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夢幻犬鏡 ※整備中  作者: 奥瀬
第四章 小山若犬丸の乱② 盟友小田五郎直高のこと
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第四章 全文

至徳三年(一三八六)七月半ば――

 若犬丸は常陸国筑波郡の小田氏の居城にあった。

 ほんの数日前、小山祇園城を攻めた小田五郎直高の手引きによって敵陣を抜け、下野から落ち延びたのだ。


 祇園城没落の晩、若犬丸とともに城を出た郎等のほとんどは小山に残ることとなった。

 先の編成は奥州田村へ帰還する際の、路上の安全を考えてのものだったが、常陸の小田家に隠れ住むとなっては、あまり数を引き連れてはいけない。また道中人目を引いても上手くない。若犬丸の供人は兵次を含めたわずかな郎等だけとなった。


「再びお別れせねばならぬとは、淋しい限りです」

 主君との別れを前に、里田が言った。彼は旗揚げ前と同様、小山に居残り、残留組の統括にあたると申し出た。

「大丈夫か。小山家の旧臣の一人として鎌倉方に無理難題を吹っかけられやしないか」

「問題ありません。殿を始めとして、責めを負うべき人間は皆どこかへ逃げたと言いますから」

 里田の答えは単純明快にして、実際、これを受けた氏満は、若犬丸探索のため十一月まで古河に留まるはめになるのだ。

 里田であれば後事を安心してゆだねることができる。

 若犬丸は、

「この次、私に会うときを楽しみにしてくれ」

 武将らしく成長した姿を見てほしい、と言外に伝えた。これに、里田も、

「はい、楽しみにお待ち申し上げます」

 と相通じる。


 諌言に反発もあったが、それも互いに認め合ってこそである。主従はしばしの別離を惜しむが、

「若犬殿、そろそろ出立せねば」

 直高が水を向ける。

 もうすぐ夜が明ける。

 夜間の移動はかえって怪しまれると出発を暁まで延ばしたが、ぐずぐずしてはこれも余人の関心を買ってしまう。若犬丸は後ろ髪を引かれるような思いで故郷を後にした。


 常陸小田へは、直高自らが案内役となった。

「父から、若犬殿を説得し、無事に小田まで連れてくるまでを命じられてな」 

 己れの子息を使者に立たせるなど、孝朝には若犬丸へのなみなみならぬ思い入れがあったのだろう。

「まったく、親父も人使いが荒い」

 直高はぼやくが、

「まぁ、家中の誰より先に若犬殿にお会いできたとは、この上ない栄誉だ」

 と言って笑った。

 若犬丸は、彼の好意を素直に受け取り、

「世話をかけます、五郎殿」

 と、直高そっくりの笑みを返した。

「いや、お世話をするのはこれからだ。なぁに、この借りは高く付くが、後で倍に返してくれればいいさ」

 そう言われると、むしろ心安いというものだ。


 東へ、東へ。

 下野(栃木県)から下総(茨城県)まで、人目を気にしながら馬を進めたが、国境を超えると、さすがに一行の緊張もゆるんだ。

 秋口とはいえ未だ日の光は強い。襟元をくつろがせ、汗ばむ肌に風をむかえ、竹筒の水で喉をうるおす。そして一息ついたあと、再び、穂を出し始めた薄の原を行く。

 若犬丸の目の先には、青空にそびえ立つ筑波山の勇姿が迫った。


 小田城は、筑波山の支脈の一つ、前山が南に延びきった先に佇む。

 平地の上に土を盛った平城で、南側に桜川を望み、一面が水はけの悪い湿地帯である。

 初代常陸国守護の八田知家が築き、南北朝の動乱期には関東宮方の拠点だったという割りに、さほど防御性の高い城ではない。土塁はなく八十間(約一五○m)四方の方形の敷地に、堀と城塀を巡らせた構造となっている。


「よう来られた。若犬殿」

 小田城々主小田孝朝は自ら若犬丸を出迎えた。彼は入道し恵尊と名乗ってはいるが、貞和以来の歴戦の武将、しかも常陸南部の大部分を治める領主とあって周囲を威圧する堂々とした体躯の持ち主だ。若犬丸を見つめる顔は終始微笑みを絶やず、

「四年前は考え無しにも小山攻めに加わり、若犬殿の御尊父にあっては申し訳のないことをした。当家の窮状もそなたの没落とともに始まったが、これも何かの因果であろうか」


 座敷に案内し、恵尊は円座を勧めながら言った。

「ろくな挨拶もせなんだが、家の者を紹介しよう。といっても太郎以下息子の多くは未だ下野におるが」

 小田勢は討伐軍として太郎から三郎まで祇園城攻撃に参じていた。

 恵尊は四男孫四郎を頭に、そばに控えた一族の者を順に紹介していく。小山攻め不参の息子たちは恵尊の補佐・当地の警護・若年のためとそれぞれ理由をつけ常陸に居残っていた。彼には子息が七人もおり、五郎直高がその名通りの五男であることは、道中すでに知らされていた。当の直高は、いつの間にか彼らの列に連なっており、改めて挨拶を交わした。

「どうぞ、よしなに」

「こちらこそ」

 最後に、六郎治季・七郎朝則を引き合わされ、

「若犬殿と年も変わらぬので仲良くされたい」

 と言われ、一通り、挨拶を終える。


「――さて、五郎はどこまで話した。鎌倉殿のやり方に不満を持つ者は、我らだけではないとご存じか」

 恵尊は直ぐさま本題に入った。

 その直裁さに、四男孫四郎が慌てて止めようとしたが、それを手で制し、

「若犬殿は身内も同然じゃ。何の遠慮も要らぬ」

 と、恵尊から息子を見るような眼差しを送られ、どきりとした。


 ――身内? 自分はそれほど恵尊に信頼されているのか。

 逃避行の間、慣れ親しんだ直高とは違い、恵尊への警戒は未だ解いてはなかった。

 生殺与奪の権利は彼の手に委ねられている。決して油断はせぬよう自分に言い聞かせていたところだが。


 それを承知してか、恵尊は己れの身上を語り始めた。

「小田家の危機は今回ばかりではなくてな」

 恵尊の先代治(はる)(ひさ)は、建武以来宮方に肩入れしたものの、時流は彼の思惑とは別の方向にむかった。一族の北朝投降後、代々の領地は没収され、危機は小田家全体に及んだ。窮余の一策として、北朝方にあった庶流から養子をとることとなった。

 この養子が孝朝、のちの恵尊である。文武両道の俊才として宗家に求められただけあって、彼は足利尊氏のもとでめきめきと実力を発揮し、小田家の所領所識の多くを回復した。関東から近畿、日本各地で戦い、実績をあげたが、

「そなたの祖父左()衛門(えもんの)(すけ)殿と最初にご一緒したのは東海道の薩埵山(さつたやま)であったか。もう三十年以上も前になるか」

 祖父を話題にされた若犬丸は少し和んだ。


 孝朝は常陸守護職の佐竹氏から妻を迎えたが、佐竹氏は源義光の流れ、動乱の当初より親足利派であった。また小田氏は姓も藤原から足利氏と同じ源に改めた。これほどのことをして、

「我らは過日の栄光を取り戻せると思った。先代の鎌倉殿(基氏)にも懸命に仕えた。宇都宮の芳賀禅可との戦いでも功績が認められ、召し上げられていた領地を復した。――じゃが」


 それは書状の上だけのことだった。父祖の土地は理由をつけて鎌倉府や上杉一族に押さえられ、近年、国内の所領は彼らの部下へ、あるいは縁故の寺へと、立て続けに他者(ひと)へ渡ってしまった。


「先年、野州殿との合戦で下野に所領を得たが、これもまた同様の結果をたどるであろうよ」

 彼らは力ある外様の大名を警戒する。

「鎌倉の公方殿は、関東の領主が力を持つことを好まぬらしい。管領の上杉氏との仲はどうかと思われるが、我らの領地を削ぐことだけは一致しておるようじゃ」

 そう言われて若犬丸にも思い当たることがあった。


 父義政も領地を取り上げられて、承諾なく寺社に寄進されていた。

 さらに、小山氏の乱の始まり、裳原合戦。宇都宮氏との戦いは鎌倉が裏で手を引いていたことは確実だった。父義政が宇都宮基綱の首級を上げて半月も経たずに、この戦いを私闘と決めつけ、氏満は小山退治を関東八カ国に号令したのだ。まるで待ちかまえていたかのように。


 そして結果はどうだ。

 現在(いま)の下野守護は鎌倉の息のかかった木戸氏ではないか。

「公方殿が謀を巡らすのであれば、こちらも返礼するまでよ」

 京公方義満、鎌倉公方氏満。

 実質、日本の東西を掌握する足利一族。しかし、あの動乱期、小田や小山のような大名が、彼らの父祖をその地位に押し上げてやったのではないか。

「これを片腹痛いといわず、何という」

 恵尊の口吻には、旧主尊氏のために命懸けで戦った古兵(ふるつわもの)としての自負がにじみ出ていた。

「若犬殿、いっそうのこと、この関東の地をひっくり返してみようとは思わぬか」

 若犬丸は驚いた。


 ――この御仁は何を言い出すのだ。

 下野の一地方でさえままならなかった身に。

 彼の懸念を見透かしたか、

「いやそうではない」と恵尊は首を振ってみせた。

 若犬丸は小山氏代々の土地にこだわったため、その旧領主対関東全域の武将、という構図にしてしまったのだと。

「これを鎌倉対反鎌倉の構図に書き換えてはどうじゃ。そなたは知らぬだろうが、野州殿の三度目の征伐の際、大将を命じられた上杉も木戸もぐずったのじゃよ。鎌倉殿の余りの苛烈さに、加減を知らぬお方だとな。野州殿への同情もあろうが、他の武将からの風当たりも考えねばならぬのにのう。『関東の領主で似たような立場の者を寄って集って討つのは嫌だ』、『いつか自分に還ってくるのではないか』と誰でも思うであろう」

 そんな話は初めて聞いた。

 自分たち一族は関東の大名のなかでは孤立していたとばかり思っていたが。


「さらに鎌倉殿は京の公方殿と仲が悪く、互いに隙あらばその座を奪おうと画策している。府内では、管領の上杉一族も一枚板ではない。また上野や武州の一部、それに奥州では未だ吉野(南朝)に心寄せる者は多いと。あぁ、そういえば、若犬殿は奥州と縁深いようだが」

 恵尊の目が一瞬光ったような気がした。

 ――入道殿は私と庄司殿との関係をご存じだ。

 田村に類が及ばぬよう内密にしていたものを、この人はどこまで――・・・


 若犬丸を身内と呼び、両手を拡げて迎え入れようとする態度の裏で、仔細の探索に抜かりはない。

 恵尊はそんな彼の緊張を見越したように、

「そう気張りめさるな。今日はこの辺りで無礼講とよろしかろう」

 手を打って、酒肴の用意を命じた。

「奥州には私も知人がおるもので、さぁ、そんな恐ろしい顔をせず、さぁさ一献」

 若犬丸は恐縮しながら盃を受けた。

「もしや、酒は初めてかな」若犬丸の童形を見て言う。

「えぇ・・・・・・」

 とうなずくが、流浪の身で酒を覚える間もなかったということにしたかった。


 少年のころ、氏満に酒を無理強いされた苦い思い出があり、以来一滴も口にしていない。

 田村荘時代でも気のいい清包が勧めてくれることがあったが、まだ元服前の身でと遠慮した。氏満のことがなくとも、何事も小山の領地を回復するまではと様々な愉しみを禁じていたのだ。


 しかし、このような場で断るのも失礼にあたるだろうと、盃に口をつける。

 さて、久々に呑んだ酒の味は―――

 苦くて不味くて、一口呑んだだけ吐き出しそうになった。それをぐっとこらえて呑み干し、

 ――どうやら、私は下戸らしい。

 と、自覚する。


 しかめ面の若者を興がって、さらに継ぎ足す恵尊に否やは言えず、続けて一献呑み干した。

「なかなかいける口ですな。さぁ私からも一献」

 いつの間にか、かたわらに寄った孫四郎が酒を勧める。

 目の前にはずらりと並んだ小田兄弟。

それを見て若犬丸はげんなりした。

――まさか、この人たち全員から酒を受けることになるのか?

