クロードさんに書かせてみたら
これはAIさんに書いてもらった、実験的なものです。
薔薇は石畳にも咲く
第一章 王宮の夜明け
暁の鐘が鳴るよりも早く、リンネアはすでに財務執務室の燭台に火を灯していた。
王都アルバレアの中心に聳えるクロスライン王宮——その東翼の奥、石造りの廊下が幾重にも折れ曲がった先にある財務執務室は、夜半には人の気配もない静謐な空間だった。だがリンネアにとって、その時間こそが最も深く物事を考えられる刻だった。羽根ペンが羊皮紙の上を走る音だけが室内に響き、石造りの窓の外では夜の霧がゆっくりと晴れていくのが見えた。
リンネア・セイヴァル。二十と十二の歳。王宮財務局の首席書記官補という肩書きを持ちながら、その実態は局内の要を担う存在だった。領地の収穫高の算定から、隣国との交渉資料の作成、来期の軍備費の試算まで、机の上に積まれた仕事の九割は彼女の手によるものだった。
それでも、正式な「首席書記官」の地位は、三年前から空席のままになっていた。
あるいは——正確に言えば——埋まっているが、埋めているのが別の人物だということだ。
タルヴィス卿。王宮財務局の首席書記官にして、王宮の実力者として知られる男。五十路に差し掛かろうという年齢でありながら、要領の良さと立ち回りの巧みさだけで地位を保ってきた。彼が実際に羽根ペンを取って書類を作ったのは、いつのことだったか。リンネアは思い出せなかった。
「土台で構わぬ。後は儂が整える」
それがタルヴィス卿の口癖だった。そしてその「土台」は、いつもリンネアが作り、「整えた」ものとしてタルヴィス卿の名前で国王陛下の御前に提出された。
わかっている。全てわかっている。
それでも、仕事そのものは面白かった。少なくとも、一年前までは。
朝の礼拝の鐘が鳴り終わる頃、執務室に他の書記官たちが出仕してきた。
「おはようございます」
リンネアが顔を上げて挨拶すると、同僚のエルウィン嬢が曖昧な微笑みを浮かべながら通り過ぎた。年若い書記見習いのシリアスが「あ、おはようございます」と目を逸らした。タルヴィス卿は自室へ向かう途中でリンネアの机の前を通り過ぎたが、一瞥しただけで言葉もなく消えた。
これが、毎朝の光景だった。
リンネア・セイヴァル。三年前、王宮に出仕した当初は、仕事の難しさに胸が躍った。複雑な案件ほど燃えた。誰かが行き詰まった算術があれば、気づけば手を貸していた。深夜まで燭台の前に座ることも厭わなかった。その甲斐あって、三年目には財務局の実質的な柱となっていた。
だが、何かが見えてきたのは——ちょうど三年目の後半のことだった。
年末の人事査定の結果を、タルヴィス卿から受け取った日のことを、リンネアは今でも鮮明に覚えている。
「並」
その一言が、羊皮紙の上に書かれていた。標準の評価だ。リンネアが一年かけてまとめた来期の王国経営計画は、国王陛下の御前で高い評価を受け、隣国三か国との同盟交渉を有利に動かした。だがその功績は「財務局一丸となっての成果」と記録され、リンネア個人への褒賞には結びつかなかった。代わりに、タルヴィス卿への恩賞が手厚くなっていた。
翌年も同じだった。その次の年も。
何度か直訴した。「私が作った仕事が、なぜ私の評価にならないのですか」とタルヴィス卿に問うたこともある。タルヴィス卿は涼しい顔で言った。
「局内の和が肝要というものよ。誰の手柄だのという話を始めれば、室内の空気が乱れる」
王宮の宮内長官に相談した時は、「タルヴィス卿のご判断を尊重いたします」の一言で終わった。
リンネアは学んだ。この王宮では、仕事ができることと、仕事を評価されることは、全く別のことだということを。
問題が起きたのは、霜月の第二週のことだった。
隣国グレイフォード公国との新規通商条約の交渉。リンネアが三ヶ月かけて準備した提案書が、最終の使節団派遣の前日になって白紙に戻された。
「リンネア殿の案は、些か冒険が過ぎるとのお話になりましてな」
タルヴィス卿は、まるで夕餉の献立でも変えるような口調で言った。「上のお考えで、もっと穏当な提案にせよとのことです。シリアスの作ったものでいくことに致しました」
後輩のシリアスが作った提案書を、リンネアはその場で見せてもらった。自分が作ったものの劣化版だった。数字の根拠が甘く、グレイフォード公国が求めているものを捉えきれていない。これで先方の全権大使が納得するとは思えなかった。
「タルヴィス卿、この提案では先方の全権大使殿が求めている関税面の根拠が弱うございます。グレイフォード側は——」
「わかっておる、わかっておる。しかし、これでいく」
リンネアは唇を噛んだ。言いたいことは山ほどある。しかし言っても無駄だということも、もうわかっていた。
三日後、使節団は戻ってきた。交渉は不調に終わった。グレイフォード公国の全権大使・ハルトは「もう少し具体的な数字を示せ」と難色を示し、その場での合意には至らなかった。
タルヴィス卿はその夜、財務局の書記官たちを集めてこう言った。
「今回の結果は残念であった。一致団結して、次の機会に向けて励んでまいろう」
リンネアへの言葉は、何もなかった。
第二章 王宮の石廊下
転機は、その三日後に訪れた。
リンネアが夜半まで書類を改稿していると、衛兵から知らせが届いた。
「財務局のリンネア・セイヴァル殿でいらっしゃいますか。グレイフォード公国の御使いがお見えでございます」
リンネアは首を傾げながら謁見の間の脇にある応接室へ向かった。
そこに立っていたのは、見知らぬ人物だった。
三十代半ばといったところだろうか。旅塵を払った黒い外套を纏い、貴族のような過剰な飾りはない。しかし、その佇まいには、場所に圧されない静かな威厳があった。背が高く、落ち着いた灰色の目をしていた。
「リンネア・セイヴァル殿でいらっしゃいますか」
男は、丁寧に一礼した。
「はじめてお目にかかります。グレイフォード公国の全権大使、ハルト・エヴァンスと申します。先日の交渉の件で、直接お話し申し上げたいことがあり、参りました」
リンネアは驚いた。全権大使が夜に王宮まで出向いてくる?
