第七章 全文 (政光)
木を離れたる猿、
水を離れたる魚。
これが在京二年目の太田政光の心境である。
仁平四年(一一五四)、内裏大番役を仰せつかって四季は一巡りしたが、都の水は政光には全く合わなかった。
「こちらに来て無口になりましたか?」
乳兄弟の親しさで近侍の俊広が言う。彼は、この宿所の諸事を取り仕切っていた。
武士の義務たる大番役に報賞などなく、下向した受領の邸の一角を借り受け、衣と食の面も全部政光の自腹である。俊広は蓄えの少ないなか、よくやってくれている。
まったく、貴族というものは意地汚い。人が己れらのために何かをするのは無給で当然だと思っている。また武士の方でも猟官のため中央との繋がりを持ちたがるから、むしろ賄いをもって貴族に近づこうとする。それが彼らをいっそう付けあがらせるというに――
自然児たる政光にはそれができない。心にもない世辞を言い、ごまをするなど。悪口雑言は得意だが。
しかし、俊広はせっかくの在京を好機にしようと、政光をせっつく。
「貴族におべっかを使うのが嫌でしたら、もう一つの手があるじゃないですか」
遠回しに京の女性を娶れと言っているのである。
「殿の夢を叶えるためにも、その方が有利ではありませんか」
俊広にだけ語っていた政光の夢、それは故郷での土地の開発である。
十代前は関東全域に勢力を誇った鎮守府将軍藤原秀郷の末裔も、時代とともに徐々に官位は下がり、領地も狭ばり、彼の代では関東の名門といえど虫食いのような領地しか残されていなかった。
政光の出身は武蔵(東京都・埼玉県)太田荘だが、それというのも、数代前から清和源氏の末裔が下野(栃木県)南部で勢を張り、父祖らは彼らに押し出されるようにして武蔵へ本拠を遷したためだ。
しかも土地の名目上の主は、国や中央の権力者らとなっており、政光のような現地領主は、彼らに代わって税を搾り取る番犬のようなものだ。政光は時々、己れの職務にうんざりすることがある。
しかし、自分で開発した土地であれば自由な経営ができる。
やはり中央の権力者の名義にして庇護を受けなければならないが、その相手を選ぶことはできる。経営熱心で我欲が強い者では駄目だ。生まれたときから豊かで経済的に苦労したことがなく、田舎の土地にあまり興味など持たぬ人間がいい。裕福な宮腹の皇女、このあたりが最適である。その手づるに程の良い女房を得よと、俊広が暗に言っているのである。もっとも、己れが開発した土地が己れのものにならないという矛盾は依然として横たわったままだが。
中央の権力によって阻まれる地方の自立。
考えてみれば、その矛盾に抵抗しようとした男を二百年前に討ち取ったのは、他ならぬ政光の先祖なのである。
――では、私が第二の将門になるか。
いや、そんな器量は自分にはない。そうだな、誰か別に第二の将門公でも現れたら、その旗下につくか。
と、他愛ないことを考え、政光は自嘲する。
それより、現実の問題である。
俊広に言われなくとも、実は文のやり取りをしている女性はいた。
帝に仕える女官で、東夷には高嶺の花かと思ったが、伝え聞いた身上はそれほど自分とかけ離れた相手ではなかった。父親は八田宗綱という武士で上皇の武者所に勤めている。この人は子どものいない叔父の元へ養子に入ったが、実父は下野(栃木県)宇都宮社の座主である。後に養家に実子が生まれたため、名字を常陸(茨城県)の本拠八田(下野との国境付近)に戻していた。
相手が故郷に縁のある人、と思うだけで心近しくなる。ただ、文のやりとり以上にその先が進展しない。
――こちらが田舎者だから相手にされていないのか。
と思うがそうでもない。いつも丁寧な文を返してくれる。その中で、ある程度知りえることがあった。
後宮の女房といっても、帝の御服を整える御匣殿に勤め始めて、やっと一年目。
なの葉と呼ばれていること。
下野出身の母はすでにおらず、宮仕えの前は熱田大宮司(藤原季範)のお邸で乳母をしていた。
乳母といっても、もちろん授乳役ではなく、遊び相手の女童である。
相手のお子さまは九歳違いの男児で、父親は、鎌倉に本拠を持つ清和源氏の棟梁。数年ほど男児に仕えていたが、子息が成長すると女手が余り、季範の紹介で後宮に出仕したそうだ。
――なの葉とは、あまり雅やかではない呼び名だ。
父上の出身、下野にちなんだものか。下野といえば源氏の棟梁殿は先の除目で国守になられたばかりの方。八田殿も、それを見越して娘を仕えさせたのか。人脈づくりに娘を使うなど、抜け目のない方だ・・・・・・ 息女どのも、名家に十歳やそこらで勤めるとは、よほど気の利いた女性なのだろう。
政光は、様々に想像を巡らした。彼が都での生活にもう少し長ければ、やりとりする手紙の色や字体、和歌の出来などから、彼女の為人を伺うことができるのだが、まだそういったことに慣れていない。
――逆に言えば、私の為人は、あちらに知られているのだろうな。
自分は知らず、相手は知っている、という状況は政光を不満にさせた。
――何かの折に垣間見ることはできないものか。
例えば帝の使いで彼女が牛車で移動する。そのとき簾が風に煽られて・・・・・・
しかし、そんな都合の良い偶然などあろうはずもなく、政光はなの葉より前に、彼女の家族と顔見知りになってしまう。
なの葉には母親の異なる兄弟がいた。父親と同じ武者所に勤めており、上皇の住まう鳥羽殿とも行き来があるため、顔を合わせる機会があった。だが、その家族らには首を傾げることが多い。
なの葉の異母弟は知家というが、まだ元服したての少年のくせに、どこから聞きつけたのか、
「太田四郎(政光)殿ですよね。あの姉上とお付き合いできるなんて、あなた、よほどの変わり者なんですか。私も姉上とあまり会うわけじゃないけど、ああいう人はめったにいませんよ」
と、政光の驚く顔だけ見て返事も待たずに去った。
また、兄である朝綱と行き会えば、
「妹と話をしたのは数えるほどしかありませんが、ちょっと変わったところもあるけれど、かわいい人です。大切にしてください」
丁寧に挨拶されてしまった。
母親が異なれば、顔も見たことない兄弟姉妹などいくらでもいるだろう。それには驚かないが、なの葉はどうも会った人に強烈な印象を与え、かつ、各々に批評を分かつ人物らしい。
――あんまり変わった女子なら勘弁だな。
政光は、男子であれば誰もが思うことを思った。
彼は間もなく、なの葉の父、宗綱にも出会い、
「霊夢を見た。そなたと娘が結ばれて、下野で一族が繁栄するようすを。太田殿、娘をよろしく頼む」
手を取らんばかりに迫られた。神官の出だから、人智の及ばぬ霊威を体験したのだろうが、少し尻込みしたくなる。
――八田家は変わった人ばかりらしい。
彼女との交際を考え直そうと思ったが、文通は途絶えることもなく、かといってそれ以上発展することもなく、ずるずると惰性のように続くのだった。
退屈な政光の毎日、そこへ転機が訪れる。
今上帝の崩御。
十七歳の少年帝王はわずか三歳で帝位に就きながら、病弱で形ばかりの君主だった。数年前に失明しかけ、死因も眼病によるものだという。当時里内裏となっていた関白藤原忠通の邸、近衛殿は悲しみに包まれつつ、一方で役所の解体に伴う慌ただしさ。
――しばらくは文のやりとりは無理だな。
政光と郎等は、新帝の御所に再編成された。
落ち着くまではと、なの葉へ手紙を控えているうちに二ヶ月が経った。
さて、そろそろ文通の再会でもと思ったころ、彼女は宮中を去ったという。
天皇崩御を受け、女官たちは新帝の後宮に移った者、これを機に暇をとった者、それぞれの道を選んだが、なの葉の選択は後者だった。
――私には何の連絡も寄越さずに。
政光は傷つけられたような気分になったが、気を取り直し、伝手を頼って彼女の住まいを探し当てた。
いつも使いを命じている雑色の少年、小丸に文を届けさせる。
しばらくして小丸が戻るが、手元を見ると返事らしきものはない。
政光は落胆する自分に気付き、それを顔に出さぬよう努めた。
だのに、小丸が、
「引っ越して来たばかりで、筆の用意ができないからと、口頭で返事を頂きました」と言うから、今度は喜びが顔に出そうになり、慌てて頬の筋肉を引き締める。
しかし、少年の口から詠まれる歌は、住む場所は変わりましたが、これからもよろしく、といったもので、相変わらず丁寧だが深読みしようにも読みようにない歌である。
「それより気になることがあるんです」
小丸は声をひそめた。
「新しいお住まいですが、これがけっこうやばい町にあるんですよ」
あばら屋が建ち並ぶ界隈で、住民の柄もよくないらしい。
「手伝いの人も少ないみたいだし、よくやっていけるなぁ、と思いましたよ」
なの葉の暮らし向きが良くないと知って、政光は胸騒ぎがした。
華やかな宮廷生活を送りながら、主の死とともに零落した女官の話はいくつか聞いたことがある。なの葉は父親が健在なのだから援助を申し込めばよいものを。元女官の誇り高さから、そういったことができないのだろうか。
政光は心配になった。小丸に案内させて、なの葉の宅を訊ねることにした。
その小路は小丸の言うとおり荒んだ印象だった。政光の宿所のある邸の通りと同じ京の町とは思えない。
――なるほど、これが都会の陰の部分という奴か。
軒を連ねる板葺の屋根は、馬上の政光の目の高さと変わらない。垣根は破れ、手入れが行き届いていない家が多い。行き交う人々も、政光を刺々しい目で見上げる。
「あぁ、この家ですよ。殿」
小丸は隣家同様みすぼらしい家屋を指さしたが、
「いい、そのまま行け」
政光は脇目も振らず、まっすぐに通りを進んだ。
騎馬の己れは目立ち過ぎた。自分の訪問で、なの葉に迷惑がかかってはいけない。そんな配慮だった。
宿所に戻ると馬をおいて、今度は供も連れずになの葉の家へ向かった。
徒歩で行く先ほどの小路は、またいっそう心証が思わしくない。水はけが悪く、足元が泥に汚された。同じ目の高さとなった家々の戸の隙間から見知らぬ者を監視するような視線を感じる。
――こんな界隈に住んでいて大丈夫なのか?
