終章 全文
「――お前の話は、これで終わりか」
赤房丸は問うた。
そして、目の前の相手へ、
「先から気になっていたのだが、お前は話に出てきた若犬丸の郎従、野崎兵次ではないか」
「えぇ、そうですよ」
無用はためらいもなく答えた。
「別にもったいぶっていたわけじゃありません」
と、ここで居住まいを改める。
「本当は最初に素性を明かして然るべきだったろうけど、何しろ、俺って武芸がからきしでして、合戦に継ぐ合戦の人生だった殿には、まったくの足手まといで・・・・・・」
このとき赤房丸は彼の言葉にひっかかりを感じた。が、まくし立てる無用の舌に呑み込まれるようにして、疑問を手放してしまった。
「数少ないご奉公が伝来の鎧を取り返したことと、それから殿の御子を取り戻したことぐらいだもの。あぁ、これでやっと、名乗りを上げられる。けれど」
ぺらぺらとよく動いていた口が、ここに来てだれる。
言い出しかねる無用の瞳に、赤房丸は先回りして口を開いた。
「わかってるよ。私は若犬丸の末子で、宮犬丸・久犬丸は私の兄さんだ」
無用は苦しげに目を伏せると、がばりと額を地につけた。
「申し訳ありませんっ。お父上から託されていたにも係わらず、兄君たちをお救いすることができませんでした。しかも、あなたさまのご成長を見守る役目でありながら、破門故に遠くからようすを伺うことしかできず、此度の襲撃を許し、お命を危険に晒させてしまいましたっ。お詫びのしようもありません。どうぞ気が済むのであらば、この首斬ってくださいませ」
顔を上げずに言う彼へ、
「今さら無用を斬るなど私にはできないよ。・・・・・・思えば、私は親の名も知らぬ孤児だったけど、その割りに、卑屈な思いをせずに暮らしていけた。それはお前が幾ばくかの金子を寺に送ってくれたからだろ。ほら、得意の図絵やら書やらを売って・・・・・・ さぁ、顔を上げておくれ」
手を取ろうとする赤房丸に、
「あぁ良かった。あなたなら、そう言ってくれると思ってましたよ」
無用の上げた顔はにんまりとして。
――こういう奴だよ。この無用は。
彼の詫び言は大げさに過ぎた。
赤房丸は苦笑する他ない。
「だけど、どうやって赤子の私を助けたんだ? 母の死の直前に狐女らしき女が現れたが、彼女も何か手伝ったのか?」
「えぇ、はい、まぁ」
無用の口は歯切れ悪く、
「少し、話を遡らせてください」
若犬丸の自害直前に話は戻る。
◇
「お前は生きて、落ち延びろ。そして、まゆると子どもたちを救ってくれ」
薬師堂に入る間際、若犬丸から、金子の入った巾着を渡された。
少し前まで一井に託そうとした役目であったものを、死ぬ気満々の彼に、若犬丸も言い出しかねたのだ。
だが、自分とて、ここで主人と自害するつもりであったのに。
「お前しかいないのだ。もう」
恃みにならぬ郎等を、それでも恃みと思いゆだねる。
若犬丸の懇願ともいえる眼差しに、あきらめて巾着を受け取った。
かける言葉など思いつかない。
一礼すると、そのまま主の顔を見ずに馬に飛び乗り、走り去った。
『主と死をともにするより、生き残ることの方がよほど困難だった』
昔、己れの父祖が語ったという言葉を思い出した。
小山宗家に代々仕える身にあって、
――まさか、まったく同じ目に合うとはねぇ。
しかし、己れの役目を全うせねばならない。
伝え聞いた尼寺を探しあてはしたが、すでに葦名の手の者が出入りしていた。
甲冑は途中売り払ったものの、戦装束のままでは、一目で落ち武者とわかってしまう。
物陰に隠れ、どうしたものかとようすを伺いながら逡巡した。
「ねぇ、あんた」
突然後ろから声をかけられ、驚いて振り向くと、
「相変わらず、貧相な男ね」
狐女が、くたびれきった鎧直垂と、その上に乗った顔を眺めまわす。
「さぁ、これに着替えて」
真新しい直垂を渡し、「全部お見通しよ」とでもいうかのように、てきぱきと指示する。
「用意の良いことで」
嫌味ともつかぬ返答に、狐女は、ふふんと鼻で笑った。
「この辺りにも、喜んで裸になってくれる男がいて、助かったわ」
――いったい、この直垂はどうやって手に入れたのだろう。
どうせ、ろくでもない方法で奪ったのだと推測する。
女は、すぐに表情を引き締めた。
