エルヴァとベトランタの男
「冬の間だけでも馬車を使ったらどう?ポロダンの馬車をよこすよ」
お父様立ち会いのもと契約書にサインした日、オットーがそう申し出た。
ハイレーナは不機嫌に首を振った。だがハロルドもトニスもすでに頷いていた。
「朝も暗いし、暮れるのも早い。雪でも降られたら歩けなくなる」
ハイレーナは唇を突き出した。
「馬車を使えば、その分長く図書館にいられると思うけどな」
と小首を傾げたオットーが言い、それがハイレーナの心を動かした。
「……じゃあ、ポロダンのエンブレムは外して。王城の手前で降りる。迎えも横道にして。それから、絶対冬の間だけ」
「わかった、約束する」
三人とも、あからさまに安堵している。それが気に入らない。
門の前に二台の馬車が止まっている。
早朝の淡い光を研究所のエンブレムが反射している。もう一台は小ぶりで黒塗り。
白い息を吐きながらハロルドが一台の馬車へ。もう一台にハイレーナが乗り込んだ。
そして別々の方向へ走り出す。一台は王家の森の研究所へ。もう一台は白く浮かぶ王城へ。
カラカラという車輪の音を聞きながら、ハイレーナは膝にノートを広げた。
揺れるたびに跳ねるページを押さえ、今日読むつもりの本の題名をなぞった。
エルヴァとアップルパイを一緒に食べた日の帰り際「素晴らしい料理人様へ」と書かれた手紙を預かった。
マーサ曰く「細部までこだわった、芸術的な感想」だったそうだ。
それ以来時折、マーサから「エルヴァ様へ」スイーツを託される。
三度目に「今日もマーサからお裾分けがございます」と耳打ちしたとき「では後ほど回廊の隅でお待ちいたします」と言われた。
お昼のバスケットを持って回廊の隅へ行く。
待っていたエルヴァの後ろをついてゆくと、入り組んだ先に扉が現れた。
「離宮だった頃の朝食部屋です」
鍵を開けながらエルヴァが教えてくれる。
今では司書たちにも忘れられた秘密の部屋だとか。
扉を開けると、丸テーブルが目に入った。窓が一つ。
ふわっと暖かい空気が頬を撫で、紅茶の柔らかい香りに包まれた。
「閲覧室の暖炉の裏にあたるので、暖かいのです。どうぞ」
向かい合って、エルヴァが入れてくれたお茶と一緒に昼食をとった。
寡黙な女性かと思っていたエルヴァだが、意外なことに話題はつきなかった。
スイーツ談義から料理、蜜蝋布、本。
今日もエルヴァはゆっくり胡桃のパイを最後まで味わって、ホッとため息をつくと紅茶を口に含んだ。
「本当にマーサ様は素晴らしいですわ」
と幸せそうにカップを置いた。
クリップは『紙挟み』という名で売り出された。
まだ日は浅いけれど、オットーに聞いたところ、すでに文官たちの間では「一度手にしたら手放せなくなる文具」と評判らしい。
もちろん、エルヴァにもプレゼントした。
司書たちの間でも話題になって、我も我もと取り合いになっているらしい。
その日も資料となる本を集めに書架をまわっていた。
「あっ」
棚から一冊引き抜いた瞬間、左手に積んでいた本の一冊が滑り落ちた。
「おっと」
艶やかなバリトンが聞こえた。
ふわりとシトラスウッディの香りが立つ。
本を差し出した手は真っ白い手袋に包まれている。
見覚えのある男性だった。
以前回廊で、衛兵とベトランタ語で話していた男だ。
何度か館内ですれ違い、軽く会釈する仲になっていた。
「持ちましょう」
少し強引にハイレーナの腕から本を奪う。指先が一瞬触れた。
男が微笑むと目尻に皺が寄り、雰囲気が一変する。
ハイレーナはその笑顔に、一瞬見惚れた。
「あ、ありがとうございます」
男は踵を返し、先を歩いてゆく。ハイレーナは慌ててその後を追った。
書架をくるっと周りハイレーナの使っている机に近づいてゆく。
「ここで、よろしいですか?」
男の声は低く、耳に心地よかった。微かなベトランタ訛り。
「はい。ありがとうございます」
男は机の上に置いた本へ目をやり、笑顔をハイレーナに向けた。
「難しいものを読んでおられるのですね」
さっきと同じ、あの柔らかな笑顔。
「あ、はい」
声が上ずる。
「頑張ってください」
と言うと片手を上げて去っていった。
ハイレーナはその後ろ姿が見えなくなるまで目で追った。
ふわふわと身体が宙に浮いたようだった。
読んでいただき、ありがとうございます。
次の更新は4月5日(日)17時になります。
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