心配になりながら、なの葉の家は、と身体の向きを変えた途端、柴垣の破れ目から出てきた女とぶつかりかけた。
小袖に前垂れを巻いた若い女は、驚いたように目をまん丸にして政光を見上げた。井戸で洗いでもするつもりだったのか、両手で菜っ葉の入った笊を抱えていた。
――なの葉に仕える端女か。
「失礼した。私はこの家の主の知り合いの者で――」
なの葉に会うつもりはなかったので心の準備ができていない。けれどここできちんと名乗らねば、ただの不審者である。
「太田四郎と言えばわかって頂けると思うが、この近くに来たついでに立ち寄ってみたのだが・・・・・・」
うんうんとうなずきながら政光の顔を見る娘の瞳はもともとが大き過ぎるのか、こぼれ落ちないかこちらが心配になるほど見開かれていた。
しかし、
「いや、主には、急なことなので取り次ぎはけっこうだと――」
と伝えようとしたが娘は最後まで聞かず、
「わかりました。しばらくしたら中にお入りください」
と言い置いて、慌ただしく家の中に入ってしまった。
――しばらくしたら、ということは案内もなしに、中に入れということか?
政光は狐につままれたような気持ちになった。
――あの娘は気が利かない。ろくに人の話も聞かず、しかも客人をこんな軒先に待たせるなど、家人の教育が行き届いてないな。
家々から見張られるような視線を背中に感じて、政光は所在なく。
思いを巡らすうち『しばらく』起った。
だが、しばらくといっても人によって感覚は違うであろう。政光は自信なげに小路から声をかけるが、返事はない。
仕方なしに、枯れた雑草が倒れかかる庭先を掻き分けるようにして奥にまわる。
そこから家の中は丸見えだった。不用心に戸は開け放たれ、視線を遮る調度は何もない。中では、袿姿の女が鏡に向かい、せっせと額に眉を描いていた。鏡越しに目が合う。女ははっとして目を見開き、眉筆を落としかける。慌てて化粧道具を脇に退け、左手の袖で顔の下半分を隠し、右手が床の上をさ迷う。何かを探しあぐねるように。
「あの、扇でしたら、あなた、自分の左膝で踏んづけていますよ」
政光の言葉に女はぎくりと肩をすくませ、次の瞬間拾い上げた扇を、ぱっと顔の前に拡げる。とろいのか、素早いのか、わからない動作である。
「八田殿のご息女ですよね」
と訊ねると、女はこくこくとうなずく。
「それから先ほどの端女もあなたですよね」
女は一瞬硬直し、それからがくりと肩を落とした。
「なぜ、わかりましたの?」
「そりゃわかりますよ、あなたくらい目の大きな人はめったにいないでしょう」
政光は、なの葉の目を見て言った。美人の基準から大きく逸脱する、ぱっちりとした黒目がちの瞳。
「お・・・・・・、お恥ずかしゅうございます」
「いや、恥ずかしがらなくていいですから事情を説明してください」
がさごそと枯れ草を掻き分けて濡れ縁に近付くと、そこに腰かけ、政光はなの葉に話を促した。
「あのですねぇ」
先帝の崩御を受け、なの葉は宮仕えを辞めた。普通女が職を失えば実家に帰るものだが、母を生まれてすぐに亡くしたなの葉には実家というものはない。小さいころは乳母の家で育ったが、その乳母もすでに他界している。長く疎遠になっていた乳兄弟に世話になるのも気詰まりだ。彼女は独立を考えた。といっても次の職が決まるまでの間だ。蓄えもあまりなかったので、それなりの家に住み、端女も雇わず、自炊生活を始めた。
「私、こう見えて何でもできるんです。乳母が小さいころから仕込んでくれたおかげで」
「ちょっと待ってください。乳母が主人の娘に端仕事をさせていたんですか」
「何か問題でも?」
「大いに問題ですよ。何て阿漕な乳母だろう」
そう言っても、きょとんと見返すだけの彼女に、続く言葉が見つからなかった。
「おかげで、生活には不自由していませんわ」
なの葉は明るく言い返す。
「とはいえですねぇ、女の一人暮らしは体裁が良くありませんから」
一人二役、端女と女主人を演じていたというのだ。
「それにしたって女所帯じゃないですか。危険ですよ。特にこの界隈は」
しっかりしているのかいないのか、よくわからない。
「この辺りの人は大丈夫ですよ。皆さん、やさしい人ばかりですよ」
なの葉は、にっこり笑う。
――駄目だ、この人。やっぱり全然しっかりしていない!
小路での刺々しい視線を思い出した政光は、
「いけません! 不用心ですよ。戸だって開けっ放しだったし、強盗が押し入っても助けてくれる人がいないでしょう」
「強盗だなんて、こんな家に大した物があるとは思われませんから」
「あなた自身が狙われるかもしれないのですよ」
これほど無防備な人間に、よく宮仕えができたものだ。
「とにかく、こんな場所に一人で暮らしていると知ったら、このまま居させるわけにはいきません。引っ越しましょう」
「引っ越すといっても、どこへ? いつ?」
なの葉は首を傾げるようにして政光を見上げた。
路地の泥を跳ね上げながら、政光は家路を急いだ。背中になの葉を負ぶって。
女の髪が、自分の胸のあたりに落ちて揺れる。波打つ髪。政光の好みでいえば、まっすぐの方が良いのだが。しかし、背中に当たる箇所箇所は意外な豊かさである。
「あなたってすごいわねぇ。人を担いで走れるなんて」
政光の悶々(もんもん)に全く気付くようすもなく、背中にしがみつくなの葉はのん気なものだ。
――こんなとろい人をあの家に、あと一晩も置いたままにはできない。
と、よりいっそう思う。
「荷物は後で家の者に取りに来させますから」
政光は振り向かずに言う。
「あっ」
「何ですか?」
「扇を落としてしまいました」
政光は立ち止まって足元を見た。
「あきらめてください。この泥では使い物になりません」
また走り出す。
「そう。お気に入りの扇だったのに・・・・・・」
「あとで私が買ってあげますよ」
「本当? うれしいわぁ。でも、あなたってすごいのねぇ」
「はい?」
「走りながらしゃべれるなんて」
「・・・・・・」
政光は何も言う気にもなれず家路を急いだ。
政光が連れ帰ったなの葉を見て、宿所は大騒ぎになった。
「女だ! 女だ!」
政光が事情を説明する間もなく、蜜に集まる蟻のように男らが群がり、なの葉は恥ずかしそうに袖で顔を隠した。
「散れっ、野郎ども!」
政光が大声を張り上げるが、何の効果もない。
「顔見せてよ」
「ねぇ、俺らの前で踊ってくれたりとかするの?」
不謹慎な者は肩を触ろうとする。
「お前らぁっ、この人は浮かれ女なんかじゃないっ。遊女との区別もつかんのか!」
「えぇっ、素人の振りした、そういう趣向かと」
「何が趣向だっ。汚い手で触るなっ。八田殿のご息女だぞ!」
政光は言ってからしまったと思った。しかし、すでに遅く、その場の空気が凍り付く。
「殿、これはいったいどういうことです?」
男らの間から、俊広が顔を引きつらせて現れた。
「それは俺の方が聞きたいよ」
朝、久しぶりに手紙のやり取りをした相手が、昼には同じ屋根の下にいるという現実に、目が回りそうになった。
取りあえず、主の妻となるべき人を郎等たちの好奇の目にさらすわけにはいかないと、俊広はなの葉を奥の間へ案内して休ませた。
「ちょっと待った! 俺の妻って」
「そのつもりで盗んできたんでしょう。いやぁ昔話に聞いたことはありますが、まさか私の主がそんな馬鹿な、じゃなかった、そんな情熱的なことをする人とは思いませんでした」
俊広の言葉はいちいち棘がある。
「そうじゃないんだよ」
政光は一から経緯を説明した。
「だからぁ、次の仕事が見つかるまでこの邸に居させてくれればいいんだ。俺の寝所を貸すから。俺は野郎どもと雑魚寝でいいから」
拝み倒すように言う。
「簡単に言ってくれますね。いいですよ。北の方には侍女もつけなくはいけませんし。部屋をもういくつか借りられるよう、この邸の家宰にかけ合ってみましょう。あぁ、これからいくら出費が増えるか考えただけでも頭が痛くなりますが」
ちくちくと嫌味混じりの乳兄弟の言葉を聞き流しつつ、
「ありがたい。でも、その北の方って言い方は止めてくれ」
聞き捨てならぬ一言に、訂正を入れる。
なの葉を娶るつもりは毛頭ない。見た目も中身も好みじゃない。ただ彼女の窮状を見かねて、親切心から出た行動なのだ。
「彼女は大切な客人だ。そうだ! 将来の荘園主の件だよ。彼女は宮中との大切な繋ぎ役で――」
「取って付けたような言い訳ですね」
「……」
「どちらにせよ。八田の舅殿にはお知らせしませんといけませんね」
「だから、その言い方は止めろっ。嫌味か」
政光とて俊広の不機嫌はよくわかる。なの葉の窮状どころか、当家の台所もきゅうきゅうなのだ。彼女一人増えたことでどれほど負担をかけることか。主の妻、とでも思わぬことにはやってられぬのだろう。
それにしても、八田宗綱はとんだ食わせ者だった。霊夢とか言っていたがあれは変わり者の娘を押しつける出任せだったに違いない。朝綱もだ。かわいいと言ったが、確かに妹と思えばかわいいと思えぬこともない。だが、あれは婿をとれる女か。大切にしてほしいなどと、無責任なことを言って。思えば、あの生意気な知家の言葉が一番的を射ていた。あんな女と夫婦になったら、自分まで変わり者扱いだ。
政光は郎等たちへ、くれぐれも二人の仲を勘ぐるなと念を押した。言わば、自分はなの葉の保護者であると。
「はいはい、でも八田殿のご息女が、当家の女主人になったとて、我々は全く困りませんが」
「俺が困るんだ」
「はい、はい」
皆、主の言葉をいっこうに取り合わない。向こうの親も了承した許嫁。同じ屋根の下に住むのだもの、そのうち夫婦になると思われている。
――私は絶対になの葉に手は出さぬからな。
政光は固く心に誓うのだった。
なの葉には二人ほど侍女が付けられ、さらに端女も増やした。いくら本人が自分で何でもできると言っても、体面というものがある。まさかまた一人二役だの三役だのを演らせるわけにはいかない。何しろ己れは、なの葉の保護者なのだから。
それにしても、邸に女手が増えると、郎等たちも浮き足立つ。
「やっぱり女性がいると、華やかなになっていいなぁ」