「若犬丸の遺言よ。子どもたちを助けなくっちゃ」
その一言で、主が本懐を遂げたことを知った。
狐女は若犬丸の最期に立ち会ってから、先回りして尼寺の前に現れたのだ。
「私が来たときには、もう上の子たちは連れさらわれた後だったわ。だから、まゆるのお腹の子を先に救うのよ」
女児であれば、問題はないがと、狐女は一計を案じた。
そして。
狐女を鎌倉よりの使い、兵次を供人とした計略に、葦名の郎等はまんまと騙された。
――さすが、妖し、人をたばかるのがうまいものだ。
武者姿に化けた狐女を見て思う。
嬰児は女の腕の中ですやすやと眠っていた。
葦名の郎等が尼寺を出て行くまで、しばらく預かり、ほとぼりが冷めたころ母親のもとへ返す手はずである。
「でも、まゆるが心配しているといけないから。こっそり教えてきてあげる」
赤子を押しつけると、尼僧の姿になって、取って返した。
腕の中の赤子はあまりに小さく柔らかな存在で、自分の手が壊してしまわぬか不安になった。
計略では、子を預かる際にそっと耳打ちするはずだったが、隣室で郎等らが耳を澄ませていたので、ままならなかったという。
狐女は、半刻ほど帰って来なかった。
まだ春遠い奥州の寒風から、主の子を守るようにして抱く。
とはいえ、赤子など抱き馴れぬ男の腕の中。
「よしよし」
むずがる赤子に、弱り切ったころ、目を真っ赤に泣きはらした狐女が戻ってきた。
「まゆる、死んじゃったよ!」
「えぇっ!」
女は命懸けで子を産むと言うが、
――まさか、そんな、よりによって、今。
女主人の死を悼むより、当惑の感情が先に出る。それから赤子の顔を覗き込む。
だが、心配は無用だった。
「いいよ、しばらくは私がみるよ」
経産婦の狐女が慌てることはなかった。
二人は旅の夫婦者として、民家に宿を借りた。
多少の金子はある。
赤子のために乳はないが、米を引いて粉にしたものを煮冷まして飲ませた。乳の粉というものらしい。
「私も乳の出がわるいときに、お世話になったよ」
懐かしげに言う狐女の横顔に、母を見た。
尼寺では突然のまゆるの死に騒然となっていた。
関係者となった葦名の郎等は、尼僧らに菩提を弔うよう説教を受けたのか、滞在を伸ばした。
しばらくして郎等らが引き払ったあと、狐女たちは尼寺に戻った。
妖しに関する部分は伏せ、必要な事実だけを伝えると、尼僧らは泣いて喜び、赤子の養育を約束した。
◇
「お名前の『赤房丸』は皆で考えました。『犬』の一字をつけるのは狐女の反対がなくとも避けましたよ。小山家の遺児ってすぐにばれますから。代わりに魔除けの色となる『赤』を入れて、房は藤の花房、藤原姓にちなんだものです」
「小山とも、藤原とも名乗れぬ私に、先祖の起源を・・・・・・」
――自分の名にそのような意味があったなんて。
赤房丸は己れの名に託された思いを噛みしめる。
「ありがとう、無用。それから狐女や、尼寺の人たちにもお礼を言ってやりたいが」
自分には、その尼寺にいた記憶すらない。
「尼寺ですしね。男の子がそう成長してまでいられない。私も寺男に身をやつして住んでいましたが、ちらほら噂も立ってしまって二、三年で去りましたよ。そうして伝手を頼って、ここ津軽までやってきたんです。えぇ、何しろ小山家代々の所領で、寺は一族の方が建てたものですから、安心して入山したんですけどねぇ」
しかし、彼らは公儀怖さに赤房丸を売ったのだ。
当初は、無用、いや野崎兵次もともに入山したはずだが、彼は寺を出た。先ほどうっかり『破門』という言葉を口にした彼に、理由は敢えて問うまい。
「でも、残念だな。これまで自分は孤児だと思い、それが話の途中で兄弟がいることを知って、うれしかったのに。殺されてしまったのなら、私の天涯孤独の身の上は変わらないということか」
赤房丸は淋しげに目を落とした。
「いいえ、それは違います。『若犬丸の遺児は六浦の沖に沈められた』というのは表向きの史話に過ぎません」
「なら、兄さんたちは生きていると?」
無用はうんうんと大きくうなずき、
「続きがあるんです」
◇
尼寺を後にする際、狐女は言った。
「さぁ、私には、もう一働きあるわ」
宮犬丸と久犬丸の救出である。
「お、俺はどうしたらいい?」
主と約束したのに、まだ大して役に立っていないとの自覚はある。
