プロローグ
このプロローグは読まなくても話は通じます、プロローグってそういうものですけど。なお、話が進むと残酷な描写があるので注意ください。
え、ハッピーエンド?人が死ぬ物語に何を求めてるんですか?
プロローグ
ある大学の研究室で。
汚れ一つない白衣を着た学生が、じっとケースを見つめている。
何もせずに、そう瞬きすら。微動だにせず。
そう例えるなら、まれに美術館などにいる、立て掛けられた絵に魅入っている人物。……丁度そのような印象だろう、その絵の世界に自分を投影し、その中で、その世界で生きている自分を想像する。
あるいは――体感する。
蝉の鳴き声だけが響く。
それ以外の物音は一切存在しない。
何一つ余計な物音はなく、その学生は静寂の中ケースを見つめ続ける。
突然、背後にある扉が開いた。
その学生の肩が一瞬震える。
同時に聞こえるその静けさを乱すことない声。
音であるのに、静寂を表する矛盾したトーンを含んだ声。
それは異質なことであるはずなのに、とても、心地の良いものだった。
「待たせたね。少々、会議が延びてしまってね」
その声と共に入ってきたのは、いまいち年齢を掴みにくい風貌の男だ。
掛けられた眼鏡のそのレンズの奥には、玩具と戯れる子供のような無邪気さがある。それと共存するかのようにある、深い闇を推し測ろうとする老獪な警戒心を備えた知性と好奇心の輝き。
そんな彼は、学生と同じように白衣を羽織っていた。
20代にしては落ち着いており貫禄があるように思うが、そう言われればそうだ、と納得してしまうかもしれない。ようするに学生の一人だと。しかし、少々若作りの40代である、と言われてもなぜか違和感を持てない。そんな雰囲気の男だった。
その眼から受ける印象を差し引き、その顔だけを見るのなら、その表情そのものは無表情にも見えるが、逆に多くの感情……憂いや恨み、喜びや哀愁、を称えているかのようにも見える。
――そう、あえて言うなら能楽で使われる能面のようだ。
無表情な中にどこか影があるように、裏に秘めたものがあるように見えてしまうのは、それが事実であるからなのか、彼の演技であるのか。あるいは、見ている人間が勝手に心情を反映させているのか。
年齢が分かりにくいのもそのせいだろう。
彼には人間にあるべき皺が不自然なまでにないのだから。
「何か面白いものでもあるのかね、そんなにびくびくして。もし、悪巧みをしているのであれば私にも参加させてもらえないかな」
彼は静かによく響く声で学生に尋ねる。
その声は、なぜかはわからないが聞いているものを不安にさせる声だった。
それは聞いている者にこう思わせる、今から想像だにできないおぞましいことが起こるのではないか、と根拠なく。
学生は戸惑いながらも、男の言葉を無視して尋ねる。
その不安を振り切るように、感情を波立たせるように。
「このケースのものは何ですか、こんなものは見たことがない。これは、まるで……」
学生はそこで口をつぐむ。
これ以上は口にしてはいけないことのように感じたからだ。
それを聞いて男は口の端を少し歪ませる。ただし、左端だけだ。
その表情が、真実彼が笑っていることを意味しているのかどうかは学生にはわからない。
「君は生物農薬を知っているかな」
彼の静かな声に学生は一瞬考えてから頷く。
それが、学生の未来を決定付ける意味をもつかのように学生は慎重だった。
彼はそれを確認して言葉を続ける。
「普通の農薬を、つまり化学農薬を大量に散布しては植物がダメージを受ける。
しかし、害虫が大量に増えれば一定の収穫を守るために農薬を撒かなければならない。植物を守るために植物を傷つけるなど本末転倒な話ではある。
そこで環境にダメージを与えずに、考案されたのが、害虫を食らう天敵の虫を散布することにより害虫を減らす生物農薬だ」
彼は話しながら近くにある本棚から何かを探し始める。
学生は最初は彼に目を向けていたが、その言葉が耳に届くたびに、次第に視線をずらし、最終的にケースに視線を移した。
そして再び、それに魅入る。
