新しい部屋へ
アパートの取り壊し通知が届いた日。
もう一つの選択を選んだIFストーリーです。
おはじきが止まったのは『はい』。
私と一緒に引っ越すことを選んでくれた。でも……
このへやからでられない
雀が見たくてこの部屋に来て、それ以来ずっとこの部屋に縛られてしまったらしい。それなら──
「……毎年咲いてくれる鈴蘭。これに思いを込められない? 私と幽子さんを何年も見てくれた鈴蘭だよ」
テーブルに乗る、冬で何も咲いていない植木鉢を見る。買ったとき小さかったそれは鈴蘭の株が増えて、何回か植え替えして今はかなり大きいものになっている。
その日、幽子さんはテーブルの前に座って、植木鉢を一晩中撫でていた。
何日か経ったある日、仕事から帰るとパソコンに文字が打たれていた。
うえきばちをげんかんのそとにだしてみて
文字を読んで、幽子さんが試そうとしているのが分かった。植木鉢を持って玄関に行き、声を掛ける。
「外、出るからね」
幽子さんは頷いて姿を消す。どうか、うまくいきますように。
植木鉢を玄関の外に置いて様子を見る。
その横に、幽子さんが姿を現した。
──出来た!
外に連れ出せた喜びと、幽子さんが外にいる光景の異常さに思わず声が出そうになる。
……幽子さんが異常そのものだったっけ。慣れちゃってたな。
幽子さんも笑顔で周りをキョロキョロ見回している。出れたことを喜んでいるみたい。
これで、幽子さんも一緒に引っ越せる。取り壊し通知を受け取って暗くなっていた未来が突然明るくなった。
居ても立ってもいられず万歳した瞬間、隣のドアが開いた。出てきた人と目が合う。
慌てて会釈をして、恥ずかしさを隠しながら、植木鉢を持って部屋に戻った。
翌日、不動産屋に連絡して物件を紹介してもらった。
良さそうなものを見つけて詳しく聞いてみると、職場を挟んで今のアパートの反対側、上司の住まいの近くだった。
上司にお願いして、今のアパートから新居まで無事に歩けるルートを探してもらった。
引っ越し当日は私が植木鉢を持って運ぶ。引っ越しのトラックに載せて割られたら絶対大泣きするから。
その日に向けて、私は準備を始めた。
植木鉢を大事に抱えて歩く姿は、怪しくはなくても物珍しい姿のはず。
なので、可愛く見える風呂敷を買ってきて包むことにした。
植木鉢に新聞紙を当ててから、瓶を包むやり方の応用で風呂敷で包む。
出来上がったのを見て満足しました。すごく可愛らしい風呂敷包み!
……やったのは全部幽子さんだけど。
なんでそんなこと知ってるの?
こんな包み方若い人は知らないと思うけど。
……そういえば幽霊って、自分の好きな姿でいられるって聞いた気がする。幽子さん若く見えるけど実はお婆ちゃ………ごめんなさいもう言わないから睨まないで。
運ぶ方法はできた。次は距離の確認だ。
植木鉢、というか鈴蘭に宿ったなら部屋から離れても大丈夫だと思うけど、念には念を入れておきたい。
休日、上司にお願いして付き添ってもらい、アパートから少し離れた公園まで歩く。植木鉢と、会話するためのおはじきを持って。
途中、犬を散歩させている人と出会った。
……犬にメチャメチャ吠えられた。私、というか私が抱えるものの気配に感づいてるみたい。
飼い主がリードをしっかり握ってくれてて良かった。私に飛び掛かる勢いでリードがピンと張っている。
っていうか、シーズーが吠えまくるのって初めて見た。すごく大人しいイメージしかないんだけどな。
そう思っていると、上司が一人で飼い主に近づいて話しかけた。
少し距離を置いて待っていると上司が戻ってきた。
話し掛けた飼い主だけでなく、他に見かける犬は居ないか、犬の散歩で通らない道はあるかを聞いてたらしい。
ありがとうございます。本当に、よく気付く人ですね。
人のいない公園に着いて、ベンチに腰を下ろす。
おはじきと『はい/いいえ』が書かれた紙を横に置く。
「幽子さん、アパートからだいぶ離れたけど大丈夫?」
おはじきが『はい』に動いてくれた。