「あんたは足手まといよ。自分で考えなさい」
そう言い残して、狐女は飛び去った。
若犬丸の自害と遺児たちの召捕の報せは、ほぼ時を同じくして、鎌倉に伝えられた。
氏満は安堵とも言えぬ溜め息を漏らす。
己れが鎌倉の主としての矜恃を持ち始めたころ、小山義政が乱を起こした。そして義政の死後は息子の若犬丸が反抗を引き継いだ。
関東公方としての二十余年、そのほとんどを小山氏の征伐に費やされた。その間、管領上杉氏との確執は続き、互いを利用しながら、一方で相手の優位を脅かし合った。だが今では、彼らとは一定の距離を置くことで権力の均衡を保っている。
鎌倉公方と関東管領。
啀み合いながらも、互いを必要とする存在と認め合ったのだ。
鎌倉府、そして東国の安定。
若犬丸の死は、一つの時代の区切りである。
平和の訪れ。
為政者からみれば若犬丸は国乱の根源でしかなかった。
ただ、氏満は思う。
若犬丸の挙兵の度に、なぜあれほど血が沸き立ったのか。
――私の、武人の血、東夷の血だろうか。
己れも京の義満も、公家のような生活をし、また周囲もそれを望む。
主君が武装を解いた姿にこそ、人々は平和を見る。
しかし、それを揺り戻そうとする者がいつの時代にも現れる。
真の平和とは、安寧とは何かを問いかける。
彼らとの戦いの間は、上杉たちとの陰湿な権力争いから解き放たれるような快感さえ味わった。
逆を言えば、己れは狭い場所に閉じ込められていたのだ。
本来、野山にいるはずの獣、東夷の生魄を、狭い檻の中へ。
あの解放感は、本来の場所へとひっぱり出されて感じた、自由の風だった。
そう思えば、若犬丸の死に、名残を惜しむ己れを理解できた。
もう二度と味わえない、合戦前の緊張や高揚―――
だが、それは人の命のやり取りを前提とする。
古河での戦いで、氏満は大切な女性を失った。
花萩。
女は、女にしか与えられぬものを、男に与えてくれた。
――あの甘やかな・・・・・・
死んだ女を恋々(れんれん)としたせいだろうか。
その夜、氏満は夢を見た。
夢のなかで彼は再び花萩に会えた。
生きていたころと変わらずに美しく。
ただ、悲しげにこちらを見ていた。
己れから問いかけようとしたが、言葉が出ない。
だから目だけで言い表した。
――花萩。
――殿。
女も、目だけで語りかける。
――どうして、そんなに悲しそうな顔をしているのだ。やはり、この世に未練があるのか。
――そうではありません、殿。殿がこれからなさることの罪深さを悲しんでいるのです。
――罪? 私はあまりにも多くの罪を犯してきたからな。それがどんな罪かわからない。そなたが教えてくれないか。
――とても重き罪…… 罪のない者の命を奪うことです。殿は、若犬丸の遺児を亡きものにしようとしています。まだ年端もゆかぬ子どもだというのに。
――それが重き罪だというのだな。
――そうです。どうか、殿、私を成仏させるためだと思って、若犬丸の子を救ってください。
――若犬丸の子か。
――はい。どうぞ、お願いいたします。
そうして、花萩は霧の中に隠れるようにして消えた。
翌朝、氏満は家来を使いにやり、人を呼ばせた。
彼が落ちつかなげに待ちながら、やがて現れたのは、遍照院の住職頼印であった。氏満は、
「昨夜、こんな夢を見た」
そういって夢の内容を聞かせ、
「これをどう思う?」
と、頼印に訊ねる。
「夢に現れた花萩御前など、私は以前から姦婦の類いであると、申し上げていましたが」
「そなたは、花萩が生きていたころから、反りが合わなかったな」
氏満は苦笑する。
「花萩が助けよと言った朝敵の子は、生かしておけば必ずや公方殿に災いを為すことでしょう。後顧の憂いをなくすために、御所は何者にも惑わされることなく、正しき道をお選びください」
「そなたは仏弟子だというのに、殺生を厭わぬのだな」
「いいえ、一時の情に流されて、後により多くの殺生を招いてはならぬのです」
若犬丸の子を生かしておけば、その父と同じように叛逆を起こすと。
氏満は、片頬に薄笑いを浮かべた。
「私もその通りに思う」
頼朝を生かして、一族の滅亡を招いた清盛の二の舞は許されない。
武士の本能から生まれた武家の掟に従う。