「大使殿自ら、このような刻限に——」
「王都でもう一件、用件がありましたので。少しだけお時間をいただけますか」
燭台を挟んで向かい合うと、ハルトは静かに口を開いた。
「先日の交渉の場で、タルヴィス卿がこうおっしゃっておられました。『当初、より精緻な提案もあったが、わかりやすくまとめた』と。それが引っかかりまして」
ハルトは、皮袋から折り畳まれた羊皮紙を取り出してテーブルに置いた。
「我が国の者が、王宮に出入りする商人から入手したものです。写しだと思われますが——これは、リンネア殿がお作りになった提案書ではございませんか」
それは、リンネアが三ヶ月かけて作り、没にされた提案書だった。
リンネアは、ハルトの顔を見た。
ハルトの灰色の目は、糾弾するような色をしていなかった。ただ静かに、リンネアの返答を待っていた。
「……さようでございます」
リンネアは、低い声で言った。「私が作りました」
「やはり」
ハルトは、深く息を吐いた。それは呆れた息ではなく、何かが腑に落ちたような、静かな吐息だった。
「私どもが求めておりましたのは、まさにこういうものです。関税削減の根拠となる算定の精度、長期での国益回収の見通し——これが出てくるはずだと思っておりました。それがなぜ違う書面でお越しになったのか、不思議でなりませんでした」
「王宮内部の判断で……」
「事情はお察しいたします」
ハルトは、リンネアの言葉を遮るでもなく、ただ穏やかにそう言った。
「単刀直入に申し上げます。リンネア殿、今の王宮をお離れになるお気持ちはございますか」
リンネアは、一瞬、思考が止まった。
「……は?」
「我が国に来ていただけますか」
ハルト・エヴァンス、三十七歳。グレイフォード公国の全権大使にして、公国財務改革の旗振り役だった。
リンネアが後から知ったことだが、ハルトは五年前に公爵陛下から直々に財務改革を命じられた人物で、前職は王立学院で経済学を教えていた。外交の場にあっても、彼は常に数字の精度と誠実さを重んじることで知られていた。
「我が公国は、大国の宮廷のようなお仕事の仕方はできません。しかし今、財務改革の要となる者が必要で、リンネア殿のような方を探しておりました」
「しかし私は……グレイフォード公国の内情には疎うございます」
「必要なのは国の事情より、物事の本質を見抜く力と、実行する胆力です。それは、この書面一枚を拝見すればわかります」
ハルトは、リンネアが作った提案書をそっと指で叩いた。
「あなたは既に、我が公国が抱えている問題の核心を、外からこれほど正確に捉えておられる。内に入れば、もっとできます」
リンネアは黙っていた。
王宮を出る。考えたことがなかったわけではない。しかし「仕事が好き」という気持ちが、この王宮への残り滓のような執着と絡まって、踏み出せずにいた。
「……少し、考えさせてください」
「もちろんでございます」
ハルトは封蝋入りの書状を差し出した。それは過剰な飾りのない、質素な紙だった。ただ、渡し方が丁寧だった。両手で、リンネアの目を見て、渡した。
当たり前のことのはずなのに、リンネアは少しだけ、胸が揺れた。
第三章 嵐の前の静けさ
翌週、王宮でひとつの事件が起きた。
グレイフォード公国との再交渉の機会が設けられることになり、今度はリンネアが直接担当するよう、タルヴィス卿が命じた。先方から「前回とは別の者で」という意向が伝えられたらしく、タルヴィス卿としては渋々の決断だったのだろう。
「リンネア、次のグレイフォードとの対応はそなたがやれ。ただし書面の内容は事前に儂に確認を取ること」
「承知いたしました」
リンネアは淡々と答えた。
三週間後、リンネアはグレイフォード公国の応接間で、ハルトの前に改訂版の提案書を持って座った。ハルトの傍らには、公国の主立った官僚たちが並んでいた。
会談は、二刻をかけて行われた。
リンネアは、算定のひとつひとつを丁寧に説明した。前回の提案からの改訂点を示し、グレイフォード側から事前に届いた懸念事項に対して、根拠を持って答えた。
途中、ハルトがいくつか問いを挟んだ。それは試すような問いではなく、リンネアの説明をさらに深めるような問いかけだった。リンネアは準備していた数字で応えた。
会談の終わりに、大筋での合意に至った。
条約規模は、五か年にわたる関税の相互引き下げと人的交流の拡大。クロスライン王国にとっては、その期最大の外交成果となる。
タルヴィス卿は報告を受けて満足そうに笑い、「儂が適切な場面でリンネアを投入したゆえの成果よ」と財務局で語っていたと、後にエルウィン嬢が教えてくれた。
リンネアは、その話を聞いても、もう何も感じなかった。
霜月のある夜、リンネアはハルトに使いを送った。
「先日のお話、お受けしたく存じます」
返書は、その日のうちに届いた。
「かたじけなく存じます。お待ちしておりました」
たった二行だったが、リンネアはそれを三度読んだ。
第四章 王宮を出る日
年が明けた如月の末、リンネアは辞意の書状をタルヴィス卿に提出した。
タルヴィス卿は最初、慰留した。
「グレイフォードの件も良くやった。今後はもっと重要な仕事を任せようと考えておったのだ」
「ありがたきお言葉です」
「して、移る先は?」