――否、魅入られる。
「これはね、それなのだよ。いや、本当はそのつもりで造った。
環境に被害を出さずに害虫を始末する。人から頼まれて作った実験作だ。その点に関して言えばこれはとても有能だよ、環境にダメージを与えないと言う一点において、とても無駄がない。なにせ、その環境作る構成要因とすら……ああ、知ってるんだったね。
そう、増える時期までの期間がかかるのは何だが、生命力も強いし、それでいて害虫がいなくなれば自動的に減っていく。ある意味理想的と言っても良い」
学生はその話をほとんど聞かず、ケースの中身、それに魅入られていた。
そのケースの存在は学生にとっても、理想に近いものだったのだ。いや、しかし決定的に足りないものがある。
「だが、それは失敗作でね」
学生はその一言に反応した。
「なぜですか。これの性質は無断で失礼かとは思いましたが、さきほど詳しいデータを拝見させていただきました。これに、不完全な要素などありませんでした」
その一言に彼は首を横に振る。
「ああ、だろうね。しかし、ならばわかるだろう、これは生物農薬として使うには失敗作なのだと。これを制御する為に時限爆弾としての役割を果す細胞を組み込もうとしたんだが、いやはや上手くは行かないものだ。必ず、一部のものは能動的に生き残ってしまう。
受動的に、結果的に、ではなく、だよ。そう、まるで意志を持ったウィルスのようだ……環境を変化させかねないほどに」
彼は静かなままに話す。
静寂なままに。
そして、学生は思い出す、以前彼がこう言っていたことを。
『力』とは周囲の環境を変える『方向性』だと。
そして、『力』とは結局のところ、なんらかの意思から発生するののだと。
つまり、この目の前の物体が環境を変えかねないほどの意志を持っていることに他ならないのだ。そのことに学生は気付く。
……そんなことはありない。
これは、あくまで機械的な何か、に過ぎない。本能と言うプログラムに支配された動物以上ではない。
だが、それを一笑出来ぬほどに、その存在感を学生はそれに認めていた。
「それでも、……これは完璧ですよ」
「完璧? それは君にとってだろう。君の不完全さを埋めるのにちょうど良く欠けていると言うだけの話だ、パズルはどちらも欠けているから噛み合うのだよ?」
「…………」
「そしてもし、真にそれが完璧ならば、その完璧さ故に不完全なのだ」
男は一息おき、さらに『力』を込めて……即ち意思込めて男は言った。
「コイツが狩る害虫はね、狩り尽くしてもらっては困るのだよ」
制御できないものなど、不要だ。そう男は続けて語る。
学生は俯いていた。
彼は学生の近く本を置いた。
「これが君の借りたがっていた資料だ、来週には戻しておいてくれたまえ。では、私は他の研究があるのでこれで失礼するよ」
彼は出て行こうと扉に手をかける。
「待ってください」
突然学生に声をかけられた彼は首をかしげて、学生へわずかに身体をひねる。
「何かね」
彼は学生に問う。
学生は俯いたままだ。しかし、その声には先程にはない『力』強さがあった。
××という名の強き『意志』が。
「この生き物はこれからどうなるのですか」
男は口の端を歪める。
その目に感情は無い。
ただ見ている者に、幼い無邪気さと深い老獪さを感じさせる光があるだけだ。
そうなのだ、感情はない。
「捨てておいて貰えるかな」
感情の無い機械めいた声。しかし、その声はよく響いた。
学生は俯いたまま頷いた。
扉の閉まる音。
部屋は再び、学生一人となる。
学生は少しづつ静かに顔を上げる。
その目にはケースが映る。
学生はただ、じっと何もせずに見つめた。
蝉の鳴き声は無い。
――いつの間に鳴き止んだのか。
とても、静かな時間が流れていく。
唐突に学生は、なぜ自分がそのケースの存在に魅入られているのか理解した。
そのケースの存在は、自分にとってまだ理想の完璧な存在では無い。しかし、これから理想の完璧な存在になれるものなのだ。
だが、それにはやはり足りないものがあった。
