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異世界ビール物語~醸造家の異世界転生~  作者: 麦汁酵生


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第九十五話 黄金の階へ、酔うな ―Belgian Golden Strong Ale―

 ヴィスタ台地の祝福祭を揺るがせた翌日、空はひどく澄んでいた。


 あれほど多くの人間が集まり、あれほど大きな儀式が崩れかけたというのに、空だけは何事もなかったみたいに高い。葡萄畑を渡る風も、丘の上の礼拝堂を鳴らす鐘も、昨日までと同じ顔をしていた。


 だが人の顔は違っていた。


 巡礼者たちは、まだざわついている。


 中には怒っている者もいれば、混乱している者もいる。


 それでも、これまでのような「ありがたさの熱」に包まれている者は減っていた。皆、自分の足元を見始めている。何を信じるか、何に膝をつくか、自分で選び直そうとする目つきになっていた。


「いい傾向だな」


 醸が丘の下の広場を見ながら言う。


「そうね。でも“楽”ではないわよ」


 レティシアが答えた。


「自分で考えるのは疲れる」


「だから敵はそこへつけ込むんだろうな」


 醸は小さく息を吐いた。


「迷うくらいなら、偉そうな光に頭を下げた方が早いって」


 ハインツは、ヴィスタ台地の大聖堂領から押収した箱を馬車から下ろしていた。箱の中には帳簿、流通許可証、献納記録、そして鍵付きの細長い木筒が何本も入っている。表には封蝋が押されており、その意匠は修道院よりもさらに上位の聖務機関を示すものらしい。


「これが問題です」


 彼は鍵のかかった木筒を机代わりの樽の上へ並べた。


「祝福祭で使われた酒の記録は表向きのもの。こちらは“高位献納品”として別管理されていました」


「高位?」


 ミーナが眉をひそめる。


「大聖堂でも限られた者にしか出ない、ということ?」


「おそらく」


 ハインツは封蝋を慎重に割った。


「名目上は“聖職叙任者、領主代行、守護騎士団幹部、特別巡察使”向けです」


 醸はその文言を聞いた瞬間、嫌なものが背筋を這うのを感じた。


 大衆を丸め込む酒ではない。


 上に立つ者、あるいは立たされる者。


 権限を持つ者、責任を負う者。


 そういう人間へ向けた酒だ。


「……下からじゃなく、上から固める気か」


 彼は低く言った。


「ええ」


 ハインツが頷く。


「大衆には祝福の顔を見せ、上層には“選ばれた使命”を与える。上下の両方から挟む構図です」


「最悪ね」


 レティシアが吐き捨てる。


「下は穏やかに従わせて、上は陶酔させるわけ」


「しかも上の方が厄介よ」


 ミーナが資料を覗き込みながら言う。


「責任感の強い人ほど、“自分は使命のために選ばれた”って理屈に弱い」


 木筒の中から出てきた羊皮紙には、細かい記号と配合量、試飲者の感想が記されていた。


 ――視界明澄。


 ――意志高揚。


 ――被献納者、自身の役割への確信を示す。


 ――陶酔傾向は軽度。忠誠誘導は優秀。


 ――神麦核抽出比、なお増量余地あり。


「……気持ち悪いな」


 醸は眉間を押さえた。


「“使命感を作る酒”か」


「言い換えればそうです」


 ハインツが答える。


「しかも、谷の冠液ほど露骨ではない。むしろ本人の長所を増幅して、“だからこそ自分が選ばれた”と思わせる方向です」


「暴君じゃなく、聖人ヅラの独裁者ができるってわけね」


 レティシアの声は冷たかった。


 醸は資料をもう一枚手に取る。


 そこには酒名ではなく、ただ符号だけが記されていた。


 Aurum Gradus――黄金階


「黄金の階段、か」


 彼は呟いた。


「上へ上るための酒だとでも言いたいのか」


「いかにも敵の好みそうな名前です」


 ハインツはうんざりしたように言った。


 だが醸には、その酒の姿がもうぼんやり見えていた。


 明るい。


 強い。


 軽やかに飲めるくせに、芯は深い。


 飲んだ者が、自分はもっと遠くへ行ける、自分はもっと高みに立てる、そう思ってしまう酒。


「Belgian Golden Strong Aleだな……」


 醸はほとんど独り言みたいに言った。


「また危なそうな名前が出たわね」


 レティシアが腕を組む。


「危ないんじゃない。危なく“も”なれるんだ」


「違いがわかりにくい」


「つまり、使い手次第ってことだよ」

 