「グレイフォード公国でございます」
タルヴィス卿の顔から、笑みが消えた。
「……さようか」
それだけだった。
最終出仕の日、リンネアは暁の鐘が鳴る前に執務室へ来た。いつも通り燭台に火を灯し、炉に薪をくべた。
荷物は少なかった。引き出しの中のノートと、窓辺に置いていた小さな鉢植えの薬草だけ。
昼頃、エルウィン嬢がリンネアの傍に来た。
「……正直に申します。私はずっと、あなたがいてくださることに甘えておりました。申し訳ございません」
リンネアは、少し笑った。
「エルウィン様の仕事の仕方は好きでしたよ。細かな帳簿の記録、いつも読みやすかった」
エルウィン嬢は、泣きそうな顔で「ありがとう」と言った。
弥生の初め、リンネアはグレイフォード公国の財務改革室に着任した。
初日、ハルトが執務棟の主たる部屋へ案内してくれた。
窓から見える景色は、クロスライン王宮の高い尖塔から見下ろすものより少し低かったけれど、なぜか広く見えた。
「わからぬことだらけかと存じますが、焦る必要はございません」
ハルトは、そう言った。上官が部下に命じるような口調ではなく、同じ仕事に取り組む人間として語りかけるような声だった。
「私がここで求めているものは、あなたがすでにお持ちのものです。それを、存分に使っていただきたい」
「……はい」
「一つ、尋ねてもよろしいですか」
「なんでございましょう」
「なぜ、あの夜、わざわざ私を迎えに来てくださったのですか」
ハルトは少し考えてから、答えた。
「あなたが作られた書面を見た瞬間、わかったのです。この方は、見えていると」
「見えている?」
「問題の本質が見えている。数字の向こうにある構造が見えている。そういう方は、場所が合っていないだけで、静かに消えていく。それは、惜しいと思いました」
惜しい。
リンネアはその言葉を、静かに受け取った。
今まで誰にも言われたことのない言葉だった。「よくやった」でも「励め」でもなく——惜しい、と。
その言葉が、ずっと胸の奥に引っかかっていたものの名前をつけてくれたような気がした。
第五章 薔薇は石畳にも咲く
夏になると、グレイフォード公国の財務改革室が手掛けた物資調達の見直しが最初の成果を出した。
リンネアが担当したのは、公国内五拠点の仕入れ先の整理と、調達手続きの統一化だ。三ヶ月で、年間のコストを六分の一以上削減するという結果を出した。
公国の幹部が集まる報告の場で、ハルトはリンネアを「このたびの改革の要」として正式に紹介し、その場で来年の昇格を口頭で告げた。
「リンネア殿の働きが、このたびの成果の核心でした」
ハルトは、人前でそう言った。
リンネアは、心臓が少し速くなるのを感じた。
誰かに、自分の仕事が「自分のもの」として認められる——それがこれほど久しぶりの感覚だということを、その時初めて気づいた。
一方、クロスライン王宮のその後は、遠くからでも少しずつ聞こえてきた。
春になって条約の継続交渉の時期となり、グレイフォード側から「リンネア殿に引き続き担当していただきたい」という意向が届いたという。もちろんリンネアはもういない。タルヴィス卿はシリアスを後任に立てたが、ハルトは折衝にほとんど顔を出さず、担当者レベルのやり取りになった。
夏になると、条約は「現状維持」で更新されたものの、新たな拡大条項は盛り込まれなかったとエルウィン嬢の文でわかった。
同じ夏、財務局の年度計画の作成が大幅に遅れ、国王陛下への提出期限を三週間も過ぎたという。タルヴィス卿が「土台で構わぬ」と書記官たちに命じても、誰もリンネアのようなものを作れなかった。
エルウィン嬢の文には、こう書いてあった。
「あなたが去られてから、タルヴィス卿様が初めて、あなたが毎年何をなさっていたかに気づかれたようです。遅すぎますね」
リンネアは「そうですね」とだけ返した。
怒りは、もうなかった。
ただ少しだけ、寂しかった。自分が三年間かけて積み上げたものが、認められないまま終わったことへの、静かな哀愁のようなもの。
しかし、それよりずっと大きく、今の自分の仕事が、楽しかった。
秋のある夕暮れ、リンネアはハルトと二人で残業をしていた。
書類の最終確認をしながら、ハルトがふとつぶやいた。
「リンネア殿は、なぜ前の王宮でそこまで励むことができたのですか。評価されないとわかっていても」
リンネアは少し考えた。
「……仕事が好きだったのだと思います。認めてもらえなくても、作ったものが誰かの役に立てば、それで十分と思っていた時期がありました」
「過去のお話ですか」
「それだけでは、やはり続かないのだと、途中でわかりました。人というものは、認めてもらいたいのですね」
「当たり前のことですよ」
「でも、そう思うことが、何か負けのような気がして」
ハルトは少し間を置いてから、静かに言った。
「認めてもらいたいという気持ちは、負けではありません。それは、自分の仕事に誇りを持っているということです。誇りある仕事だから、見てほしいと思う。それは真っ当なことです」
リンネアは、ハルトの横顔を見た。
この方は、いつも真っ当なことを言う。
特別なことは何も言わない。ただ、当たり前のことを、当たり前だと言ってくれる。それがリンネアには、ずっとなかったものだった。
