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婚約破棄、承りましたわ 〜今度は私の予定表です〜  作者: 黒色鮎


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第1話 翌朝

『婚約破棄、承りましたわ』の続編となります。

この話の前に3部作をご覧いただけますと幸いです。

 婚約破棄の翌朝、セレスティアは鐘の音で目を覚ました。

 いつもなら、起き上がる前に侍女が予定を読み上げる。

 朝食の後は王妃教育、昼は外国使節の報告書、夕刻は舞踏の稽古。

 その隙間に、ジークヴァルトが後回しにした書類を片づける。


 今日は、誰も扉を叩かなかった。

 日が高くなってから、ようやく侍女が湯気の立つ茶を運んできた。


「お嬢様。王宮より使者が参っております」


 セレスティアは寝台の中で目を瞬いた。


「ご用件は」

「昨夜の件について、王家からお話があると」


 昨日までなら、急いで支度を整えただろう。

 王家からの呼び出しは、予定表の最上段に入るものだった。

 けれど手帳は、昨夜、閉じた。

 王家と公爵家は古くより対応の契約を秘密裏に結んでいる。

 王とセレスティアの父である現公爵が仲がいいのもその要因の一つだろう。

 だからこそ。


「本日は、お断りいたしますわ」


 初めて、断りの言葉を述べた。

 第二王子はともかく、その兄や王は怒らないだろうともセレスティアは考えていた。


「理由は、いかがいたしましょう」


 少し考える。

 嘘はつきたくなかった。


「予定がございませんので」


 侍女は口元を押さえた。


「それが理由になりますでしょうか」

「なりますわ。何もない一日は、十一年ぶりですもの」


 言ってから、胸の奥が少しだけ痛んだ。

 自由になったことが嬉しいのか、十一年間そうではなかったことが悲しいのか、まだ分からない。

 分からないままでも、今日はよいのだと思った。



 昼近く、父であるヴァレンハイト公爵が朝食室へ入ってきた。

 王宮からの使者を帰したと聞いても、叱らなかった。 代わりに、封のされた手紙を一通、テーブルへ置く。


「第一王子殿下からだ。婚約解消の書面は王家の責任で整えること。お前を王宮へ呼び出すことは、当面しないこと。署名が入っている」


 セレスティアは手紙を読んだ。

 文章は短く、必要なことだけが書かれていた。

 謝罪らしい言葉はない。

 それでも、昨日まで自分には選べなかった「行かない」という答えを、王家が書面で認めている。


「アルベルト殿下らしいですわ」

「アルベルト殿下は、お前があの場で何を守ったのかを見ておられた」


 父は窓の外を見た。


「ヴァレンハイト家は、王家の婚約者を育てるためだけの家ではない。覚えているか。お前が五つのとき、私の書斎で何をしていた」


 セレスティアは、少し考えた。

 大きな机に広げられた地図。

 青い線が何本も走り、父が小さな木片を村に見立てて置いていた。

 そんな情景が頭に浮かんできた。


「南部の水路図を、眺めておりました」

「眺めていただけではない。水門を一つ閉じれば、どの畑が乾くかを当てた」


 ヴァレンハイト公爵家は、四公爵家の一つとして、各領の水路と穀倉の記録を王家へ提出する役目を持つ。

 王家が救援の金を決め、地方の領主が人を動かす前に、どこへ水と穀物を通せるのかを示すのが、公爵家の仕事だった。


 セレスティアは婚約者教育の合間に、その記録を読むのが好きだった。

 水路図には、国境も身分も書かれていない。

 ただ、雨が降れば水が流れ、堤が切れれば村が困る。 それが分かりやすかった。



 六歳の春、父に連れられて東区の水門を見に行ったことがある。

 石組みの隙間から水が漏れ、工事の人足たちは泥だらけで働いていた。


「この門が壊れたら、どうなりますの」

「水が畑へ届かなくなる。畑が実らなければ、王都の市場も困る」


 父の説明を聞いた夜、セレスティアは地図の端に、小さな字で「なおす」と書いた。

 誰かを助けるとは、泣いている人の前に立つことだけではない。