 ヴィスタ台地の外れ、古い巡礼宿の地下蔵を借りて、四人は次の段取りを練っていた。


 敵の高位酒は、まだ一般に広くは流していない。


 献納先も限られている。


 ならば今のうちに、その流れを読んで、対抗酒を作るしかない。


「でも難しいわよ」


 ミーナが言う。


「相手は“強くなりたい”“責任を果たしたい”“皆を導きたい”って願いにつけ込むんでしょ? それって全部、悪いものじゃないもの」


「そこなんだよな」


 醸は蔵の壁にもたれた。


「欲望だけなら楽なんだ。腐った部分を叩けばいい。でも使命感とか責任感とかは、本来は大事なもんだ」


「それを拗らせてる」


 ハインツが記録を閉じる。


「上に立つ者を、自分のためではなく“偉大な意志の代行者”として酔わせている」


 レティシアは短剣を磨きながら、ぼそりと言った。


「上に立つ者なんて、少しは迷ってくれた方がいいのよ」


 三人が彼女を見る。


「何よ」


「いや、お前がそういうこと言うの、ちょっと意外で」


「現場にいるからよ」


 レティシアは顔も上げずに答えた。


「迷わない指揮官ほど危ないものはないわ。部下の痛みも失敗も、“大義”で踏みつぶせるから」


 醸はその言葉を、胸の中で何度か転がした。


 迷わない高揚。


 自分は正しいと疑わない使命感。


 それはたしかに、冠液の鎖とは別の形の支配だ。


 しかも、自分から喜んで首を差し出してしまう分、もっと深い。


「だから今回は」


 彼はゆっくり言った。


「“高みに立たせるけど、地面を忘れさせない酒”が要る」


「またとんでもない注文ね」


 ミーナが呆れる。


「いつものことだろ」


「そういう開き直り、あんまり良くないと思う」


「職人はだいたいそうだ」


「広げないで」


 醸は小さく笑ってから、真顔に戻った。


「Belgian Golden Strong Ale は、本来すごく危うい魅力を持ってる」


「どういう意味?」


 ハインツが問う。


「明るい。華やか。飲みやすい。でも中身は強い。気づいた時には思ったより深く酔ってる」


「……敵にぴったりじゃない」


 レティシアが露骨に顔をしかめた。


「ああ。でも、だから逆もできる」


 彼はテーブルの上に材料を書き出していった。


 淡色麦芽。


 神麦はごく上質なものを少量。


 透明感を出すための精選糖。


 軽やかなのに奥行きを生むベルギー系酵母。


 明るい果実香。


 華やかだが下品にならない香り。


 そして何より、飲み進めた先で“自分の力が増した”と錯覚するのではなく、“自分が背負うものの重さを忘れずに前を向ける”芯。


「つまり」


 ミーナがまとめる。


「自分を神格化するんじゃなくて、自分の限界を知ったうえで、それでも一歩出せる酒」


「そう」


 醸は頷いた。


「本当に強い酒ってのは、酔わせて何でもできる気にさせるんじゃない。無理は無理だってわかったうえで、逃げずに立てるようにするもんだ」


     