「……ハルト様は、なぜ私を迎えに来てくださったのですか。本当の理由を」
「本当の、とは?」
「先ほどのは、仕事のお話ですよね。でも夜に王宮まで出向いて、直々にお声がけをなさったのは、仕事の論理だけではないような気がして」
ハルトは、ほんの少しだけ笑った。
リンネアがここに来て初めて見る、砕けた笑顔だった。
「……正直に申し上げると、あなたの書面を見た時に、怒りを覚えたのです」
「怒り、ですか」
「これほどのものを作れる方が、なぜ表に出てこないのか。なぜ黙っておられるのか。他人のことながら、悔しかった」
窓の外に、秋のグレイフォードの灯りが広がっていた。石畳の道に、金色の落ち葉が舞っていた。
「悔しかった」
リンネアはその言葉を、静かに繰り返した。
「……私のことを、悔しいと思ってくださった方が、いたのですね」
「はい」
それだけだった。
しかしリンネアは、その二言葉で、ずっと凍りついていた何かが、静かに溶けていくのを感じた。
終章 薔薇は石畳にも咲く
霜月。
グレイフォード公国の財務改革室は、新たな事業を立ち上げた。公国全域の物流を統合する、これまでにない規模の改革だ。リンネアは、その事業の責任者として正式に任命された。
辞令を受け取った夜、リンネアはひとりで燭台の前に座り、しばらく何も考えずにいた。
静かだった。
三年間の焦りや、悔しさや、認められない痛みが、遠い場所へ去ってしまったような静けさだった。
使いの者が書状を届けに来た。ハルトからだった。
「おめでとうございます」
短い一言だったが、その後に続きがあった。
「来月、少しお話し申し上げたいことがございます。仕事とは別の話を」
リンネアは、その書状をしばらく見つめた。
石造りの窓の外に、冬の初雪が、静かに降り始めていた。
胸の奥が、じわりと温かくなった。
「謹んでお受けいたします」
と、返書を認めた。
薔薇は、咲く場所を選ばない。
石畳の隙間にも、荒れた城壁の陰にも、根を張れる場所さえあれば、花は開く。
リンネアはそれを、二十と十二の冬に、ようやく知った。
◇◇◇
以下、つっこみありバージョンです。
お読みになりたい方だけ、どうぞ。
薔薇は石畳にも咲く
[<あー、もう、読みたくなくなった。挫けて、すみません。題名まで考えてくれるのはありがたい。が。採用はしないだろうなー。]
第一章 王宮の夜明け
暁の鐘が鳴るよりも早く、リンネアはすでに財務執務室の燭台に火を灯していた。
王都アルバレアの中心に聳えるクロスライン王宮——その東翼の奥、石造りの廊下が幾重にも折れ曲がった先にある財務執務室は、夜半には人の気配もない静謐な空間だった。
[<財務執務室。そんな不便なところにあったら、あかんと思う。不正、癒着防止か?]
だがリンネアにとって、その時間こそが最も深く物事を考えられる刻だった。
[<人のいる環境で仕事できない人は、あかんと思う。]
羽根ペンが羊皮紙の上を走る音だけが室内に響き、石造りの窓の外では夜の霧がゆっくりと晴れていくのが見えた。
リンネア・セイヴァル。二十と十二の歳。
[<って何歳? 三十二歳? てか、なんでこんな表現にしようとした?]
王宮財務局の首席書記官補という肩書きを持ちながら、その実態は局内の要を担う存在だった。
[<首・席・書記官補なんだから、役職的に要じゃなかったら、まずいだろう?]
領地の収穫高の算定から、隣国との交渉資料の作成、来期の軍備費の試算まで、机の上に積まれた仕事の九割は彼女の手によるものだった。
[<自分の机に積まれた仕事は、普通、自分の仕事です。自分のじゃなければ、本来の責任者のところに書類を回せ。そういうところだぞ。]
それでも、正式な「首席書記官」の地位は、三年前から空席のままになっていた。
あるいは——正確に言えば——埋まっているが、埋めているのが別の人物だということだ。
[<前後の文章から推察するに、意味不明。]
タルヴィス卿。王宮財務局の首席書記官にして、王宮の実力者として知られる男。
[<ええ!? 空席って言ったじゃん!?]
五十路に差し掛かろうという年齢でありながら、要領の良さと立ち回りの巧みさだけで地位を保ってきた。彼が実際に羽根ペンを取って書類を作ったのは、いつのことだったか。リンネアは思い出せなかった。
[<部署のトップなら書類作成はせず、判断のみをするは悪いことじゃないと思いますが。]
「土台で構わぬ。後は儂が整える」
[<出ました。整える。]
それがタルヴィス卿の口癖だった。そしてその「土台」は、いつもリンネアが作り、「整えた」ものとしてタルヴィス卿の名前で国王陛下の御前に提出された。
わかっている。全てわかっている。
[<何が? 自分がないがしろにされてること? ちゃんと主語は書こうよ。だから、曖昧になる。]
それでも、仕事そのものは面白かった。少なくとも、一年前までは。
朝の礼拝の鐘が鳴り終わる頃、執務室に他の書記官たちが出仕してきた。
「おはようございます」
リンネアが顔を上げて挨拶すると、同僚のエルウィン嬢が曖昧な微笑みを浮かべながら通り過ぎた。年若い書記見習いのシリアスが「あ、おはようございます」と目を逸らした。
[<部下からも慕われない首席書記官補って……?]
