遺した言葉
ピピピピ! ピピピピ! ピピ………
目覚まし時計のアラームを止めてベッドから起き上がる。時間は5時を表示していた。
まだ頭が冴えないが身体はいつものように動いて、何も考えないまま洗面所で顔を洗う。
終電で1時に帰宅、5時に起きて出勤する毎日。こんなただ寝るだけの部屋キライ。何も考えたくない。
6時。身支度を終えて玄関を出る。鍵を締めて振り返ると、向かいのアパートのベランダが見えた。晴れた日の朝は雀がベランダの手すりで必ず日向ぼっこする。ふくらんだ羽が、暖かそうだった。
いいなあ。
あんなふうに、何も考えずに日向ぼっこしたい。
少しだけでいいから、ゆっくり休みたい。
私も雀になりたい。
ベランダの雀から視線を外して歩き出そうとしたとき、足元がふらついた。
ん?
不思議に思った直後、突然胸元に激しい痛みが走った。息が出来ず、立っていられない。
倒れた音に驚いて雀が飛び立ったのか、鳴き声が遠ざかっていった。
驚かせてごめんね……
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気が付くと、足下に女性が倒れていた。なんだか見覚えのある服装をしている。あ、私か。
そっか、私、死んだのか。
倒れている私の身体を見ても、仕事から解放されたことしか感じなかった。
その後、通りかかった人に見つけられて病院へ。実家へ運ばれて、葬式があって、焼かれて、墓に入った。
仕事に行かなくてもよくなって、でも何をしたらいいか分からない。
そうだ。あの部屋に行きたい。あの部屋で雀と一緒に日向ぼっこしたい。
そう思った瞬間、私はあの部屋に居た。
▼
その部屋には人が住んでたけど、私が住んで数日したら引っ越した。良かった。人が居ると雀が怖がるから。
その後、何度も住人が入れ替わった。
お坊さんが来てお経を唱えられたこともあった。私の方じゃない、あさっての方を向いてムニャムニャ言ってた。あれはなんて言ってたんだろう。
玄関に貼られたお札は気味が悪いから近づかない。
部屋に誰も来なくなってだいぶ経った頃、新しい住人が引っ越してきた。どうせまた怖がって引っ越すんだから、早く出ていって。
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新しい住人がなかなか出ていかない。怖がってる感じはするのに……
ならもっと怖がらせなきゃいけない。でも何をすればいいか……パソコンは触ったことないから分からないけど、キーボードを触ってみよう。
……何で打った文字と違う文字が出るの?
もしかして壊しちゃった?
まぁ、意味不明な文字が残ってたら怖がるかもしれないから良しとしよう。
二日続けて文字を残したら帰ってこなくなった。よし、居場所が守れた。この部屋は私のものなんだから。
……と思ったら帰ってきた。
ヤバい、なんかメチャメチャ怒ってる。怒ってる人は苦手だ。生きてた時、何を言っても怒られるから喋るのが嫌になったのを思い出して泣きそうになる。
そう思いながら彼女を見ていたら──
喋ってないのに怒られました。
胸の大きさで怒られたのは初めてだ。なりたくてなったんじゃないのに。
適度な大きさの方が可愛い下着いっぱいあるしジロジロ見られることもないし仰向けで眠っても息苦しくないし。
……そう、貴女くらいの体型がよかったな。もう怒られたくないから隠れよう……。
次の日、謝られました。
怒った人が謝ることってあるんだ……。
雀を見るのを邪魔されないならいいけど、お水と鈴蘭をお供えされた。この部屋に住んでずっと邪魔者扱いされたけど、こういう扱いは初めて。どうすればいいか分からない。
……でも、鈴蘭可愛いなぁ。お水もなんだか気持ちが良いし。
って、お菓子も貰いました! 最後に貰ったのはお葬式のときだった。何年ぶりだろう。嬉しくて身体が動いちゃう。
……喜んでたのを見られてた。恥ずかしい……
おはじきで気持ちを伝えることが出来るようになった。
……うぅん、違う。彼女が私の気持ちを読み取ろうとしてくれてる。
物を動かすのは疲れるけど少し休めば平気。動かしてあげたい。だって……
捻くれた置き方をすると彼女が頭を捻ってるのが面白い。なんか、楽しいから。
……名前を聞かれた。
彼女もそのうち引っ越すだろうし、仲良くなったら、そのとき悲しくなる。それに──
私は幽霊だし、生きてる人と深く関わるのは良くないかもしれない。
そう思って忘れたって答えたら、呼び名を貰った。
良かった。それで呼んでくれるなら、私じゃない私で彼女と関われるから。
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パソコンで会話するようになって、初めてお願いした。
……餌付けすれば長く雀が見れるはず。きっとダメって言われるから要点だけを書いた。
笑顔で返事してくれたのになかなか買ってきてくれない。コンビニですぐ買えそうなのになんでだろう。
何日かしてようやく買ってきてくれた。持ってる荷物は少な目、特注のパンって意味も分からないけど。
その彼女が鞄から取り出したのは……ハンコ。
話し言葉で『判が欲しい』なんて言わ……なくもないかもだけど、そんな解釈の仕方ってある!?