「今まではむさ苦しい男所帯だったからなぁ」
着替えを怠けたり、裸同然でごろごろしたりしていた野郎どもも、きちんと身を改めるようになった。また女性がいると、細かいところまで目が行き届く。住まい全体が明るく清潔になる。なの葉効果である。
俊広にはいろいろ言われたが、
――やっぱり彼女を連れてきて良かったな。
政光は満足げである。
だが、そんなころになって、なの葉が言い出す。
「落ち着いたので、そろそろ勤め先を探そうと思うのですが」
「もう少しゆっくりしていけばいいではありませんか」
政光は何となく引き留めたくなる。
「でも、毎日が暇で暇で」
「それでは草紙はどうですか? 双六を揃えましょうか?」
「私はもっと人の役に立つことがしたのです」
世話ばかりかけさせる彼女が、人の世話をしたいなどとは意外なことを言う。
なの葉は思い付いたように、
「そうだわ。私、縫い物が得意なんです。四郎殿の水干を縫ってさしあげますわ」
と、にっこり笑って言う。
せっかくの申し出なので、政光は頼むことにしたが、これを聞きつけた郎等たちは陰でいろいろ噂する。
「知ってるか? 北の方に殿が縫い物を頼んだんだってよ」
「夫婦でないって言い張っているけど、本当の本当はなぁ。きしししし」
夫の服を縫うのは正妻の務めである。家来が誤解するのも無理はないが、政光は、どんどん自分の外堀を埋められていくような気がした。
「はい、できあがりましたよ」
なの葉は自分で得意だと言うだけあって、確かに縫い物が早くて上手い。縫い目などを見ても細かく均一なので感心してしまう。
着替えに自室へ戻った政光であったが、当の衣に袖を通そうとして腕が出てこない。袖口が括りの緒で縫いつけてあったのだ。
――まぁ、予想の範疇だ。
直してもらおうと衣を返しに行くと、なの葉は顔を真っ赤にして恥ずかしがった。
「おかしいわねぇ。縫い物は得意のはずなんだけれど」
「名人でも間違えることはありますよ」
「そ、そう?」
政光が慰めると、なの葉の顔がぱっと明るくなった。
「あなたって、やさしい人ねぇ」
その円な瞳で見返す。
決して美人ではない。髪は波打って縮れている。眉の描き方もいまいちだ。何よりとろい性格。でも、その大きな瞳にやられてしまう。
――まずい、本当にまずい。
外見も中身も全然好みじゃないのに。
政光は逃げ帰るように自室へ戻った。
それでいながら数日後、政光はまたなの葉の室に訪れている。
懲りずに縫い物を頼みに来たのだ。それがなの葉を喜ばせることだと知っていたから。
「宮中では、やはり主上の縫い物をされていたんですよね」
俊広への言い訳もあり、政光は話題を後宮のことに向けた。
「えぇ、こう見えても私、主上からお声をかけられたこともありましてよ」
誇らし顔のなの葉を、政光は意外な思いで見た。宮仕えと言っても命婦の下で働く下級女房、それほど高い身分ではない。もっとも、採寸などで御服をあつらえる際、帝から話しかけられる機会はあるか。
――しかし先帝も、この人相手によく会話が成立したな。
と、全く別のところで故人を尊敬してしまう。
「それから私、力持ちなんです。炭櫃を運ぶときによろこばれましたわ」
炭櫃は大の男が数人がかりで持ち上げる馬鹿重いものだ。
――雑仕女代わりに使われていたのを気付かなかったのか。
宮中には厳密な役割分担があるのに、何でもほいほいと引き受けてしまうなの葉の姿が目に浮んだ。けれど、当の本人は気にも留めてない。
「なの葉という呼び名は、父の故郷にちなんで先輩の官女が付けてくださったんです」
それは政光の想像した通りだった。
下野の古歌に、恋人の美しさを小楢の若葉に例えて詠んだものがある。常磐木の若葉の新緑に輝く気色は、彼女の無垢な愛らしさに適っていた。きっと、なの葉は宮中でも失敗ばかりしていただろう。だが、それ以上に帝を始め多くの人に好かれていたのだろう。
「にしても、小楢の若葉からなの葉とは随分と縮められてしまいましたね」
「私って抜けたところがあるから、名前までぬけてしまったのね」
笑って言うなの葉。
自覚はあるようだ。
しかし、こんなにぼんやりしていて、意地の悪い女官から嫌がらせをされたりしなかったのだろうか。それに宮中といえば素行のよくない公達もうろちょろしている。そんな男どもに引っかからなかったか、政光は気を揉んでしまう。
――いや、病弱だったとはいえ、先帝も若い男だ。何もなかったとはいえないかもしれない。
政光はなの葉を案ずるあまり、彼女の過去にまで心配の範囲を拡げ、亡き帝さえも邪推の対象だ。もっとも、邪推が邪推でしかなかったことを、彼が知るのは間もなくである。
――俺はいったい、どうしてしまったんだ!
朝の光の中、床から半身を起こした政光は頭を抱えた。隣ではなの葉が寝ている。
二人は昨夜夫婦になったのだ。
――己れが己れでわからない。
心配が高じて同衾するとは何たる飛躍。これでは周りの者たちの思う壺ではないか。
恨みはないのに、なの葉を恨めしく思ってしまう。
政光の目は、眠る彼女の顔を注視する。
本当のところ『見惚れている』のに、自分では気付いていない。
――目と口を閉じている間はけっこう見られるかな。
頬の際を透明な繊毛が覆い、それが朝の白っぽい光に浮き上がっている。
――大人の女性なのに、産毛の処理が甘いぞ。
そう思いながら、誘われるようにして指先が彼女の頬をなぞった。
「う、うん」
なの葉は寝返りをうつ。でも、目覚めない。眠ったまま政光が触れた頬をこする。
その仕草に、政光はきゅっと心臓を掴まれたような息苦しさを覚えた。
――私は病気かもしれない。
その通り、病気だ。
恋の病だ。
政光は胸苦しさに耐えかねて、なの葉の室を出た。
しかし、自室に帰る途中、朝帰りの姿を俊広に見られた。
一番見られたくなかった相手。
気まずくなったが、その気持ちを隠すように、堂々と肩をそびやかして廊下を渡る。
「何か、用か」
「いえ、何も」
俊広の肩がぷるぷると振るえている。笑いたいのを必死で堪えている姿が余計に腹立つ。
「お前の考えていることはよくわかっている。『それ見たことか』と俺をあざ笑っているのだろう」
「そんな意地悪なものの考え方、私はしませんよ。いや、大変お似合いのご夫婦だとお祝いを述べたいところです」
「それは嫌味か」
「どうしたら嫌味に聞こえるのです?」
顔も性格も趣味でなかった女にハマって、それを自分で意識するより前に周囲に見透かされていたということ。
歯がゆい。
「もっと素直に喜ばれたらどうですか? 以前語られた殿の夢。その夢を一緒に実現する伴侶を得た、と思えばよいのですよ」
俊広は政光と年が変わらないくせに、年長者がものを諭すように言う。腹が立って、何とか言い返そうとするが、言葉が思い浮かばない。
結局口ごもる。
なの葉が来てから調子が狂いっ放しだ。
「今日は非番だ。これから寝るから昼まで起こすなよ」
言い捨てて、自室へ戻る。俊広のもの言いたげな含み笑いが背中で見えるような気がして、いっそう肩をそびやかす。
政光の朝帰りは、あっという間に郎等たちの知るところとなった。
「やっぱり『嫌よ嫌よも好きのうち』って奴?」
「その割に落ちるのも早かったね。一月ってのは」
「そうか? 俺は遅かったと思うけど」
男らは、勝手なことを言い合う。かたわらでは衣のやり取りをし合う輩がいた。
どうやら政光の初夜は賭けの対象にされていたらしい。このころ、ものの売買は物々交換が主で、中でも衣類は貨幣の代わりをしていた。
「ちぇっ、うちの殿も根性ねぇな。もう少し我慢してくれればよぅ」
「ぐだぐだ言ってねぇで早く寄越せ」
「おい、この褌、ちゃんと洗ったか?」
まったく悪い家来どもだ。
京で人々が穏やかに過ごしていられたのも、この時期までであった。
保元元年(一一五六)、都では天皇家の兄弟の諍いから、摂関家、源平一門が真っ二つに別れ、親子、兄弟、叔父甥間で、血で血を洗う争乱が勃発した。結局、弟の天皇(のちの後白河院)が兄の上皇(崇徳てんのう)に勝利するが、この争乱で人々は武士の力を思い知る。
なの葉が仕えていた男児の父源義朝は天皇方に付き、上皇方に付いた実父為義を断罪した。三百年以上途絶えていた死刑もここに復活する。
彼女の実家の八田氏は天皇方に参じて勝利軍に名を連ね、狡っ辛い異母弟知家も十七歳で初陣を果たしていた。
さて、政光らといえば、そのころ都になかった。ちょうど三年の大番役を終えて都を後にしていた。
初夏、間もなく京で争乱が起きるとも知らず、政光一行は東山道を下っていた。政光や俊広らは馬で、身分の低い者たちは徒歩で、なの葉は竹製の釣り輿に乗って。
輿の長柄に当たらぬよう市女笠を手にする彼女は、袿を被衣にした壺装束である。慣れない長旅で疲れはせぬかと政光は心配するが、本人はいたって元気である。その大きな瞳に映るもの全てが珍しいらしく、担ぎ手にあれこれと尋ね、笑わせたり困らせたりした。
政光は見かねて、
「そなたを運びながら、相手をする身にもなりなさい。おしゃべりは小休みのときに私が相手になるから、以降慎むように」
政光のなの葉への物言いは夫から妻へのそれに改まっている。
しかし、
「そうねぇ、気付かなかったわ。これからは気を付けるわね」
なの葉は相変わらずである。
都会育ちの彼女には鬱蒼とした木々の中をくぐり抜けるなど初めての経験だ。日の光に透ける新緑をその瞳に映し、きらきらと輝かせている。
――あぁ、そうだ。
と政光は思い立つ。
路傍に生える、ごつごつとした幹の常磐木から若枝を手折ると、次の休憩になの葉に見せた。
「これがそなたの名の由来の小楢の葉だ」
枝と若葉には淡色の毛が密生していて、政光はなぜだか照れた。
「これが小楢の葉ね」
なの葉はいっそう目を輝かせながら、小枝を受け取る。
都人なら、ここで気の利いた歌でも詠むものだが、政光は三年の在京をもってしても和歌の腕は上達しなかった。
――私には歌才がない。子どもたちには小さいころから仕込ませるとしよう。
自分にない才能を次代に期待する。
