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婚約破棄、承りましたわ 〜今度は私の予定表です〜  作者: 黒色鮎


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第2話 水門の様子

 南門の水は、朝から濁っていた。

 薄い土色の流れが、石造りの水路をゆっくりと南へ向かっている。

 本来なら、朝のうちに穀物船を二艘通した後、昼には水位を下げる。

 それが南部へ救援の穀物を送るための、王都に最も近い運河の使い方だった。

 セレスティアは欄干へ手を置き、水の高さを見た。

 水位標の赤い線より、指三本分ほど高い。


「思ったより、近くで見られますのね」


 隣でエレノアが扇を閉じた。


「ヴァレンハイト公爵家のお嬢様が、泥のついた水路を見にいらっしゃるとは思わなかったわ」

「わたくしも、昨日までは思っておりませんでした」


 昨日までの予定表には、南門など一行もなかった。

 王妃教育で覚えた水路は、会議室の地図の上だけのものだった。

 けれど十歳のころ、父が教えてくれた。

 地図の青い線は、実際には泥を運び、船を揺らし、ときには人の暮らしを止めるのだと。

 母はその隣で笑っていた。


「水を見るときは、先に水を待っている人を見るのよ」


 その言葉を思い出し、セレスティアは対岸を見た。荷車に麦袋を積む男たち。

 舟着き場で順番を待つ船頭。

 水を汲みに来た子どもたち。

 誰も、水路が止まることを前提にはしていない。


「セレスティア様」


 ユリウスが、朝から抱えていた筒を広げた。南門水路の図面と、昨年の救援船の運航記録である。


「財務卿から預かった資料です。昨年の飢饉では、南部への船が予定より十二日遅れています」

「雨で川が荒れたから、と報告にはありましたわね」

「はい。ただ、王立測量院の記録では、雨量は例年より少なかったのです」


 クロエが、小さな帳面を開いた。


「そこで、測量院の方に来ていただきました」


 水門の脇にいた青年が、こちらへ一礼した。濃紺の外套の胸元には、定規と波線を組み合わせた測量院の徽章がある。


「王立測量院のルシアン・エルドと申します。伯爵家の名より、今日は測量官としてお話しいたします」

「セレスティア・ヴァレンハイトですわ」


 彼は必要以上に驚いた顔をしなかった。


「昨夜の夜会のことは、存じております」

「では、今日のことだけを見てくださいませ」

「承知しました」


 その返事が、少しだけ心地よかった。

 ルシアンは水位標の前へしゃがみ、細い測量棒を水へ入れた。次に、門の脇に打ち込まれた杭を指した。


「二年前の改修で置かれた仮締切です。本来は工事が終われば外します」

「石が、残っておりますわね」


 第一水門の下流には、川幅の三分の一を塞ぐ石組みがあった。苔が厚くつき、今年置かれたものには見えない。水はそこへぶつかり、濁りを作っていた。


「撤去済みと、図面には記されております」


 ルシアンが答えた。

 セレスティアは図面を受け取った。

 確かに「仮締切撤去、完了」とある。

 日付は二年前の夏。

 南部の救援配分について、彼女が初めて意見書を書いたころだった。

 鞄の底には、あの意見書の控えが入っていた。

 昨日、王宮から引き上げた書類の中にあったものだ。頁を開くと、南門水路の欄外に、自分の小さな字が残っている。


 ――雨期後に現地検査を要す。完了報告のみでは、輸送量を確定できず。


 十六歳の自分は、数字の不足に気づいていた。

 だからジークヴァルトへ、現地検査の裁可も一緒に願い出たのだ。


「水路の細かなことは、土木局へ任せればよい」


 彼はそう言って、書面へ印を押した。

 その後、検査を命じる別の書面が作られたかどうかを、セレスティアは確かめられなかった。

 婚約者の役目として差し出した意見が、どこまで届いたのかを問うことさえ、出過ぎたことのように思っていた。


「こちらの欄外を書かれたのは、セレスティア様ですか」


 ルシアンが控えを見た。


「はい。けれど、書いただけで終わりましたわ」

「いいえ。必要な検査と、その理由が書かれています。今なら、調べ直すための手がかりになります」


 慰めではなかった。

 測量官は、記録として読んでいるだけだった。

 それでもセレスティアは、少しだけ息をついた。

 書いたことは消えない。

 届かなかったとしても、次の人が探す場所を残せる。


「完了の報告だけが、ここにございます」

「現場の検査記録がありません」


 ルシアンは声を低くした。


「工事を命じるのは王家、実際に石を動かすのは王都土木局と請負の職人です。測量院は、完成後に水位と地盤を測って記録します。ところが、この年だけ、測量の依頼そのものが出ていません」