 仕込みは、これまで以上に繊細だった。


 Golden Strong らしい軽やかさを出すために、糖の使い方を誤れない。


 甘みを残しすぎれば重くなり、逆に削りすぎればただ尖った酒になる。


 高い発酵度を狙いながら、香りは痩せさせない。


 神麦の力もまた、強すぎれば“選ばれし感”へ傾きかねず、弱すぎればただの綺麗な酒で終わる。


「ずっと難しい顔してるわね」


 レティシアが蔵の入口から言った。


「当たり前だ」


 醸は釜の前で腕を組んだまま動かない。


「今回はちょっとした加減違いで、向こうの思う壺になる」


「そんなに?」


「高い酒ってのは、ちょっと気持ちよすぎるだけで危ないんだよ」


「初めて聞いたわ、そんな職人論」


「覚えとけ。役に立つかは知らんけど」


「たぶん立たない」


 だが実際、醸の感覚は正しかった。


 発酵初期、香りは見事だった。


 洋梨、白い花、蜂蜜、淡いスパイス。


 明るいのに軽薄ではない。


 けれどそのまま進めると、どこか“浮く”感じがあった。足が地面から離れるような、危うい高揚。


「……違うな」


 醸は発酵槽の前で首を振る。


「これだと“自分は特別だ”に寄る」


「修正できる?」


 ミーナが問う。


「やる」


 彼は迷わず、の Belgian Pale Ale の種をほんの少し、の Belgian Blond Ale の仕込みから得た香りの一部をさらにごくわずかだけ加えた。


 穏やかさと希望。


 その二つを芯として、黄金の高揚を支える。


「過去の酒を混ぜるのね」


 ハインツが感心したように言う。


「今まで積んできた答えだからな」


「なんだか、積み重ねがちゃんと物語になってきましたね」


「他人事みたいに言うな」


 発酵はそこから落ち着きを見せた。


 高く、軽やかに立ち上がっていた香りに、少しだけ深さが加わる。


 光がただ眩しいだけでなく、その下に影もあると知っているような香り。


 明るさに芯が通る。


 完成した酒は、息を呑むほど美しかった。


 澄んだ金。


 泡は白く豊かで、杯の内側に細い輪を残す。


 香りは華やか。洋梨、林檎、白い花、蜂蜜、かすかな胡椒。


 一口目は驚くほど軽やかで、するすると入る。


 だが喉を落ちた後、胸の奥で熱ではなく、透明な“覚悟”みたいなものが灯る。


「……すごい」


 ミーナが試飲して、しばらく言葉を失った。


「気分が高くなる。でも、自分を見失わない」


「むしろ」


 ハインツが目を細める。


「自分が背負ってる責任を、きちんと見直したくなります。逃げたくなくなる、というか」


「そうだ」


 醸は静かに言った。


「“選ばれたから従う”じゃない。“自分で引き受けるから立つ”だ」


 レティシアも飲んで、ゆっくり息を吐いた。


「強いわね」


「ああ」


「でも、怖くない」


「それが大事だ」


「……これは、上に立つ人間に飲ませたいわね」


 彼女は珍しく素直にそう言った。


「“お前は偉い”って酔わせるんじゃなく、“お前は見られてるし、支える義務がある”って思い出させるために」


「まったく同感だ」


 Belgian Golden Strong Ale の効果は明確だった。


 高揚と覚醒。視界の明るさ。希望。だが万能感ではなく、責任を引き受けるための透明な強さ。


 敵が狙う


 「選ばれた者の陶酔」


 に対し、こちらは


 「選ばれたのではなく、引き受ける者の覚悟」


 を返す酒だった。


     


 資料を追った結果、敵の高位酒はすでに一部が配送され始めていた。


 行き先は大聖堂領だけではない。王都近郊の監察官邸、守護騎士団の詰所、いくつかの領主館。そして、最も重要なのは――。


「川向こうの離宮」


 ハインツが地図の一点を指差した。


「そこへ向かう献納便が、明朝出ます」


「離宮?」


 ミーナが顔を上げる。


「ええ。表向きは高位聖職者と貴族の会談場所。ですがこの時期、次期の広域巡察任命に関わる者たちが集まるそうです」


「要するに」


 レティシアが言った。


「これから“広い範囲を動かせる人間”に飲ませる気ね」


「ああ」


 醸は唇を引き結んだ。


「王国のあちこちで、人に頭を下げさせる立場のやつらに」


 それは危険だった。


 冠液の兵や、修道町の静かな支配と違い、こっちは“まともに見える支配者”を大量に生む。


 善良で、責任感があり、しかも自分が正しいと信じている。


 そういう相手は、一番止めづらい。


「止めるぞ」


 醸が言うと、三人はすでに頷いていた。


「献納便に紛れ込む?」


 レティシアが訊く。


「それしかない」


「今度もまた混ぜるんだ」


 ミーナが半ば呆れたように笑う。


「一番確実だからな」


「ほんと、あなたの解決法、だいたい“飲ませる”に着地するわね」


「醸造家だから」


「知ってる」


     