なの葉が当の古歌を口ずさんだので、政光はそれに耳を傾けた。
休憩を終え、再び一行は進んだ。道は狭く険しくなる一方で、この辺りは盗賊が出てもおかしくない。鎧こそ付けてはないが、弓は袋から取り出して弦を張り、いつでも騎射できるように準備した。木立の中で使えるよう弓は丈の短い半弓である。
もっとも、京から東国へ戻る一行の形はよくない。大番役で家計は逼迫し、どうしたって行きより帰りの方がみすぼらしくなる。後年、大番役は武士に負担をかけると頼朝が朝廷に交渉して半年に、さらに三ヶ月に減じられるが、それは四十年後、武家政権が確立して以降である。
田舎にいたころは、漠然と京への憧れを抱いていた政光だったが、実際に目にした都は美しいものばかりではなく、醜いものの方が多かった。得るものより失うものの方が多かった。その荒みがこの形に現れたようだ。
――ただ一つ、都で得たものは。
言うまでもない。政光は後ろを振り返る。よそ見をしていたなの葉も視線を感じたのか、夫の方へ顔を向け、笑いかける。
京で使っていた雑色の小丸であるが、よく気がつく上、彼も身寄りがないと言っていたので、下野に来ないかと誘ったが、
「お気持ちはありがたいのですが」
体よく断られてしまった。それほど都の人間にとって東国は異国なのである。
けれど、なの葉は付いて来てくれた。
心配になって一度訪ねたことがある。
「東国はあなたが思っているよりももっと鄙びたところですよ。暮らしも言葉も違って」
「大丈夫よ。私はどこでも生きていけるから」
妻は笑って言う。
確かに、なの葉であればどこに住もうがすぐに順応してしまうだろう。宮中生活から急転の困窮暮らし、さらに政光の宿所へ。何の苦もなかった。
彼女の逞しさは幼少時の環境によるものだろうか。
当時の一般的な夫婦の生活は、妻方の家で営まれる招婿婚である。もっとも妻は一人と限らず、生まれた子どもは女の家で養育する。だから宗綱が娘を放っておいたのはそれほど冷淡なことではない。責められるべきは乳母の選択を間違ったことであるが、
「父は、小さいころも時々会いに来てくれたわよ」
と、なの葉は笑う。
きっと屈託のない子どもで、宗綱も娘が端女代わりにこき使われているとは気付かなかったのだろう。夫婦の会話の中で、彼女の母親のことは話題にならない。というより宗綱が語らず、知りようがないのだとなの葉が言う。母親の身分が低いか、よほどの事情があったのだろうか。
再び、小休みとなった。だが家来たちの顔が浮かない。持っていた水筒が皆、空になったからだ。それは政光も案じていた。途中で補充しようと思っていたが、西上の際に記憶していた泉や沢に、帰途出会わなかった。この三年の間に枯れたか流れが変わったかしたのだ。
一行の不安げな顔を見て、なの葉は言った。
「お水? それなら心配ないわよ。私が見つけてきてあげる」
笠を手に、ふらふらと木立の奥へと分け入る。彼女の奇行はいつものことで、家来たちは含み笑いの顔を見合わせるだけだ。
「私はそなたの方が心配だ」
政光は馬を下りると短弓を手に、なの葉の後を追った。郎等たちは腰を上げようともしない。我が家では、北の方の面倒を見るのは主人の役目、そう思っているのか、いや、案外彼らなりに気を利かせたのかもしれない。
政光はなの葉に追い着き、追い越し、斜め前を行こうとする。
なの葉はちょっとつまらなそうな顔をする。歩を速め、政光の隣に並ぶ。
「ねぇ、一緒に歩きましょうよ。どうせなら手を繋がない?」
なの葉は笠を持たぬ方の手を差し伸べた。
「えっ・・・・・・?」
政光は真っ赤になってなの葉を見た。男女の手つなぎなど性行為の一種ではないか。
「いいじゃない。誰も見ていないわよ」
大胆だ。政光は大いにうろたえて、立ち止まる。
「さぁ、行きましょう」
なの葉は政光の手を取って、どんどん前に進む。
政光は赤面しながら、妻に続く。
「ねぇ、殿、次の旅は、私も馬に乗りたいわ。高いところから見る景色っていいものでしょう?」
「確かに見晴らしの良いものですが、落ちてけがでもしたらどうします。やめて下さい」
政光は妻のことが心配でならないのだ。それが彼女を不自由にさせるとも知らず。
「あら、ずるいわ」
なの葉は夫の顔を覗き込むように見上げる。きゅっと強く握り締めた手を、歩みに合わせて振る。彼女には他愛ない遊戯でも、彼には前戯を受けているようなものだ。動揺の余り、言葉遣いが出会ったころに戻っているのにも気付かない。
政光はいたたまれなくなった。しかし、妻の手のひらからは熱っぽいものは全く伝わってこず、何やら自分だけがときめいて損をしたような気分だ。
仕返しをしたい気持ちになって、引っ張られる手を掴み直すと、ぐっと妻の身体をこちらへ引き寄せた。その勢いでなの葉の市女笠が足元に落ちる。
夫の胸の中に捕らえられたなの葉は、夫の顔を見ずに、
「あのね、京では言えなかったことがあるの」
ここで彼女の声調が変わる。
「だからと言って、あなたの故郷で聞いてほしいことじゃないの。旅の途中の今ここで、聞いてほしいことがあるんだけれど」
「あぁ、うん」
「何にも知らないって言ってた私の母のことだけど・・・・・・」
なの葉は、夫の胸に語りかけるようにしたが、
「うん、うん」
「って、殿! ちゃんと私の話を聞いてないでしょ!」
妻が抗議の声をあげても、政光は「うんうん」うなずくばかりで、
「もういいわ。殿にはもうお話しないから!」
なの葉がぷんぷん怒り出しても上の空だった。
「男の人って全然女の話を聞いてくれないのね」
その通り。
今の政光には妻が口をぱくぱくさせているようにしか見えていない。
その顔に、己れの顔を覆い被せようとする。
けれど、当のなの葉は大きく目を見開いたまま、くんくんと鼻をひくつかせたので気が削がれた。
「ねぇ、水の匂いがしない?」
「水の匂い?」
政光は周囲を見渡すが、「そもそも水に匂いなどない」と、少し不機嫌になる。
「そんなことないわよ。水にだって匂いはあるわ」
政光の胸からぱっと飛び出し、なの葉は走り出した。
政光も妻のあとを追う。
なの葉のむかう方向へ走り続けると、その先からどうどうと水の轟きが近づいてきた。
鼻腔をくすぐる硬質な冷気。
――なの葉の言う水の匂いとはこのことだったのか。
木立が途切れ、明るい日差しの中になの葉は跳び出そうとした。
「危ない!」
その先は崖だった。間一髪で、政光がなの葉を抱き留める。宙に浮くなの葉の足の先には、渓流が渦を巻きながら下っていた。
「わぁ、びっくりしたわぁ」
そう言いながら、大して驚くようすでもない。政光の方が余程心臓が縮み上がるかと思った。
「これだから、あなたを一人にしておけないのです」
手にしていた弓の弦でなの葉が怪我をしないよう気を遣いながら、彼女の身体を安全な場所へと下ろす。
「でも、ちゃんと水のありかを探しあてたでしょう」
得意げになって笑いかける妻。
政光は怒る気も失せて溜め息をついた。
「都会育ちのあなたが、どうして水の匂いを嗅ぎあてられるのですか」
「さぁ、よくわからないわ。でも、都にいるころも井戸を掘り当てたことがあるの」
「腕力以外にも特技があったのですね」
感心していいのか、呆れていいのか、わからない。しかも、なの葉の不思議はまだまだありそうだ。
――一緒になって半年も経つというのに。
「それで、これからどうします? 水場が見つかったは良いですが、どうやって水を得るのです?」
渓流までは三丈(約九m)ほどの高さである。
「えっと・・・・・・」
崖の縁に跪くようにして、谷を見下ろした。そして右手を指さし、
「見て! けもの道があるわ。きっと鹿や猪が水を飲みにくるのよ」
政光も妻を真似て谷を覗き込むと、確かに動物が踏み歩いてできた小径がある。
「だから何で、都会育ちのあなたがけもの道とか・・・・・・、いえ、もういいです」
なの葉の不思議をいちいち不思議がっていてはキリがない。
「馬を下ろすのは無理だが、人間の分は確保できるな。郎等たちを呼んでくるか」
独りごちる政光が横を向くと、すでになの葉は駆け出していた。やれやれと身体を起こし、土のついた膝をはたく。そのとき、
「きゃぁぁぁ」
妻の悲鳴に、とっさに顔を上げた。足を滑らせて、谷に落ちたか。違う。なの葉はそこにいた。だが、彼女のすぐ横に見知らぬ男。なの葉の身体を抱きすくめるようにして、その首へ山刀をあてていた。
――山賊!
とっさに矢をつがえる政光のかたわらに、ばらばらと仲間の盗賊たちが現れる。
三人。皆、弓を構えていた。
――付けられていたか。
なの葉にかまけ、警戒を怠った己れを恥じた。
「仲がよろしいのはいいけれど、少しのん気過ぎたね。お侍さん」
賊は政光の心を見透かしたように挑発する。そうして出方を見極めようとしているのか。
「この女はいただいていくよ」
それから、男は、なの葉に目を移した。
「あんた都の女だね。都の女は高く売れるからいいよね」
山賊のねらいは何も旅の荷駄だけでない。女をさらって遠国に売り飛ばせば、いい稼ぎになる。
「でもあんた、もっと美人だともっと良かったのにねぇ」
なの葉の波打つ髪を手に取って、匂いを嗅ぐ。
政光はかっとなって、弓弦を引き絞る腕に力を入れた。男の眉間に矢壺を定める。
「おっと」
男はなの葉の髪を引き掴んで自分の身体の前に押し出した。
弓には自信がある。だが万一なの葉に当たりでもしたらと思うと、弓弦を手放せない。
この男が頭目なのか、目で手下に合図し、政光の右手を囲む男たちは、その弧を縮める。左手は崖。緊張は限界に達する。だが、この弓を下ろしたら自分は男たちの矢の餌食だ。なの葉はどうなる。政光の腕がぶるぶると痺れ始めた。
「さぁ、もうあきらめなよ。弓を下ろ―――」
頭目は最後まで言い切ることはできなかった。
なの葉の勢いよく上がった右足が男の膝を蹴りつけたのだ。
「痛ぇぇぇっ、膝の皿割れた!」
うずくまる頭目に見向きもせず、政光は素早く身体をひねった。仲間の災難に気を取られている盗賊どもへ、斜め前の男に一の矢、右手の男に二の矢。
――あと一人!