そう、その足りないものとは……。
学生は立ち上がる。
ゆっくりと周囲を見渡す。
すぐに近くにあった『そのために用意されていたかのような』金槌を気付き、その金槌に向かって右手を伸ばし掴んだ。
学生はケースに視線を向けそれを数秒見つめた、ケースには学生の顔が映っている。
無表情な顔の中で狂喜に輝く瞳。
突然、学生は右手を振り上げる。
そして……。
世の中っていうのは辻褄が合わないものだ。
理屈にも合わないし、理想にも合わないし、答えも合わないし、割にも合わない。
いびつすぎて型が合うものなど存在しない。
それが俺達の現実。
結局の所。俺達人間が世の中に合わせなければならない。そうしなければ、簡単に何処か遠くに弾き飛ばされてしまう。世の中は、人間が一応造ったものにも関わらず、その人間を排除する。
そのことを俺が実感したのは比較的最近のことだ。
明確にいつ実感した、と言うのは無い。
実感って言うのは、俺の知る限り唐突に湧き出てくるものではなくて、徐々に侵食していき完全に染まったときに気がついたらしているものだ。
だから、生まれたときからの経験から徐々に徐々にその実感に侵食されてきてたんだろう。
その実感は俺に教えてくれた。
世の中に合わせるために、人は表面上、普通の人間の顔を被って生きているんだということを。
……さて、あんまり好きじゃないけどこういう言葉がある。
人に好かれるための唯一の方法は、畜生のなかで最も愚かなものの皮をかぶることである。
逆に言えば、愚かなものの皮を被らなければ、人に好かれないって言うことだ。
これを言い残した奴はなんて口が悪い奴なんだろう、多分かなりの……。
まぁ、それはいい。
俺が言いたいのは、普通の人間こそが、最も愚かな畜生であるということだ。
その普通の人間の皮を被っている奴らの中には、自分が他の人間と同じように普通の人間と言う皮を被っていることに耐え切れず、奇抜を装い、他の人とは違うと思いたがる人も居る、と。
そうやって別の自分の皮を被るわけだけだが、結局の所どんな皮を被ろうが正体が変わるわけじゃない。
普通の人ほどその事実を見ないようにして、他の人とは違う姿になりたがるのだ。
普通の人ほど理想の自分を作りたがる、多くの皮を被りたがる、本当の自分は別にあるんじゃないかと思いたがる。
だが、忘れてはならない。長年かぶり続けられたその皮は、確実にその皮膚の下にあるむき出しの欠陥と筋肉に癒着し、根を下ろしていることを。そしてそれはすでに身体の一部であることを。
普通の人間の皮を被った人間の中身はなにか、それは普通の人間なのだ。
同時に知るべきだ。他の人と同じように、普通の人間の皮を被った特別な人間もいることを、彼らには本当の自分なんて必要ない。
彼らに中身などない。
この場合の特別とは異常なことだ。「狂ってる」と言ってもいい。
そして、「狂ってる」というのは、世の中が人間に合わせないために、何処か遠くに弾き飛ばされてしまった存在のことを、弾き飛ばされないようにしてる連中が指して言う言葉だ。
普通の人間が自分にはなれない、その存在を指して言う言葉だ。
その言葉に秘められた感情は、困惑でもあるし、嫌悪でもあるし、恐怖でもある。そして密かな羨望でもある。
実は世の中は、そんな人の皮を被ったモノたちが交錯しあい、すれ違い、通り過ぎたりしている。みんな見えてるのに気付こうとしない、仮に気付いたとしても無意識に見なかったことにする。
俺達の身に起きたことは、簡単に言えばつまりはそういうことだ。
はっきり言って、いや、はっきり言わなくてもたいしたことじゃない。
もしかして、難しくて分かりにくい?
いいんだよ、わからなくても。
どんなことでも、わかろうがわかるまいがそのまま生きくしかないんだし。
でも、まぁ一応言っておこう。
俺が、いや僕がわかっていて欲しいことは一つだけだ。
世の中っていうのは辻褄が合わないものなんだよ。
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