幸せの消失
◇
そこに居たのは意外な人物だった。
「き……今日子?」
今日子が立ち竦んでいた。
「何やってるんですか? 店長」
きっと、あの後追いかけて来て、一部始終を見ていたのだろう。
俺が蝶を手当たり次第食う様を。
狂ったと思われても当然だ。
さあ、今日子、警察を呼んでくれ。
俺を、あの女から救い出してくれ。
だが今日子は、自分のポケットからハンカチを取り出すと黒い鱗粉まみれになっている俺の口を優しく拭い出した。
「私じゃ心の支えになりませんか?店長……いえ、真人さん」
何を言ってる?俺のやっていた事を見ただろう?
蝶を食ってたんだ。
尋常じゃないさ。
狂ってる。
「俺は、誰かに支えて貰う資格なんてないんだよ」
「そんなのに資格なんて必要ないでしょう?」
今日子は、俺を抱き締めた。
暖かい。
俺が一番欲しかったのはこのぬくもりだったんだと今更気が付いた。
父が居なくなってから
母が壊れてしまってから、ずっとこのぬくもりを求め続けて来た。
金なんかじゃ買えない。それは分かっている。
やがて今日子の唇が触れ、舌が視力の無い生き物のように俺の口の中を這い回る。
顎を伝う唾液は俺のだろうか?今日子のだろうか?
いままでの葛藤が溶けて行きそうな熱を持つ粘膜の心地良さに身をゆだね、手は何かを探しているようにお互いの躰をせわしなくまさぐる。
……ふいに今日子の舌の動きが止まった。
それと同時に、口の中へおびただしい量の液体がなだれ込んで来た。
何が何だか分からないまま窒息しそうになり、慌てて唇を離して今日子を見ると、まばたきをせずにこちらを凝視している。
だが彼女が見ているのは俺ではない。
正しくは“何も見ていない”。
今日子は、血を吐いて絶命している。崩れ落ちると、背は握り拳大の孔が穿たれ、ねっとりとした赤黒い血が流れ出ていた。
そして夜羽がその背後で素手で心臓を握り潰したと言わんばかりに、夜羽の指の先から手首と肘の丁度中間あたりまでを紅い絹の手袋でも着けているように血に染めていた。
「また私を裏切る気なのね。義人さん」
義人……?
夜羽は今日子の亡骸を蹴り飛ばすと、俺にすがりついて来た。
「折角あなたに会う為に悪魔に魂まで売ったのに」
何を言ってる?
何故父の名を出す?
悪魔?
これは……
これは夜羽ではない。夜羽だ。
死んで、身体を夜羽にくれてやった筈の夜羽だ。
「俺は義人じゃない!義人は……父は死んだんだ!」
「嘘ばっかり!いつもあなたは私から逃げる為に嘘をつくのね」
夜羽の指が俺の首に絡みつき、女とは思えない物凄い力で締め上げる。
殺す気なんだ。俺を。
いや、父を。
息が出来ない。払いのけようにも、身体が思う様に動かない。
死ぬのか俺は?
……それもいいかもしれない。
どうせ人の命を奪って汚れた俺など、生きている資格は無いんだ。
どんなに足掻いても幸せは来ないんだ。
こんな、どうしようもない人生、終わってしまえばいいんだ。
……どれ程の時間が経ったのだろう?
気が付くと黒い蝶が飛んでいた。
ここは天国……?そんな筈はないな。
俺は間違いなく地獄へ堕ちるだろうから。
夜羽はどうしたのだろう?
見回すと織江が佇んでいる。
そしてその足元には夜羽が横たわっていた。
「申し訳ございません。夜羽様の留守中に夜羽が勝手に動き出したようで」
相変わらず無表情だ。真っ白い筈のエプロンが真っ赤に染まっているところを見ると、織江が夜羽に何か制裁を加えた事が見てとれた。
「留守……?夜羽の身体はそこにあるじゃないか?それとも魂だけが何処かへ行ってるって事か?」
「その通りでございます」
織江は夜羽の身体を軽々と持ち上げ、温室を出て行った。
華奢なくせに、随分と力がある。
あの人間ではない女は数日後には何事も無かったように俺の前に以前と変わらぬ姿を現すのだろう。
夜羽の未練が、記憶が、ほんの少し宿っているその死体を借りて生きる悪魔。
……朽ちる事の無い生きている死体。
死体を喰って羽化した蝶を食う死体。
ふと見ると、今日子の亡骸の匂いを嗅ぎ付けて、あの緑の悪食な幼虫が這い出して来た。
また白い蝶が羽化するのか。
夜羽の機嫌が悪くなる。