矢を継ぐ間はない。地面に転がる。すぐ上を男の放った一の矢が過ぎる。地面に手をついて真上に跳ね上がる。その場に二の矢が突き刺さった。
男と目が合う。同時に胡簶へ手が伸びる。矢をつがい、矢壺を定める。あとは政光の方が速かった。引き絞った弓弦から矢が放たれると、真っ直ぐに男の左目を突き抜け、頭蓋を穿った。三人の男はたった数瞬で絶命した。
「このくそあまっ!」
頭目は手下の死にも気付かず、怒り狂ってなの葉の髪を掴んで引き回した。
振り向いた政光の弓には矢が番えてあった。
頭目がなの葉を崖下に突き落とすのと、政光の右手から弓弦が離れたのは同時だった。
「なの葉っ!」
彼女が立っていた場所に駆け寄った。足が勝手に頭目の死体を蹴りつける。
政光は崖の縁に手をついて見下ろした。
轟々と渦巻く水の流れ。
弓を置き、引き千切るようにして胡簶を外す。
彼は無謀にも渓流へ跳び込もうとしたのだ。
と、そのとき、突然、目の先にある水面の一点が光った。
光は幾筋もの光線に別れ、辺りを目映く照らし出した。
政光は眩しさに目を細めた。
中心の波頭の一つが空中へ引き寄せられるように渦を巻きながら立ち上がる。
呆然と見上げる政光へ、天に向かってそそり立つ水の柱は徐々に形を現す。
水の煌めきの一つ一つが青き鱗に変じ、頂きは見覚えのある生物の顔に。
あるときは先祖代々の鎧の意匠に、あるときは氏神の祠の御神体に現される、我らの護法神、伝説の霊獣―――
――青龍・・・・・・
その前肢には、ぐったりと喪心したなの葉を抱えて。
政光は思考を失った。
龍神の差し出す妻を受け取ると、そのまま腰を抜かし、地面に座り込む。
龍神は、再び波頭に姿を変えながら、ゆっくりと政光の視界から消えた。
なの葉の不思議は不思議を超えていた。
政光は腕の中にある己れの妻を見た。
なの葉は馬に乗って大地を駆ける。山頂にはまだ雪が残る北方の山々を背景にして。
それを政光がはらはらしながら見守る。
馬に乗りたいという妻の望みを叶えてやったのだが、彼の心配は尽きない。
しかしなの葉は平気だった。馬にもすぐ馴れ、というより懐かれ、すぐに乗りこなしてしまった。なの葉の不思議。しかし今となっては小さな不思議でしかない。あの霊威を見てしまった後では。
龍神の出現は誰にも話していない。
しかし、その神意に胸を衝かれた。
自分となの葉は結ばれるべくして結ばれたのだと。
政光は神代の国造りの物語を思い起こした。
イザナギ命とイザナミ命の神話。
非力な人間たる己れらを、神々に譬えるとは罰当たりもいいところだが、これは我々に与えられた責務なのだと覚える。
新天地を切り開くということ。
なの葉は水の善し悪しを見極める。大地に眠る水脈を探りあてる。まるで巫女のように。実際、彼女はその出自から神々とも縁深い。なの葉の不思議を訝る人々へはそのように説明した。彼らは理屈を欲しがるのだ。
なの葉自身は東国に来てからも天真爛漫に振る舞った。
武士の妻らしくしてほしいところだが、多くは望まない。ただ、先のイザナミ命の譬え。彼の女神は最後の子どもを生んだ後、邪神となってしまったが、そこは違えてほしい。彼女が悪意の塊のような存在になるなど、あり得ないことだが。
平治元年(一一五九)、先の争乱の勝者同士が仲違いをし、都では再び争いが起きていた。この乱で源氏のほとんどが敗者にまわり、その中でなの葉が以前仕えていた子息は伊豆に流された。下野からも源氏の勢力は半減し、政光はこの機に本拠を下野に移すことを決意した。
方々に足を伸ばして、新しい土地を探し、最後はなの葉が気に入った土地を選んだ。
下野南部、思川の流れる大地、小山を新天地と定める。
関東北部の山々から集められた水流はいったん地下に潜り、やがて気まぐれに地表へと顔を出す。小山はいたるところに良い湧き水があった。土地は肥沃で水はけもよく、耕地として開発するには条件が恵まれていた。政光は領民たちの先頭に立って開拓にあたった。
己れらが切り開いた土地。しかし、これを真の意味で自分のものとすることはできない。中央の有力者へ寄進する形をとり、荘園の管理者として経営を任されるのだ。政光にはそれが歯がゆくてならなかった。
――きっと、こういう思いをしているのは自分一人ではないはずだ。
それでも領地は苦労の甲斐あって、年々豊かになっていく。
また、中央への土地の寄進が効を奏し、秀郷の後裔たる政光は己れの代で再び国衙に席を得る。
関東へ移って二年目、最初の子どもを産んだとき、なの葉が言った。
「あのね、殿。この子の幼名に付けたい名前があるの。一字でいいから。『犬』って入れてほしいの」
「それは、どうしてですか?」
「うーんと、何となく」
「何となくでは駄目ですよ」
子どもを丈夫に育てるため犬の一字を入れるのはよくあることだ。だが、都での生活で政光は嫌な光景を見た。道端で人の屍肉を喰らう犬である。また宮中では犬狩りといって、内裏に棲みついた野犬を追い払う行事があり、上つ方から犬は忌み嫌われていた。さらに自分たちが貴族の番犬に例えられることもあって。
「ふーん、じゃあいいわ」
妻も無理強いはしない。
「この子は『四郎』を継がせるからな」
政光は生まれたての我が子を見て言った。
四男坊の彼は四郎の通り名だが、彼の父親も同じ四郎の通称で『太田四郎』と名乗っていた。一方、政光の兄弟はそれぞれに独立心が強く、名字も本領も違えている。彼も太田を継ぐ気はなく、この数年後『小山四郎』を名乗る。
「四郎の跡継ぎには四郎ってことさ」
政光はご機嫌である。
独立心旺盛な人にありがちだが、子どもに己れを押し付けているとは気付いていない。
その彼へ、妻は、
「そうね。四郎さんって呼べば、二人同時に振り向くから便利ね」
「・・・・・・私だけ、あるいは息子だけ呼びたい場合はどうするんですか」
通常は息子の方を小四郎と呼ぶのだが、
「ええっと、『若い四郎さん』と『年取った四郎さん』かしら?」
「そんな、私をいじめる気ですか!」
「うそうそ、殿にはこれまでどおり殿って呼ぶから」
妻の方は、小山に入ってからは領地を流れる思川にちなんで、思の方と呼ばれている。
その後も夫婦は次男、三男と子宝に恵まれる。ちょうど五歳ずつの年の差である。
「殿って器用ね」
「えっ、私、ですか?」
それはともかく、成人した次男には五郎、三男には七郎と通称を定める。六郎が抜けているのは何代か前に不幸な人が出たためだ。これを始めに小山宗家では代々長男四郎、次男五郎、三男七郎が倣いとなる。
子供らに囲まれ、忙しく充実した日々。
この間、都では戦乱が絶えず、思の方の父方の一族は、宗綱の実父の縁を頼って宇都宮に居を移した。小山と宇都宮はそう遠くない距離にあり、政光は宗綱一行を歓迎し、これからは縁戚として協力することを申し出る。
年老いた宗綱は宇都宮を朝綱に、八田を知家に継がせて隠居し、政光は彼らとは互いに親しく行き来した。
政光には宗綱に訪ねたいことがあった。
妻の母はどのような人だったのか。
いつか聞こうと。
しかし、舅は間もなく身罷り、その問いを発する機会は失われた。
こうして二十年余りが過ぎた。
政光は領地の拡大に伴い、思川沿いに祇園社の社殿を築いた。
祇園社は悪疫を防ぐ牛頭天王を祀ったもので、その后神は龍女とされている。後に神社は小山を代表する城に発展する。
治承年中、大掾として国衙の実質の長にあった政光は、再び大番役を命じられ、嫡子四郎朝政を連れ、下野を留守にすることとなった。
三年も思の方と離れていなければならぬとは、心配で心配で後ろ髪を引かれる思いだ。
「一緒に、京へ連れていくことができたら……」
政光がうっかり息子たちの前で口にすると、
「親父がいなくたって、お袋は平気だよ」
「それより母上がいないと父上は元気がなくなりますから、そちらの方が心配ですよ」
言いたい放題の息子らの悪口はいったい誰に似たのか。
その年(一一八○)の四月、以仁王が平家追討の令旨を発し、これを受けた頼朝が八月、伊豆で挙兵する。東西手切れとなった京では、大番役にあった東国の武士たちを平氏政権が監禁する事態となった。
「親父、大丈夫かよ。本当に心配される方の立場になったよな」
九月、一度は伊豆で破れた頼朝も海を渡り、房総半島で立て直しを図る。安房、上総、下総、武蔵と、入り海をぐるりと巡り、父祖由来の鎌倉へと向かいながら、近隣の武士を糾合し強大な勢力に成長させていた。
これらの報せを受けた下野の思の方は、居ても立ってもいられぬようすで、
「若君に会わなくっちゃ!」
「若君って?」
「あぁ、伊豆で旗揚げした前佐殿?」
若君こと、佐殿こと、前右兵衛佐源頼朝。
彼こそ、思の方の女童時代の幼主であったが、父兄に代わり留守を預かる息子たちは困惑した。
北関東では、南関東の動向は一拍遅れ、さらに幾分弱まって伝播する。今回の頼朝旗揚げの騒動も下野に寄せられる情報はどれほど正確か。すでに小山へも頼朝の使者が訪れていたが、実際の規模や内容を見極めた上で、と考えていた矢先だった。
「みんなも一緒に行くのよ」
思の方は慌ただしく支度を始める。
「俺は嫌だよ。留守居番の役目があるからな、ここに残る。下のちびだけ連れてってよ」