 慌てて瓶子を奪うと、

「いや、こちらからも一献」

 返杯となった。

「さて、退屈でなければ、続けてもいかな――」

 恵尊が口にした提案に、若犬丸は驚かされる一方だった。

 また、よくも今日の今日、見知った己れに、これほどの大事を打ち明けるものだ。

 もっとも、若犬丸にはわずかな家来だけだ。翻意を知られれば命はない。

 己れが蜘蛛の糸に絡め取られた小さな虫のような気がして、息苦しくなった。


 息苦しい。

 それは先程から勧められるまま呑んだ酒のせいもある。頬は火照り、耳まで熱い。動悸も速まる。そのくせ段々と瞼が重くなり、頭の中で考えごとの整理がつかない。

 ふわふわとした眼差しで自分を見返す若者へ、恵尊はふっと笑いかけた。

「今宵はこれで開くとしよう」

 若犬丸は家来たちに抱えられるようにして寝所へ下がった。


 旅の疲れもあり、したたかに痛飲し、翌日目が覚めたのは昼近くになってからだ。

 昨夜の失態が思い出されて恥ずかしい。また、そのことは、たかが酒に呑まれる若造の自分が、身の程知らずにも鎌倉に喧嘩を売り、その報いを受けた現実に繋がって気を滅入らせた。

 ――それでも。

と、昨夜の恵尊の言葉を思い出した。


 少なくとも恵尊は、自分を勝ち目のない戦さを始めた愚か者とは見ていない。一人前の武将として遇してくれている。

 このまま恵尊の思惑に身を投じてみるのも悪くない。

 公方相手に完全な勝利はあり得ないが、武力をもってその地位を脅かし、関東の武将たちの底力を見せつける。そして各々が旧領を回復し、若犬丸も小山宗家を再興する。

「――どうであろう。我らが陰謀に与しては」

 自らの計略を陰謀と呼ぶ(はら)の太さには敬服する。また、恵尊の読みも、大意として自分に通じるものがある。


 味方は多いに越したことはない。彼の協力と、抵抗の拠点となる小田城の存在も心強い。

しかし、恵尊がその味方たりえるか。

 一敗地にまみれたばかりの若犬丸は慎重になっていた。

 恵尊と彼の計略を見極めようと考えをめぐらすが―――

――頭痛い・・・・・・

 思考を中断し、宿(ふつか)()いの頭を抱えて呻いた。


 ふと、縁側に物の動いた気配を覚え、さっと目を走らせる。だが、そこにいたのは、庭先から物珍しげに自分を見る小さな子どもだった。

「そなた、この家の子か?」

 立ち上がって濡れ縁に()、子どもを見下ろした。

 年は五つか六つくらいか。梔子(くちなし)オレンジイエローの水干に、食い入るように自分を見つめる顔が愛らしい。

顔を近づけると、

「お兄ちゃん、お酒くさい」鼻をつまんで、一歩退いた。

「あぁ、わるい」

 慌てて口元を袖で隠したものの、さて、それ以上会話が続かない。

 兄弟のない若犬丸に、幼児と接する機会はなかった。故に、子どもとどう接すればいいかわからず、途方に暮れる。


 そこへ、

「ここにいたか、鬼高」

 鬼高と呼ばれた子どもよりさらに幼い、三つ四つの子を肩車に、直高が現れる。

 直高の顔を見て、若犬丸はほっとした。彼とて会って数日も経っていないのだが、小田と若犬丸を繋いだ彼の存在は気を楽にさせる。


「ずるいぞ、鬼安、父上に肩車してもらって」

 鬼高丸は父の足元に駆け寄ると、飛びついて弟を引きづり下ろそうとするが、何しろ身の丈が足りない。悔しげにぴょんぴょんと周囲を飛び跳ねて抗議した。

「よせよせ、お前たちの父は一人しかいないのだからな」

 子どもに笑いかける直高を見て、若犬丸はすっと立ち上がった。鬼高丸の脇に手を差し入れ、抱き上げる。そして、肩に運ぼうとした幼児の軽さ柔らかさに驚かされる。子どもとはこのように華奢で頼りないものであったかと。


 鬼高丸は目を丸くして若犬丸を振り返った。が、この『お兄ちゃん』が肩車をしてくれるものだと察し、すぐに笑顔になった。弟の顔が自分より下になり、嬉しくてきゃっきゃっと足をばたつかせた。草履の底についた土がぼろぼろと水干に落ち、若犬丸は少し弱ったが、子どもとはこんなものかと思い直した。

 直高は微笑しながら、

「若犬殿に迷惑だから、もう降りなさい」と諭す。

 しかし鬼高丸は、

「いやだもん、おりないもん」と言って、若犬丸の頭をぎゅっと抱き締めた。さっきは「酒臭い」と鼻をつまんだくせに。

 若犬丸こそ幼子の匂いに一瞬たじろいだ。子どもの乳臭さが鼻腔について。

 だが、『お兄ちゃん』の動揺に気付かず、鬼高丸はあれっというような顔をして、

「お兄ちゃん、エボシは? 大きいのにマゲもゆってないねぇ」

 馬のしっぽのようにふさふさした後ろ髪を引っ張る。息子の疑問にどう答えるか、直高は興味深そうに眼差しを送っている。


 若犬丸が、「まだ元服前だから」と、ありきたりな答えを返すと、

「なんで元服をしないの?」と言われてしまい、返事に窮した。

「うーん、理由はいくつかあって、子どもに説明するのは難しいな」

 曖昧に返答する若犬丸に、

「ならば大人にわかるよう説明してくれ」

 と、直高が口を挟む。

 若犬丸は顔を彼の方へ向き直した。

「流浪の身であること、それから、この名とこの姿に我が身が助けられているからです」

「ほう、そなたが望めば、うちの親父殿が烏帽子親にしゃしゃり出てもよいのだが。しかし、幼名と童形が身を守るとは?」

「私の血筋は代々狐に祟られているのです。そこで、犬の一字に狐から守らせる。犬といえば狐の天敵ですから。こういうと笑われるかもしれませんが、実際、小山宗家では私が最後の一人になってしまいました」

「いや、笑わぬ。そも、そなたの先祖藤原秀郷公は物の怪を退治したと勇者と聞く。あり得ぬ話ではない」

 鎮守府将軍、藤原秀郷。

 四百年以上の時を超えて語り継がれる人物。俵藤(たわらのとう)()と呼ばれ、龍王の依頼により大百足を退治した、百目鬼という妖怪を封じ込めたなど、彼の逸話はもはや伝説の域に達していた。

「いや、将門公を討ったことが大げさに伝えられて、物の怪退治の話になったと思います。ほら、天子さまを龍王に譬えることなどよくあることですから。しかし、明神さまを退治したことが狐の怒りを買ったようで・・・・・・」

「狐? 狐ならば同じ明神でも稲荷明神ではないのか?」

「神仏の世界にもいろいろあるようですよ」

 若犬丸は困ったように肩をすくめかけたが、その肩には鬼高丸が乗っている。 代わりに、鬼高丸の体を揺すり上げた。


「元服は小山宗家を再興してからと心に決めています。念願叶えたときこそ、狐の祟りをはね除けたと。それまでは半人前と自分に言い聞かせる意味もあって、幼名のままなのです」

「狐除けに犬の一字か。まじないとしては頼もしい限りだな」

「私自身は、すっかり牙を抜かれた負け犬ですけれど」

 ふっと目を伏せるようにして、若犬丸は直高から視線を外した。

 牙を抜かれた負け犬。口に出して、まさにその通りの己れの境遇に打ちのめされる。

 沈む若者の顔色に、直高は、

「名前と言えば、この鬼高丸と鬼安丸は」

 幼い息子二人を指で示し、

「鬼のように屈強で頑丈、勇ましくあれと名付けたのだ」

「鬼もそのように持ち上げてもらえば本望でしょう」

 直高の気遣いに若犬丸の顔色は戻り、「良い名をもらったな」と鬼安丸に微笑みかける。

 いつの間にか大人同士のものになってしまった会話に、自分たちの名前が話題となったと知って、幼い兄弟は、

「ねぇ、ぼくたちのことを話しているの?」

「鬼のようにつよいって?」

 喜んで足をばたつかせるものだから、またもや若犬丸の水干を汚した。

 しかし二度目となれば、気にもならなくなった。


 若犬丸はちび鬼兄弟から『大きなお友達』の認識されてしまったようだ。二人の幼児はちょくちょく彼の居室へ訪れては遊びに誘う。

 男の子だから外遊びが多く、追いかけっこや相撲の真似事をさせられた。

 小さな兄弟はころころと子犬のように転がり、まとわりつき、若犬丸になじんだ。

 郎党の兵次たちは、喜んで子どもの相手をする主の一面に驚くが、隠遁生活の和みになっているようなので好きにさせてくれた。


 子どもの相手をせぬ間は恵尊との『陰謀』の用談である。

「御血縁の結城殿や長沼殿をいかが思われる?」

 小山一族は鎌倉幕府創生期からの大名家、先の祇園城戦では一門に連なる長沼・結城も攻め手に混じっていたが、

「我が小田と同様二心あってのこと」

 下野・下総に跨る名族一門が結束すればどうなるか。それに恵尊が常陸中の豪族に声をかけたらどうなるか。この関東に見るべき勢力が生まれるではないか、と。

 若犬丸の味方となる者は意外に多いのではないか。

 そう思わせる恵尊の話しぶりである。

――とはいえ、そう簡単に彼らが味方に転ぶものだろうか。

 若犬丸はこれまでの経緯から血族の信義を疑った。

 それから殺伐としたものが胸をよぎる。

 自室にいても重苦しい気分がまつわりついた。

 ゆえに、そんな彼の気を紛らわせようと、直高が子どもたちを若犬丸のもとへ寄越しているのかもしれない。筑波山の北、岩間に邸を持つ彼が小田に子を連れてきたのは偶然であろうが、一家の滞在はしばらく続きそうである。


 ちび鬼たちと庭で戯れに相撲をとっていると、直高の弟六郎と七郎がやってきた。

「子どもばかり相手にしないで、我々とも手合わせ願いたいな」

「そうだよ。親父にも仲良くしろって言われたし」

 格闘技としての相撲をとろうというのである。

 相撲――

 角力とも書くが、読んで字の如く、撲り合いを含む激しい攻撃技を伴った武芸の一つ。戦場で馬上から落ちて(のち)、敵と組み合った際の稽古になる。


「あーん、おじ上たち、若犬どのをとらないでよ」

 せっかくの遊び相手を奪われると、鬼高兄弟は若い叔父たちに向かったが、

「まぁ、待て、面白そうだから、お前たちもよく見物しておけ」

 直高は息子らをぬれ縁に座らせると、自分もその隣に腰を下ろして片胡座を組んだ。

 若犬丸と六郎・七郎は肩を脱ぎ、上半身の肌を見せ合った。


 まずは七郎との対戦である。

「ちょうちょうっ」(張り手のかけ声)