「今日、そなたを呼んだのは別の件だ。花萩が成仏できぬというから、菩提を弔ってやろうと思ってな。そなたの法力を見込んでだ。だが、それほど花萩を厭うていたのであれば、他の者に恃むとするか」
氏満の言葉に、頼印は慌てた。
「いやいや、それとこれとは違いましょう。公方殿からのご信頼に応えてこそ(・・)の護持僧ですから」
祈祷の余禄を他の者に譲りたくない頼印の強欲。
氏満はそれを見透かしてなお、彼への依存を抑えることはできなかった。両親の愛薄くして育った彼は、尊長への孝行を尽くしたという感情を年ごとに深くしていった。これは、世の人が親の喜ぶ顔が見たいと願う心と変わらず、その氏満の思いを頼印はさらに見透かし、公方の寵を独占して当然とするのだった。
一月も下旬、春とはいえ未だ裸木が目立つ山中の街道。
七歳と五歳になったばかりの宮犬丸と久犬丸は、輿に乗せられ、鎌倉へと向かう途中にあった。輿といっても、それは牢輿の類い。粗末な竹づくりの籠に二人押し込められ、しかも逃げ出せぬよう臍の前で手首を縛られていた。
一行の後ろを、旅姿の尼僧が付いていく。
この子らの縁者か。
休息のため道端に輿が下ろされたのを見て、尼僧は輿に近寄ろうとした。
「もうし、我はそこなる幼子の身内でございます。哀れと思うなら、今一度別れを惜しませてくださいませ」
丁寧に乞うたにもの係わらず、侍たちは、
「そこを退け。尼」
「何人たりとも近寄らせてはならぬと命じられておる」
「分をわきまえよ」
しっしっと獣を追い払うように手を振った。
彼らの仕儀に、尼僧の眦はつり上がり、仏弟子とは思えぬ形相となった。
「己れらこそ、分をわきまえよ!」
ともどもを睨みつけると、侍たちは順ぐりに気を失い、地面の上に倒れた。
尼僧は狐女である。
妖力を満たした彼女にとって、人間を眠らせるなど容易いこと。輿近くまで駆け寄ると、宮犬丸と久犬丸に声をかけた。
「宮犬さま、久犬さま、私はお二人の味方です。どうぞ、私の話をお聞き下さい」
狐女は幼子の命を助けたい一心だったが、
「ご覧の通り、私には異術に心得があります。ただ、あなた方のお名前には、術を妨げる一字があります。どうぞ、お名前を捨てて下さい。そうすれば、お命が助かるのです」
二人の入った籠には指一本触れられなかった。
兄弟のうち、年長の宮犬丸が答えた。
「術をさまたげるって、それはそなたが妖しだから? 犬の一字をおそれるということは、わが一族にたたる狐女でしょ」
子どもに似合わぬ強い目で見返され、狐女は少しひるんだ。
――ちょっと! あの男ってば、私の悪口、子どもに吹き込んだわね!
死んだ若犬丸を恨んだが、彼らに警戒されては元も子もない。
「えぇ、その通りにございます」
狐女は、正直に語ることにした。
「しかし、ご一族に恨みを持っていたのは昔のこと。今では改心し、むしろ、お父上より信頼され、お二人を助けるよう申しつけられたのです」
「ちちうえはどうして死んでしまったの? ぼくたちを助けられるというのなら、なぜ、ちちうえを助けられなかったの?」
「それは私の力がいたらなかったためです。私が助けようとしたときには、もう…… お父上は今際に、子どもたちのことを恃むと遺言されました。私はそれを叶えたいと思います。さぁ、お名前をお捨て下さい」
狐女の必死の説得に、静かに聞き入る宮犬丸。
そんな二人を戸惑うように、交互に見る久犬丸。
「そなたの言葉にうそはなさそうだね」
宮犬丸はここで言葉を句切った。
「でも、ぼくたちがちちうえからもらったものは、この名前しかのこっていないんだよ。それを捨てろというの? ちちうえの子であるあかしを捨てて、代わりに生きろというの?」
狐女は、侍たちがいつ目を覚ますか、気にしながら答えた。
「お父上からいただいたものは名前だけではないでしょう。その血も肉も、ご両親から譲られたものではありませんか」
だが、宮犬丸は、
「それはちがう! 血と肉だけではだめなんだ。お前は人間じゃないからわからないんだ!」
思いがけぬ返答に、
「人間じゃなくってわるかったわね! 私はあんたたちを助けたいだけなのに!」
思わず出した大声に、兄弟はびくりと体を震わせた。
宮犬丸の瞳に涙が溜まり始める。
「もういいんだ。ちちうえもははうえもいないこの世にみれんはないんだ」