 水が流れる道を、前もって残しておくことでもあるのだと、そのとき初めて知った。

 七歳で婚約が決まった日、母は新しい礼法帳と一緒に、水路図を一冊渡してくれた。


「王妃になるお勉強は大切。でも、セレスティアの好きなものまで、なくさないでね」


 けれど予定は少しずつ増えた。

 礼法のあとに外交史、外交史のあとに舞踏、夜には婚約者の代筆。

 地図は開かないまま棚の奥へ入り、母の言葉も、役目を果たせばよいのだと自分で蓋をした。


「七歳で婚約が決まり、地図を見る時間は減りましたわ」

「減らしたのは、お前ではない」


 父の声は静かだった。


「王妃教育は必要だった。だが、お前の好きなことまで王家の都合に預けたのは、私たち大人の怠慢だ」


 セレスティアは返事をしなかった。

 父がそんなことを言う人だとは、思っていなかった。父はいつも、予定表を渡す側だったからだ。


「では、今から何をいたしましょう」


 問いかけると、父は少し笑った。


「それを、お前が決める日だ」

「何も決めない、というのも」

「もちろんだ。だが、それをお前が選ぶなら、私は何も言わない」


 昨日までの「何もない」は、予定を奪われた空白だった。

 今日の「何も決めない」は、自分の手の中にある。似ているようで、まるで違う。

 朝食の後、セレスティアは久しぶりに公爵家の記録室へ行った。

 窓の高い部屋には、年代ごとに綴じられた水路図と収穫表が並んでいる。

 十歳のころ、彼女はここで、北の堰が壊れれば王都のパンの値段まで上がると知った。

 水路が途絶えれば小麦を運ぶ船が遅れ、港の商人は高い道を選び、最後に困るのは市場でパンを買う人だ。

 昨日、ジークヴァルトが読まずに押した救援配分の書面も、その流れを止めないためのものだった。


 棚の奥から取り出した古い水路図には、子どものころの自分の字が残っていた。

 雨で滲んだ線の脇に、「なおす」とだけ書いてある。 約束を果たす相手を失ったのではない。

 自分が大切にしていたものを、ようやく見つけ直したのだ。


 彼は知らなかった。

 けれど、知らなかった人の隣で、自分が書き続ける必要も、もうない。


「セレスティア様」


 記録室の扉が開き、エレノアとユリウス、クロエが揃って入ってきた。三人とも、卒業夜会の翌日だからこそ、いつもの学園服ではなく、各家の落ち着いた外出着を着ている。


「お見舞いですかしら」

「いいえ」


 エレノアは扇を閉じた。


「お誘いですわ」


 ユリウスが、細い筒を差し出した。

 中には南部の水路図と、財務卿からの短い依頼書が入っている。

 昨年の飢饉で遅れた救援路を調べるため、来月、各領の記録係と財務官が集まるという。


「セレスティア様に、記録の読み方を教えていただきたいのです」


 クロエが小さな声で続けた。


「三部ずつ写して残すことも」


 エレノアは、セレスティアの返事を急かさなかった。


「必ずお引き受けになる必要はありません。昨日まで、あなたは十分すぎるほど働かれましたもの」


 その言葉に、セレスティアは少し驚いた。

 これまで誰かが頼めば、引き受けるか、断るための理由を探すしかないと思っていた。

 選んでよいと言われること自体が、まだ不思議だった。

 セレスティアは地図を見つめた。

 これは王太子妃の仕事ではない。

 誰かの代筆でもない。父の家が担ってきた役目で、自分が昔、ただ好きで読んでいたものだ。


「いつからですの」

「来月です」

「明日は」


 ユリウスが怪訝そうに首を傾げる。


「明日は、南門の水路を見に参りますわ。まず、自分の目で見たいのです」


 エレノアが、ゆっくり笑った。


「明後日は?」


 セレスティアは、窓際の机へ置いた新しい手帳を見た。

 昨日までの手帳には、悲しいことが三年分並んでいる。けれど新しい手帳の最初の頁は、まだ白い。


「白紙でございます」


 鉛筆を取り、最初の一行を書く。

 ――明日、南門の水路を見に行く。

 その文字を見て、セレスティアは少しだけ目を細めた。

 今度は、記録ではない。

 自分で選んだ、最初の予定だった。

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