春を待つ理由
冬が去る朝は、思っていたより静かだった。
白潮灯台の最上階で、エルシアは曙硝子の蓋をゆっくりと開けた。海の向こうはまだ薄青く、水平線と空の境目も曖昧だ。けれど、硝子の底には確かな光が生まれていた。
淡い金色に、ひとすじの若草色。それは春の朝彩だった。
「今年の色、少しだけ緑が強いね」
隣でノアが言った。彼の指先には、以前なら消えない霜が浮かんでいたはずなのに、今は小さな水滴が光っている。冬紋はまだ手の甲に残っている。けれど、触れたものを凍らせる力は、もう彼の意思を奪うほど強くなかった。
エルシアは硝子から朝彩をすくい、銀の糸巻きへ移した。光は糸の中へ細く沈み、織機の上で柔らかな明日布へ変わっていく。
五つの灯台を結んだ新しい配分路は、昨夜から動き始めていた。白潮の光が王都だけへ吸い上げられることは、もうない。港の漁師にも、北の畑にも、遠い島の船にも、必要な分だけ朝彩が届く。朝彩院は役目を終え、各地の灯台守と彩織士が集まる共有院へ改められた。
ラゼル・オルドは長官の座を降り、公開審問で自分の判断を認めた。彼がすぐに善人になったわけではない。それでも、王冠より古い契約を前にして、独占を正義と呼び続けることはできなかった。
エルシアは、糸を織りながら考える。
光を取り戻すまで、ずいぶん遠くへ来た。濡れ衣を着せられ、閉鎖寸前の灯台へ追いやられたあの日には、この場所が自分の帰る家になるなんて想像もしなかった。
「エルシア」
ノアが呼んだ。
「なに?」
「今日、町へ下りる前に、見せたいものがある」
彼はそう言って、作業台の下から小さな木箱を取り出した。蓋を開けると、白い貝殻を細く削った指輪が二つ並んでいる。飾り気はない。ただ、内側に朝彩の糸が一周だけ織り込まれていた。
「王都から正式な辞令が届いた。王弟付き監査官の職は、もう必要ないそうだ」
「それは……よかったの?」
「ああ。私は王宮で冬を閉じ込めておくより、ここで季節が変わるのを見ていたい」
ノアは一つの指輪を手に取った。
「それに、白潮灯台には灯台監査官が必要だ。共有院から、私にここを任せたいと言われた」
「ノアが?」
「君が彩織士として残るなら、私も残りたい。エルシア、私は……」
彼の声が、珍しく途切れた。
以前のノアなら、言葉を飲み込んで静かな顔をしていただろう。けれど今は、逃げずに彼女を見ている。冬紋の冷たさよりも、手のひらの温度を信じようとしている顔だった。
「私は君と、この灯台で暮らしたい。仕事の相棒としてだけではなく、これから先の季節を一緒に迎える人として」
エルシアは織機を止めた。
窓の外で、海が朝の光を返している。町ではきっと、ユノが鐘を鳴らし、マルタが港の新しい配分表を確かめている。今日も忙しい。明日も、きっと忙しい。朝彩を集め、糸に織り、船の出る時刻を記録し、季節ごとの光を次の人へ渡していく。
その暮らしの中に、ノアがいる。
「返事を急がせるつもりはない」
「急がせているのは、ノアのほうじゃないよ」
エルシアは笑い、木箱からもう一つの指輪を取った。
「私がずっと待っていたんだと思う。誰かに選ばれる日じゃなくて、自分で選んだ場所を、誰かと守っていける日を」
彼女は指輪を左手にはめた。
「白潮灯台で暮らしたい。ノアと一緒に」
ノアは息をつき、ようやく笑った。彼が差し出した手に触れると、冷たさはあったが、もう痛くはなかった。エルシアがその手を包むと、冬紋の上に淡い朝彩が灯る。霜は消えずに、細かな水晶の花へ形を変えた。
「春になるまで、まだ少しかかるね」
「だから待つ理由がある」
「理由?」
「君と、毎朝ひとつずつ新しい色を見るために」
灯台の鐘が鳴った。
白潮の町へ、最初の春の明日布が運ばれていく。布を受け取ったマルタが空へ掲げ、港の旗が若草色に染まった。海の上では、遠くの四つの灯台も順に光を返している。ひとつ、またひとつ。誰かのために奪うのではなく、みんなの明日を照らすための光だ。
エルシアとノアは並んで窓辺に立った。
春は、まだ来ていない。
けれど、来ると知っている。待つことが諦めではなく、手を取り合って明日を迎える約束になることを、二人はもう知っていた。
白潮灯台に、朝が満ちる。
エルシアはノアの手を握り直し、これから始まる暮らしへ、最初の一歩を踏み出した。