これは、良くないことをお願いした罰?
それとも濁点の打ち方を覚えなかった罰?
ちゃんと教えてもらった方がいいかもしれない。
せっかく作ってくれたハンコを紙の隅っこに押してみた。
私の仮初めの名前が紙に残るのって、なんだか変な感じ。むず痒いようなこれは何なんだろう……。
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羽織を貰った。
まるでいつか見た桜のような色だ。
飲み物や食べ物はお葬式でももらった。でも……今の私のために服をもらったことはなかった。
鏡に映らなくて見れなかった。けど、優しい色が似合うと言われたのも、その色を彼女が選んでくれたことも嬉しくて。……もう絶対、脱がないんだから!
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玄関で大きな音がして見てみると、彼女が男に襲われていた。
生きてる人と関わりすぎちゃいけない。見てない振りをしようとして──
気付いたらフライパンを握っていた。
泣き叫ぶ彼女を見たくなくて。
いつも私に話しかけてくれる彼女を、助けたくて。
座り込んだ彼女を抱きしめる。
ごめんね。もっと早く助けられたのに。そんな作り笑顔をしなくてもいいように出来たのに。
私は、何がしたいんだろう……
分からない。
ただ、彼女を見ていると胸が痛かった。
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彼女の職場の人が来た。
真面目そうで、優しそうな人。
彼女のことを本当に心配しているのが分かった。彼女を守ってくれる人がいるなら安心する。
助けて欲しい。彼女がちゃんと笑えるように……。
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彼女が一枚の紙を持ってきた。
難しい顔をして、何度もそれを読み返して、私に内容を教えてくれた。
……取り壊しのお知らせ。
このアパートは、近いうちに壊されるらしい。
そうなんだ。
この暮らしが、終わるのか。
この部屋の雀が見たくて始まった日々も、終わる。
この部屋がなくなったら私はどうなるのか、
……分からない。
彼女はその紙を握りしめて言った。
「一緒に引っ越そう」
嬉しくて泣きそうだった。今までずっと邪魔者扱いされてきた私と一緒に過ごしたいと言ってくれた。でも──
私は幽霊だ。
生きている人と、一緒にいることは出来ない。
生きている人は、生きている人同士でいるべき。私は、そこには入れない。ここでずっと雀を見ていればいいんだ。
おはじきを動かして私の気持ちを伝える。その答えを見て、彼女が更に言葉をくれる。嬉しくて、そして、とても辛い言葉を。
耐えられずに姿を消した。
最初から分かっていたことなのに。
……胸の奥が、重かった。
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それからも彼女と過ごした。
平凡な日も、季節を感じる日も。
これまでと違うのは、彼女の作り笑顔が増えたこと。
それと、胸の奥が、日を追うごとに重くなったこと……。
▼
まだ暑さが残る9月、部屋に段ボールが増えて、物が少しずつ減っていった。
彼女は荷造りしながらいつも私に話しかけてくれた。
今日の仕事のこと。
コンビニで見つけた新しいお菓子のこと。
そして、一緒に引っ越して欲しいという気持ちを。
毎日少しずつ片付いて、部屋が元の姿に戻っていく。
今まで引っ越してきた人を何人も追い出しては、この場所を守れたことを喜んでいた。
なのに今は。
荷物を収めた段ボールが増えて、それに合わせて胸の奥の重みも増していく。
部屋が少しずつ広くなるのを、寂しく感じる。
ベランダの手すりに雀が来ても、穏やかな気持ちで眺めていられなかった。
私の気持ちを映しているのか、彼女は暗い顔で荷造りをしていた。それを見るのが辛くて、朝しか姿を見せないようにした。