 七郎の間断なく繰り出す張り手に閉口しながら、若犬丸は地面を蹴って相手の真横に跳んだ。体の向きを換える暇も与えず腰を落とすと、足払いをかけて地面に転がした。

「すっごーい」

「やったー! 若犬どのはつよいなぁ」

 手を叩いて喜ぶ鬼高たちに、

「おい、お前ら! 叔父さんの味方をしろよぉ」

 土まみれになった七郎は若犬丸に手を貸されて立ち上がり、甥っ子たちを叱った。


「よぅしっ、弟の(かたき)は俺がとってやる」

 六郎がぺちぺちとむき出しになった肩を叩きながら、若犬丸と対峙した。

 六郎は七郎より年の分だけ筋肉がついており、突き出される拳や膝に勢いがある。だが、それを若犬丸は軽々とかわし、隙を見て七郎同様地面に転がした。

「おぉー!」

 鬼高鬼安は歓声を上げる。

「だから、お前たちはっ!」

 六郎は声を荒げるが、子鬼たちはきゃっきゃと喜ぶだけである。


 この叔父らも鬼高たちの遊び相手になってくれるが、身内とて接し方はぞんざいだ。一方の若犬丸は遊び方も丁寧で目新しく、子どもたちにとって(いま)流行(はやり)なのである。

「ずるいな、若犬殿は体が軽くて」

 甥っ子たちの人気も奪われ、六郎らはぼやく他ない。

 そこへ、直高が立ち上がって、服を脱いだ。

「おっ! 兄貴が出てきた」

「お前たちの仇は俺がとってやるよ」

 若犬丸に立ち向かう直高。

 こうなると、

「わぁあ。ちちうえ!」

「がんばって!」

 子どもたちは薄情にも応援の相手を換えた。

 若犬丸は裏切られたような気がしてがっかりするが、気を取り直し、

「五郎殿が相手でも手加減しませんよ」

 諸肌を見せる直高に言った。


 互いに見合うが、体格差から四つに組むのはうまくない。

 七郎の合図とともに後ろに飛び退こうとした。

 だが、一瞬早く直高の手が若犬丸の腰をがっちり掴み、もがいても外れない。

 軽々と釣り上げられた体は、爪先が宙に浮く。

「あっ」

 と思う間もなく、地面にひっくり返された。

「やった! 兄貴!」

 六郎・七郎が駆け寄り、賞賛する。

 ――負けるってのはこういうことか。

 屈辱と困惑が湧き上がる。


 合戦の勝敗はともかく、自身の武芸で完敗するなど滅多になかった。

 小山の城本(しろもと)戦で名も知らぬ部将に組み伏せられたが、混乱のさなか自省すべき時間を失った。それが今、己れの思い上がりに気付かされる。

 呆然として仰向けになったままの若犬丸の体を直高が起こしてくれた。

 立ち上がって背中の砂を落とす。ちび鬼たちも駆け寄って『お兄ちゃんのお手伝い』とばかりに尻や脚をぱたぱたと払った。一番は父上でも、二番目に大好きな若犬丸である。


「若犬殿は軽すぎる。あと二貫(約七.五㎏)は太ってもらわねば、まるで我が家で食べさせてないようではないか」

 そう言われても困る。

「このところ縦にばかり背が伸びて、横に太っていかないのですよ」

――十八歳(満十七歳)だというのに、自分の体はおかしいのだろうか。

 それを、

「童形の功徳では?」

 七郎がからかい、

「若犬殿は奥手なんだよ。みんな縦に伸びきってから肉が付いてくるのさ。奥手の方が大作りになるっていうから、良かったな、若犬殿」

 六郎が笑う。


 年が近いせいもあり若犬丸は小田六郎・七郎とすぐに打ち解けた。

「お前はもう我ら小田兄弟の一人だ」

「末っ子の八郎だ。今日から小田八郎と名乗れ」

 六郎・七郎が笑いながら言うと、

「失礼だぞ。若犬殿は小山宗家の跡取りだ。本来なら四郎殿とお呼びせねばならぬのに」

 たしなめる直高も、その目は笑っている。


 小山宗家と小田宗家は血縁が入りくんでおり、彼らとはまるっきりの他人ではない。

 小田氏の始祖八田知家と寒川尼が姉弟であることは先に述べたが、小山氏の三代目に、知家の孫娘が嫁入りしている。この娘は後妻として小山家に嫁ぐが、祖父に似て豪腕だったらしく、夫が早世すると前妻の子を押しのけて我が子長村を家督としている。

 しかし、歴史はくり返すというが。

 四代目長村も最初の妻が亡くなると、後妻に大江広元の孫娘を得た。広元は鎌倉幕府創成期の重臣であるが、頼朝をして『獅子身中の虫』と言わしめた人物である。この孫娘も祖父譲りの辣腕を揮い、先妻の子を押し退け、我が子を家督に据えている。

 方や八田知家の血を引く姑、方や大江広元の血を引く嫁、このころの小山宗家では互いの実家を背負って、さぞ壮絶な家督争い、及び嫁姑の戦いがあっただろう。

 近代では、結城基光の娘が小田氏の縁戚佐竹氏に嫁しているが、彼女は若犬丸の従姉にあたる。

 もっとも、この程度の縁戚など関東の大名家では通常のことだ。恵尊が若犬丸に肩入れするのは、姻戚の関係からではなく、もっぱら政治的な理由に終始した。


 仲秋を過ぎると、恵尊は孫四郎を連れ、鎌倉の邸に戻った。氏満はいまだ古河にとどまっている。その留守に御所内の状況を把握し、大名らを味方に引き入れるためである。


「敢えて、危険な橋を渡る、か。やれやれ、親父も泣きを見る前に、現実の壁に気付いてくれればいいのだが。年がいって(しに)(よく)が出たな」

 直高は軽く言うが、若犬丸は気が気ではない。公方の膝元で謀叛の計画を進めようというのだから。


「若犬殿が心配することではない。いざとなれば泣きつく相手がいるのさ」

 鎌倉公方氏満の師、義堂周信。彼とは和歌を通じて親交があった。

「僧門に入った者同士で仲が良くてな。あぁ、親父が若犬殿の背景にやたら詳しいのは、下野や奥州にもそういった繋がりがあるのさ」

 宗教という表には出ない組織網をもつらしい。


 また恵尊と周信の交誼は格別で、彼が京に去ったあとも手紙のやり取りが続けられているという。

「けれど、その程度の関係で謀叛の取りなしなどできるのでしょうか」

 若犬丸は、公方氏満と周信の絆の強さを知らない。先の敗戦から二月(ふたつき)しか経っておらず、もうしばらく身をひそめようと考えていた若犬丸に、恵尊のやり方は性急に過ぎるように思えた。

「いや、そなたの起こした叛乱から『人心冷めやらぬうちに揺さぶりをかける』という考えなのさ。親父殿は」

 直高は飄々と答える。

 ――自分は慎重に過ぎるのか。

 落城を幾たびも経験した若犬丸は、己れの懸念をどう伝えようか逡巡した。だが、そんな舎弟の顔つきに、

「言いたいことはわかる。だが、あぁいう何でもできる人は他人の意見など聞かないからな」


 俊器を買われ、小田宗家に迎えられた恵尊は、武将や領主としての統率力はもちろん、和歌や漢詩などの教養の他、小田流という剣術まで創設した文武両道の豪傑である。

「こうと決めたら梃子(てこ)でもいかぬ。巻き込まれたと思ってあきらめてくれ」

 超然と構える直高に、

 ――五郎殿も、お父上に似て器の大きな、何事にも動じぬ人なのだな。

 と、若犬丸は一目置く。


「まぁ、どっちに転んでもいいように、武芸の鍛錬は怠らぬことだな」

「はい」

「じゃ、狩りにでも行くか」

「はい?」

「武芸の鍛錬、だよ」

 にやりと笑う。

 その笑いは武芸の鍛錬など方便で、

「気晴らしに遊びにいこう」と誘っているのである。

 この余裕というか、緊張感のなさ。

 直高という人物が『何事にも動じない人』ではなく、

 ――何にも考えてない人、じゃないよね。

 少々疑う若犬丸だった。


 若犬丸は直高に筑波山へ狩りに連れ出された。六郎・七郎も一緒である。

「ずるーい。さいきん、おとなばっかり、若犬どのとあそんでるぅ!」

 小さくて狩り遊びに連れて行ってもらえない鬼高たちは口をとがらせた。

「ふふん、くやしかったら、若犬殿と大人の遊びができるくらいに、早く大きくなることだな」

 七郎が意地悪く言う。

「あーん、おにいちゃんをもってかないでー」

 すっかり小田家のいいおもちゃになっている若犬丸であった。


 秋晴れの空にそびえ立つ筑波山は美事だ。

 紅葉の錦をまとった姿は雲一つない青空によく映える。頂きを二つ持つ双耳峰。ほとんど高さの変わらぬ東峰を女体山、西峰を男体山と呼ぶ。悩ましげな名付けだが古来より男女の創造神と見立て、縁結びの神として信仰がある。

 鎌倉時代には山麓に律宗の僧が棲みつき、周辺の大地に不殺生界を結んだ。この土地での狩りを禁じたものだが、果たして、信仰は伝えられつつ疎にして漏れる。耕地を荒らす(しし)を退治するためならば許される、飢饉のときであれば許される、土地の所有者であれば許される等々、理由や条件をつけて、そこに住む生活者のために目こぼしの余地が残されるのだ。


 一行の向かった東の裾野は広々とした肥沃な大地で、秋の深まりとともに豊かな実りをもたらした。獲物の鹿やイノシシもまるまると太っているころだ。


 若犬丸は直高と轡を並べて、野を駆けめぐる。

 獲物を追う勢子の声が山々に響く。

 一行の目の前に、イノシシが飛び出した。

 若犬丸はそれを素早く射たが、イノシシは矢を喰らいながら、なお巨体を揺らして突進する。手負いの獣は怒り狂い、人馬に襲いかかろうとした。

 若犬丸が二の矢三の矢を続けざまに射込んでようやく、力尽きたイノシシは、馬の足元にどうと音を立てて倒れた。


「みごとな腕だな。この俺に矢を継ぐ間も与えなかった」

 手にしていた弓矢を持て余すようにして直高は言った。彼も狩りの腕に相当の自信があったようだ。

「いえ、花を持たせて下さいまして、ありがとうございました」

 若犬丸は謙遜したが、内心少しだけ、

 ――先日の相撲の借りは返せましたね。

 意趣返しを果たす。

 弟分の心中を知ってか知らずか、

「さぁ、俺も負けてはいられぬわ」

 直高は馬に鞭を当て駆けだした。


 数日後、多くの獲物を勢子に持たせて彼らは小田城へ帰還した。

 一行の後方では、

「あの二人に任せていたら、全然出番がなかったよ」

「これを知ったら、ちびらが何て言うかな。『おじちゃんたち、狩りあそびにはまだ早かったね』なんて、鬼高なら言いそうだよ」

 六郎・七郎が愚痴を言い合った。


 先頭では若犬丸が直高へ礼を述べていた。

「狩りに誘ってくださって、ありがとうございます」

「何の、礼を言うのはこちらの方だ。毎日ちびどもや、(せん)には親父の相手をしてくれて」

「ご子息のことはともかく、入道殿の件では私の問題でもありますから。本当に厄介をおかけして」

「親父の『陰謀』だが、あれは半分趣味みたいなもので、若い時分を思い出して血が騒いでいるのだ。あんな構想はこの小田城から出してほしくない。武力以外で、この窮地を乗り越えられないものか―――と、兄者たちは考えている」

