の前に行う注油と、軸受けの交換が二年続けて見送られています。土木局の完了報告には、実施済みとありますが」
ルシアンは、言葉を選んだ。
「実物は、報告どおりではありません」
セレスティアは門の内側へ目を向けた。
鉄の軸には赤茶色の錆が浮いている。
鍵を守ってきたデイモンは、それを見て唇を噛んだ。
「去年の秋にも、重くて動かんと書いた。返ってきた紙には、部品は届いている、と」
小屋の隅には、封を切られていない木箱が二つあった。
クロエが近寄り、箱の側面を読んだ。
「王都土木局、第二水門用軸受け二組。到着日は……一昨年の九月です」
「届いているではありませんか」
エレノアの声が固くなる。
だが、デイモンは首を振った。
「交換には職人がいる。ここへ来るはずの職人は、来なかった。勝手に替えりゃ、門を壊した責任をわしが負うことになる」
届いた部品と、終わったとする報告。
その間にあるのは、誰も越えようとしなかった一つの線だった。
セレスティアは、かつてその線の向こう側にいた。
会議室で完了報告を受け取り、王子の予定が押しているからと頁を閉じた。
自分が水門の音を聞かなかった責任まで、誰かへ渡すことはできない。
けれど、すべてを自分一人の過ちとして抱え込むことも、今は違うと分かる。
報告を書く者、確認を命じる者、現場で鍵を守る者。それぞれの役目がつながらなければ、立派な印のある書面でも人を守れない。
「今から、測量院が交換の必要性を証明できますか」
ルシアンは即座に頷かなかった。
「安全な放水量を計算し直します。ですが、明日の朝までに土木局が職人を出さなければ、雨の前に作業を終えるのは難しいでしょう」
「土木局へは、どなたが命じられますの」
「本来なら、担当次官か王家の認可です」
婚約を解かれた公爵令嬢に、その権限はない。
いくら王族と距離が近い公爵家といえど、勝手に手を加えるのは不味い。
そして、王から命が降るまでは時間がかかりすぎる。
だがそれを、セレスティアは惜しいと思わなかった。
自分の名で命じられないなら、自分の名で隠せないものを示せばよい。
「デイモン様の帳簿、わたくしが写します。大帳簿と照らして、遅れた船と荷を一覧にいたしましょう」
「お嬢様が、ですか」
「はい。水門番の記録は、水門番のお名前と一緒に提出いたします」
老人は小さな帳簿を見つめた。
「トビアスは、字がきれいだと褒められるのを楽しみにしてた。だが、熱を出して……去年の冬に逝った」
言葉が途切れた。
窓の外で、舟着き場の子どもたちが帰り支度をしている。
誰かの記録は、誰かが生きていた証にもなる。
「きっと、とても読みやすい字ですわ」
セレスティアは答えた。
「ですから、きちんと読ませていただきます」
デイモンの手が、ゆっくり帳簿から離れた。
「頼みます」
夕暮れまでに、三人で二年分の頁を写した。
クロエは荷の品目を分け、エレノアは遅れた日を地図へ印した。
ルシアンは水位の数字を添えた。
表が埋まるほど、偶然とは思えなくなる。
仮締切が置かれた日から、救援船は毎月のように遅れていた。
遅れた荷の中には、南部の診療所に送る薬草、冬用の麦、そして王都の救援金で買い付けた毛布があった。
「救援金で買い付けた、ですって」
セレスティアの指が、ある行で止まった。
帳簿には、毛布百二十枚、船主への支払いは未済、とある。
その次の月には、毛布六十枚、引き渡し先変更、と。
「引き渡し先は、どこですの」
デイモンは額へ皺を寄せた。
「知らん。役人が、南へはもう送らんでよいと言った。代わりの保管先がある、と」
老人は小屋の棚を探り、古い麻袋を取り出した。
中から、赤い蝋印の割れた受領書が一枚落ちる。
宛名は土木局ではない。
王都救援管理室。
そして支払先の欄には、セレスティアが見覚えのある名前があった。
「……ヴァルド商会」
ジークヴァルトが新しい婚約者ミルフィへ贈った真珠の首飾り。
その箱に刻まれていた商会名と、同じだった。
空が、遠くで光った。
まだ雨は来ない。
それでも、山の向こうで鳴った雷は、南門の水より低く長く、これから失われるものの数を数えているようだった。
「ルシアン様。今夜のうちに、王都救援管理室の帳簿を確認できますか」
「鍵があれば」
「鍵を持つ方へ、お会いしに参りましょう」
白紙だったはずの手帳に、セレスティアは新しい行を書き加えた。
――返されなかった救援金の行方を、確かめる。




