居るのに
おはじきが止まったのは『いいえ』。この部屋から動かないらしい。
「この場所なくなるんだよ! 幽子さんの居場所もなくなっちゃう! ……ねぇ、一緒に引っ越そう?」
おはじきを中央に戻しても動かしてはくれず、幽子さんは姿を消した。
翌朝起きると、パソコンの画面に文字が残されていた。
この場所そのものが、存在理由。
それがなくなるなら、どうなってもいい。
──それが、彼女の気持ちだった。
上司も一度だけ来て話をした。けれど、答えは変わらない。上司も静かに頷いた。
「彼女の気持ちが最優先だ。押し付けてはいけない」
やるせない気持ちを抱えたまま、毎日が過ぎていく。
今年も雪の積もる街並みを一緒に見て、雪解けとともに冬が終わった。
春はベランダから桜を一緒に見て、暖かい風に押されながら過ぎていった。
新しく買った浴衣と下駄で一緒に花火を見て、遅れて届く音を聞いて、鮮やかな花火が消えるとともに、夏も終わった。
確実に近づいてくる別れに胸を締め付けられながら、楽しいのに楽しめない思い出を沢山残して。
9月になり、新居の手続きと引っ越しの日にちを決め、荷造りの作業を始めた。最近は朝しか姿を見せてくれなくなり……いよいよ退去の前日になった。
荷造りは殆ど終わり、部屋に置いている家具は彼女とやり取りするためのテーブルとパソコン。その前に敷いた私の布団だけ。
本当は寝ないでずっと会話したい。でも、荷物の搬出と搬入を明日一日で済ませなければいけないので寝不足になる訳にはいかない。
布団に入って電気を消した途端に鳴り始めるキーボードの音。私はその音を、布団の中で泣きながら聞いた。
会話を始めた頃は遅かったキーボードの入力も、今では打つのが早くなった。
一晩中鳴り続けたキーボードの音。結局一睡も出来ず……外が明るくなり始めた頃、その音も鳴り止んだ。
カーテンを外した窓から差し込む朝日に、瞼を閉じる視界も明るくなる。部屋が朝日に照らされ、雀の鳴き声がベランダから聞こえてきた。
目を開けて窓の方を見ると、幽子さんはベランダで日向ぼっこし始めた雀を見ていた。私の視線に気付いてこちらに顔を向けると──
優しい眼差しで微笑んで、ベランダの雀が飛び立つのを見届ける前に、朝日に溶けるように消えた。
布団から出てパソコンの画面を見るとアルファベットや記号の羅列で埋め尽くされていた。昨夜敢えてローマ字入力のままにしておいたからだ。すぐ読みたいけど、読み始めたらきっと荷物の搬出が間に合わなくなる。メモ画面を保存して、念のためスマホでも画面の写真を撮って、パソコンの電源を落とした。
引っ越し業者へ荷物の引き渡しが終わり、玄関で靴を履いて振り返る。
ここに住んで十年。嫌なこともあったけど楽しいことがいっぱいだった部屋は、今は何もなく、静かだった。
一呼吸して、深くお辞儀をする。
「長い間、お世話になりました。幽子さんのおかげで、すごく楽しく過ごせました。どうか元気で……って変だけど、元気でいてね」
一瞬だけ、部屋の空気が震えた気がした。
部屋は静かなまま。幽子さんの声は一度も聞いたことがなかった。でもきっと幽子さんの思いはパソコンの中に残されている。新居に移ったらゆっくり読み解こう。
「ありがとうね。……っ………行ってきます!」
玄関を出て扉を閉める。鍵を差し込もうとして、躊躇してしまった。今まで何度もやってきたその行為がまるで──
幽子さんをこの部屋に閉じ込めるように思えて。
ゆっくり鍵を差し込んで、目を瞑りながら捻る。
カチャリ
聞こえたのは、この部屋に長く住んだ思い入れの強さとは真逆の、軽い音。このあと全ての部屋の住人が退去したら、人が住んでいないこの建物は取り壊される。
──居るのに。
生きている人と、そうではない存在。その境界を思い知らされて、我慢していた涙が頬を伝った。
▼
不動産屋の前まで来たものの、中に入ることが出来なかった。涙が治まったら入ろうと思っているのに、なかなか止まってくれない。
ハンカチで目元を拭いているとお店の中から男が出てきた。
「誰かと思ったら貴女でしたか。中へどうぞ、客なんていませんから」
男に促されて店内のカウンターに座らされる。退去に必要な手続きは既に終わっていてあとは鍵を渡すだけなのに、男はお茶を入れてくれた。
二年毎の更新の度に『同居人』のことを話していたので、私が泣いている理由も分かっているのだろう。
「あの部屋に10年も過ごしていただいて、ありがとうございました。落ち着いたらまた、いつものように話を聞かせてください」
一口飲んだお茶と一緒に喉の奥の熱かったものがようやく下がってくれて、私は少しずつ話し始めた。
彼女と過ごした日々のことを。
話し終わり、部屋の鍵を入れた封筒を男に差し出す。男が封筒を持ち上げたとき、封筒の裏側に何かで引っ掻いたような跡が見えた。男が私の視線に気づいて封筒をひっくり返して眺めた後、鉛筆を手にとって軽くこすり始める。
薄く黒で塗り潰された封筒から浮かび上がってきたのは、文字だった。
ありかとう
……あぁ。
これ、幽子さんだ。
「……もう、紙に遺すなら……濁点も、書いてよ……」
男から渡された封筒を持って、文字を指でなぞる。
涙で少し滲んだその文字に彼女の儚い姿が重なって、私は、涙を止められなかった。
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あのアパートが取り壊されて半年。取り壊しを見たくなくて来ることが出来なかった。ようやく向き合う気持ちになって来てみると景色はすっかり変わっていて、駐車場になっていた。まだ契約者がいないのか、車は1台も停まっていない。
時間は20時。付き添ってくれた上司と一緒に駐車場に入り、部屋のベランダがあった辺りに立った。
「幽子さん」
久し振りに名前を呼んでみたものの返事はなく、出てきてもくれない。
幽霊が居なくなる理由は、成仏するか、どこかへ行ってしまうか。それくらいしか私は知らない。
幽子さんはあの部屋に縛られていたから他の場所には移れないはず。今ここにいないということは成仏出来たんだろうか。もしそうならいいけど。
……でも、やっぱり、会えないのは寂しい。
駐車場の隅に立って、鞄からペットボトルの水を取り出して地面に置く。
お水のお供えは『気にかけている』ことを伝える意味もあったはずだから。
「幽子さんが穏やかに過ごしていることを、心から願っています」
独り言のように呟いた声は独り言そのものだった。聞いてくれた人は、もう居ない。
夜の寒空の下、彼女が最後に見せてくれた笑顔を思い出しながら、私は静かに手を合わせた。
駐車場を出て、上司と手を繋いで自宅に戻る。その帰り道、音もなく吹いた風が頬を撫でる。
3月になったばかりの時期に吹いたそれは、まるで桜の季節を思い出すような、暖かい風だった。
本編は終わりですが、作品はもう少しだけ続きます。
画像はChatGPTで生成しました。




