ライアン
「……は?」
一瞬、何を言われたのか理解できなかった。
そして次の瞬間には、自分の間抜けさに腹が立った。
リアが王子と婚約した。
よく考えれば分かることだ。
いや、考えるまでもない。
ブランベル公爵家の令嬢なのだから。
王族との婚約話が出ても何も不思議ではない。
それなのに……
「どうしてもっと早く捕まえておかなかったんだ……」
思わず額を押さえる。
今さら言っても仕方がない。
分かっている。
分かっているのだが、そう思わずにはいられなかった。
リアに初めて会ったのは七歳の頃だった。
レイモンドの後ろに隠れるようにして立っていた小さな少女。
大きな瞳でこちらを見上げていた姿を、今でも覚えている。
とても可愛らしかった。
レイモンドは従妹のことをひどく可愛がっていたが、あいつは昔から落ち着きがなかった。
木に登る。
池に落ちる。
勝手に走り回る。
見ているこっちが冷や冷やする。
だからいつも、気づけばリアの方を見ていた。
レイモンドに振り回されて。
怒って。
笑って。
時には泣いて。
ころころと表情を変える彼女を。
そして気づいた時には——恋をしていた。
◇◇◇
「アリアー!」
大きく両手を広げながら、レイモンドが勢いよく駆け寄ってくる。
「レイ兄様っ——」
次の瞬間、ぎゅうっと強く抱きしめられた。
「会いたかったぞ!」
「ちょ、ちょっと……!」
困ったように笑うアリアの横で、ライアンが呆れたように小さく息を吐く。
「……もうその辺にしておけ」
そう言って、レイモンドを引き剥がした。
「なんだよライアン、減るもんじゃないだろ」
「リアが困ってる」
「困ってないよな?」
突然話を振られたアリアは、思わずくすくすと笑ってしまう。
変わらない。
昔からずっと、こんな風だった。
風が優しく吹き抜ける。
その瞬間、不意に幼い頃の記憶が脳裏を過った。
◇◇◇
「レイ兄様! 危ないです!」
丘の上の大きな木。
その枝の上で、レイモンドは楽しそうに木の棒を振り回していた。
「大丈夫だって!」
騎士に憧れていた彼は、昔からこういう遊びが好きだった。
「とうっ!」
勢いよく振り下ろした瞬間。
「あ」
棒が手から抜ける。
真っ直ぐアリアの方へ落ちてきた。
反応するより先に、ぐっと腕を引かれる。
次の瞬間、棒はすぐ横へ落ちて転がった。
「……危ないな」
静かな声。
見上げると、ライアンが呆れたように息を吐いていた。
「ご、ごめんなさいライアン」
「リアが謝ることじゃないよ」
そのまま視線だけを木の上へ向ける。
「レイモンド、少しは周りを見ろ」
「悪い悪い!」
全く反省していない声が返ってくる。
アリアは思わずくすくす笑った。
「もう、レイ兄様ったら」
その呼び方に、ライアンがほんの少しだけ視線を逸らす。
けれどアリアは気づかない。
風が吹き抜け、丘の上に三人の笑い声が広がっていた。
◇◇◇
夜会が開かれるその日。
支度を終えたアリアが玄関ホールへ降りると、ライアンとフィデルが待っていた。
フィデルはアリアの姿を見ると、穏やかに微笑む。
「アリア様、本日もお綺麗です」
「ありがとう、フィデル」
アリアが微笑むと、フィデルも満足そうに頷いた。
その様子を見ていたライアンが小さく眉をひそめる。
「フィデル」
「はい?」
「余計なことは言うな」
フィデルはきょとんとした顔をした。
「褒めただけですが」
アリアは思わずくすりと笑う。
そんな二人のやり取りを見ながら、三人は夜会会場へ向かった。
煌びやかなシャンデリアが輝く広間。
音楽と談笑の声が穏やかに響いている。
以前なら緊張していたはずの場所だった。
けれど今のアリアは自然と微笑むことができていた。
「これはアリア嬢」
聞き覚えのある声に振り返る。
そこに立っていたのは、この国の宰相だった。
「宰相様、お久しぶりです」
「久しぶりだね、アリア嬢」
穏やかに微笑む宰相に、アリアも笑みを返した。