タルヴィス卿は自室へ向かう途中でリンネアの机の前を通り過ぎたが、一瞥しただけで言葉もなく消えた。
これが、毎朝の光景だった。
リンネア・セイヴァル。三年前、王宮に出仕した当初は、仕事の難しさに胸が躍った。複雑な案件ほど燃えた。誰かが行き詰まった算術があれば、気づけば手を貸していた。深夜まで燭台の前に座ることも厭わなかった。その甲斐あって、三年目には財務局の実質的な柱となっていた。
[<実質的な柱なのに、書類の一次審査とかする立場だろうに。ここまでして、部下から慕われないって……?]
だが、何かが見えてきたのは——ちょうど三年目の後半のことだった。
[<だから、何かって何? 察してね、で書かれるから、ふんわり曖昧になる。]
年末の人事査定の結果を、タルヴィス卿から受け取った日のことを、リンネアは今でも鮮明に覚えている。
「並」
その一言が、羊皮紙の上に書かれていた。標準の評価だ。リンネアが一年かけてまとめた来期の王国経営計画は、国王陛下の御前で高い評価を受け、隣国三か国との同盟交渉を有利に動かした。
[<それは財務局の仕事ではないのでは?]
だがその功績は「財務局一丸となっての成果」と記録され、リンネア個人への褒賞には結びつかなかった。代わりに、タルヴィス卿への恩賞が手厚くなっていた。
[<そりゃ職務上のことなんだから、個人への報賞はないでしょう。最終判断は、局長だし。個人プレーへの対価を求めるから、部下に嫌われるのでは?]
翌年も同じだった。その次の年も。
何度か直訴した。「私が作った仕事が、なぜ私の評価にならないのですか」とタルヴィス卿に問うたこともある。タルヴィス卿は涼しい顔で言った。
「局内の和が肝要というものよ。誰の手柄だのという話を始めれば、室内の空気が乱れる」
王宮の宮内長官に相談した時は、「タルヴィス卿のご判断を尊重いたします」の一言で終わった。
リンネアは学んだ。この王宮では、仕事ができることと、仕事を評価されることは、全く別のことだということを。
[<不満なら、なぜ王に直接上申しないの?]
問題が起きたのは、霜月の第二週のことだった。
隣国グレイフォード公国との新規通商条約の交渉。リンネアが三ヶ月かけて準備した提案書が、最終の使節団派遣の前日になって白紙に戻された。
「リンネア殿の案は、些か冒険が過ぎるとのお話になりましてな」
タルヴィス卿は、まるで夕餉の献立でも変えるような口調で言った。「上のお考えで、もっと穏当な提案にせよとのことです。シリアスの作ったものでいくことに致しました」
後輩のシリアスが作った提案書を、リンネアはその場で見せてもらった。自分が作ったものの劣化版だった。数字の根拠が甘く、グレイフォード公国が求めているものを捉えきれていない。これで先方の全権大使が納得するとは思えなかった。
「タルヴィス卿、この提案では先方の全権大使殿が求めている関税面の根拠が弱うございます。グレイフォード側は——」
「わかっておる、わかっておる。しかし、これでいく」
リンネアは唇を噛んだ。言いたいことは山ほどある。しかし言っても無駄だということも、もうわかっていた。
[<こんな重要案件、財務局長だけの判断じゃないよね?]
三日後、使節団は戻ってきた。交渉は不調に終わった。グレイフォード公国の全権大使・ハルトは「もう少し具体的な数字を示せ」と難色を示し、その場での合意には至らなかった。
タルヴィス卿はその夜、財務局の書記官たちを集めてこう言った。
「今回の結果は残念であった。一致団結して、次の機会に向けて励んでまいろう」
リンネアへの言葉は、何もなかった。
[<……構ってちゃん? しごできなら、次にむけて何が必要か、どんな数字を揃えたらいいのか、上申&相談せん?]
第二章 王宮の石廊下
転機は、その三日後に訪れた。
リンネアが夜半まで書類を改稿していると、衛兵から知らせが届いた。
「財務局のリンネア・セイヴァル殿でいらっしゃいますか。グレイフォード公国の御使いがお見えでございます」
リンネアは首を傾げながら謁見の間の脇にある応接室へ向かった。
[<いやいや。交渉決裂した相手国の使者が一介の官吏に面会って。国の中枢にあげる案件だろう。そもそも王宮に入場できていることがおかしいし、のこのこ一人で行くって、どうなの?]
そこに立っていたのは、見知らぬ人物だった。
三十代半ばといったところだろうか。旅塵を払った黒い外套を纏い、貴族のような過剰な飾りはない。しかし、その佇まいには、場所に圧されない静かな威厳があった。背が高く、落ち着いた灰色の目をしていた。
「リンネア・セイヴァル殿でいらっしゃいますか」
男は、丁寧に一礼した。
「はじめてお目にかかります。グレイフォード公国の全権大使、ハルト・エヴァンスと申します。先日の交渉の件で、直接お話し申し上げたいことがあり、参りました」
リンネアは驚いた。全権大使が夜に王宮まで出向いてくる?
「大使殿自ら、このような刻限に——」
[<クロードさんには報連相の発想がないのか? ……ないのか。]
「王都でもう一件、用件がありましたので。少しだけお時間をいただけますか」
燭台を挟んで向かい合うと、ハルトは静かに口を開いた。
「先日の交渉の場で、タルヴィス卿がこうおっしゃっておられました。『当初、より精緻な提案もあったが、わかりやすくまとめた』と。それが引っかかりまして」
ハルトは、皮袋から折り畳まれた羊皮紙を取り出してテーブルに置いた。
「我が国の者が、王宮に出入りする商人から入手したものです。写しだと思われますが——これは、リンネア殿がお作りになった提案書ではございませんか」
それは、リンネアが三ヶ月かけて作り、没にされた提案書だった。
[<ぎゃあ! 国の重要文書が一介の商人に手に渡り、相手国に情報漏洩している件! それに顔色を変えない官吏も怖すぎる!]