 小田家内でも意見は割れているのだ。

「では、五郎殿は?」

「なるようにしかならない、だろ? 親父の懸念も、兄者らの懸念も理解できるからな。あとは鎌倉殿のお心次第でって・・・・・・ あぁ、せっかく日ごろの憂さを晴らしに出かけたのだから、こんな話はよそうか」

 直高は話題を変え、若犬丸の弓の腕を褒めた。

「弓箭については俺が教えることはないな。組み打ちはそなたの成長を待つことにして、帰ったら槍の扱い方を教えようか」

「槍、ですか」

 槍はこの国では南北の動乱期に生まれた新兵器。発明したのは南朝の忠臣楠木(くすのき)正成(まさしげ)だというが、伝承である。

「剣術では親父殿には適わない。ならばと思って槍を選んだのだ」

「槍など、軽卒の得物では?」

 その軽卒がつける胴丸を好む若犬丸には言われたくなかったろう。だが、直高は平気な顔で、

「俺の槍は馬上で操作するものだ」

 と、続けた。

 馬上槍術など聞いたこともない。

 若犬丸は本気にしなかった。

「また、ご冗談を」

「言ったな。いつかその威力を存分に見せてやる」

 二人は顔を見合わせて笑った。

 ふと、若犬丸の胸に温かいものが込み上げた。

「兄弟っていいものですね」

 と、言葉に出る。

「私には兄も弟もいないものですから。実を言うと少し前まで鬼高たちをうらやましく思っていたんですよ。それが皆さんとまるで兄弟のように・・・・・・。うれしかったです」

 直高兄弟の中にいれば彼らの末弟、鬼高たちと戯れていれば『おにいちゃん』。一度に兄弟が増えたようなものだ。

 ――この人のおかげだ。

 小田五郎直高。その名の通りの五男。若犬丸へのあしらいがうまいのは男きょうだいの中で揉まれたせいか。

 ――それに比べて私は兄弟どころか父母さえいない。

 天涯孤独の身の上・・・・・・

 彼の横顔に一瞬影が過ぎったが、直高はそれを見なかったように、

「逆に俺のような七人兄弟の五男坊など、親にとっていないも同然さ。おかげで自由勝手に生きられたが。まぁ、兄弟はいいって言うのは、その通りだ。上つ方には兄弟、従兄弟で仲違いやいがみ合い、果ては殺し合いまでなさる方もおられるが」

 と、ここで彼は言葉を切った。


 兄弟同士の殺し合い、の文句で思い出されるのは、二百年前、この関東に幕府をひらいた源頼朝である。

 彼らの一族は武将の血が濃すぎた。己れの血統と領地を守るため、親兄弟、叔父甥間で殺し合い、肝心の血統を絶やした。頼朝にも九人の兄弟があったが、一族の内訌による謀殺や戦死で天寿を全うした者は誰一人いない。彼の死後、唯一生き残っていた全成(ぜんじょう)という僧侶の弟も、晩年甥の頼家から不興を買い、常陸へ流される途中で殺されている。この全成を誅した者こそ、当時常陸国守護にあった八田知家なのだ。将軍家の意を受けたとはいえ、関東武士にとって知家は、悲劇の頼朝兄弟にとどめを刺した人物、との認識である。


 もっとも、始祖がどうであれ、

 ――五郎殿は、良いお方だ。

 少し前に『何にも考えていない人』だなんて思った自分を反省している。

「・・・・・・一族間の仲違いなど、それも心持ち一つであるのにな。互いに仲良くやろうと思えば絆は強まり、一族も発展するものを」

 若犬丸は、うん、うん、と素直にうなずく。

 と、ここで、直高は真顔で言った。

「そなたも早く子どもをつくれ」

「こっ、子どもって・・・・・・」

 突然に言われ、若犬丸の顔は見る間に真っ赤になった。

「わっ、私はまだ妻さえ持たぬ半人前です。いえ、妻の件も小山宗家を再興するまではと・・・・・・」

 真面目に答える若者を、直高は呆れたように見た。

「何を言っているのだ、若犬殿。酒は呑まぬだの。女はいらぬだの。そなたは若いのに禁欲に過ぎるぞ。小山宗家の最後の一人なら子孫をたくさん残そうと考えぬのか。男として生きようと思えば、人生は案外短いものだ。今から頑張らねば後で悔やむことになるぞ」

「そっ、それは確かにそうなんでしょうが・・・・・・でも、私、・・・・・・だけど・・・・・・」

「何をぐずぐず言っている。さてはそなた、ねんね(・・・)だな」

「・・・・・・」


 舎兄の手加減無しに、若犬丸は恥ずかしさで気が遠くなった。

「よし、正妻とは言わぬが一夜妻なら俺が見つくろってやる」

 任しておけと直高は胸を叩いて見せ、弟分の意志などまったく無視だ。


 筑波山は縁結びの神をまつる神社や寺がある。参詣客を目当てにした旅館も多くあり、その手の宿にも事欠かない。

「そなたの従者はよく通っていたが、主である若犬殿は知らなかったか」

 ――兵次が? いつの間に?

 若犬丸はかたわらの従者を振り返ったが、兵次だけではなく、彼らは皆聞こえぬふりをして目を反らした。

 ――そういえば、時々姿が見えなくなると思っていたけれど。

 その理由がようやくわかった。それから、自分の鈍さだとか、いろいろな意味で『奥手』だったことも。

 ――こういうのって、主がもっと気を利かせなければならなかったのかも・・・・・・

 反省してしまう。


「まぁ、よいではないか。それより若犬殿ご自身のことだ。この筑波で酒の味を覚えたのだから、ついでに恋の味も覚えていこうとは思わぬか」

「こっ、恋の味って」

 息も絶え絶えの若犬丸を、からかって笑う。

 直高はそちらの方でも気の利くいい兄貴であった。


 楽しげな兄五郎の笑い声に、

「何? 何? 何の話?」

 六郎・七郎が寄ってくる。

「あのな・・・・・・」

「わぁー、お願いですから、言わないでくださいっ!」

 こうして、賑やかに狩り遊びは終わった。


 残念ながら、この後、直高が女を紹介する機会は巡ってこず。

 小田恵尊が鎌倉府への抵抗運動を水面下で本格化させ、若犬丸に目立った行動は許されなくなる(よし)に。


翌至徳四年(一三八七)五月。

 恵尊の叛意が露見した。

 勧誘のため送った使者が相手の武将に捕縛され、小田城に若犬丸を匿っていることを白状させられたのだ。


 訴えを受けた鎌倉府では、まさに晴天の霹靂。

 祇園城討伐では先手を勤めた小田が何故(なにゆえ)変心したかと。

 公方氏満は直ちに恵尊を呼びつけ、同行していた孫四郎及び在倉の嫡男治朝を捕らえた。


 さらに一族の本拠小田城を制圧すべく、上杉朝宗を大将に軍勢を進めさせる。

 小田氏討伐。

 この報は、直ぐさま常陸にもたらされた。各々に領地を持つ恵尊の次男治親、三男清重らも小田城に集い、にわかに城内は合戦の準備に慌ただしくなった。


 若犬丸は自分の郎等を下野小山に向かわせたが、幾度送っても、彼らが小田に戻ってくることはなかった。すでに鎌倉府が手を回し、下総の結城氏に小山の動向を見張るよう命じたからだ。

 小山・小田間の断絶。

 この日のためにあった密約は無に帰した。


 合戦の日まであとわずかという夜、若犬丸はいたたまれず城を抜け出した。

 月の光が山さぶ筑波を照らす中、一心に馬を走らせる。後ろを、ただ一人の郎等となった兵次の馬が追いかけた。


 合戦を恐れてのことではない。むしろ合戦で存分に働くことは、直高たちに恩を返す好機である。

 しかし、思う。

 今回の鎌倉の沙汰は、自分が小田家にもたらした災厄ではないかと。


 己れには狐の祟りが憑いている。その己れが、世話になった小田氏にまで祟りを拡げたのではないかと。

 すでに呪いは成就し始めている。小山の正統は己れ一人になったのだから。


 ――呪いは自分のそばにいる全ての人に不幸を撒き散らすのか。

 いや、呪いを別にしても、小山若犬丸という存在に関わっただけで鎌倉から成敗される対象となるのだ。これ以上、小田家の人々に迷惑はかけられない。自分が筑波から遠く離れれば、氏満の怒りもおさまり、小田氏への懲罰も緩められるかもしれない。


 ――五郎殿、六郎、七郎、鬼高、鬼安・・・・・・

 家族同然と思っていた人々の笑顔が過ぎる。

 ――この人たちを不幸にしてはいけない。


 昨年の今ごろは祇園城の奪還を叶えていた。しかし、二ヶ月ほどで落城の憂き目に遭い、敵方にあった小田家に匿われ、今般、彼らに類が及ぶや逃げ出すとは何という皮肉だろう。


 けれど、逃げ出す、といっても行く当てはない。奥州田村氏のもとへとも考えたが、

 ――しかし、それでまた彼らに火の粉がかかっては・・・・・・

 頭の中で逡巡しながら、馬に鞭あてる。

 ――どこでもいい。一刻も早く、この土地から遠い場所へ。

 若犬丸は天空の月を見上げた。

 あの晩と変わらぬ月。

 若犬丸が辛く悲しいときにばかり現れる女を思い出す。

 そして、あの夜の決意。

 ――小山宗家の再興を・・・・・・

 だのに心が揺らぐ。


 いっそ小田城に向かう討伐軍へ単騎で身を投じようか、とまで思い詰め、手にした弓を握り直す。

 そんな若犬丸の目の前に、突然何かが立ち塞がった。驚いて竿立ちになる馬に、振り落されまいと必死でしがみつく。


 前脚を地面に落とした馬は、興奮して辺りをぐるぐると廻った。

「どうどう」

 馬の首を撫でながら落ち着かせる。そして体を(かし)げ、目の前に立ち塞がるものを見た。

 月明かりのせいで、髪も衣も何色とつかぬ女性だった。

 ただ顔の、紙のような白さが際だち。

 波打つ髪を揺らめかせ、大きな瞳で若犬丸に近づく。

 ――誰かに似ている。

 その誰かを知りたくて、女の顔を間近に見ようと馬を下りた。


「若犬丸」

 己れの名を呼ぶ声に聞き覚えがあった。

 はっとして右手を差し出した。怖がらせないように、弓手を後ろ手にして。

 女も同じように手を差し延べる。

 けれど、互いの手と手が合わさった瞬間、女の体がぐらりと崩れた。

 人の(かたち)をしていたそれは、泥に変じ、ぼとぼとと音を立てて土の上に落ちた。

 うわぁっと背後で声が上がり、驚いた兵次が馬ごと退くようすを耳がとらえる。

 若犬丸は、

「出てこい! 狐女っ。こんなことをするのはお前しかいない!」

 道の先の虚空を睨みつける。すると、そこからくすくすと笑い声、そして(うちぎ)姿の女が現れる。

「いやぁねぇ。あんたって女っ気がないから、気を利かせて好みの女を用意したっていうのに。やっぱりだめねぇ。触れられたら術が破れちゃった」


 こんな夜更けに供もつけず、女人が外出(そとで)をするのは考えられない。

 扇で顔の下半分を隠しているが、その月色の肌や人をからかうような目つきに見覚えがあった。

「言い忘れていたけれど、お久しぶりってところかしらねぇ。だいぶ大きくなって」

 女は近付きながら、

「でも、なんたってまだ童形童名のままなの? ねぇ、さっさと元服しなさいよ。名前もちゃんとしたのを名乗って……。そうだ。諱は政門っていうのはどう? よしまさの子ならまさかどがぴったりじゃない」