良かった、問題なさそう。あとは私の引っ越し準備に取り掛かるだけだ。
荷造り作業は大変だけど、一緒に引っ越してくれる人がいる。胸に安心が漂うのを感じながら視線を上げた。
公園の桜の木に蕾が増え始めている。
そして膝に乗せた植木鉢は、緑の芽がいくつか顔を出していた。まだ小さくて、花の気配はない。
もう春がそこまで来ているのを感じる。
──新しい生活を迎えるために、頑張ろう。
上司と一緒に立ち上がり、またアパートへ歩き出した。
▼
引っ越し当日。
荷物を積んだトラックを見送った後、玄関に立つ。
植木鉢をしっかりと胸に抱きしめて。
「いよいよ本番。……頑張るからね」
幽子さんは頷いたあと、姿を消した。
玄関を出ると、上司が外で待っていてくれた。二人でゆっくりと歩き始める。アパートの階段、歩道、小さな段差、上司がずっと私の足元を気にしながら歩いてくれた。
事前に上司が歩くルートを探してくれたおかげで、犬の散歩に出くわすことはなかった。何処にいるのか分からない雀の鳴き声をずっと聞きながら歩いて、無事に新居に到着することができた。
新居前に停まるトラックを見つけて、数分待って欲しいとドライバーに伝える。逸る気持ちを抑えて慎重に部屋へ入り、ベランダ近くに植木鉢を置く。
「幽子さん。出てこれる?」
何も起きない、静かな時間が過ぎる。
やっぱりダメだったとか勘弁して欲しい。急に湧き上がった不安に押しつぶされそうになって──
幽子さんが植木鉢の横に姿を見せてくれた。
「早く出てきてよ! もう、すごく、すごく……怖かったんだから!」
零れる涙をそのままに、幽子さんに文句を言う。
幽子さんは何も言わず、静かに微笑んでくれた。
荷物の搬入を済ませたらもう一度出掛けるんだからね。
今年は幽子さんと、桜の木の下でお花見するから!
幽子さんと出会って十年。初めてのイベントに心が躍っていた。
▼
▼
▼
「……、……懐かしいなぁ」
夢を見ていたらしい。
上手く引っ越しできて、幽子さんに守られながら過ごした日々。
何十年も前の、懐かしい思い出。
結婚はできたけど、子供を授かることはなかった。
「子供はいないが、あの職場が僕とキミの子供みたいなものだ」
夫は優しく言ってくれるが、申し訳ないとも思ってしまう。
そんな私とは逆に、幽子さんが宿った鈴蘭は元気に育ってくれた。引っ越し先で仲良くなった人に鈴蘭を株分けして渡すくらいに。
隣の家が火事になったとき、私の部屋は燃えなかった。消火活動の水浸しにもならなかった。それは、鈴蘭をお裾分けした部屋も同様に。
幽子さんに守ってもらってたんだと思う。私も、私が住む部屋も。
でも流石に、私の身体の中までは守ってもらえなかった。病気が判明して入院することになった。
静かな病室。夫はトイレに行ったのか傍にいなかった。ベッドの横に置いてある鈴蘭の鉢植えを見る。
病室に鉢植えは良くないし、そもそも毒草を置くのはダメかもだけど、頼み込んで置かせてもらった。
毎年春に可愛く咲いてくれた鈴蘭。でもここ数年は元気がない気がする。もしかしたら私と一緒に枯れるのかもしれない。
幽子さんが鈴蘭の隣に姿を現してくれた。昼間に姿を見せてくれるなんて珍しいな。
「……そんな悲しそうな顔、しないで。全然、寂しくないよ。……もう少ししたら、幽子さんの声が、聞けるんだから……」
幽子さんが困ったような表情で、少しだけ笑顔を見せてくれる。
急に増してきた胸元の痛みに堪えながら、笑顔を返す。
幽子さん。
貴女と出会えて、
夫にも良くしてもらって。
──私、すごく幸せだよ。
静かに、目を閉じた。
本作はこれで完結となります。
お付き合いいただいてありがとうございました。
好みが分かれそう、蛇足かもしれない、そう思いながらも、私がどうしても切り捨てられないルートを書かせていただきました。
3月は別れの季節。中には引っ越しと共に新生活の準備を始めて、新しい出会いの季節を迎える人もいると思います。
皆さんに、良い出会いが訪れますように。