兄弟たちは母親の死を知っていた。それどころか自分たちの末路も。
鎌倉へ護送というのは、建前である。穢れが鎌倉に入ることを嫌い、罪人の処分はそれより前に行われるのだ。かつて、重衡が奈良へ護送される途中で斬られたのと変わらない。
狐女は思わず怒鳴った。
「未練はないって、あんた、死ぬってことがどういうことか知らないから、そんなことを言えるのよ。つい、このあいだ産まれたばっかりのくせに!」
「なら、そなたは、死というものを知っているのか」
「知ってるわよ。この何百年間、何人もの愛する人の死を見届けてきたわよ」
「だけど、自分が死んだわけじゃない!」
「そんなの当たり前でしょうっ。でもね、人が死ぬと、その周りの人間がすっごく悲しむの! しかもそれが子どもとなったら……」
言いかけて狐女は、はっとした。
宮犬丸の顔を見た。
「ぼくたちが死んでも、それを悲しんでくれるちちうえもははうえもいないんだ! もうこんな世に生きていたくないんだ!」
少年の瞳からぽろぽろと涙がこぼれ落ちた。
かたわらの久犬丸は、宮犬丸の体に抱きつくと、兄の水干にぎゅっと顔を押しつけた。
宮犬丸は、縛られた手で不自由そうに目をこすりながら、
「ゆうべ、久犬丸に言い聞かせたんだ。もうすぐちちうえははうえのところへ行けるって」
兄は弟の肩を、親が子にするように撫でさすった。
「もう行って。久犬丸はそなたの顔など見たくないって」
狐女には、かける言葉がなかった。
数百年生きてきたはずの自分に、為す術がなかった。
一行は武蔵の荒野を横切る。
空の色は灰色がかかった青。海に近いことを教えてくれる。
宮犬丸に拒絶されても、何か己れにできることはないか、狐女は付かず離れず後を追った。
氏満の夢枕に立って命乞いまでしたが、その氏満は結局、頼印の意見を容れた。
――あのなまぐさ坊主、余計なことを吹き込んで!
自分のことを目の敵にしたのは、まだ許せる。だが、あの兄弟の命を危機に陥れたのだ。
――それでも、坊主の端くれかって言うのよ。
自分の保身と出世のことしか考えない坊主め。
あのとき、氏満の心は揺れていた。なのに、いらぬことを言って、花萩の願いを反故にさせたのだ。
――あぁ、腹の立つ。それに殿ったらひどいっ。私と頼印の仲の悪さを知っていて、菩提を弔わせるし。私の言うことは聞いてくれないし。
『自分のことは許せる』としながら、やはり私情は捨てきれず、氏満の仕打ちに腹を立てる狐女であった。
思えば、くせのある男ばかりを愛してきた。
この五百年、つき合った男の中で、秀郷が一番まともだったのに。
――若気のいたりで呪いなんてかけて悪かったわよ。
そもそも、最初から無理だったのだろうか。
若犬丸はただの叛徒ではない。秀郷の血を汲む大名の末裔だ。その血とその名によって、彼の挙兵に何度も人々が集まった。
氏満が遺児たちの存在を恐れたのは当然だった。
――秀郷、あんた有名人に過ぎたわよ。あんたの名前が子孫を危険に曝しているのよ。
やがて、一行は林を抜け、広々とした海辺にたどり着いた。
子どもたちの、この先の光景が目に浮かぶ。それを慌てて打ち消す。
「そんなこと、させやしないわよっ」
狐女は口に出して叫んだ。
けれど、己れにできることなど本当にあるのだろうか。
こうして、見守ること以外に。
二人を乗せた輿を男たちが運ぶ。その足跡が、白い砂浜に点々と残される。
波打ち際で、兄弟を入れた籠は長柄を外され、舟へと移された。
竹の格子に邪魔されて、ここからでは子どもたちのようすは見えない。
沖へと漕ぎ進む舟。
遠く遠くに離れていく。
狐女は思わず駆け出した。
勾配のある砂浜を転がるようにして。
砂に足をとられ、何度もよろめく。
気持ちばかりが先走り、とうとう体ごと、砂地の上に倒れ込んだ。
砂まみれになりながら顔を上げると、ちょうど人間が豆粒ほどの大きさに。
船の者がこちらへ手を振る。浜辺に立つ見届の役人への合図だったか。
二人を入れた籠が、重石を付けられて、海へと投げ入れられる。
拡がる水飛沫。
女の目は、捉えた。
海面に沈みかけた籠の隙間から突き出た小さな手のひらを。
はっきりと。
その手の意味するものは、
――生きたい!