リンネアは、ハルトの顔を見た。
ハルトの灰色の目は、糾弾するような色をしていなかった。ただ静かに、リンネアの返答を待っていた。
「……さようでございます」
リンネアは、低い声で言った。「私が作りました」
[<認めちゃうんだ!?]
「やはり」
ハルトは、深く息を吐いた。それは呆れた息ではなく、何かが腑に落ちたような、静かな吐息だった。
「私どもが求めておりましたのは、まさにこういうものです。関税削減の根拠となる算定の精度、長期での国益回収の見通し——これが出てくるはずだと思っておりました。それがなぜ違う書面でお越しになったのか、不思議でなりませんでした」
「王宮内部の判断で……」
[<情報漏洩ぇぇ!]
「事情はお察しいたします」
ハルトは、リンネアの言葉を遮るでもなく、ただ穏やかにそう言った。
「単刀直入に申し上げます。リンネア殿、今の王宮をお離れになるお気持ちはございますか」
リンネアは、一瞬、思考が止まった。
「……は?」
「我が国に来ていただけますか」
[<他国の王宮で現任官吏に、他国の大使が国替えを勧めている件。完全に敵対行為。戦争したいんです?]
ハルト・エヴァンス、三十七歳。グレイフォード公国の全権大使にして、公国財務改革の旗振り役だった。
リンネアが後から知ったことだが、ハルトは五年前に公爵陛下から直々に財務改革を命じられた人物で、前職は王立学院で経済学を教えていた。外交の場にあっても、彼は常に数字の精度と誠実さを重んじることで知られていた。
「我が公国は、大国の宮廷のようなお仕事の仕方はできません。しかし今、財務改革の要となる者が必要で、リンネア殿のような方を探しておりました」
「しかし私は……グレイフォード公国の内情には疎うございます」
[<そうじゃない! そんな話は聞けません、と突っぱねるところでしょうが! 国を裏切ったと言われて断罪されても、おかくない案件でしょう!? だから、そういうところだぞ!]
「必要なのは国の事情より、物事の本質を見抜く力と、実行する胆力です。それは、この書面一枚を拝見すればわかります」
ハルトは、リンネアが作った提案書をそっと指で叩いた。
「あなたは既に、我が公国が抱えている問題の核心を、外からこれほど正確に捉えておられる。内に入れば、もっとできます」
リンネアは黙っていた。
王宮を出る。考えたことがなかったわけではない。しかし「仕事が好き」という気持ちが、この王宮への残り滓のような執着と絡まって、踏み出せずにいた。
「……少し、考えさせてください」
[<保留にした時点で、ギルティ。]
「もちろんでございます」
ハルトは封蝋入りの書状を差し出した。それは過剰な飾りのない、質素な紙だった。ただ、渡し方が丁寧だった。両手で、リンネアの目を見て、渡した。
当たり前のことのはずなのに、リンネアは少しだけ、胸が揺れた。
[<出ました。感情になりきれない、曖昧表現。]
第三章 嵐の前の静けさ
翌週、王宮でひとつの事件が起きた。
[<文書流出の件を上にあげない時点で、事件だよ……。ほんとに報連相しないな。]
グレイフォード公国との再交渉の機会が設けられることになり、今度はリンネアが直接担当するよう、タルヴィス卿が命じた。先方から「前回とは別の者で」という意向が伝えられたらしく、タルヴィス卿としては渋々の決断だったのだろう。
「リンネア、次のグレイフォードとの対応はそなたがやれ。ただし書面の内容は事前に儂に確認を取ること」
「承知いたしました」
リンネアは淡々と答えた。
三週間後、リンネアはグレイフォード公国の応接間で、ハルトの前に改訂版の提案書を持って座った。ハルトの傍らには、公国の主立った官僚たちが並んでいた。
会談は、二刻をかけて行われた。
リンネアは、算定のひとつひとつを丁寧に説明した。前回の提案からの改訂点を示し、グレイフォード側から事前に届いた懸念事項に対して、根拠を持って答えた。
途中、ハルトがいくつか問いを挟んだ。それは試すような問いではなく、リンネアの説明をさらに深めるような問いかけだった。リンネアは準備していた数字で応えた。
会談の終わりに、大筋での合意に至った。
[<外務局とか宰相とか、王族とかの空気感よ……。]
条約規模は、五か年にわたる関税の相互引き下げと人的交流の拡大。クロスライン王国にとっては、その期最大の外交成果となる。
[<条約規模って何? 内容じゃなくて?]
タルヴィス卿は報告を受けて満足そうに笑い、「儂が適切な場面でリンネアを投入したゆえの成果よ」と財務局で語っていたと、後にエルウィン嬢が教えてくれた。
リンネアは、その話を聞いても、もう何も感じなかった。
霜月のある夜、リンネアはハルトに使いを送った。
「先日のお話、お受けしたく存じます」
[<うわあああ! 裏切り者がここにいるよ!]