先年元服を果たした五郎宗政であるが、反抗期から抜けきってないらしい。口を尖らせて、弟の方を指さした。
末っ子で素直な彼の弟はまだ何の疑問も持たず、
「ぼく、母上と一緒に行きます」
小旅行に行くつもりで喜んでいる。
「けど、ちょっと待てよ。都では親父や兄貴が人質同様に召し込められてるってのに、ここで佐殿の旗下に降ったとなれば、二人の立場が・・・・・・」
「ううん、とにかく今すぐ駆け付けた方がいいような気がするの」
「そんな、気がするってだけで決めていいのかよ」
しかし、宗政の忠告を振り切るようにして、思の方は末息子を連れ、頼朝の滞在する武蔵隅田宿を目指した。
数日後、思の方は、
「お土産いっぱいもらっちゃったぁ」
にこにこと明るい笑顔で帰宅した。反して、お供の家来たちの顔は青ざめている。
「あぁ、楽しかった。二十何年かぶりになるのに、若君はちゃんと私のことを覚えてくださっていたの。一緒に遊んだこととか。ふざけすぎて障子を破ったこととか。他の乳母に怒られたことか。思い出話に花が咲いたわぁ」
土産物を目の前に積み重ねながら、思の方のおしゃべりは止めどなく。
この母とよく会話が成立できたなと、宗政は、全く違った意味で頼朝という男を尊敬してしまう。
ここで、宗政が首を傾げる。
「あれ、ちびは? 姿が見えないけど」
「それがねぇ、聞いてよ。若君、じゃなかった、佐殿があの子を近習に取り立ててくれたのよ。しかも佐殿自ら烏帽子親になって元服させてもらったの」
頼朝から一字を与えられ朝光と名乗り、鎌倉で近侍するというが、
「それって、体のいい人質じゃないか!」
宗政は真っ青になってぶるぶる震え出した。
「何? そんな怖い顔して。人質なんて人聞きのわるい。そんなものじゃありません」
ここで、すっと母の目つきが変わった。
「若君には私の他に、何人か乳母がいたのだけれど――」
他の乳母たちは頼朝が伊豆に流されてからも、実の息子のように援助を惜しまなかった。食べるものや着るものを送り、中には縁戚にあたる貴族が都の情勢をこまめに知らせ、今回の挙兵に役立てたという。
「それに比べて、私は何もしていない」
思の方は、そう言って息子を見た。
乳母といっても、乳を与える女性だけを云うのではない。養育係の全てをそう呼ぶ。女童だった思の方も乳母であり、朝政以下三兄弟は頼朝の乳兄弟の関係にあたる。
「けど、情に流されてちゃ・・・・・・」
「もう一つあるの」
宗政の言葉をさえぎる母の、常にない真剣な眼差しに彼は耳を傾けた。
「うちの殿がいつも言ってたでしょう。自分たちが開拓した土地を自分たちのものにできないのはおかしいって。佐殿はそれを正そうとしているのよ。だから関東の南では、武士はみんな佐殿のもとへ駆けつけているのよ」
「みんなって?」
思の方は指を折って数え上げる。
旗揚げ当時からの御味方は三浦氏、土肥氏、工藤氏、岡崎氏……舅の北条氏、それから、源氏の同族佐々木氏。これに加え、房総に逃げ延びてから合流した下総の千葉氏、上総の・・・・・・
宗政の顔の強張りは解ける。
そして、また別の緊張が宿る。
「おふくろ、今話した内容を宇都宮と八田の叔父貴たちに書き送ってよ」
宇都宮朝綱は、政光と同様大番役で在京していたため、弟の知家や従弟たちに留守を任せていた。
思の方は息子の言葉に深くうなずくと、手早く弟たちへ手紙を書いた。間もなく知家らは一族を連れて頼朝の旗下に参じた。下野と常陸の豪族がともに頼朝の軍勢に入ったことは、情勢を見守っていた北関東の領主たちの決断の端緒となった。「他の者に遅れてはならじ」と、次々に鎌倉へ参じたのである。
「八田の叔父貴が選んだんだから、ある意味安心だよな。なんつうか嗅覚の鋭い人だからさ」
こうして関東に大武士団を形成した頼朝の闘いは、後の人々の知るところである。
富士川の戦いで、討伐軍として平氏の軍勢に参じた長男朝政と、次男政は敵味方に分かれた。
これに先んじて思の方は、
「四郎さんにはこっちに寝返るよう文でも送りたいけど」
母の言う『四郎さん』とは、夫の四郎と息子の四郎の両方を指す。
「使いの人間が取っ捕まって親父の立場が悪くなったらどうすんだよ」
「そうなのよ。だから、毎晩お祈りするの」
「祈るって・・・・・・」
「毎晩、四郎さんの夢見に現れるのよ」
「そんな、それこそ夢みたいな・・・・・ けど、おふくろが言うと効果ありそうだよなぁ。でも、毎晩おふくろに現れちゃ親父はともかく兄貴は・・・・・・ いや何でもない」
平家方は父と兄、二人をともに戦場へ立たせることはしないだろう。おそらく父を人質に、若い兄を参戦させると予想はつく。それが足枷にならねば良いが、全ては朝政の意志に委ねるしかない。兄もまた父から『夢』を語られて育っている。
――自分たちはどうあればいいか、兄貴ならわかっている。
それを信じて、宗政は頼朝の軍勢に参じた。
果たして、水鳥が飛び立つ音に大軍が襲ってきたと勘違いした平家の軍勢は、戦わず敗走し、そのどさくさに紛れ、朝政は関東方に投降する。
思の方の事前の取りなしもあって、朝政は大した問責も受けずに解放された。
宗政は、
「兄貴!」
朝政との久しぶりの邂逅に抱きついてやろうと思ったが、周囲の目もあり、やめた。
「こういっちゃなんだけど、兄弟で戦うことになったら、どうしようかと思ったよ」
「何だ。お前は、私を信じていなかったのか」
兄が日ごろ何を考えていたのか。
「信じてたって! けど、親父のこともあるから万一のことだって考えるよ」
その政光は、未だ平家に囚われたままだった。
彼は平家が凋落して後、ようやく解放された。
「えっと、毎晩おふくろの夢見なかった?」
とは宗政も聞けなかったが。
源平合戦終結後、京での軟禁生活ですっかり年を取った政光は、頼朝への奉公は息子たちに任せ、下野の経営に専念した。妻のおかげで小山一族は主君のおぼえもめでたい。
自身も鎌倉殿との主従関係を忽せにせず、頼朝が奥州征伐のため下野を通過した際には心を込めて持てなした。
だが、その宴の場で、政光はやらかしてしまう。
関東の大軍勢を率いる頼朝を、下野国司である彼は恭しく出迎えた。
自身は老齢のため追討軍に加わらないが、主君に近侍する息子らを誇らしげに見ながら、ありあまる佳饌と美酒を用意し頼朝に奉仕した。
「妻女は息災か。せっかく下野に来たのだから、一言くらい声をかけてやりたかったが」
「数万の兵を率いる鎌倉殿に気後れして、この度は遠慮しました。また別の機会にでも連れてきましょう」
思の方が頼朝の乳母といっても、二人は九歳の年の差である。肉親との縁薄い彼は、姉のように親しんだ乳母が不参と聞き、少し落胆したようなようすをみせる。
政光は、そんな主を慰めるようにして酒を勧めていたが、ふと紺色の直垂を着た若武者に気付いた。
同じ家格の者であれば、顔くらい知っているはずだが、生憎と見覚えがない。
政光は頼朝へ若者の素性を訪ねた。
すると、主君曰く、
「紹介しよう。本朝無双の勇士、熊谷小次郎直家だ」
――本朝無双?
これを聞いて政光の鼻息が荒くなった。
「鎌倉殿は何をもって、この者を無双と言われるのです?」
「熊谷直実の一ノ谷戦の働きはそなたも聞いておろう。父親ともども私のために命を捨てて戦い、他にも多くの功績を挙げている」
直家の父直実は、平家の公達、敦盛を討った有名な武蔵の武将である。
政光は声を立てて笑った。
「主のために命を捨てるのは武人として当然のことで、直家に限りましょうか。それに直家程度の家格では郎等の数も知れたものです。自らもって奮戦し、名を挙げるしかないのでしょう。その点、私ほどの者になりますと、一族の者や家来たちを遣わせて手柄を立てさせればよいと」
彼は憶するふうもなく、
「まぁ、息子らには今回の合戦で『無双』の御旨を賜れるよう、我が身を尽くせと申しておきましょう」
大胆にも主君を前に言ってのける。
政光もまさか二百年後、己れの子孫が家格どころか住む家さえ失い、自ら弓持ち太刀持ち奮戦し、『無双の兵』と呼ばれることを知る由もない。
頼朝は機嫌を損ねたようすもなく、政光の瓶子を受けたが。
すぐ後に、息子たちから、
「ひやひやしましたよ。ご不快を受けるかもしれないところだったんですから」
「俺だって御所殿相手にあんな口は利かねぇぜ」
老人の不注意のように息子たちに言われて、政光はしょぼくれた。
政光が主君に過ぎた口を利いたことは、彼なりに理由があったのだ。
遡ること源平合戦で彼の留守中、末の息子が頼朝の烏帽子子となり、朝光という名前まで与えられ、さらに近習に取り立てられたことに端を発する。
頼朝の三男へのはからいは特段にすぎ、御家人の間で、
「本当のところ小山七郎は、鎌倉殿の隠し子では?」
と云った噂が流れたのである。
少年主人の初事に乳母が体を張るというのは、京ではよくあることだ。恐れ多くも二代前の高倉帝も中宮徳子の前に、乳母に子どもを産ませている。
九歳の年の差、というのも妙に生々しい信憑性を帯びて、
「佐殿が京にいたのは十四歳、とすると相手は二十三歳か。いいねぇ」
などと噂する。
――何がいいものか!
