平一揆の乱
武州河越に平一揆が蜂起したとの報告を受けたのは、応安元年(一三六八)の正月のことである。
昨年末、奇しくも父と同じ流行病で亡くなった京公方(征夷大将軍)の叔父義詮に代わり、従兄の春王丸(のちの義満)が家督を継いだ。その拝賀に、関東管領上杉憲顕が金王丸の名代で上洛し、鎌倉を留守にした矢先であった。
平一揆の手元には何と金王丸の弟がいた。生まれてようやく一年。まだ襁褓も取れぬ赤子を担ぎ上げて、鎌倉府と敵対したのだ。
――弟とその一派が、ぼくの敵?
いや、彼らの真の敵は、憲顕を中心とした関東管領上杉一族であった。
上杉氏は金王丸の祖父尊氏の外戚で、父基氏の子ども時代は養育係、観応の擾乱で一時失脚していた時期はあったものの、復帰後は彼の補佐役として府内の地盤を固めていた。金王丸にとっても、上杉氏は養育者として常に近侍し、父の跡を継いでからは政務上いっそう不可欠な存在となっていた。
一方の平一揆は、武蔵に根を張る国人集団。河越、高坂、江戸等、平良文(将門の叔父)を祖とする秩父平氏の末裔である。
先代の基氏は両勢力を絶妙な均衡で統率していたが、彼の死によってその関係は崩壊した。
上杉氏の台頭。
そもそも関東管領とは、尊氏の弟直義、子の義詮・基氏と、足利氏嫡流の中で将軍家に継ぐ地位の者が任じられた関東鎮護の長であり、その補佐役を関東執事と呼んでいた。
それを五年前、関東の名門武将を警戒する京の幕府は、隠棲していた憲顕を鎌倉府に復帰させた上、関東管領に任じたのである。基氏はすでに鎌倉府君という関東の権威になりおおせ、また同時、幼少時代から自分に近侍していた上杉氏の、一族の復帰を画策していた。
鎌倉に復帰した憲顕以下の上杉一族は、基氏の思いに応えるように、主君の下で敏腕を発揮した。そして、基氏を京の公方に準じ、鎌倉府における公方、鎌倉公方と呼び習わした。公方とは将軍の尊称であるが、もちろん幕府公認の称ではない。
鎌倉公方と関東管領――三者それぞれの思惑で生まれた関東の権威と権力の頂点。
後年、上杉氏は鎌倉公方の世襲と呼応するかのように、関東管領を一族の世職とするが。
これを河越らは予測したか。
上杉氏の専横を恐れた彼らは、基氏から養育を託されたもう一人の遺児福王丸を奉じ、鎌倉府に揺さぶりをかけたのである。
この報せを受け、京の憲顕は早急に関東へ帰還、と思いきや、なかなかに腰を上げない。
当年、十歳になったばかりの金王丸は思い惑った。
――上杉はもう鎌倉に帰ってこないつもりなの?
尊氏兄弟の内訌の際、憲顕は尊氏と敵対し、出家、蟄居を余儀なくされた時期がある。尊氏の死後、その有用性を認める基氏の強い要請で鎌倉府に返り咲いたが、今回もまた彼と彼の一族が身を引く可能性があった。
――どうしよう。皆がいなくなってしまったら。ぼくは誰を頼ればいいの?