 役目が違うからこそ、欠けた一枚が分かる。

 セレスティアは石組みを見た。

 誰かが工事を終えたと書いた。

 その文字だけを信じて、次の年も、さらに次の年も、水はここでせき止められた。


「船が遅れたのは、この石のためでしょうか」

「断言はまだできません。ただ、雨期に水が増えれば、ここで水位が上がります。南の低い舟着き場へ流れ込めば、荷の積み替えが止まる可能性があります」


 それは穀物船が止まるということだった。

 去年、南部の村へ救援が二月遅れた。

 手帳に書いた数字の隣には、奨学金で学ぶ少年の、母を失ったという言葉が残っている。

 数字の遅れは、いつも誰かの時間を奪う。


「水門番は、どなたですの」


 エレノアの問いに、船頭が顎をしゃくった。

 門の小屋から、白い髭の老人が出てくる。


「デイモン爺さんよ。ここの鍵を四十年持ってる」


 老人はセレスティアたちを見ると、困ったように帽子を取った。


「お貴族様が来るとは聞いちゃいたが。石なら、わしも外してほしいと思ってます」

「なぜ、上へ報告なさらなかったのです」


 セレスティアが尋ねると、老人は小屋の中から、油紙に包まれた帳面を持ってきた。


「毎月出したよ。門を開けるたび、水が戻るまでの刻も書いた。だが返ってくるのは、完了報告と違うことを書くな、という紙だけだ」


 帳面には、細い字で水位と船の通行時刻が並んでいた。

 二年前の夏から、門を開けても水位が下がるまで長くかかっている。

 昨年の豪雨の日には、下流の舟着き場が半日使えなかったことも書かれていた。

 公の図面にはない記録だった。


「これは、誰にもお渡しになっていないのですか」

「渡したくても、受け取る人がいなかった」


 デイモンの声に、怒りはなかった。

 諦めがあった。

 セレスティアは、自分の革手帳を取り出した。

 三年分の悲しい記録を書いた手帳ではない。

 昨日、最初の一行だけを書いた、新しい手帳である。


「拝見しても、よろしいでしょうか」

「……お嬢様が、ですか」

「はい。記録は、書いた方のお名前も一緒に残しますわ」


 老人はしばらく黙ってから、帳面を差し出した。


「なら、頼みます」


 そのとき、上流で鐘が鳴った。

 水門の見張り台にいた少年が、声を張り上げる。


「北の雨量計から早馬です! 三日後、山のほうで大雨になるかもしれないって!」


 ルシアンが顔を上げた。


「三日なら、仮締切を外すには足りません。石を崩すだけでは、下流へ流れる量も計算しなければ危険です」

「では、どうなさいますの」


 自分の問いが、以前とは違うとセレスティアは気づいた。

 以前なら、誰かに尋ね、誰かの名で書面を整えただろう。

 今は、この場にいる人の顔を見ている。


「まず、二年間の水位記録を写します。次に、土木局へ仮締切の現状を照会する。測量院は、今夜までに雨量と安全な放水量を出します」


 ルシアンは地図を広げた。


「けれど土木局が、すぐに動くとは限りません」


 セレスティアは新しい手帳を開いた。

 白い頁には、昨日書いた「南門の水路を見に行く」の下に、まだ余白がある。


「動かないのでしたら、動かない理由も記録いたしましょう」


 鉛筆の先を置く。

 自分のために選んだ最初の予定は、思っていたより大きな水音を立てて、次の頁へ流れ始めていた。

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