波の下、沈む間際に。
それは生きとし生けるものの本能。
狐女は叫んだ。
「出てきなさい。秀郷の護法神! あんたの大切な子どもが、あんたの懐で死にかけているのよ! さぁ、子どもたちを助けなさい!」
その声が届いたのか。
海面がふいに盛り上がると、それを突き破るようにして、巨大な水柱が立ち上がった。
沖の小舟は木の葉のように揺らめいて、水夫が船縁にしがみつく。
水柱、と思われたものは、その身を大きくくねらして青き龍の姿をとると、天空を目指し、宙を駆け昇っていった。
海龍の昇天。
人々は目も口も大きく開いたまま空を見上げた。
青龍が海面を抜ける際、その長大な尾を振り払った。
龍尾の先には、子ども二人を入れた籠の縄が取りついていた。
勢いよく投げ出された籠は、中空を沖から浜へと弧を描く。
――このままでは砂浜に激突する!
狐女は、我に返った。
籠についた縄、その先にある重石。
狐女は、直ぐさま浜砂を蹴って飛び上がると、空を横切り、重石の上に飛び乗った。
そして妖力で大石を操る。
跳ね飛ばされた際の勢いを消し、縄の先にぶら下がった籠を、ゆっくりと浜辺に下ろす。
籠の中からは、ごほごほと水を吐き出し、むせ返る声。
二人分の。
「無事だったのね!」
喜びのままに、しかし、狐女には彼らを抱き締めることはできなかった。
代わりに、くるりと体の向きを変え、宙を移動する。
目の前の異変にただ呆然とするばかりの見届け役の侍へ。
馬に跨った役人の、その烏帽子より高い位置から見下ろす。
かたわらにいた家来が驚いて、手にしていた槍を突きつけたが、
「無礼者っ」
狐女が軽く睨むと、槍はぐにゃりと曲がり、蛇に変じて鎌首をもたげた。家来は慌てて槍を投げ捨てる。
「控えよ! わらわを何と心得る。わらわは海神龍王さまの眷属にあるぞ」
居丈高に放ち、せっかくだから墨色の法衣から艶やかな小袿に変え、髪も長々と風になびかせた。
役人は馬の首にしがみつき、家来は腰を抜かして尻餅をつく。
――まさか、私が、龍神の眷属を名乗るとはね。
笑い出したい気持ちと一緒に、口元を扇で隠す。
「我が主人、海神龍王さまが幼い兄弟を哀れに思し召し、命をお助けになったのじゃ」
「ははっ」
役人は馬から下り、家来ともども這いつくばるようにして頭を下げた。
「よもや、再びこの二人を害しようと考えまいな」
「ははっ」
怯える役人は、ぶるぶる震えながら、
「上役には内密にして、二人を寺にでも預けます」
「そうか。それは良い考えじゃ」
狐女は顔を上げ、兄弟の方に向ける。
子どもたちから、自分の姿は見えているだろうか。
――親がなくたって生きていけるよ。この私だって、そうなんだから。
彼女の心の声は、二人に届くはずもない。
けれど、狐女は満足げな顔を空に向けると、天高く舞い上がり、自らも蒼穹の片隅へと消えた。
◇
「本当か? お前の話が本当なら、私の兄さんたちは、生きてこの世にいるってことじゃないかっ」
赤房丸は無用に詰め寄った。
「会いたい、兄さんたちに会いたい! そうか、お前は、兄さんの居場所を知っているのか。なら、もったいぶらずに言ってくれ、兄さんたちの居場所を!」
「まぁまぁ、そう慌てなさるな」
無用は笑って言った。
興奮する赤房丸に『遺児を託されておきながら結局何もできなかった野崎兵次』は見落とされた。無用の口はまた滑らかになる。
「もう一つおまけがあるんです。それを聞いてからでも遅くはないですよ。狐女には、どうしても許せない奴がいて……」
◇
僧正頼印は、遍照院の本堂から自室へと戻る途中にあった。
両脇に若い侍僧を従わせ、相変わらず、ふわふわと払子を振りながら、回廊を巡る。
昨年、公方が古河に出陣した時分、体調を崩した彼であったが、今ではすっかり回復し、さらに目障りだった公方の側女も死んで、たいそうご機嫌のようすである。
外は夕暮れ時、ふと彼が目を落とした庭先に、黒い影を見つけた。最初、それを、植栽の影かと見たが何やらようすが異なる。
影はむくりと起き上がると、するすると廊上の頼印に近づき、人型を取った。
長髪の貴婦人の姿。だが、どこか崩れた印象の。
頼印は、はっとした。