 口のはしをあげて笑う狐女に、若犬丸はきっとなって見返した。

「誰が、そんな逆賊と―――」

「だって、あんたも逆賊じゃない。だけど、同じ逆賊でも、将門さまとあんたとでは格が違いますけどねぇ」

 若犬丸はからかわれていると知り、無言で背中の胡簶(矢筒)へ手を伸ばした。


「剣呑ねぇ。そんな無粋なもの。あんたって武器を向けなきゃ私と話もできないの?」

 弓矢を構えられて、なお平然と見返す女を睨み、眉間を矢壺にとらえた。

「狐女、また私に仇を為しにきたのだな」

「ほほ、また(・・)などと誤解もいいところよ。その誤解を解きに来たのに」

 若犬丸は皆まで言わせず、弓弦を手放した。ビュッと音を立てて矢は走り、狐女の額に命中する。

 しかし、それは残像に過ぎなかった。


 気付けば女は宙を舞い、若犬丸の目の先三尺のところへ逆しまの姿で浮かんでいた。

衣の袖や裾をゆらめかせ、髪は八方に拡がり、その先は蛇のようにのたうつ。

 扇越しに目と目が合った。

「駄目ねぇ。これ以上は近づけない。あぁ、そんなもので私を害せられると思う? もう一度試してみてもいいけれど、その前に従者の首をねじ切るわよ」

 唇に薄く笑みを浮かべる。


 二の矢をつがえながら後ろを振りかえると、兵次が顔を引き攣らせながら、宙に浮いていた。

「あわわわわわ」

 恐怖で言葉にもならぬらしい。

 若犬丸の体は指一本たりとも動かすことができない。弓を構えたままの姿勢で唇がぶるぶると震える。怒りの余り。

「私をなぶりものにしてさぞ楽しいであろうな」

 思わず叫んだ。


「お望み通り、秀郷公の正統は私で絶える。さぁ、私を殺すなり何なり好きにしろ。ただし、他の者には手を触れるな」

 犠牲は己れ一人で十分だ。

 構えていた弓を下ろした。

「皆のために城を出てきた。小田の人々を救うために。お前の呪いのせいで・・・・・・」

 しかし、狐女はあざ笑うようにくるりと体の天地を替えると、若犬丸を見下ろして言った。

「いやぁねぇ、それが誤解だっていうのよ。私だって、この数百年のうちに気持ちが変わるわよ。あんたの一族のことなんてどうでもよくなったのよ。なのになんでかしらねぇ。秀郷の正統はあんた一人になっちゃうし。そのくせ、あんたは私にまとわりついてくるし」


 よくわからないわと肩をすくめる。

「誰がお前などにまとわりつくか」

 愚弄されたと思った若犬丸は目に怒りの色をにじませた。

「あら、あんたが呼んだから私はここへ来たのよ。あんたが私を思って、だから今会うことができたのよ。私のこの顔、思い浮かべてなかったなんて言わせないわよ」

 手にしていた扇をすぅっと下げて、その顔を月の下に晒す。

 ――あぁ、この顔だ。

 若犬丸は思い返す。

 最後に会った晩も散々に自分をなぶりものにした女の顔。

「お前には、礼を言わねばならないな。あの晩、お前のおかげで家名再興の意志を固めることができたのだから」

 正しく嫌味に聞こえるように言ってやった。


「あらやだ、私の言葉に発奮しちゃったの? 逆馬(さかうま)だったわねぇ」

 狐女の薄ら笑いは相変わらずだった。

「今度はなぜ現れた」

「なぜ? それはさっきも言ったでしょう? あんたが私を呼んだからよ」

「嘘だ。私はお前など呼んだりしない」

「そちらこそ嘘をついてるわよ。ねぇ、私のことを考えていたでしょう? 考えて考えて。だから私はここに現れることができたのよ」

 ――考えて? あの時、自分は何を考えていた?

 若犬丸は己れへの回答の代わりに、

「お前は妖しだ。妖しは人の弱きにつけ込む。人の運命を歪める」

 目を閉じ、狐女から顔を背けた。


「そうよ。それが妖しの仕事だもの。でもね、これだけは知っておいて、いくら妖しの私がたぶらかしたからと言って、結局、運命なんて道を選んだ人間の責任じゃなぁい? ねぇ? あんたは今迷っている。それを私のせいにしようとしている」

 全てを見透かすような瞳。

「皆のために城を出てきた? それ本気で言ってるの? 自分が逃げなければ愛する人は救えない? 狐の呪い? いい加減にしてよっ。いつもいつもあんたたちは、都合のわるいことを魔物や妖しや、果ては神仏のせいにする。もう、うんざりよ! 私はあんたと何の関係もない」

 狐女が大声を上げ、それから体の力を抜いた。

 宙に浮いていた兵次がするすると鞍の上に下ろされ、ぐったりと馬の首にもたれかかる。


「さぁ、決めてよ。己れの為すべきことを」

 狐女と若犬丸は互いに見つめ合った。

「私が逃げても小田家が救われるとは限らないんだな」

「そうよ。それに神仏じゃあるまいし、先のことなんて聞かれたって私にわかるわけないじゃない」

「私は疫病神ではないのだな」

「あぁ、やめて。その言葉、大嫌い」

「ともに戦えば、活路もあると」

「それは運と実力次第よ」

 狐女はにっと笑った。

「ならば我らは勝てる。私も五郎殿も腕に覚えがあるのだから」

 今度は若犬丸が笑う。

「すごい自信ねぇ。自分を買いかぶり過ぎじゃない?」

「買いかぶりというか、ならば、その目で見ておれ」

 若犬丸は馬に飛び乗った。手綱を操り、馬首を廻らせ、もと来た道を駆け戻る。兵次もその後に続く。


 残された狐女はじっとその背中を見送った。

 これで我らが(えにし)も断たれると。

 若犬丸の死をもって。

 ――ねぇ、あんた、知っていたのに。妖しは人をたぶらかすのが仕事だって。

 狐女は周囲を見回した。

 ――この辺りもずいぶんと変わっちゃったな。

 変わらぬものといえば、浮かぶ筑波の山容と月の光くらいであった。


「鎌倉殿、御重篤」

 彼の近習から告げられ、花萩はその場に崩れ落ちそうになった。


 昨年の若犬丸の挙兵では自ら指揮をとり、進軍した氏満である。

 此度も叛徒の居場所が知れるや、奮い立つようにして小田城攻撃の指示を出し、その矢先に彼は倒れた。

 氏満は体が弱く、また、自分の陰の気がどう影響するかわからない。

 ――その分、気を使って接していたのに。

 愛する人と死別するなど、いつだって胸が張り裂けそうになる。

 氏満の寝所近くから読経が聞こえた。

 遍照院の住職、頼印の声だ。


 氏満たっての願いで臨時の護摩壇(ごまだん)を設け、病気快癒の祈祷が施されていたのである。

 ――頼印の祈祷に何の功験があるものか。

 そもそも祈祷の指示が出せるまでに回復したのは、医師(くすし)の適切な治療と花萩の献身的な看病があってこそだ。

 ――どうして殿は、あんな嘘くさい坊主の言うことなんか信じちゃうのかしら。

 手にしていた扇を強く握り締める。


 しかし、頼印のいる間は氏満のそばに寄れない。

 昨日お世話をしていたときのようすから今どうのというわけではない。けれど、居ても立っておられず、

 ――そうだ。私もお経でも読もうかしら。

 と思いつく。


 半分は頼印への嫌がらせである。

 ――でもどんな神仏にお願いしようかしら。ちょっと前から妙見さまは平氏の護法神ということにされてしまったし、最近は東国(こちら)のお稲荷さまも霊験あらたかって聞くけど、やっぱり源氏の守護神八幡さまが一番かしら。けど、何かひっかかるものがあるのよねぇ。


 神仏の世界も信仰する人間の数や質によって、その通力が左右される。人々の信仰こそ神々の成分であるのだ。多くの人間に崇められれば、神仏はその力を増し、信仰が廃れれば神仏の力も廃れる。が、人間の他にも狐女のような『妖し』も数にいれねばならぬか。


 ――この数百年で神仏の在り方もいろいろあったわよねぇ。

 妙見菩薩の信仰は、将門と唯一敵対しなかった叔父、平良文の末裔千葉氏へと受け継がれた。

 かつては格下扱いされた稲荷の本地茶枳尼(だきに)天も、他の神仏と結び付き、次々と神階を上げた。

 八幡菩薩は、この鎌倉では言わずと知れた源氏の氏神であるが、託宣の神という性質上、将門が最初でも最後でもなく、人々から政治的な利用のされ方をしている。


 そして将門といえば、その強さと反逆精神、悲劇的な最期から御霊信仰を()、武州の神田明神を中心に関東一円で神として祀られているのだ。

 ――神さま仏さまって何なのよ、もう。

 人間世界にはまり込み、そこから抜け出せない孤独な妖し、狐女。

 彼女の迷いは深く、だからこそ節操のない頼印のような坊主を憎むのである。


 さらに頼印とお経といえば、一昨年ものすごく嫌な思いをした。

 氏満の重厄を取り除くとかで、前回の『重厄』からさほど過ぎてないというに、たいそうな式法めかせ、仁王(にんのう)経を施した。

 仁王尊は仏法守護の一対の神、その勇猛な力士像から健康の象徴とされるため、病弱な氏満の厄払いには相応しくもある。

 しかし仁王経は、護国三部経の一つ。かつて将門が乱を起こした際、朝廷が諸寺社に転読させた調伏の経でもあった。


 ――よりにもよって、何も・・・・・・

 花萩としてみれば何かの嫌がらせとしか思えなかった。

 もちろん頼印が、狐女の正体や将門との関係に勘づいているわけではない。

 けれど、彼の僧をいっそう疎ましく思うには十分であった。


 花萩は気を取り直し、

 ――とりあえず、お経なら何でもいいか。こういうのって、気持ちが大切だから。

 侍女たちを集め、数珠を爪繰り、適当な経を口にした。頼印たちへも聞こえるように。

 ――ふんっだ。あんたたちに何の御利益もないんだから。私のお祈りで殿を助けてあげるんだから。

 見えない力。それは信じることから始まるのである。


 氏満の寝所から祈祷の声が止んだ。と、間もなく、どかどかと音を立てて、複数の足が近づいた。

 障子を開け放していたので、足音の主が誰か、すぐに知れた。

 侍僧を引き連れた頼印である。

御前(ごぜん)、ここには、武衛の回復を願わぬ輩がいるようですな」

「まぁ、いったい何のことでしょう」

 花萩は扇で顔を隠しながら、しれっとして答える。


「拙僧の祈祷を邪魔しておいて、『何のことでしょう』もないと思うが」

「私はただ、殿のご病気の回復を願うばかりに、お経を唱えていたのです。何も僧正さまの邪魔をしようなどとは思ってもいません」

 花萩の答えは非の打ち所がない。最初から言い訳まで考えて、経を唱えていたのである。

「では、なぜ私が仏眼法を修している最中に、他の経を唱えたのです。御前のなさっていることは嫌がらせ以外のないものでもありません」


 頼印は怒りを顕わにし、払子(ほっす)毛束(けたば)を花萩に突きつけた。

「あら、ばれた?」とは狐女も口に出さず、心の中で舌を出す。

 だが、その気色はありありと目の色に出る。

「まったくとんでもない女だ。御所殿の大事に」

 頼印は首を振り、「このような(よこしま)な女がそばにいるから武衛は病を得たに違いない」

 疫病神でも見るような目で見る。


 ――何、それ。

 坊主憎さに経など唱えてしまったが、しかし、そればかりではない。

 ――私だって、殿のご回復を祈っていたのに。

 唇をぎゅっと引き結んだ。

 氏満への思いを否定され、花萩の目尻はつり上がり、獣じみたものになる。

 ――あんたなんて、私が本気出したら一ひねりであの世行きよ。

 部屋の気色が一瞬にして禍々しいものとなる。


 人々の肌が一斉に粟立ち、彼らは寒気を覚えた。

 無言で睨みつける花萩に、頼印は気圧され、

「まぁ、何にせよ、これからは慎まれてはいかがか・・・・・・」

 尻つぼみに言葉を濁し、来たときと同様、侍僧を引き連れて部屋を後にした。

 ――いけない。私、今、人を呪った?