母は父の死とともに出家し、大蔵の御所を離れていた。先年後ろ盾であった彼女の兄、畠山国清が失脚して後、唯一の支えであった夫が亡くなり、御所内に居場所を失ったからだ。
父の死後も変わらず金王丸に仕えてくれたのは、彼らだけだ。
信頼する者たちを失うことへ、底なしの不安を覚えた。
憲顕が鎌倉に東帰したのは、四月に入ってようやく。
金王丸は、数ヶ月ぶりに再会した憲顕に抱きついた。
今年六十三歳、法衣姿の管領憲顕は、従兄にあたる尊氏が生きていれば一歳違いと、そう変わらない。まさに祖父のような存在である。
「良かった。帰ってきてくれたんだね」
憲顕は孫のような主に目を細めた。
「金王さま、留守中おさびしい思いをさせてしまいましたか。申し訳ありませぬ。私はもうどこにもいきませぬよ」
帰参が遅れたのは、幕府との折衝のためだという。
諸般の事情説明や、祖父尊氏の代から幕府の配下にあった白幡一揆の使用許可等、子どもながら聡明な金王丸に、それは理解できた。
だが、憲顕はその後も河越氏の討伐に腰を上げようとせず、金王丸を奉じて追討の挙に出たのは六月に入ってからだった。
鎌倉ではこれに合わせたかのように、高氏や三浦氏が出奔した。いずれも本流が滅亡した氏族の末裔だったが、上杉氏とも昵懇だった両氏の離反に府内の人心はざわめく。
「御所の警備を強化しましょう」
憲顕が言った。
――高や三浦がぼくに逆らうなんて。
彼らは亡き基氏より、遺児の養育を委ねられていたが、いつの間にか金王丸のそばから姿を消していった。そしてついに完全なる決裂である。
上杉氏は、御所を十重二十重に囲み、厳重な警固を敷いた。
「言いづらいことですが、下野の宇都宮も、平一揆に同心したとのことです」
宇都宮氏は五年前、基氏の代で上杉一族の復帰に反対し、兵を挙げ成敗された経緯があった。性懲りもなく、の感が頭をもたげる。
金王丸の周りには上杉氏ばかりが残った。
――ぼくが信じていいのは、上杉だけだ。
その思いをますます強くする金王丸であった。
応安元年(一三六八)六月十一日、鎌倉勢は、河越の西、比企郡岩殿山前に陣をとった。
すでに、河越館の東の退路となる入間川流域、江戸牛島・府中は掌握しつつある。
「直接河越へ向かわず、外堀を埋めるようにして、相手の投降を待つ、ということだね。平一揆の実力はあなどれないから」
金王丸は思ったことを口に出した。
「その通りにございます。武州は平一揆の庭のようなものでありますから」
法衣の下に小具足姿を付けた憲顕の前鞍に乗り、金王丸は武蔵野の荒野を見渡すが、
――武家の子が馬に乗れぬなんて。
憲顕の胸の内が聞こえそうで、恥ずかしく思った。
――でも、ぼくはまだ子どもだし。体も弱いのだから。
以前、周信に言われたときのように、自分自身に言い訳をする。
そんな少年君主の心中を知ってか知らずか、
「岩殿には、高坂が籠もっております」
憲顕は淡々と戦況を説明した。
高坂と聞いて、金王丸は彼を振り返った。
「ではあの城に福王丸がいるの?」
「おそらくは」
高坂の家長氏重は、鎌倉に従属する武士を統括する侍所の所司(長官)であった。また、基氏の遺言により、福王丸の養育係の筆頭に任命されていた。
氏重はその立場を利用して福王丸をさらったのである。
――だけど、なぜ高坂は、河越館にむかわなかったのだろう。
本戦を河越と予測し、岩殿に疎開したことが裏目に出たというのかしら。
金王丸の脳裏を疑問がかすめたが、それよりも心に重くのしかかるものがある。
二歳の弟と対決する自分。
もちろん福王丸は人質で本人には何の意志もない。
けれど。
――この戦いが終われば、福王丸は無事に戻るのだろうか。
その問いのおそろしさに金王丸は口をつぐんんだ。
目の前には数万の人馬。
関東の主たる自分に馳せ参じた者たち。
――平一揆は負ける。
しかし、その負け方が問題なのであった。
岩殿山の城砦は五年前、宇都宮氏の叛乱を抑えるため築かれた砦である。基氏は高坂氏を信頼し、彼らの居城近くを選んだのだ。
だが今、高坂氏は逆臣と成り果て、その城を嫡男の金王丸が攻めようとしている。
砦は丘陵の斜面の南側にあり、背側部に堀と土嚢を巡らし、正面を九十九川の湿地帯に守らせている。無理に攻め込めば、人馬の足を捉られ、小規模ながら攻めるに難い城砦であった。
鎌倉勢は鬨の声を挙げ、高坂氏を挑発したが、城内は沈黙を守ったままだ。
攻めあぐねる鎌倉勢との睨み合い。
時間を稼ぎ、京の幕府の調停を待つ。
反上杉勢力たる平一揆の作戦であった。
だが、憲顕にも策略はあった。
幕府への工作は完了済みだ。
武州平一揆に叛徒の烙印を押し、こちらを官軍、相手を賊軍として大義名分を得る。関東の武将たちはどちらになびくか。
それは見てのとおりである。
垣盾を叩きながら喊声を上げる鎌倉勢。
彼らに敗北の二文字はなかった。
だが、その彼らをしてどよめきが走る。
突如、岩殿山の稜線を越え、多数の人馬が駆け下りた。
――どこの軍勢だ?
旗印は?