見覚えのある顔は、昨年亡くなったはずの花萩ではないか。
「……僧正さまに恨みごとを言いに来たのですよ」
「そ、そなた、迷ったな!」
死人相手に言葉をかけるとは、さすがであるが。
「だって、僧正さまが祈祷などなさるから、余計に迷ってしまったのです。何しろ死人も蘇らせるほどの法力の持ち主ですからね」
「御前、死んでまでも減らず口を叩くかっ」
罵倒する頼印へ、女は「相変わらずでございますね」
ほほ、と笑いながら、扇で口元を隠す。
「何をしておるっ、そなたたち! この女を寺から追い出さぬか」
侍僧らに命じたが、二人は微動だにしない。
頼印は不審に思って、左右を見たが、彼らの姿はなく。
代わって、視線のずっと下に、二人の児童が己れの顔を見上げていた。
「恨みごとがあるのは、私一人じゃないみたいね」
児童は頭から爪先までをぐっしょりと濡らし、水干の袖からぽたぽたと水滴を落としていた。
髪や肩に水藻をまとわせ、どこか磯臭さが漂う。
「ねぇ、ぼくたちのことをころせって言ったのは、僧正さま?」
「ひどいよ。おぼうさんのくせに」
「そっ、それは違う!」
頼印はうめいた。
「ぼくたちは今、くらくてつめたいところにいるんだよ」
「ここにはだれもいなくてさびしいよ」
「ねぇ、僧正さまもいっしょにきて」
子供らが左右の腕にしがみつく。
その、氷のような冷たさ。
「やっ、やめろ」
ぞっとして腕を振り払おうとした途端、足元の床がたわんだ。
立つこともできず大きくのけぞる頼印を、波打つ床板が呑み込む。
沈む。沈む。
暗くて冷たい水の中に。
鼻や口へ、塩辛い水がどっと入り込む。
――い、息ができない。
浮き上がろうと藻掻くにも、強い力で水底に引きづり込まれる。
見れば、己れの足首には大きな重石が括りつけられていた。
足掻いても、足掻いても水面は遥かに遠退き。
――し、死ぬぅ・・・・・・
「ねぇ、くるしいでしょ」
「ぼくたちも、おなじくらいくるしかったんだよ」
目の前には、唐輪を揺らした青白い顔が近付く。
――わっ、わるかったっ!
許しを請おうにも、ごぼごぼと息が漏れるだけで言葉にならない。
――くるしい、くるしい・・・・・・
目をつむり、むちゃくちゃに手足を動かした。
ばたばたばた。
何やら手足に堅い感触があった。
「僧正さまっ、どうなさいました!」
我に返った頼印の周りには大勢の寺の者が集まっていた。
「そっ、そこに若犬丸の遺児たちが・・・・・・」
見回すと、周囲は見慣れた寺の回廊である。
体は水から上がったように濡れていたが、それは己れのかいた冷や汗、いや、汗だけでなく・・・・・・
頼印はまさに『狐につままれた』のである。
しかも、寺中の者に醜態を見られ、大恥をかかされたのだ。
あまりのことに自室に閉じこもると、しばらくは床から出られなくなった。
この間、若犬丸の遺児の幽霊が出たと鎌倉中の噂になり、誰もが子どもたちの死を悼んだ。
後日、例によって頼印はただでは起きない。
哀れな遺児が迷い出て、彼の祈祷により成仏したとの逸話にし、人々に広めたのである。
◇
「おかげで、若犬丸の遺児が生きてるなど疑うものはなかった、ということだ」
「その通りですよ」
赤房丸と無用は声を立てて笑った。
「でも、どうせなら、鎌倉殿にも仕返しをしてほしかったよ」
「狐女は鎌倉殿とデキていたから、どうしても贔屓目に見てしまうらしいんです。それに鎌倉殿のその後は、長くなかったんで」
◇
氏満は若犬丸自害の翌年、四十歳で没した。
白河遠征中体調を崩し、鎌倉に戻り一時は回復するも、その後も、寝たり起きたりが続いた。
彼自身が述懐した通り、小山氏の叛乱に翻弄された生涯だった。
氏満があまり長く生きられなかったのは、彼らの叛乱によって、命を削らされたとする向きもある。
だが、それは逆ではないだろうか。
鎌倉公方の家系は短命だ。父親の基氏も、息子も、三十歳前後で早世している。
それを考えれば、若犬丸の存在こそが、彼の気力を奮い立たせ、命を長らえさせたのではないか。
東国の平定。