 張りつめていた怒気がしぼみ、我に返る。

 呪いは口に出すばかりではなく、心に思っただけでも呪いとして成立する――それを教えてくえたのは寒川の尼だったはず……

 花萩は血の気がひくのをおぼえた。

 しかも相手は氏満の病気平癒を祈る高僧。

 ――まかり間違って、あの人に悪い影響が出なければいいけど。

 果たして、その晩、氏満は高熱を出し意識を失った。


 三日後、幸いに危機を脱した氏満であったが、彼が患ったのは瘧病(おこりやみ)(マラリア様の熱病)である。熱が下がったかと思えばまた上がる。それを何度もくり返し、床上げがなったと喜んだ後もぶり返し、予断を許さない。

 花萩は手ずから看病をと思ったが、考えるところあって氏満の枕元を離れた。

『あなたは誰かを呪ったときに、自分を厄神に落としたのよ。呪いそのものになってしまったのよ』

 いつかの寒川尼の言葉を思い出したから。

 ――それだってもう百年以上、経っているのに。

 将門が死んでから数えれば四百年以上が過ぎている。

 ――私はまだ自分自身の呪いから抜け出ることができないのかしら。

 さらに、追い打ちをかけるように、

「武衛のお近くには悪しき女狐がおります。疫病神のようなもので、あの者が御所殿のそばにいる限り、回復は望めないでしょう」

 頼印は己れの祈祷に効果がないことを花萩のせいにし、側近たちに言いふらしているのだ。


 ――女狐だの、疫病神だの、あて推量にしてはいいところ突いてるわね。

 ついでに花萩の心も突いた。

 自分が氏満のそばにいるだけで彼の命を縮めるということ。

 ――この呪いはいつ解けるの? そもそも呪いとは何なの?

 将門もその縁者も皆殺しになって、

「秀郷も、その血を継ぐ者たちも、みんないなくなってしまえ!」

 あのころは、そのくらいの気持ちでいたけれど。


 時代の間に間に、秀郷の末裔は政変で失脚した者、合戦で討ち死にした者は数多いた。狐女も龍神の隙を見ては庶流に祟り、呪い殺したこともあったが、秀郷の子孫は日本中に拡がり栄えた。けれど、今、嫡流たる小山宗家は若犬丸一人となって途絶えようとしている。代々下野南部に根を張った一族が彼の代で。


『地は血さ――』

 小山義政が遺した言葉。それがどんな意味であったものか、今となってはわからない。

 だが、秀郷の守ろうとした土地から彼の血を継いだ者が絶え、あるいは去れば呪いは終わりだと。自分を解放する言葉だと思いたかった。


 たった一人残された彼の正嫡。

 若犬丸がいる限り、彼に子孫が続く限り、呪いは消えないのだろうか。

 ならば自分は愛する人を死なせる運命にあり続けるのだろうか。

 ――わからない。

 だが、その恐怖から逃れるために、呪いが呪いでなくなるために。

 ――ねぇ、若犬丸、あんた、試しに死んでみてよ。

 自分より何より大切な人に生きていてほしいから。

 ――ねぇ、寒川尼、あんた、私に『うかつなことは口にしないほうが良かった』なんて言ったけどさ。あんたも相当うかつなことを言ったわよね。私に『呪いそのもの』なんて言ってさ・・・・・・

 こうして、小山宗家最後の子どもを死に向かわせたのだから。


 翌八月下旬、氏満は健康を取り戻した。

「先日私めの施した仏眼法が効いたのでありましょう。それより前、某寺院のなにがし殿が北斗法を修したそうですが、これが全く効き目なく。ほほほ、やはり瘧病には仏眼法が一番でして。といっても(なま)(なか)な僧では功験など、ほほほほほ・・・・・・」

 自慢げに言いふらす頼印であるが、先月の祈祷が効き目のなかったことなど、もちろん口にしない。


 氏満は生きている。

 そして若犬丸も生きていた。

 鎌倉方の軍勢に小田は降伏し、頼印はこれも自分の祈祷の効験だと吹聴したが、若犬丸と一部の小田余党は逃げ延びたという。

 ――私、なんてことしちゃったんだろう。

 若犬丸を死に向かわせたこと。

 また一つ業を深めたことに気づく。


 至徳四年(一三八七)七月十九日。

 上杉朝宗を大将に、鎌倉から軍勢が進行していた。

 その一報を聞いたとき、若犬丸は擬視感に囚われた。一年前の祇園城攻め、いや、さらに前、父義政が生きていたころの三度の攻城戦にも似て。


 そして小田城の正面を数千の兵に囲まれるや、ますますその感を強くした。

「一年前と立場が逆になってしまったな。若犬殿にしてみれば見慣れた光景か」

 若犬丸のかたわらで、直高が彼の心を見透かしたように言った。

「だが、小山へは数万の兵が攻め参じたというに、鎌倉殿は発向されず、差をつけられたような」

 軽口めかせて、笑いかける。

 このころ氏満は病の床にあり、また昨日まで鎌倉の重臣であった恵尊の変心は、有力武将や領主たちへ戸惑いを覚えさせた。

「鎌倉殿の言いがかりでは?」

「大名が力を付け過ぎるのを怖れてのことか?」

「そういえば―――」

 小山討伐の過去もあり、氏満への不信を抱かせ、鎌倉は大軍を召集することをあきらめたのである。


 若犬丸は、

「小田の皆さま方を巻き込んだのは申し訳ありません」

「いや、巻き込んだのはこっちよ」

 直高はにっと笑い、

「それにしても親父は人を見る目がなかったな」

 信じて使者まで送った相手に裏切られたのだから。


 この城には長男四男を除いた恵尊の子と一族が集結している。

 祇園城と比べればさして広くない敷地に、入りきれぬ郎等は隣接する民家に待機させていたが、防御性の乏しい城がどれほど持ちこたえられるだろうか。


 城外からは人馬のざわめきが遠波のように寄せる。南の桜川と湿地が守ってくれてはいるが、そこへ敵は土を盛り、板を浮かばせ、小田城への包囲網を縮めている。もちろん城方もむざむざ為すがままになっているわけではない。櫓から工兵らを狙い撃ちにしているが、城への進路が完成するのは時間とともに迫っていた。


 孤立無援の小田一族。

 その評定の席に若犬丸も居合わせた。

此度(こたび)は当家の一大事にある。各々(おのおの)方、忌憚のない意見を述べてくれ」

 城主を代行し、二郎治親が切り出したが、言葉を発する者はない。

「早くに降参を申し出れば、当家の疵も小さいと思われる。いかがであろう」

 二郎は満座の人々を見回す。


 ――降参?

 二郎の言葉に、若犬丸は疑問を持った。

 大手むこうから、盾を叩いて、鬨をつくる鎌倉勢。

 だが、それ以上に勇みに勇んだ鬨の声が、城方から挙がっている。

 ――彼らに降参を納得させることができるのだろうか。

 だが、沈黙は承諾とばかり二郎が口を開きかけたとき、

「お待ち下さい。兄上」

 三郎が声を上げた。

「大変言い出しにくいのですが、その、降参する際は、小山の客人の処遇をどうなさるおつもりですか」

 小山の一言で、人々の視線が一斉に若犬丸へ注がれる。

「ちょっと待ってよ、若犬殿を召し捕って鎌倉に差し出すつもり?」

「それで制裁を軽くしてもらおうって言うの!」

 六郎・七郎が抗議の声を上げる。

『若犬殿は我らの末の弟だからな』

 その言葉どおり二人は若犬丸を庇おうとした。

「いや、私は何もそこまでは・・・・・・ ただ小山殿の覚悟のほどをお聞きしたいと」


 覚悟のほど。

 言い逃れの余地のある小田家と違って、若犬丸は鎌倉方と何度も刃を交えた謀反人である。

 そもそも小田と小山の御曹司を同列に扱うのはどうか、

「いっそのこと、若犬殿を誅して、首を鎌倉方に差し出しては」

 と、誰かが言い出しかねない場の気色であった。


 若犬丸とて、恩ある小田家のためとあれば、首の一つくらい惜しむものではない。

 そう言おうとしたとき、今まで黙っていた五郎直高が口を開いた。

「兄者、追い詰められて九郎判官を討った奥州泰衡公の末路をお忘れか。その泰衡公を弑した下郎の末路をお忘れか。鎌倉が本気を出せばいくらでも因縁をつけられますよ。それよりも、小山殿は我らの盟友です。命懸けで守ってこそ武将の本懐でしょう」

「そんな武将の本懐といっても」

 二郎の顔は苦い。


「郎等らも戦いたくて腕をうずかせているところです。降参するといって彼らを治めるのも一苦労でしょう」

 直高もまた若犬丸と同じ懸念を持っていた。

「どうせなら、打って出た方が手っ取り早いでしょうね」

 平然と言い放つ直高である。

「て、手っ取り早いって……」

 次兄は、二の句をつげぬ。

 しかし、戦いの中でしか己れの居場所を見つけられず、鬨の声に引き込まれるようにして戦場へ身を投じるのが戦士(もののふ)である。血に逸る獣となった彼らの始末を含めて『引き際』を考えねばならかった。さもなくば後に背信、離反を招き、武将として領主として、彼らを統率することが困難となるからだ。

「それに一矢も報いず降じたとあれば、武士の名折れです。生き残ったとて侮られ、大名の中で我らはものの数にしてもらえぬでしょう。売られた喧嘩は買う。それくらいの気概がなければね。先方もせっかくこの筑波にまでお出で頂いたのに張り合いがないでしょう。まぁ、恥ずかしくない程度に戦って、適当なところで兜を脱ぐ、小山殿にはそのどさくさに逃げて頂き、あとは父上のお知り合いの方にお力添えを受ける、それでどうでしょうか」

 実際、四十年ほど前、この城に南朝の雄、北畠親房を抱えていた小田治久は、ほぼ同様の経過をたどって北朝へ降伏した。

「先代に学べ、と言うことか。幸い、鎌倉殿のお姿も見えぬし、京の将軍家が腰を上げる気配はないしな」

 小田家と将軍義満は、周信を通じ、氏満などより余程友好な関係を保っていた。氏満と義満の力関係を見越し、合戦の『適当なところ』で将軍家の口入れを願う。問題は没収される所領の多寡であるが、それは交渉次第。