 翌朝は、霧が濃かった。


 離宮へ向かう献納便は、飾り立てられた馬車二台と護衛数名。荷は酒樽と銀器、献納文書、そして祭りの供物。外から見れば、ごく普通の厳かな輸送だ。


 だが樽の中身を知ってしまった今では、その厳かさがそのまま不気味だった。


 ハインツが書類係として便へ近づき、レティシアが護衛の視線を外へ向ける。ミーナは供物の香草籠へ細工して犬の鼻を惑わせ、醸は献納樽の交換と補修を担当する蔵人に化けて荷台へ上がった。


 樽は三つ。


 そのうち一つが本命。


 香りだけでわかる。


 華やかで、明るく、ほとんど完璧。


 そして底に、ぞっとするほど静かな“優越”が沈んでいる。


 飲めばきっと、自分はより高く、より正しく、より選ばれていると感じるだろう。


「……なるほどな」


 醸は小声で呟いた。


「確かに、これは危ない」


 だが危ないからこそ、対抗できる。


 彼は手早く栓を抜き、自作の Belgian Golden Strong Ale を混ぜ込む。


 量は多すぎても少なすぎてもいけない。


 香りは似せながら、流れだけを変える。


 陶酔を、覚悟へ。


 優越を、責任へ。


 選民意識を、自分で引き受ける意志へ。


 栓を戻し、樽を軽く回す。


 液の中で、二つの黄金が静かに混ざり合う。


 その瞬間、背後から声がした。


「そこで何をしている」


 若い護衛騎士だった。


 まだ二十代前半。顔立ちは端正だが、眼差しにはどこか疲れがある。任を誇りに思っているのに、その重さに押されかけている――そんな匂いがした。


「樽の締め直しです」


 醸は作業員の声で答える。


「祭り上がりで緩みやすいので」


「早くしろ。献納便を待たせるな」


 騎士はそう言ったが、視線が一瞬だけ樽へ落ちる。


 その目に宿ったものを、醸は見逃さなかった。


 期待。


 緊張。


 そして“自分もいつか、あの酒を賜る側になれるだろうか”という、ほのかな渇き。


 ああ、と醸は思う。


 敵が狙っているのは、こういう人間だ。


 真面目で、頑張っていて、認められたいと思っている。


 悪人ではない。


 むしろ、ちゃんとしている。


 だからこそ“選ばれた”と言われた時、深く刺さる。


「……お前」


 醸は思わず、その騎士へ言っていた。


「何です?」


「上に立つってのは、褒められるためじゃないぞ」


「は?」


 騎士が怪訝な顔をする。


「見てるやつの前で、逃げないためだ」


「急に何を――」


「覚えとけ。偉い酒なんてなくても、立つやつは立つ」


「おい、貴様」


 怪しまれる。


 だがその時、レティシアがちょうど別の護衛と口論を始め、場の視線がそちらへ流れた。醸はその隙に荷台を降りる。


 馬車はやがて、霧の向こうへ進んでいった。


     


 離宮での出来事をその場で知る術はない。


 だが、その日の夕方、思いがけない形で結果は返ってきた。


 宿へ戻った四人のもとに、一人の若い騎士が訪ねてきたのだ。朝の護衛騎士だった。鎧は脱ぎ、外套で顔を隠しているが、あの目は見間違えようがない。


「……話がある」


 彼は低く言った。


 室内へ通すと、騎士はしばらく逡巡した末、ようやく口を開いた。


「今日、離宮で献納酒が出た」


「それで?」


 レティシアが鋭く問う。


「おかしいんだ」


 騎士は拳を握りしめていた。


「例年なら、あの酒を賜った方々は、もっと……こう、“満たされた”顔になるらしい。自分こそが相応しい、自分にこそ任がある、と」


「今年は違った?」


 ミーナが優しく尋ねる。


 騎士は頷いた。


「皆、静かになった。“高位の使命に酔う”んじゃなく、自分たちの判断が本当に誰を守るのか、急に話し始めたんだ。ある司祭は巡察の強化案を引っ込めた。ある領主代理は、民への布告内容を見直すと言い出した。守護騎士団の隊長は“従わせる前に、自分が見られる立場だ”と言っていた」


