白い蝶の記憶
◇
翌日、店を開ける気分になれない俺は、真っ直ぐ温室に向かった。
朝靄の中、温室の扉の前に夜羽が腕を組み仁王立ちしているのが見えた。
なかなか“仕事”にとりかからない俺に腹を立てているのかと思ったが、そうではないらしい。
「ちょっと、これはどういう事?」
夜羽が温室の中を指差す。
覗いて見たが、いつも通りだ。
植物の状態も良い。
だがひとつだけ違う。
黒い蝶に混じって、何か別のものが舞っているのだ。
三匹程混じっていた……それは、白い蝶。
朝の陽を浴びて、翅は螺鈿のように虹色に煌めく。
何て美しいのだろう。
「何て事を、あなた、“善人”の死体を食べさせたのね?」
夜羽の小言など、俺の耳には入って来ない。
俺は、白い蝶をそっと捕まえると、何の迷いもなく口に入れた。
舌にまとわり付く鱗粉でさえも、粉砂糖の様に甘く感じられる。
俺は美佳ちゃんの魂を、記憶を、味わった。
美佳ちゃんの“苦しさ”“悔しさ”“悲しさ”が伝わって来た。
それは切ない痛みと共に俺の脳に記憶の光景を映し出した。
――――――――――
高校生活にも慣れて来た五月の半ばに“それ”は始まった。
最初は嫌味や悪態程度で済んでいた。
―きっとこの子は何か悩み事や家庭での問題を抱えているんだ。私をからかって憂さが晴れるなら、我慢しよう―
優しい美佳ちゃんはそう思った。
しかし“相手”はそんな美佳ちゃんの優しさにつけ込んで来た。
いや、正確に言うと、優しさに嫉妬したのだ。
“相手”はクラス全員を自分の味方にし、美佳ちゃんを蔑んだ。
挨拶は返って来ない。
中学からの友達さえ“相手”に付いた。
美佳ちゃんがそれが“苛め”だと言う事に気付いた時にはもう、教師さえも“相手”の味方になっていた。
カバンや靴が無くなるなど日常茶飯事だ。
それどころか、クラスの誰かが無くし物をすると、必ず美佳ちゃんのせいにされた。
“万引きした”“援交してる”根も葉も無い噂を流して美佳ちゃんを苦しめる。
それでも美佳ちゃんは耐えた。
「ゼラニュウムの花が咲くまでは耐えよう」と。
しかし、そうしてゼラニュウムの蕾が綻びかけたある日、美佳ちゃんに母親が凄い剣幕で詰め寄る。
「美佳!あなた万引きや援交をしてるんですって?」
何て事だ……
否、なんて親だ。
―お母さんは私がそんな事をするような子じゃないって信じてくれないの?―
「あなたのクラスの永井裕美さんと言う人がね、神妙な顔をして教えてくれたわ“美佳ちゃんが心配”だって。あんな良い友達が居るのに、何だってあなたは世間に顔向け出来ない事ばかりするの?」
え……?永井裕美?
美佳ちゃんの記憶の映像に出てくる彼女は魔女のような形相をしているので気が付かなかった。
そう言われてみると、確かに美佳ちゃんを苛めている“相手”は夜羽に見せて貰った写真の娘だ。
何が“良い友達”だ。ふざけるな。
親すら自分の味方にはなってくれない悲しさ。
美佳ちゃんは雑居ビルの屋上に上がり、そこから生まれ育った町並みを眺め、心の中で、全てのものにさよならを言うと、空へ、ひらりと飛んだ。
――――――――――
頬を涙が伝う。
ごめん、美佳ちゃん。
助けてあげられなくて。
「今夜、“餌”を狩ってくる」
俺がそう言うと、夜羽は紅い唇の端を上げて微笑んだ。
成る程、永井裕美が“餌”に選ばれたのは、そういう訳か。