返書は、その日のうちに届いた。
「かたじけなく存じます。お待ちしておりました」
たった二行だったが、リンネアはそれを三度読んだ。
[<二行。三度。クロードさんの口癖。]
第四章 王宮を出る日
年が明けた如月の末、リンネアは辞意の書状をタルヴィス卿に提出した。
タルヴィス卿は最初、慰留した。
「グレイフォードの件も良くやった。今後はもっと重要な仕事を任せようと考えておったのだ」
「ありがたきお言葉です」
「して、移る先は?」
「グレイフォード公国でございます」
タルヴィス卿の顔から、笑みが消えた。
「……さようか」
それだけだった。
最終出仕の日、リンネアは暁の鐘が鳴る前に執務室へ来た。いつも通り燭台に火を灯し、炉に薪をくべた。
荷物は少なかった。引き出しの中のノートと、窓辺に置いていた小さな鉢植えの薬草だけ。
[<えっと、そのノート、仕事上のものじゃないよね? ね?]
昼頃、エルウィン嬢がリンネアの傍に来た。
「……正直に申します。私はずっと、あなたがいてくださることに甘えておりました。申し訳ございません」
リンネアは、少し笑った。
「エルウィン様の仕事の仕方は好きでしたよ。細かな帳簿の記録、いつも読みやすかった」
エルウィン嬢は、泣きそうな顔で「ありがとう」と言った。
弥生の初め、リンネアはグレイフォード公国の財務改革室に着任した。
[<弥生ですか。そうですか。]
初日、ハルトが執務棟の主たる部屋へ案内してくれた。
窓から見える景色は、クロスライン王宮の高い尖塔から見下ろすものより少し低かったけれど、なぜか広く見えた。
[<出ました。感情になりきれない、曖昧表現(2回目)。]
「わからぬことだらけかと存じますが、焦る必要はございません」
ハルトは、そう言った。上官が部下に命じるような口調ではなく、同じ仕事に取り組む人間として語りかけるような声だった。
「私がここで求めているものは、あなたがすでにお持ちのものです。それを、存分に使っていただきたい」
「……はい」
「一つ、尋ねてもよろしいですか」
[<下を読むまで誰の発言か誤解する。]
「なんでございましょう」
「なぜ、あの夜、わざわざ私を迎えに来てくださったのですか」
ハルトは少し考えてから、答えた。
「あなたが作られた書面を見た瞬間、わかったのです。この方は、見えていると」
[<いただきました。見えている。]
「見えている?」
「問題の本質が見えている。数字の向こうにある構造が見えている。そういう方は、場所が合っていないだけで、静かに消えていく。それは、惜しいと思いました」
[<出ました。静か。]
惜しい。
リンネアはその言葉を、静かに受け取った。
[<もう、つっこまなくて、いい?]
今まで誰にも言われたことのない言葉だった。「よくやった」でも「励め」でもなく——惜しい、と。
その言葉が、ずっと胸の奥に引っかかっていたものの名前をつけてくれたような気がした。
[<出ました。感情になりきれない、曖昧表現(3回目)。]
第五章 薔薇は石畳にも咲く
夏になると、グレイフォード公国の財務改革室が手掛けた物資調達の見直しが最初の成果を出した。
リンネアが担当したのは、公国内五拠点の仕入れ先の整理と、調達手続きの統一化だ。三ヶ月で、年間のコストを六分の一以上削減するという結果を出した。
[<また、三ヶ月? AIさん界隈には、成果は三ヶ月で出さないといけないというルールでも?]
公国の幹部が集まる報告の場で、ハルトはリンネアを「このたびの改革の要」として正式に紹介し、その場で来年の昇格を口頭で告げた。
「リンネア殿の働きが、このたびの成果の核心でした」
ハルトは、人前でそう言った。
リンネアは、心臓が少し速くなるのを感じた。
[<やはり、構ってちゃんでしたか。]
誰かに、自分の仕事が「自分のもの」として認められる——それがこれほど久しぶりの感覚だということを、その時初めて気づいた。
[<出ました。感情になりきれない、曖昧表現(4回目)。]
一方、クロスライン王宮のその後は、遠くからでも少しずつ聞こえてきた。
春になって条約の継続交渉の時期となり、グレイフォード側から「リンネア殿に引き続き担当していただきたい」という意向が届いたという。
[<自国に引き抜いた相手国官吏を把握していない公国。こっちも大概。だから、構ってでワンマンプレーな官吏を引き抜いちゃうのねー。そして、三ヶ月で成果だされちゃうお粗末さ。]
もちろんリンネアはもういない。タルヴィス卿はシリアスを後任に立てたが、ハルトは折衝にほとんど顔を出さず、担当者レベルのやり取りになった。
夏になると、条約は「現状維持」で更新されたものの、新たな拡大条項は盛り込まれなかったとエルウィン嬢の文でわかった。
[<怖い。まだ、故国から情報引き出してる! 家族はまだあっちにいるだろうに。やっぱり情が薄いと感じるわー。エルウィン嬢も情報漏洩は、だめですよ。優秀というなら、公国の当該部署からも、ちゃんと情報を引き出しやがれ。]
同じ夏、財務局の年度計画の作成が大幅に遅れ、国王陛下への提出期限を三週間も過ぎたという。タルヴィス卿が「土台で構わぬ」と書記官たちに命じても、誰もリンネアのようなものを作れなかった。
エルウィン嬢の文には、こう書いてあった。
「あなたが去られてから、タルヴィス卿様が初めて、あなたが毎年何をなさっていたかに気づかれたようです。遅すぎますね」
[<おまえが言うな。そして、情報漏洩、だめだってば。処断されるよ。]
リンネアは「そうですね」とだけ返した。
[<後輩にちゃんと注意したれ。だから、情が薄く見えるんじゃん。]
怒りは、もうなかった。
[<あなた、どこで怒っていましたか?]