氏満は有力大名の勢力を削減することで政権の安定を図ったが、ほぼ同じころ、京の足利義満も同様の策をもって、自身の権力を不動のものとした。南北朝の合一も適い、東西の雄が互いの存在を、今までとは違った意味で覚知した時期に、氏満は死んだ。
彼の功績は全て京の従兄に帰した。
今少し、氏満が生き長らえていれば、二人の間に必ずや何事か起きていただろうに。
将軍職を息子に譲り、天皇をもしのぐ権力を手にした義満は、王者として日本に君臨し、栄華を極めた。
後年、彼は、東国の治政にあたった従弟の事跡について、近臣らへこう言い表した。
夷をもって夷を制した、と。
◇
「鎌倉公方を長生きさせたのは、殿の存在なのかってね。あなたの父上は不思議な人でね。関わった人間を皆、発奮させてしまうんです」
田村荘司、小田親子、新田相州・・・・・・
「あぁ、相州っていえば、あのあと箱根の底倉まで逃げ延びたんだそうですけど、子どもともはぐれ、腰痛の治療に温泉に浸かってたところを討たれて死んだって。宮方最後の武将っていうけど、あっけないもんですよねぇ」
無用は赤房丸の表情を伺いながら言う。
「・・・・・・何でしょうかねぇ。お父上が秀郷公の後裔、貴種ってこともあったでしょうが、やっぱり一番は、本人の魅力かな。となると、惜しかったですよね。やり方によれば第二の頼朝公になれたかもしれないのに」
結局は第二の義経となってしまった。
いや九郎判官だけではない。先祖が倒した誰かに似てはいないか。
公に伏わぬ者たちを引き連れて滅んだところが、東国の矛盾を背負って世の中に区切りを付けたところが、あの男に重ならないか。
「で、公儀からは『凶徒を退治しました、めでたしめでたし』にされてしまいましたが、なぁに、これからが始まりですよ。
この十数年で、奥州にも鎌倉へ反抗する者が現れましたし。
当の鎌倉でも、氏満の息子は父親似の頭でっかち。京の公方に対抗心を燃やして不穏な動きを見せました。まあ、早死にした上、管領の上杉がしっかりして大過なかったですが、また、ついこないだ家督を継いだ孫も、父祖に似て、やんちゃ坊主だというから、何が起きてもおかしくない。
京と鎌倉に公方が二人。
昔から言いますよね。似たようなものが並び立つのはよくないって。どちらか一方が必ず倒れるっていうのなら、今まで持った方が不思議だったんですよ」
そう言って無用は一息つくと、
「さぁ、話も尽きました。兄君たちのところへ行きましょうか」
と、立ち上がりかけるのを、赤房丸は驚いて見上げた。
「今から? どうやって? 山の中には悪僧や侍たちが大勢いるのに」
叛徒の子として追われる自分に、逃げ延びる方法などあるのだろうか。
そもそも、この世に自分の居場所などあるのだろうか。
「いいえ、ありますよ。北の向こう、海を越えれば。兄君たちは、そこでお待ちです」
無用の指さす先を目で追えば、妙見菩薩の像。
その図絵が風もなく揺れ、
表層から菩薩が滑り出る。
領巾をゆったりとそよがせ、
驚く赤房丸の目の先に舞い降り、膝をつく。
顔と顔が触れあうほどに迫ると、
細い目でにっと笑い、
「赤房丸。あんたの名前が、赤房丸でよかったわ」
少年の唇を奪う。
そのまま彼の腕を取り、導くように立ち上がる女の背後で、ばさりと図絵が落ちた。
女の肩越しに見れば、先に自分が隠れたはずの壁龕に、八大龍王の大鎧が据えてあった。
――小山家重代の肩白赤糸威し!
けれど、それも一瞬のこと。
「あんたの兄さんたちが還俗して元服するまで待ってたら、今までかかっちゃったけど」
狐女が人差し指を掲げると、周囲の岩壁は、一斉に帳を外したように消え去った。
見上げれば、天蓋に輝く一面の星々。
体が、夜空に溶け込んでしまいそうな感覚。
気付くと、狐女とともに宙に浮かび。
見下ろせば、
「おおぃ、待ってくれぇ」
慌てふためきながら、地の上を無用が追いかける。
「ふーんだ。さっきやっつけた侍、自分の手柄にしちゃってさ。少しは反省しなさい。いぃ? 鎧はあんたが責任持って届けるのよ」
お先に失礼するわと言い捨てて、狐女は赤房丸の頬に口づけした。
「呪いは消えたわ。だから、あんたの相手は私でもいいんじゃない?」
少年の瞳を覗き込む。
「ねぇ、赤房丸?」
―了―