「――段々と、決着の輪郭が見えてきたな」

 次兄の言葉に直高はうなずく。

「まぁ、こんな役目、私一人で十分でしょうが」

「おぉ、そなたがやってくれるか」

 五郎の一言で兄たちも決意を固めたようだ。だが、これに六郎・七郎は異を唱える。

「一人でやるって、どういうことだよ」

「俺らにも、お供させろよ」

 五郎に従うと言う。

 若犬丸も、

「私も仲間に入れてください。この一年間、小田家で食べさせて頂いた分は、お返ししますから」

「おぉ、倍返しのな。だが、若犬殿こそ『適当なところ』で、どうにかなってくれよ」

 肩を叩き合い、意志を分かち合う四人。

 そんな彼らを尻目に、二郎、三郎は、

「兄上、合戦はあの者らに委せましょう」

「あぁ、我らは(のち)のことを為さねばならぬからな」

 小田家存続のため、それぞれの役割を担う。


「開門!」

 大手前の攻め手を矢で射払い、城門の木戸が大きく開かれる。

 直高・若犬丸の軍団は、まさに一矢となって飛び出した。

 目の前の桜川の周辺は泥地であるが、彼らはそれをものともしなかった。斬り倒した人馬を足がかりに踏み越えて、敵陣の中心へとなだれ込む。


「槍渡せ、槍!」

 直高が叫ぶと郎等の一人が手にしていた槍を投げ渡す。

 目の前の馬上の敵を切り裂き、泥の上へ落とす。

 脇から飛び出した歩兵を石突きで伸す。

 また目前に一騎。

 敵方が通した進路の上を駆けぬけ、勢いをかって胴に穂先を突き入れる。肉に噛まれる前に、ぐるりと返しながら穂先を引き抜く。死者となった主を乗せたまま馬は泥の中を逃げ去った。


 直高の勇姿に若犬丸は目を見張った。実戦での馬上槍術など生まれて初めてみた。いつかの直高の言葉も冗談にしていたが、本人に言わせれば、

「俺は馬の上手、槍の上手、ならば二つをかけ合わせて天下第一の遣い手になろうとな」

 単純なものだ。合戦の作法を全く無視した戦い方。自由気ままな五男坊の彼らしい発想であった。


 若犬丸も負けてはいられない。

「どこだ、若犬殿っ」

 夢中で戦い、弟分を見失っていた直高は、兜の庇に手をかけながら周囲を見渡した。

 だが、探すまでもない。


 薄縹(うすはなだ)の水干に萌葱威しの胴丸。

 束ね髪を風になびかせる若犬丸の童形は戦場で嫌でも目に付いた。殺到する歩兵たちを相手に馬上での戦闘をあきらめ、すでに徒歩立ちとなっていた。泥に足を取られぬよう転がる盾や死体の上を渡り、白刃の壁をものともせず太刀を振るう。

 血飛沫を受け、泥水を蹴散らしながら、敵兵を次々と地獄へ送る若犬丸。

「まるで鬼神だよな」

 そばにいた七郎が言う。

 ――鬼神?

「いや、天女さ」

 と、六郎。

 ――天女?

 彼が太刀を振る度に、(ひるがえ)る水干の袖、のたうつ括りの緒。

 ――舞い?

 そう、舞いを舞うような美しさ。

 水干の青、鎧の黄緑、血の赤。

 若犬丸は極彩色の蝶であり、その挙動は色彩の乱舞であった。


 ――童形の見せる魔力のせいか。

 この世ならぬ光景に、見る者は恍惚すら覚える。

 ――どちらにしろ、人間業とは思えぬ。

 その比類のなさ、まさに天下無双。

 血を吸って、いよいよ冴え渡る若犬丸の刃。

 弟の、同類の、とした己れを恥じる他ない。

 やがて彼の周辺から円を描くように人が消えていく。

「あれが、小山の若犬丸か!」

「噂通り、強過ぎだぞ!」

 敵方は耐えかね、半町ばかり後方に退いた。


「お前たちも、若犬殿を見習わぬか!」

 直高は六郎・七郎を追い立てる。

「若犬殿!」

 呼ばれて、彼は顔を上げた。ようやく息を付けたところだが、死体を梯子にひょんひょんと跳び進み、直高のもとへ駆けつける。

「凄まじいの一言に尽きるな」

「五郎殿こそ、見事な槍の腕前でした」

 朗らかに微笑む若犬丸。

 その姿は血と泥に汚れ、直高は続く言葉を失った。

 けれど、舎兄(あに)の当惑を知らず、なお微笑み続ける若犬丸。

 じっと見て、彼は、

 ――あぁ、そうか。

 掌で彼の頭をぐしゃぐしゃとかき混ぜた。

 照れていっそう嬉しげに笑う若犬丸。


 ――誰かに褒めてほしかったのか。

 言葉などいらなかった。先程まで遠退いていた若犬丸の存在が、すぅっと近くへ戻ってきた。

 己れの益体もない畏怖が、勝手に二人の間に、距離をつくっていたのだと気付かされる。

 ――思うより、子どもだったのだな。

 直高の知る由もないが、小山での連戦中、まともな郎党は若犬丸が前線で戦うことを喜ばなかった。

 それどころか「あれはだめだ、これはだめだ」と禁じられるばかりであった。

 己れの武勇を五郎のような男に褒められて、若犬丸は素直に嬉しかったのだ。


 直高は、まだでれでれしている若犬丸に太刀を替えさせた。

「よくこれで戦えたものだ」

 次々に襲いかかる敵に、(しのぎ)は削れ、(つば)は割れ、太刀が太刀の体を為さなくなっていた。

 直高は、周囲にむかって大声を張り上げた。

「さぁ行くぞぉっ、もう一戦!」

 将兵たちを奮い立たせ、敵の本陣に乗り込もうとした、そのとき、背後で人々の悲鳴と怒号が上がった。

 振り向けば、小田城の大手にまで敵勢が迫っていた。直高と若犬丸らが敵陣の奥深くに入り込んでいるうちに、背後を回り込まれたのである。だが、

「うかつだったな。俺は大将失格だ。そなたは真似をするなよ」

 この戦況にあって飄々とのたまう。

 ――もはや、これまで。

 降伏か。

 しかし、直高はそれを選ばなかった。

「戦い足りない奴らは俺に付いて来い!」

 郎等たちをまとめ始める。

「六郎殿たちは?」

「いや、あいつらは置いていく。そなたも、もう十分『適当なところ』だ。奥州なりとも逃げおおせ」

「何を言うのですか! 私はまだ五郎殿に恩を返しきってはいません。いえ、恩などなくとも、私はどこまでも付いて行きます」

 そのために、この小田に残ったのだ。

 すがりつくような若犬丸の眼差しに、直高の口元に微苦笑が漂った。

「どこへなりともか」

「はい」

 若犬丸の決意は確固たるものとして、 

「よしっ、では、『男体山』を目指すぞ!」

 落日に山の端を染める筑波山を目指し、直高らは馬を駆けさせた。



 常陸岩()()男体山城。

 男体山といっても筑波山のそれとは別の山である。難台山とも書く。(紛らわしいので以下、難台山に統一する)

 若犬丸は最初、山を混同し混乱した。

「詳しく言っていなかったな。小田が宮方として戦っていたころの名残りさ」

 筑波山の東北、直高の本拠岩間にそびえる、山勢険悪、道路詰曲、まさに天然の要害である。


 直高は筑波山に向かうと見せかけて郎等を引き連れ、この山に登った。

 鎌倉方も程なくこれを探知し、寄せ手を差し向けたが、難攻不落の山城を容易に落とすことはままならず、中腹にあるという城の辺りを見上げるだけで月日が流れた。


 年が明け、難台山に春が訪れると、城館近くの斜面にすずらんが一斉に花開いた。

 山籠もりの始め、小さな城館に兵らは収まりきれず、自らの手で仮屋を建てた。木を伐り材とし、下草を刈り屋根に葺いた。木を(ことごと)く伐り倒しては土砂崩れの原因(もと)となる。程良く間伐した土地の表面に()が入り、生え競う雑草も取り除かれ、適度な環境を得たすずらんは、天恵に浴すとばかり花をつけた。

 直高も突如現れたすずらんの群生に驚く。

「こんなところに花畑ができようとは、親父が見たら一首ひねるところだな」


 (てのひら)ほどの二枚の葉が抱き合い、その合間から小さな壺型の花が列を連ね、うつむき加減に顔を出す。白く可憐な花々が斜面一面に群れ拡がり、風に揺れる。それは、鈴の音が一斉に鳴り響くような錯覚を呼んだ。

「大地は我らに粋な贈り物を与えてくれたな」

 いつ果てるとも知れぬ籠城に、戦士の心を和ませる。

「だが、気をつけろ。かほどかわいげのある花だが、毒草だ」

 使い方によっては心臓の妙薬ともなるが、誤って口にすれば中毒を引き起こす。

「見かけによらず、な」

 直高は若犬丸を見てにやりと笑った。そのにやりに、

「はい。美しい女性には毒も棘もあると言いますからね」

 と若犬丸は返す。直高の物言いには慣れた。だが、最近いささか慣れすぎの感があって、若犬丸は誤解した。

 直高は一瞬当惑の表情を見せたあと、すぐに弟分の誤りに気付いたが、それを指摘せず意味ありげに言った。

「ほう、そのような言葉が出るところをみると、美女の毒だが棘だかに(あた)ったことがあるのか。いつの間にやら、隅に置けぬな」

 そばに侍っていた兵次も「私の知らぬ間に?」と驚いた顔をしたので、

「ちっ違いますっ。誤解ですっ。だいたい、こんな男ばっかりの所帯で、いつ女性など・・・・・・」

 慌てて弁解する若犬丸。

 ただ、心の中で、

 ――毒も棘もある美女に心当たりがないでもないけど。

 月夜に現れる女妖を思い浮かべた。


 籠城戦の辛苦は食糧の確保に左右されるが、直高は地の利を活かして鎌倉方の目を盗み、山向こうの真壁から糧道を確保していた。常に警戒を怠ることは許されぬが、このころはまだ花を愛でる余裕があった。このころまでは。


 小田城戦以降、京や鎌倉では、恵尊らを救おうと多くの人間が奔走していた。

その一人に義堂周信がいた。(彼はいつだって誰かの取りなしに奔走している)

 小田氏嫡男の治朝は下野の大名、那須越後守に預けられ、恵尊と他の子息らは鎌倉方の監視のもとに裁定を待つ身である。


 京の義満を相手に、かつての氏満の養育者は、

「所領は()(かく)として、一族の命だけは・・・・・・」

 小田恵尊を罰するには惜しい人物だと説く。

 周信は東西の公方から深い帰依を受け、働きかけは周到だった。彼の政治工作は成功するかに思えた。


 しかし、政治が決着を付ける前に、難台山の戦況が動いた。

 籠城者たちの命を繋ぐ糧道が、敵方に発見され、城外の協力者が捕らえられたのだ。当然、日々の(かて)は途絶え、三百名の兵どもは日ごとに衰弱していった。

 飲まず食わずで持ちこたえられる日数(ひかず)などたかが知れている。

 投降するか。いや、彼らは、小田での合戦では戦い足りぬと、この難台山に籠ったのだ。

 ――決戦の覚悟を。

 城方の悲壮な決意はそのまま城外に伝わったか、難台山はにわかに緊張に包まれた。


 人々の気に山が感応したわけではあるまい。

 だが、嘉慶元年(一三八八)五月十七日、難台山は深い霧に覆われていた。

 長期の籠城に付き合わされ、ただでさえ疲労が積み重なっていた鎌倉方の陣所では、武将らがじっとりと濡れる鎧の重みに辟易していた。斥候の報告では、鹿(しし)(がき)の木戸が破れて修理の途中だという。この霧に紛れて、破れ目から侵入すれば数ではこちらが遥かに優勢なのだ。しかも城の兵は食糧不足で弱り切っている。

 勝機はある。

「だが待てよ。お城大事のこの時期に、城郭の一部が破れているというのは何かの罠か」

「いや、疑っていては切りがない。この期を逃していつ戦うというのだ」

「その通り!」

「すでに我が軍の戦意の消耗も甚だしいによって」


 評定の意見も尽き、ついに出陣の決定がなされる。だが通常の戦闘における華々しさはない。

 翌払暁、敵の待ち伏せを警戒し、そろりそろりと息をひそめるようにして山腹の城砦に近づく。

 急峻な山の傾斜に、屈強な兵らも息が上がる。屏風のような山容、という表現があるがまさにそれである。馬など全く役に立たない。湿気にぬかる斜面に足をすべらし、転げ落ちる人馬があった。鎧武者はその鎧を脱ぎ、従者に預ける。


 深い霧。

 眼前の人の顔さえ覚束ない。

 さらに霧が隠すのは目に見えるものだけではなかった。

 大気中のこまかな水滴は物音をさえぎる帳となり、互いの気配を殺した。


 鎌倉方の先手に鹿垣木戸の破れ目を見つけることはできなかった。手探りで泳ぐようにして右か左かと探し回る。ふと前方に影が現れた。

――おや、先鋒の我らより先に?