そのまま、引っ越しの前日になった。
彼女が部屋の電気を消して布団に横になる。
ベッドは既に解体してある。少しでも一緒にいたいと思ってくれているのか、私のテーブルの傍に布団を敷いている。
パソコンの前に座ってキーボードに触れる。今まで何度も彼女と会話した、冷たいけど暖かいキーの感触。
私は、思いつくままに文字を打った。
ありがとう。
嬉しかったこと。
一緒に過ごした時間。
雀のこと。
お水のこと。
鈴蘭のこと。
お菓子のこと。
そして──
羽織のこと。
キーボードの文字と画面に表示される文字が違うから、確かめながらキーを押す。
彼女が鼻をすする音が聞こえる。
別れを悲しんでくれている。その気持ちが嬉しくて、申し訳なくて……。
生きてるときに、彼女と出会いたかった。
なんで私は死んでしまったのか。生きていても、彼女と会えたかはわからない。言葉を交わしたかもわからない。
──死んだから会えた
本当は、直接言えたらよかった。
声を出して。ちゃんと。
でも、話すのは苦手だし。
ごめんなさい。
気がつくと画面は文字でいっぱいになっていて、遠くの空が明るくなり始めていた。
朝日が昇って、新しい一日が始まる。
雀が飛んできてベランダの手すりにとまる。いつもの朝を迎えるために窓際に座った。
今日、彼女が部屋を出ていく。寂しいけど笑顔で見送らないと、彼女を辛くさせる。
彼女が身体を起こすのが横目に見えた。
これから飛び立っていく彼女が愛おしく思えて、頑張って彼女に微笑む。
……もうだめ。
泣いちゃうから、消えよう。
気持ちをやり取りしたパソコンも、おはじきも、箱に入れられた。もう思いを伝えられないと思ったら悲しくなって……目に付いた物に、思いを込めた。
──伝えたい、最後の言葉を。
名残惜しそうに何度も振り返ってる。……飛び立つまで見送れなくてごめんなさい。ちゃんと見てるから許して欲しい。
鍵を締める音が聞こえた。
彼女は行ってしまった。ベランダにいた雀も飛び立っている。
窓から差し込む光だけが、部屋に残った。
以前はずっと望んでいた『私だけ』の部屋。前と同じ状況になっただけなのに、胸に残ったのは空っぽの何か。
彼女と過ごした日々は私にとって何だったのか。私はどうすれば良かったのか。
何もない部屋で立ち尽くしたまま迎えた、取り壊しの日。
壁が壊され、天井が崩れ、この部屋は少しずつ形を失っていく。
どうしてこの部屋なんだろう。
壊されるなら、向かいのアパートでもよかったのに。
その日のうちに私の居場所だった部屋は壊された。
それでも私は、この場所に居続けた。
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▼
▼
アパートがあった場所は駐車場になり、私はその隅に立っていた。
電線にとまる1羽の雀を見る。ベランダに来ていた雀だろうか、鳴き方が似ている気がする。
その雀も、前みたいに日向ぼっこはしない。すぐ飛び立ってしまう。
車のない駐車場に、陽射しだけが変わらず降りていた。
自分が何をしたいのか分からない。そう思いながら、日々が過ぎた。
何日も経ったある日。彼女が来てくれた。あの男性と一緒に。
会いたい。姿を見せて、彼女の喜ぶ顔が見たい。でも、会えば彼女をここに縛ってしまう。だから……会えない。
彼女があの部屋でやってくれたように、またお水をお供えしてくれた。私が穏やかに過ごすことを願ってくれた。なら、私も前に進まないといけない。
──彼女のために。
気づくと光の粒が振り注いでいた。見上げた夜空には、柔らかく光る道のようなものが見える。
身体も彼女からもらった羽織も、光の粒が触れたところから光っていく。
ありがとう。私に楽しい思い出をくれて、本当に、ありがとう。
貴女が幸せに過ごすのを、私も願ってるからね。
振り注ぐ光が増す中、男性と手を繋いで遠ざかっていく彼女を見る。
見えなくなるまで、ずっとその背中を見ていた。