「へえ」


 醸は口元をわずかに緩める。


「いい傾向じゃないか」


「だが、そのせいで上は混乱している」


 騎士は醸をまっすぐ見た。


「お前が何かしたのか」


 沈黙が落ちる。


 レティシアの手が剣へ近づく。


 ハインツは騎士の腰元を観察している。


 ミーナは、相手の呼吸を見ていた。


 醸は、隠しても仕方ないと判断した。


「少しだけ、本物を混ぜた」


「本物?」


「“自分は特別だ”って酔わせる酒じゃなく、“だからこそ逃げるな”って思い出させる酒だ」


「……そんなものがあるのか」


「作った」


 騎士は長く息を吐いた。


「俺は……あの酒を飲んでいない。下っ端だからな」


「だろうな」


「だが、会場の空気が変わったのはわかった。変に神々しくなるんじゃなくて、重くなった。いい意味で」


「それで?」


「隊長の言葉を聞いて、少し……救われた気がした」


 彼は苦い顔で笑った。


「最近ずっと、“認められて上へ行けば、自分の不安も消える”と思っていた。でも違うんだな。上へ行っても、不安はたぶん消えない。ただ、それを抱えたまま立つしかない」


「やっとまともなこと言ったな」


 レティシアがぶっきらぼうに言う。


「お前みたいなのは、その方が向いてる」


「褒めてるのか?」


「半分は」


 騎士は肩の力を少し抜いた。


「上はまだ動く。今日の件で、“高位酒”の調整失敗だと判断されれば、別の場所で再試行するはずだ」


「場所は?」


 ハインツが即座に訊く。


 騎士は懐から小さな紙片を出した。


「聞かなかったことにしてくれ。だが……次の献納先は北の聖騎士府だ」


 部屋の空気が変わる。


「聖騎士府?」


 ミーナが顔を強張らせる。


「ええ。より直接的に、“選ばれた者”を作るには最適な場所でしょう」


 騎士は立ち上がった。


「俺は長くは手伝えない。でも、もし本当に人を酔わせるためじゃなく、立たせる酒を作ってるなら……負けるな」


「お前もな」


 醸が言う。


「酒がなくても立て」


 騎士は一瞬だけ笑って、霧の中へ去っていった。


     


 夜、醸は一人で蔵へ戻り、残った Belgian Golden Strong Ale の樽を撫でていた。


 強い酒だ。


 華やかで、明るくて、飲みやすくて、しかも深い。


 一歩間違えれば、人を高みに酔わせてしまう。


 だが今夜、この酒は一人の若い騎士の中に、たしかな“踏みとどまり”を残した。


 それで十分だと、醸は思った。


 敵はきっと、もっと上を狙ってくる。


 特別な者。選ばれた者。神聖な使命を帯びた者。


 そうやって、人の上へ上へと冠を積み上げていく。


 なら自分は、その階段の途中へ酒を置くしかない。


 酔って天へ昇るためではなく。


 高い場所にいても、地面へ視線を戻すための酒を。


「次は聖騎士府か」


 彼は小さく呟いた。


「本気で“選ばれし者”を作りに来るな」


 けれど、不思議と怯えはなかった。


 面倒だとは思う。


 厄介だとも思う。


 でも、それだけだ。


 ビールは、人を支えるためにある。


 それが兵であれ、村人であれ、商人であれ、修道士であれ、騎士であれ。


 上に立つ者だけを飾るための酒なんて、醸の性に合わない。


 樽の中で、黄金色の液体が静かに息をしている。


 その音を聞きながら、彼は笑った。


「よし。次はもっと、厄介な連中に飲ませてやる」


 黄金の階は、まだ続いている。


 だがその一段ごとに、酔いではなく覚悟を置いていけるなら。


 いずれ冠は、ただの重い飾りに戻るはずだ。


 そう信じて、大麦醸は次の樽の栓を確かめた。


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