金王丸の瞳に映ったのは、左二つ巴の紋。
「野州か!」
憲顕が主にさえ隠していた秘策中の秘策。
下野小山の軍勢をして、敵の後背をつく。
下野守護、義政が征伐に向かうのは、国内で同時蜂起した宇都宮であろうと。
平一揆と宇都宮の同盟は、またそのためのものであった。
高坂は、南から進軍する鎌倉勢にのみ集中できると考えていた。
油断。
思えば、武州北部は小山氏の勢力下である。下野南部から難なく軍勢を引き連れ、さらに在所の勢力を糾合することができた。
城の南に陣した鎌倉勢の威容は、全くの陽動である。
高坂勢は必死で防戦に努める。
しかし、山の高台を小山勢に奪われた高坂氏に勝ち目はなかった。
丘の斜面から存分に矢が射かけられ、やがて城郭の外、北側の狭隘な平地で、ひしめき合うような白兵戦となった。
そして、勢いに乗った小山勢の前で、高坂の兵は次々と討ち果たされていく。
南側の湿地帯に逃がれようとして足を捉られ、小山勢の刃の餌食となる。
圧倒的な優勢にありながら、なお猛攻を続ける義政と小山の軍勢。その旺盛さに金王丸は胸が熱くなった。弟の存在など頭の片隅に追いやられていた。
頬が赤く火照るのが自分でもわかる。
――これが合戦というものなのか。
金王丸の心は、義政率いる小山勢と一体となっていた。
――野州なんて大嫌いなのに。
朝敵将門を倒した藤原秀郷の伝説が目の前の義政に重なり、人間は圧倒的な強さの前では、日ごろの好悪さえ凌駕するのだと知った。
やがて難攻の砦は、味方の兵を袋の鼠とする装置となる。
城門が破られるのは時間の問題だった。
――氏重は降参するのか。
ここにきてようやく福王丸のことを思い出した。
小山勢の徹底的な城攻めにあって、その手が弛められるようすはない。
――ねぇ、もうこのあたりでゆるしてやってよ。
お願いだから降参する隙をあたえてよ。
祈るような思いで、金王丸は岩殿山を見守った。
だが、彼の祈りは届かず。
砦から火の手が上がる。
濛々たる煙が天まで上がり、人々は戦いの終焉を知った。
同月十七日、河越館の正面に陣を置いた鎌倉勢は、総攻撃を開始する。
館、といっても、入間川左岸に面する広大な敷地はむしろ街と呼べるほどの規模である。鎌倉幕府創設期、義経の縁戚として頼朝に疎まれた河越氏だったが、その一時期を過ぎると過去の栄光を取り戻し、交通の要衝として武蔵野の繁栄をこの地に集積した。
しかし、その栄光もまた過去のものとなる。
先日の岩殿戦の勝利に、討伐軍は勢いを増した。多勢に委せ、籠城さえ許さなかった。
もともと館というだけあって城としての機能は低い。街は瞬く間に鎌倉勢に蹂躙されていった。
憲顕のもとへ、戦況報告が順次届けられていたが、それに混ざって前の合戦における事後処理の報がもたらされる。
憲顕から金王丸へも。
岩殿戦では、氏重を始めとする高坂一族の主たる武将は自害したと。彼らの居城も攻め落としたと。
だが、福王丸については誰も何も言わない。
金王丸は弟を思った。
父の死ぬ二ヶ月前に生まれた弟。
逆賊高坂氏の人質になった弟。
そして未だ行方の知れぬ弟。
福王丸は、最初から生まれなかった子として、人々の記憶から黙殺される運命にあった。
もう生き死にすらない。
誰からも省みられない。
――きっと、本当にもう・・・・・・
涙ぐむ金王丸を大人たちは誰も見ていなかった。憲顕でさえ、現行の合戦に注意を奪われていた。
少年は大人たちの慌ただしさの中に取り残され、初陣で味わった興奮と熱狂は、たった一人の弟の死とともに彼の心奥に封じられた。
街のことごとくを陵轢された平一揆は、すでに戦う気力を失ったのか、ろくな合戦もせず、城を落ちた。
後日、領地のある伊勢に逃げ延びたとだけ、金王丸は聞かされた。
七月、平一揆に感応し、上州越州で兵を挙げた宮方残党の新田氏は、小山・結城の軍勢に掃討され、叛徒の生き残りは出羽に逃走したという。
九月、宇都宮成敗に向かう道半ば、勝利を確信しながら憲顕が陣中にて没した。基氏亡き後の不安定な時期を、六十を過ぎた老将が自分の命を削って政権を守ってくれた。金王丸はそう信じた。