政光は噂を広めた人間を片っ端からぶん殴りたい気持ちになった。
頼朝が思春期のころは、すでに思の方は政光の妻として下野にあり、後に流刑先となった伊豆になど出かけたこともない。
――馬鹿言っちゃいけないよ。
嬉しくもない悶々を胸の内に抱えていたところへ、当の頼朝が下野に訪れることになったのだ。
これを聞いて、思の方は、
「わぁ、私、精一杯お持てなしするわ!」
と、張り切るものだから、政光は慌てて、
「いや、今回は遠慮しなさい」
頼朝に会うのを止めさせたのである。
主君の手の早さは政光の耳にも届いている。また、思の方も年を取りにくい体質なのか見た目は未だ女盛り。旧交を懐かしんでいるうちに、とんでもない『お持てなし』を求められたらと、政光は気が気ではなく、そういった彼の心労が先の過言を生んだのである。
かほど己れが心を砕いてお仕えしているに、他家の人間を褒めるなんて、と。
だのに息子たちから、やいのやいの言われ、頼朝の軍勢を送り出した後、政光はぐったりとなった。
――あぁ、鎌倉などに仕えなくて良かった。もし私が鎌倉に住まねばならぬことになったら、毎日が心配事だらけだ。
政光は、安堵の溜め息をつく。
――鎌倉殿の偉大さはよくわかるのだが。
体が許せば、今だって奥州征伐に参じたいと思っている。
武門に生まれながら、ほんの少し場所や時期を違えたために、大きな合戦を経験せずに生を終えることが口惜しい。
己れの命を懸けて戦いに身を投じたい。そんな思いがふつふつと沸く。
頼朝が挙兵した際、都の殿上人は驚きの余り、「平将門の如し」と騒いだ。
反乱者として、まさに『第二の将門』と怖れられたのである。もっとも、貴族らは頼朝からの賄賂で、簡単に懐柔される。この方策は奥州藤原氏に倣ったもので、彼らもまた独立性の強い広大な領地を支配していた。公卿らは先から目先の欲に囚われ、知らずに国土の支配権を放擲していたのである。今まさに起ころうとしている戦いですら、武人同士の勢力争いとしか捉えていない。頼朝が己れらの政権を脅かそうとしているなど思いもせず。何故の奥州征伐と。
彼らは源平合戦の際も同様であった。
源氏と平家、二大武門の勢力争いとしか考えず。
頼朝のもとへは、三浦、和田、畠山、北条・・・・・・ 清盛らと同じ桓武平氏の末裔にして、東国に根を張る武将――東夷らが、すべからく参じていたというのに。彼らの真の敵は、地方の自立を阻む、他ならぬ中央政権であったのに。
ただ、此度の奥州合戦も、結果はすでに決まっている。
征討軍は間違いなく勝つだろう。奥州は義経を殺し、朝廷を動かし、頼朝の足元に這いつくばるようにしてまで戦いを回避しようとした。それは合戦に勝つ見込みがなかったからである。
けれど、頼朝は合戦を決定した。
前後のようすは鎌倉の息子たちの手紙から伺えた。
源平合戦で活躍を見なかった者が、街中をうろついている。
「また、戦さでも始まらぬか」
幕府内でも合戦を待ちわびる声が高まり、
「次の敵は奥州か」
逸る血気を持て余した武士たちは、膨大な数に上ったという。
挙兵以来、頼朝は武士たちを糾合するため、『ご恩と奉公』の原則を示した。働きに見合った報賞を与えるという原理だが、貴族から見返りなしに遣われていた彼らにとってきわめて画期的な制度であった。だがそれは、欲に逸った武将たちの暴走という諸刃の剣ともなりうる。
彼らを正面から制しようとすれば、生まれたての鎌倉の主権など、あっという間にひっくり返されてしまう。故に、彼らの目先を奥州という土地に向けさせねばならなかったのだ。
頼朝は彼らの熱気に乗った。乗りながら彼らの制御を試みた。武将らとの間に強固な主従関係を築き、己れらの威光をあまねく知らしめる。そして奥州制圧後は敵対する勢力はいなくなる、つまり所領が増える機会はなくなる、という事実を徹底させようと。奥州討伐は、そのための儀式だったのだ。
ちょうど平家方から没収した領地に地頭を配置したものの、彼らの起こした不品行が問題になり始めたころだ。
年貢の滞納、領地の横領、国司との諍いと、朝廷から数多くの苦情が届き、鎌倉には頼朝を頂点とする強力な幕府の統制が必要とされた。
余人は結果をもって、彼が旗揚げの当初から東国を基盤とした武家政権の設立を目論んでいたかのごとく錯覚する。しかし当時、たかが一流人の身上で、それ程のことを考えていただろうか。この時期、中央の支配に対して、各地の有力者が様々に反抗を試み、彼の旗揚げは、そのうちの一つでしかなかったのである。
ただ云えることは、中央政権に抑圧されていた東国の武士たちが、かつての主君の子息を放っておかなかったことだ。頼朝は彼らに応えた。彼らもまた頼朝に応えた。
『清和源氏の正嫡』という存在に糾合し、力をつけ、さらに人が人を呼ぶということをくり返し、強大な勢力を形成する。
源頼朝という顔があり、集まった御家人が体幹を為し、軍勢という手足が生える。
まるで巨大な生き物。
行き場が無ければ自滅する他なかったそれは、常に目標をちらつかせることで制御可能となった。時代も彼らの背中を押した。貴族社会が行き詰まり、以仁王の令旨をきっかけとし、平氏や木曽義仲といった戦う相手も宛がわれた。東国武士は西進とともに、諸国を配下におき、その力を示した。
己れらが選んだ主君を珍い。
斯くして、それは奥州討伐に全国の武将を動員したところで完成を見る。遠くは九州、征西中は敵方にあった武将まで組織したのだ。頼朝が一介の流人であったことは人々の頭から切り離され、誰もが至高の存在として仰ぎ見、彼の政権を受け容れる。
高められた武士の権威と権力。
それはかつて、東夷と蔑まれた彼らの夢そのものであった。
彼我の境目などない。頼朝、近臣、その他の武将の、さらに配下の兵たち。皆、全体の一部であった。
そして、土地に根付き生きてきた者たちは手にした。
己れらの自由と自立を。
奥州の息子たちは、源平合戦での不足を補うように、大きな活躍をみせた。特に末子の朝光は、霧を味方につけ敵を撹乱し、敵の副将を打ち取ったという。
政光は息子たちからの報告に満足した。ただ、その余話に聞き捨てならぬものがあった。
緒戦前夜に頼朝の陣屋近くに落雷があったというが。
何かの障りかと恐れる御家人たちへ、頼朝は、
「何、我らには、龍神の加護を受けた秀郷公の末裔がいるではないか」
三兄弟を盾に、武将らをなだめたというが。
下野小山氏と奥州藤原氏は先祖を同じくする。
――前夜の雷電は、我らの護法神の起こしたものこもしれぬ。
龍神の怒り、あるいは身内同士の血闘を戒めようとして……
けれど、避けえぬ戦いにあって、
――護法神はこちらを選んだか。
子どもたちは合戦の功績により奥州に多くの所領を得た。京・鎌倉に邸宅を所有し、幕府内で重きをおき――政光の代では考えられぬほどの繁栄を手に入れた。
奥州征伐の二年ほど前、文治三年(一一八七)、頼朝は小山庄近くの寒河郡、ならびに網戸郷の地頭職を思の方に与えていた。
「これ、女性たりと云えども大功有るによって也、云々」と。
彼女が小山氏のみならず実家の宇都宮氏にも働きかけ、北関東の勢力を頼朝方に向かわせたのが最たる功であろう。
――よく考えると、我が妻はすごいものだ。
思の方は、東西、公武、それぞれの最高権力者に仕えた上、東国武将の命運を左右したのである。
武士のように合戦で勝つ、官僚として政治を執る、そんな歴史の表舞台での活躍というわけではない。
だが、妻の判断が東国の独立につながったことを、政光は知っている。
思の方は歴史的決断をした女傑、と云えないこともない。
もっとも、当の彼女はそんな肩書きとは程遠く、相変わらずほわんとして、つかみどころのない会話で侍女たちを困らせていた。
当時の武士の妻、母というものは尊敬され、重みある立場で本人も自覚をもって振る舞うのであるが、何事も例外はあり、思の方は何歳になってもこの調子で夫を心配させていた。
政光は老い、病に倒れると、己れの死後のことを考えてか、
「儂は心配でならぬのじゃ。そなたらの母は儂がいないと生きていけない人じゃから」
幕府の権要となった息子たちを小山へ呼び戻して、泣きついた。
「大丈夫だって。お袋は親父が思っているほど弱くないから」
「私たちが付いていますから心配は無用ですよ」
子どもらは父を安心させようとした。
そして、政光が臨終も間近というころ、息子らは両親を寝所に二人きりにした。
政光は枕頭の妻へ、震える指で部屋の隅の長持を差した。
「開けるのね?」
妻の問いに、政光はゆっくりうなずく。
思の方は長持に歩み寄ると、大きな木蓋を軽々と持ち上げた。
途端に目が眩んだ。
あふれる光と色彩に。
金泥銀泥を塗り、とりどりに彩色された幾つもの檜扇、紙扇。
菊、牡丹、紅葉に流水、松や鶴亀、その他、花鳥風月、吉祥模様をこちらにひろげ。
「殿、これは?」
扇の一つを手に取り、思の方は不思議そうに政光を見た。
政光は顔をほころばせながら、妻を見返す。
「・・・・・・あなたの、喜ぶ顔が、見たかったのです」
知らず知らず、政光の言葉遣いは二人が出会ったころのものへと還る。
お気に入りの扇をなくしてしまったなの葉へ、
「私が買ってあげますから」
そう、初めて二人が出会った日に交わした約束。あれは政光の心よりの言葉だった。
京にいたころは自ら市へ買い求め、下野に戻れば京より取り寄せた。
――妻の喜ぶ顔が見たい。
二人が交わした初めての約束。満足のいくものをと、集めに集めた。
けれど、渡すきっかけを失ったまま歳月が流れた。
「・・・・・・どうですか? 気に入ったものは、ありましたか?」
「はい、殿、これも、それも、あれも、皆、大好きです」
輝く笑顔を夫に向け、妻は腕一杯に扇を抱えて部屋を歩き回ると、それを政光の床の周りに散らした。
ひらひらと舞い落ちる扇たち。
室は目に鮮やかな花園と化す。
金泥の反射が眩しいのか、政光は目を細めながら、
「まるで、極楽浄土のようですね」
「いやねぇ、殿、まだ死んでもいないのにそんなことを言って」
夫婦は顔を見合わせて笑った。
妻は枕元に座る。夫はそっと手を差し延べ、その手を握ってもらう。
「幸せにしてくれて、ありがとう」
「こちらこそ、幸せにしてくれてありがとう、ですわ」
妻はにこにこしながら反唱する。
「子どもを産んでくれてありがとう」
「こちらこそ、子どもを授けてくれてありがとうです」
「今まで一緒にいてくれてありがとう」
「こちらこそ、今まで・・・・・・」
その後の言葉が途切れた。
「私は先に行ってしまう。必ず向こうで待っているから」
ぽろぽろと涙をこぼす夫に、同じく頬を濡らす妻。
言うべき言葉が見つからなくて、代わりにぎゅっと手を握り締めた。
部屋の外では息子たちが涙を堪えて、
――何か、言ってやれよ。お袋よぅ。
――いいんですよ。夫婦だもの。言葉なんていらないんですよ。
相思相愛の夫婦だった。
二人の愛が小山一門の結束の源だったと知る。
夜、意識を失った政光が翌日息を引き取ると、同日、思の方は髪を落した。
その後、彼女は頼朝から与えられた寒川荘に移り住み、以降、寒川尼と呼ばれる。
当地で邸を構え、在家のまま経を読み、政光の菩提を弔う。
後家尼として暇を持て余しても良いところを、尼は以前と同じように家人を笑わせ、毎日を賑やかに暮らした。長持ちや炭櫃をひょいと持ち上げ、侍女を慌てさせるのも相変わらずだ。
やがて尼は近隣の有名人となった。