「君が来てくれて嬉しいよ」
「ありがとうございます」
しばらく談笑した後、宰相はふとライアンへ視線を向ける。
「しかし驚いたな」
「何がですか」
「お前、一人で夜会に参加していた時とはまるで違うな」
ライアンは嫌な予感しかしなかった。
宰相の目が完全に面白がっている。
だからこそ、先に話を切り上げることにした。
「宰相様」
「うん?」
「向こうで何人かお待ちのようですよ」
ライアンは広間の一角へ視線を向ける。
確かに数人の貴族がこちらを気にしていた。
だが宰相は一瞥しただけだった。
「そうだな」
それから意味ありげな笑みを浮かべる。
そして何かを思い出したように言った。
「そういえば明日だったな」
「宰相」
ライアンの声が低くなる。
宰相は肩を竦めた。
「失礼」
そう言いながらも全く反省した様子はない。
「では私は退散するとしよう」
最後に意味深な笑みを残し、宰相は人混みの中へ消えていった。
残されたアリアは不思議そうにライアンを見上げる。
「明日、何かあるのですか?」
ライアンは数秒黙り込んだ後、小さくため息をついた。
「……気にしなくていい」
そう答えるしかなかった。
その夜。
執務室には書類が並んでいた。
だがライアンの視線はほとんど文字を追っていない。
フィデルは向かい側からそんな様子を眺めていた。
「珍しいですね」
「何がだ」
「落ち着きがありません」
ライアンは無言だった。
フィデルは楽しそうに続ける。
「明日ですね」
ライアンがゆっくり顔を上げる。
「フィデル」
「はい」
「黙れ」
フィデルは肩を竦めた。
「失礼しました」
そう言いながらも、口元には笑みが浮かんでいた。
窓の外には静かな月明かり。
◇◇◇
そして翌日。
雲ひとつない青空が広がっていた。
晴れた日の午後。
ライアンとアリアは、青い花畑の中を並んで歩いていた。
丘の上へ辿り着くと、二人は並んで腰を下ろす。
風に揺れる花々。
どこまでも広がる青。
穏やかな時間が流れていた。
「リア」
名前を呼ばれ、アリアは隣を見る。
ライアンは花畑を見つめながら、小さく笑った。
「懐かしいな」
風が髪を揺らす。
「昔、よくここで遊んだだろう」
アリアも静かに頷く。
「ええ」
「あの頃は……」
ライアンは少し目を細めた。
「ずっとこの時間が続くんだと思っていた」
その声音に、アリアはゆっくりと顔を上げる。
ライアンは少しだけ苦笑した。
「だから、リアの婚約を知った時は後悔した」
真っ直ぐな視線。
もう逸らさない。
「もっと早く伝えれば良かったって」
アリアの胸が小さく震える。
ライアンは静かに息を吸った。
そして。
「……リア」
その名を呼ぶ声は、どこまでも優しかった。
「君のことがずっと好きだった」
ライアンは懐から小さな箱を取り出す。
青い花々の中で、指輪が静かに輝いた。
「僕と結婚してほしい」
一瞬、アリアは目を見開いた。
けれどすぐに、胸の奥から込み上げてくるものを感じる。
嬉しい。
ずっと待っていた言葉だった。
思わず笑みが零れそうになり、慌てて引き締める。
それでも完全には隠しきれなかった。
「……遅いです」
そう言った声は、どこか弾んでいた。
ライアンは困ったように笑う。
「……わかってる」
その返事に、アリアはとうとう小さく笑い声を漏らした。
そして差し出された指輪へ視線を落とす。
「でも……」
ゆっくりと顔を上げる。
「待っていました」
穏やかな笑顔だった。
ライアンの表情が柔らかく緩む。
優しい風が二人の間を吹き抜けた。
指輪を受け取ったアリアの手を見つめ、ライアンは静かに立ち上がる。
「そろそろ行こう」
そう言って手を差し出した。
アリアはその手を取る。
二人は並んで歩き出した。
青い花々が風に揺れる。
その先に続く未来は、きっと穏やかで温かなものになるだろう。
二人は手を繋いだまま、ゆっくりと歩いていった。