 そして気付いた。その影は城方の兵。彼らは霧に紛れていつの間にか城内に入っていたのだ。


 小田勢も寄せ手の侵入にようやく気付く。

「敵襲だ!」

「皆の者、かかれ!」

 戦端はなし崩しに開かれた。

 やけっぱちのように打ち鳴らされる陣太鼓や法螺貝の音。

 難台山の戦いはこのようにして始まったのである。


 鹿垣木戸の破れ目というが、これは敵を誘き寄せるための戦略だったのか? 籠城戦で敵を城内に入れるということは常識では考えられない。しかし、城郭の破損箇所を修理もせず、放置していた事実も常識ではありえない。ただの偶然か(はかりごと)があったのか。(腹が空きすぎて、木戸の修理まで手が廻らなかった、という理由が一番納得いくが)

 鎌倉方はめったやたらに太刀を振り回し、城兵を追い回した。もはや陣取りも何もあったものではない。

 さらに霧が混乱を招く。

 同士討ちに倒れる者は数知れず。

 一方の城方は、気力だけでは戦いえず、空腹のあまりへたり込んでいる。

 だが、一部の先鋭たちはあきらめなかった。

「皆の者っ、殿をお守りしろっ」

 馬廻りの彼らには十分な食糧が提供され、体力が残されていた。

 太刀を振り回す若犬丸にも、

「『食べさせてない』なんて思われたくないからな」

 直高がいつかの戯れ言を口にし、自身の食事を欠いてでも舎弟に分け与えたのである。

「五郎殿、どちらにおられる!」

 霧の中、若犬丸が大声で呼ばわる。

「てやぁぁぁぁ」

「えぇぃぃぃぃ」

 兵どものおめき声、わめき声。鋼と鋼が打ち合う音。

 それも霧に吸われ、遠くに聞こえる。

 耳の遠近感を奪われ、しかも目の前は白い闇。

 何も見えず、

「味方打ちになるなぁっ。声をかけ合え!」

 その声も届いたかどうか。

 渦を巻く白煙がどうにか人々の動きを知らせるくらいであった。

「おぉ・・・・・・」

 色も音も掻き消し、全てを無に還そうかという霧の威力。

 虚無の中から敵兵が現れては斬り捨て、斬り捨てては現れるのくり返し。

 無間(むげん)地獄―――

 そんな言葉が頭の中でひらめき、若犬丸に震えが走った。


「五郎殿っ」

 無意識のうちに、この世で最も信頼を寄せる男の名を呼び、その己れの声に、はっと我に返った。

――五郎殿は館の中か?

 若犬丸は、別の不安に襲われる。

 どうにか階を探りあて、館の中に駆け上がり、

「五郎殿、五郎殿はいずこにおわすっ」

 声を限りに叫ぶと、徐々に身体の内側から力が湧いて、先ほどまでの恐怖が振り払われる。

「俺はここだ。若犬殿っ」

 霧の中から直高が現れた。

「この霧は使いようによっては我らに利するものです。さぁ、霧に紛れて、この城を落ちましょう」

 意気込む彼に、しかし直高は頬に笑みを浮かべながら、

「落ちるのは、そなただけでいい」

 目を見開く若犬丸へ、「そなたは生き延びよ。死ぬのは俺だけだ」

 重ねて言った。

「五郎殿、なぜ・・・・・」

 取りすがる舎弟を引きはがすようにして、

「聞け、若犬丸」

 直高は命じた。

「この戦さでは誰かが死なねばならぬのだ。小田家のうちの誰かが。鎌倉殿に楯突いて、一族のうち一つでも首を差し出さなければ、収まりがつかぬ。これは我らに限らず合戦というものがそういうものなのだと、若犬殿が一番知っているはずだ」

 直高は若犬丸の目を見据えた。


「わかります、わかります。けれど、それがどうして五郎殿でなければならないのですか」

「親父や跡継ぎの長兄ではいかんだろう。残りの兄も親父にとって無くてはならぬ存在だ。だからといって下の弟たちに死ねと言えるか? 俺にはできない」

 小田城の評定で戦いを申し出たとき、直高はすでに覚悟を決めていたのだ。

「正確に言えば、親父が鎌倉殿に捕まったときに、さ。こうなることは予想できたからな」

「もしや、この城に籠もったのも」

 その通りとうなずく。

 人々の視線を兄弟のいる小田の本城から逸らせるために。

「私の命一つで小田の一族が救われるのなら、安いものだろう」

「そんなっ! 鬼高や鬼安はどうするのです。あの子たちはまだ小さい」

「ちびどもは兄たちがいいように取り計らってくれるだろう。・・・・・・兄弟が多いのは良いものだな」

 ふっと目を細めた。

 直高の決意は覆せないと知り、知ってなお若犬丸は目に涙を溜め、直高の肩を叩き、揺さぶった。

「嫌だ! 五郎殿は小山で私が落ちるのを助けてくれた。そのとき言ったではありませんか。この借りは高く付くと。私はまだ何のお返しもしていません」

「あぁ、そうだったな」

 直高は遠い過去に思いを馳せるように目を游がせたが、小山での二人の出会いはほんの二年前に過ぎない。

「たった二年か? 俺はお前を子どものときから知っているような気がするが。まるで兄弟のように―― そうだ、お前はもう俺の弟だ。俺の命で贖える命なんだ」

 己れを説得しようとする直高の声は静かに過ぎ、それは父の最期と重なった。

 若犬丸の目から涙があふれた。

 小さな子どもが嫌々をするように首を振って、

「私は、五郎殿とともにここで討ち死にします」

 孤児の自分を弟と呼んでくれた直高。やっと家族と思える存在に巡り会えたのに、ここで手放すことなんてできない。

「お前は自分の命がどれほどのものか知らんのか。小山宗家のたった一人の生き残り。七人兄弟の五男坊、七分の一以下の俺に道連れなどできやしない」

「やめてくださいっ。人の命に七分の一だとか・・・・・・」

「それがあるんだよ。命の重さって奴には」

 直高は両手で若犬丸の肩を掴むと真っ直ぐに彼の目を見て言った。

「俺はお前を救いたい。それで何が悪いんだ」

 これ以上、若犬丸に何が言えただろう。

 しゃくり上げそうになるのをこらえて、直高の目を見たまま一歩退く。

 涙でぐしゃぐしゃになった顔。

「まるで子どもだな」

 ()に若犬丸は子どもに返っていた。父の死以来たった一人で立っていた彼に寄りかかることを許し、支えとなってくれる存在を得て。

 そして、また失おうとして、

「子どもなんかじゃありません・・・・・・」

 言葉どおり若犬丸は、もう一度一人で立とうとした。

「兵次、兵次、どこにいるっ」

 唯一の郎等を大声で呼ぶと、

「はい、ここです」

 何と若犬丸のすぐ足元から声がして、霧の中、板張りの上に這い隠れていた体を起こす。

 ――連れていくのが、この男でないといけないのか。

 溜め息が出た。

 折より霧が晴れかかり、敵兵らが現れる。

「ご覧ください。お目汚しですが」

 無理に口角を上げたので、うまく笑い顔をつくれたかわからない。

 若犬丸は太刀を抜くと、庭先に飛び降り、ざっと構えた。

 揺れる束ね髪。

 二、三の敵と目が合い、

 合った順に、次々と斬り捨てる。

 翻る水干の袖。

「童形の勇姿もこれで見納めか」

 直高は独りごち、

「槍持て、槍!」

 大声で呼ばわり、家来から得物を受け取ると、若犬丸のそばに飛び降る。背中合わせに槍を構え、

「早く行け。霧が晴れたら、敵の目もあざむけぬぞ」

 討ちかかる敵を一息で突く。ぐっと刃を返して引き抜く。

「さぁ」

「はい。五郎殿」言葉が詰まる。

「御武運を」

 これから死出の旅に向かう直高へ、御武運とは間抜けにもほどがある。だが、若犬丸に他の言葉は思いつかなかった。

 それに比べて、直高の別れの言葉は奮っていた。

「生き延びよ、若犬丸。そして子どもをたくさんつくれよ」

 若犬丸は、泣き笑いの顔をもう一度直高の方へ向けた。

「はい。兄弟は多い方がよろしいですからね」

 それから身を翻し、

「兵次、兵次」

 従者の名を呼ばわると、濡れ縁からテテテと階を下りる兵次を一瞥もせず、霧の中へ消えた。

 追いかける彼の従者に敵が襲いかかろうとしたが、直高が一撃のもとに突き殺す。そして、彼は槍を引き抜くこともせず館に入った。

信太(しのだ)、支度はできたか」

 小田城から従っていた執事を呼んだ。

「皆に伝えておけ。誰も俺の追い腹など切るなと。死ぬのは俺だけでたくさんだ」

 そう言いながら、彼は知っていた。

 戦いの終末は血の多きと(たっと)きを欲する。

 ――俺一人の血で足りてほしいものだが・・・・・・

 直高は短刀を手に取ると、信太に言った。

「思う存分戦った。一族も安泰だ。最後に面白い男を弟にできた。これでもう思い残すことはない」

 直高は刃を腹に突き立てると、真一文字に掻き切った。


 難台山の中腹から黒煙が立ちのぼり、館は炎に包まれる。信太が火を放ったのだ。

 炎は白一色だった世界を激変させた。

 霧は熱によって追い払われ、火明かりが煌々と周囲を照らし出す。

 館は燃え盛る炎に音を立てて崩れ、鎌倉方の勝ち鬨、小田方の悲鳴が重なる。

 山腰(さんよう)の若犬丸が斜面を振り返ったが、それも束の間のこと。前へ向き直し、山を駆け下りる。

 ――また、全てを失った。

 今はただ、己れの運命を呪うことしかできなかった。


 将軍義満自筆の赦免要求が周信の書を沿えて、氏満の元へ届いたのは昨年中のことである。

 氏満は小田氏の所領の多くを取り上げながら一族の命は保証した。ただし、難台山城にあった者たちを除いて。

 直高が予見していた通り、何人(なにびと)かの血が流されぬ限り、戦いの終局は訪れず。

 追い腹を切るなと命じた主の意に反し、彼を慕って自害した家来は信太を始め、百余名にのぼった。

 火は一昼夜燃え続け、あとには灰だけが残った。


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