どこで聞きつけてくるのか、寒川尼の話は面白い、下手な坊主の説教を聞くより、心が洗われると噂が広まり、迷える女性たちが尼寺に向かうように彼女の邸へと集った。
尼もそれを分け隔てなく受け容れる。
あるとき、女たちの中に一際美しい女性を見かけた。
臈長けた風情ながら、どこか崩れた印象を与える。
誰もが声をかけるのをためらったが、寒川の尼は気にせず、
「そこの人、こっちにいらっしゃい」
女性たちの輪に招き入れた。
皆で車座になり、尼は自身の生い立ちや宮廷生活、頼朝の乳母だったころの話、政光の妻としての日々などを語り、女性たちを楽しませた。
「今はこうして落ち着いているけれど、命を危険にさらしたこともあったわぁ」
都からの下向中、山賊に襲われた話を披露する。皆がはらはらして聞き入るなか、
「殿ってば、本当にお強くってね。山賊を全部やっつけちゃって、渓流に跳び込んで私を助けてくれたのよ」
尼の記憶はほど良く歪められている。
そして話が一区切りつき談笑となるが、例の女性が重い口を開くようにして尼に訊ねた。
「比丘尼さまの今世のようすはよくわかりました。では前世のことはどうでしょうか? 覚えておいででしょうか?」
「前世? そこまでは・・・・・・」
尼は困惑する。めったにないことだ。彼女が人を困惑させることがあっても、その逆というのは。
尼の芳しくない言葉に、女性は肩を落とし、それから気を取り直すようにして問いかける。
「では、輪廻転生というのをどう思いますか」
「人は、その行いによって来世の居場所を決められるということですよね」
「三界六道、人に生まれたり畜生に生まれたり。では物の怪は? 霊獣と云ったものは? 琵琶法師の弾き語りに、先の帝が海龍の王になったとか。でもそれはただの物語。本当のことはいくら調べても分からないのです。どうしても答えが知りたいのに」
尼は申し訳なさそうに女性を見た。
「私にも、その答えはわかりません。何か、あなたの心が満たされるような答えを持っていれば良かったのですが」
そう言うと、女性は落胆したようすで一人去って行った。その淋しげな背中がやけに尼の目に残った。
寒川尼は政光が死んでからも何十年も生きた。
「あんまり、あの人を待たせちゃって悪いかしら。でも、その分お経をたくさん唱えられるからいいわよね。何しろ殿も子どもたちもけっこう人を殺しているから」
と、独りごちる。
時折、顔を見せにくる息子たちが言う。
「母上は年を取られませんね」(長男)
「私たちときょうだいに見えますよ」(三男)
「うれしいわぁ。あの世に行っても、殿が見間違える心配がないもの」
「脳天気は年を取らないのさ」(次男)
政光の悪口は、息子たちの中で次男の宗政に最も色濃く受け継がれたようだ。
「うふふふふ」
「ほめてないって」
口の悪い次男ではあるが、この母こそ、小山一門の扇の要だと知っている。
小山の家督を継いだ長男のほか、新恩(新しい領地)で次男は長沼氏を、三男は結城氏をおこしたが、三氏族の結束は、粛清の続く幕府内にあってもゆるぎない。
すでに孫もおり、立派な老人で隠居してもよい彼らだが、未だ幕府の重職を占めている。この人たちも母に似て頑丈で年を取らないのだ。
息子たちは言いたいことを言って、鎌倉へ帰っていった。
尼は九十歳になっていた。我ながら長生きに驚く。
――私って本当にしぶといわね。力持ちと関係があるのかしら。
しかし、その力持ちも、最近、少しずつ衰えを見せ始めた。
――これって、そろそろお迎えが来るってことよね。
尼は身の回りのものを整理しつつ、その日を待つ。
自分が死ぬことなど怖くない。それよりも政光に会えることが楽しみなくらいである。
女が三途の川を渡るとき、初めての男がその背におぶってくれるというが。
――最初に会った日のことを思い出すわぁ。二人ともすっかりおじいちゃんとおばあちゃんになっちゃったけど。
そして、いよいよという段になった。
朝方、目が覚めながら体が動かない。
それでも気配を察し、目だけを横へ向けた。
美しい女性がかたわらに座って、じっとこちらを見ている。
その美貌で覚えていた。いつぞや輪廻のことで訊ねられた女性である。もう二十年近く前であろうか。
――あら、あなたがお迎え? 殿じゃないのね。まぁ、あなたは若いままだけれど、ずいぶん前に死んだのねぇ。
声に出なかったが、その思念は相手に伝わったらしい。
「この顔に覚えはない? 三百年前と同じものなのに」
言っている意味がわからない。尼は目で訴えた。
「本当にわからないの?」
女はがっくりと肩を落とした。
「あんたの息子たちは、いつだって龍神の加護に守られていた。あんたに会ったときも常人にない波長を感じたし、化け物並に長生きだし。てっきり人外のものが転生したのかと・・・・・・」
独白めく女に、尼は、
「よく変わってるって言われるけど、私はちゃんと人間よ」
思わず言葉が出る。
「そう、みたいね」
女性、いや狐女は尼の顔をまじまじと見た。
「秀郷の言っていた女ってのは、恋人のことじゃないって気付いてさ」
子を思う母の強さを知って『乙姫』とは母親の意かと考え直したが、確信はない。
――秀郷、あんたどこまで知っていたのよ。龍宮城って何の例えよ。
その彼の話を中断させたのは狐女である。男は女の話を聞かないというが、女だって男の話を聞かない。
――けっこう核心近くまで打ち明けそうだったのに、惜しいことをしたわ。それに、こんな大切なことを打ち明けてくれるってことは、秀郷、私に相当本気だったってことよね。でも、あのころは将門さまもいたし。
あらぬことを考え、慌てて打ち消す。
「残念だわ。あんたに聞けば何かわかると思ったのに」
ため息をつく狐女に、尼は、
「……あなたは人間じゃないのね」
「そうよ。やっと気付いたの?」
狐女は泣きたいのを堪えるようにして笑い顔を作ってみせた。
「私は輪廻の輪から滑り落ちてしまったみたい。死んで、愛する人と後生をともにするってこともできないらしいわ」
ならば生まれ変わりでも待とうと思ったが、いったいどれほど待てばいいのかわからない。
将門、重衡、吾子……誰か一人でもいいのに。
「それにどうしてかしら。仲間の狐たちとも会えなくなったのは」
那須の和見にいたころ、周辺の狐はいつの間にか姿を消し、京へ戻ったあと、御所狐は最初から姿を見せなかった。
「人の世に居すぎたせい? それとも秀郷の一族を呪ったせい? なんて呪った相手の家族に相談してもねぇ」
狐女は尼をじっと見つめた。
「あなたは私たちに呪いをかけたのね」
尼は一つわかった、という目で狐女を見た。
「そうよ。わるい? 自分が不幸だと思う者はね、他人を不幸にしたくなるって。わかる? いえ、絶対わからないでしょうね」
女の挑むような目つきに、
「そうね。わからないわね。だって、私は、水が上から下に流れるようにものごとを自然にまかせて生きてきたから。苦しむことはなかったから」
尼の言葉は狐女の心を逆なでした。
「それが口惜しくって仕方がないわ。あんたみたいな女が何の苦労もせず幸せを手に入れて」
狐女は怒りにまかせて胸の中にあるものを吐き出した。
「私は苦しいことばかり、悲しいことばかり、ねぇ、何でなの?」
尼は狐女の目を見た。
「あなたはかわいそうな人。何もわかっていない。あなたは自分で自分を不幸にしたのよ」
狐女は尼を見返した。
――この女、何を言おうとしてるのよ。
「人を呪わば穴二つっていうでしょう。……ちょっと違う? でもね、これだけは言えるわ。あなたは誰かを呪ったときに、自分を厄神に落としたのよ。呪いそのものになってしまったのよ。あなたのお仲間は、きっとそれを知っているからあなたに近寄らなくなったのよ」
狐女の目がつり上がる。
「私が厄神ですって? 私のせいで愛する人が死んだっていうの?」
「さぁ、本当のことはわからないわ」
「わからないなら勝手なことを言わないで! 自分は福神だと自慢したいの?」
怒り声を上げる狐女に、尼は戸惑いながらも答えを出そうとした。
「そうではなくて、思うにまかせて言ってしまった言葉が形となることはあるでしょう? あなた、言わなければ良かったことを口にしてしまったのよ。もう今さらだけど」
尼の瞼が重たげに閉じられる。
「あぁ、いよいよね」
「ちょっと待ってよ。言いたいことだけ言って、逃げる気?」
狐女はすがり付く。
「ちょっと、あんたっ。話の途中で、私を置いてかないでよ」
「……人生の最後の瞬間が、こんなにやかましいものだとは思ってもなかったわ」
「ねぇ、これから私、どうすればいいのか教えてよ!」
尼の体を揺さぶった。
「えーっと」
そのとき、尼の目がぱっと開かれた。
「そうだ、あなたが福の神になればいいのよ」
「えっ?」
「この家の護法神になって自分のかけた呪いをはね除けてよ。我が家を見守って、子どもたちの幸せに尽くしてよ。そうすれば、あなたは厄神であることから解き放たれるわ!」
名案ね、と会心の笑みをその顔に湛えると、尼の目はすっと閉じられた。
「寒川尼、死んだの?」
狐女は息を確かめようと頬を寄せた。
「ぐう」
尼は寝息を立てる。
「何よっ、眠っただけじゃないの!」
悪い冗談は止めてよと、立ち上がって尼を見下ろした。
いや、もっとたちの悪い冗談を言われたのだ。
「私が秀郷の子の護法神に?」
――ふざけるな!
腹がたって、そのまま邸を飛び出す。
狐女は天空へと駆け上がり、暁の光の中に溶け入った。
もう、自分とて誰かを呪いたくない。
秀郷への執着も、祟りなど与えるには遥かな年月に風化した。
けれど、
――だからって、はいそうですかと立場を変えられると思う?
かつて将門を殺された腹いせに、狐女も、けっこう秀郷の子孫を殺していた。
『思うにまかせて言ってしまった言葉が形となることはあるでしょ』
寒川尼のいうとおりだった。
自分の吐いた呪いが自分を縛りつけていたことに気づかされ、
――すっごく悔しい、けど……
狐女の体の中には怒りと当惑が渦巻いた。
それを振り切るように体を上昇させる。
どこまでも、どこまでも。
見下ろせば、日本の大八洲が横たわる。
ほんの五十年前、この国を三つに分かち、西に桓武平氏、東に清和源氏、北に秀郷流藤原氏が君臨していた。思えば皆将門を討った者たちの子孫である。
彼らは何かの宿命のように互いに命を削り合った。
だが、三者が為そうとしたことは全て同じだった。
福原で、鎌倉で、平泉で。
将門が切実に求めながら、たどり着けなかった答え。
既成政権からの束縛を断ち切り、己れらの独立を果すこと。
まるで自分たちの倒した男の想いを引き継ぐかのように。
最後は、これも宿命のように、将門が生を賭した関東の地で、源氏の末裔が勝利を得るのだ。
――先祖の源経基っていえば、あの三人の中で一番の腰抜けだったのが気に入らないけどさ。でも、子孫はしっかりしてたってことよね。
その源氏も醜い同族争いの末に嫡流を失い、実際に権力を握ったのは、将門の従兄、貞盛の子孫である北条氏だ。系譜上、彼らは重衡とも先祖を同じくする。
――もう誰を恨むの呪うのなんて、意味ないかしら。
『水が上から下に流れるように、自然に身を任せて』
寒川の尼の言葉が思い出される。
――身を任せてみようか。
今すぐになんて無理だろうけれど。
時間の流れが、きっと自分を正しい方向へと導いてくれる。
そんな気がした。
―了―