ただ少しだけ、寂しかった。自分が三年間かけて積み上げたものが、認められないまま終わったことへの、静かな哀愁のようなもの。
[<出ました。感情になりきれない、曖昧表現(5回目)。]
しかし、それよりずっと大きく、今の自分の仕事が、楽しかった。
秋のある夕暮れ、リンネアはハルトと二人で残業をしていた。
書類の最終確認をしながら、ハルトがふとつぶやいた。
「リンネア殿は、なぜ前の王宮でそこまで励むことができたのですか。評価されないとわかっていても」
リンネアは少し考えた。
「……仕事が好きだったのだと思います。認めてもらえなくても、作ったものが誰かの役に立てば、それで十分と思っていた時期がありました」
「過去のお話ですか」
「それだけでは、やはり続かないのだと、途中でわかりました。人というものは、認めてもらいたいのですね」
「当たり前のことですよ」
「でも、そう思うことが、何か負けのような気がして」
ハルトは少し間を置いてから、静かに言った。
「認めてもらいたいという気持ちは、負けではありません。それは、自分の仕事に誇りを持っているということです。誇りある仕事だから、見てほしいと思う。それは真っ当なことです」
リンネアは、ハルトの横顔を見た。
この方は、いつも真っ当なことを言う。
特別なことは何も言わない。ただ、当たり前のことを、当たり前だと言ってくれる。それがリンネアには、ずっとなかったものだった。
[<出ました。認める、当たり前、真っ当。]
「……ハルト様は、なぜ私を迎えに来てくださったのですか。本当の理由を」
「本当の、とは?」
「先ほどのは、仕事のお話ですよね。でも夜に王宮まで出向いて、直々にお声がけをなさったのは、仕事の論理だけではないような気がして」
[<出ました。論理。]
ハルトは、ほんの少しだけ笑った。
リンネアがここに来て初めて見る、砕けた笑顔だった。
「……正直に申し上げると、あなたの書面を見た時に、怒りを覚えたのです」
「怒り、ですか」
「これほどのものを作れる方が、なぜ表に出てこないのか。なぜ黙っておられるのか。他人のことながら、悔しかった」
窓の外に、秋のグレイフォードの灯りが広がっていた。石畳の道に、金色の落ち葉が舞っていた。
「悔しかった」
リンネアはその言葉を、静かに繰り返した。
[<出ました。静かに。]
「……私のことを、悔しいと思ってくださった方が、いたのですね」
「はい」
それだけだった。
[<それだけ、にして、感情を見せないから、表面的で生きていないように見えるんだよねー。]
しかしリンネアは、その二言葉で、ずっと凍りついていた何かが、静かに溶けていくのを感じた。
[<二言葉。クロードさんの口癖ですね。感情になりきれない、曖昧表現(6回目)。]
終章 薔薇は石畳にも咲く
霜月。
グレイフォード公国の財務改革室は、新たな事業を立ち上げた。公国全域の物流を統合する、これまでにない規模の改革だ。リンネアは、その事業の責任者として正式に任命された。
辞令を受け取った夜、リンネアはひとりで燭台の前に座り、しばらく何も考えずにいた。
静かだった。
[<静かには、もういいよ。]
三年間の焦りや、悔しさや、認められない痛みが、遠い場所へ去ってしまったような静けさだった。
[<うん。無理なんだね。わかった。感情になりきれない、曖昧表現(7回目)。]
使いの者が書状を届けに来た。ハルトからだった。
「おめでとうございます」
短い一言だったが、その後に続きがあった。
「来月、少しお話し申し上げたいことがございます。仕事とは別の話を」
リンネアは、その書状をしばらく見つめた。
[<いや、直接言えよ。一緒に仕事してたじゃん。辞令受け取った夜なんだから、首都にいるんだろうが。ハルトが首都を離れているのか? そんな記述、どこにもないけどな。]
石造りの窓の外に、冬の初雪が、静かに降り始めていた。
[<うん。もう、つっこむのは止めようか。]
胸の奥が、じわりと温かくなった。
[<感情になりきれない、曖昧表現(8回目)。]
「謹んでお受けいたします」
と、返書を認めた。
[<いや、おまえも直接言えよ。なんの話かもわからないのに、すぐに受けるとか怖えよ。]
薔薇は、咲く場所を選ばない。
石畳の隙間にも、荒れた城壁の陰にも、根を張れる場所さえあれば、花は開く。
リンネアはそれを、二十と十二の冬に、ようやく知った。
[<三十二歳なんだね。ハルト、三十七歳だもんね。大使なのに、この年齢で妻も子どももいないのは、どうかと思います。いや、仕事とは別の話が、恋話とは限らないですが。最後での台無し感がすごいです。]
うわあ。既視感がハンパないっすねえ。
もとい。
たぶん、気のせいです。
〈特徴〉
■「」の前にも段落落ちの一字下げがある。
■会話が連続する場合も、行間に空白が入る。
■「静か」の多用。
■◯言や◯文を、◯回見直した、という類似の表現。
■怒り、悔しい、楽しい、面白いなど、感情は単語としては出てくるが、登場人物が実際にそれを表現している言動は描写されない。
■「整える」「認める」「埋める」「(その地位に)座る」「(仕事が)見える」など、結局誰が何を具体的にはどうしたか、さっぱりわからない動詞を多用。
■相手の言動に対して、主人公がどう思ったか、感じたか、感情がどう動いたかが、すべて抜け落ちて書かれない。そのため、会話のベクトルが一方向のみで宙に消えていくことになり、対話をしているように感じられない。




