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異世界ビール物語~醸造家の異世界転生~  作者: 麦汁酵生


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第九十四話 金の微笑みは誰のため ―Belgian Blond Ale―

  修道町サン・ルーヴェの朝は、前日までと少しだけ違っていた。


 鐘の音は同じ。


 川霧も同じ。


 石畳を掃く箒の音も、施療院の窓から漏れる祈りも変わらない。


 それでも、町には“揺れ”が戻っていた。


 市場では、値段をめぐって小さな押し問答が起きた。


 巡礼者の一人が、修道院へ渡す寄進額に迷って立ち止まった。


 施療院の前では、待たされた男が露骨に不満そうな顔をして、隣の老女にたしなめられていた。


 どれも些細なことだ。


 だが、その些細さこそが大事だった。


「いい顔になったわね」


 レティシアが広場を見渡して言う。


「不機嫌な顔が増えたって意味では、あまり褒め言葉に聞こえないな」


 醸が答える。


「でも死んだみたいな静かさよりは、ずっとまし」


「それは同感だ」


 昨夜、地下調合室から押収した記録と小瓶は、宿の一室に運び込まれていた。


 机の上には帳簿、流通記録、施療名簿、修道院内の指示書。そして、神麦抽出液の分量を記した細かな表が、几帳面すぎるほど整然と並んでいる。


 ハインツはそれらを睨み続けたせいで、朝からひどく目の下が暗かった。


「見えてきました」


 彼は指先で紙束を押さえながら言う。


「この町の“祝福の淡酒”は、独立した企みじゃありません。ベルメの件とも、谷の工房とも、別々の部署として繋がっている」


「部署って言い方、嫌だな」


 醸が顔をしかめる。


「ええ。ですが、そう呼ぶしかないほど組織化されています」


 ハインツは三枚の紙を横に並べた。


「谷の工房では“冠兵計画”」


 ハインツの人を従わせるための冠液。その言葉が改めて空気を冷やす。


「ベルメでは“都市安定化試験”」


 ベルメで追った、複合汚染と残留発酵を利用した都市規模の制圧。


「そしてサン・ルーヴェでは……」


 彼は最後の紙を叩いた。


「“光冠儀”です」


「……ひかり、かんぎ?」


 ミーナが眉を寄せた。


「表向きは、聖別された麦酒によって人心を穏やかにし、共同体の結束を高める宗教儀礼」


「言い換えれば?」


 レティシアが低く問う。


「“尊いものに自分から従いたくなる状態”を作る試みです」


 醸はしばらく黙っていた。


 この修道町で使われていた酒は、確かに冠液ほど露骨ではなかった。


 意志を折るのではなく、疑いをやわらかく溶かす。


 怒りや悲しみを鈍らせ、修道院の言葉を受け入れやすくする。


 だが今、記録が示しているのは、その先だった。


「嫌な方向に、ずいぶん綺麗に進化してるな」


 醸が言う。


「ベルメは混乱と疲弊を作る。サン・ルーヴェは安寧と信頼を作る。両方あれば、人は“救ってくれる強い何か”を欲しがる」


「そこへ光冠儀が来る」


 ミーナが息を呑む。


「明るくて、尊くて、安心できるものとして」


「そういうことです」


 ハインツが頷いた。


 レティシアが腕を組んだ。


「つまり敵は、ただ人を操りたいわけじゃない」


「ああ」


 醸は答える。


「“この人に従いたい”“この光に包まれていたい”って、自分から思わせたいんだ」


 その言葉に、部屋の空気が重く沈む。


 恐怖で縛る支配は、まだわかりやすい。


 だが、希望や救済の顔をした支配は、もっと深く食い込む。


 人はそこに、自分の願いまで預けてしまうからだ。



 記録の末尾には、ひとつの地名が何度も現れていた。


 アルトネール大聖堂領・ヴィスタ台地


 サン・ルーヴェから川を二日下り、その先の丘陵地に広がる聖堂領。


 王国西部でも屈指の巡礼地であり、年に数度、大規模な祝福祭が行われる場所だという。そこへ各地の修道院や商会から酒と穀物が運ばれ、“聖なる食卓”として再配分される。


「終点じゃないにせよ、かなり重要な拠点でしょう」


 ハインツが言った。


「サン・ルーヴェの抽出液も、最終的にはそこへ送られていた」


「祭りで配る気か」


 レティシアが吐き捨てる。


「多数に一度で飲ませるなら、これ以上ない場所ね」


「しかも信仰補正つきだ」


 醸は苦い顔で言った。


「“聖堂から授かった杯”ってだけで、人はありがたがる」


 ミーナが記録の別紙をめくる。


「見て。配合欄に“光輝相”“納受率”“高揚持続時間”ってある」


「高揚持続時間?」


「ええ。要するに、飲んだあと“どれだけ神聖な気分が続くか”を測ってる」


「……酒でやることじゃないだろ」


 醸は呻いた。


 だが同時に、敵が何を狙っているのかはよくわかった。


 谷では支配の土台。


 ベルメでは社会の疲弊。


 サン・ルーヴェでは穏やかな受容。


 そしてヴィスタ台地では、その全てをまとめ上げる“まばゆい中心”。


 恐れた者が救いを求め、疲れた者がよりかかり、穏やかに均された者が疑わず杯を受け取る。


 その瞬間、人は命令されなくても、自分から頭を垂れる。


「だから“光冠”か」


 醸は低く言った。


「冠液の“冠”を、今度は光で包むんだな」


「ええ。そしておそらく」


 ハインツが言葉を継ぐ。


「その儀式で使われる酒は、これまでのものより“ずっと魅力的”である必要があります」


「美味くて、明るくて、上品で、誰でも喜んで飲める」


 ミーナが言う。


「しかも少し特別で、“これはありがたいものだ”と思わせる」


「そういう酒か」


 醸はしばらく考えたあと、ぽつりと呟いた。


「……Belgian Blond Ale だな」



 サン・ルーヴェからヴィスタ台地への道中、空は高く、風は乾いていた。


 川沿いの湿った霧の町を離れ、丘陵へ向かうにつれて景色は明るく開けていく。葡萄畑、小麦畑、白い石灰岩の崖、ところどころに立つ礼拝堂。


 道を行く巡礼者たちも多い。皆、どこか楽しげで、晴れの日へ向かう顔をしていた。


「祭り前だからな」


 荷馬車を操るハインツが言う。


「ヴィスタの祝福祭は、商売人にとっても稼ぎ時です」


「嫌な言い方だけど、たぶん事実ね」


 レティシアが答える。


「人が集まる。財布が緩む。信心も高まる。敵が狙わないはずがない」


「しかも派手な祝祭なら、“ちょっと気分が高揚する酒”は歓迎される」


 ミーナが続ける。


「危険がむしろ見えにくい」


 醸は道端の白い花を見ながら考えていた。


 Belgian Blond Ale。


 前世の知識でいえば、明るい黄金色、軽快さ、飲みやすさ、ほのかな果実香、やわらかな甘み、そして気づけば杯が進む危うい親しみやすさ。


 見た目は明るく、軽やか。


 だが中身にはしっかり芯がある。


 だからこそ、この状況に恐ろしく合う。


 祝祭の光。


 聖堂の権威。


 人々が期待して差し出す掌。


 そこへ“ちょっと特別で、ちょっと気持ちよくなる金色の酒”を注げば、誰も疑わない。


「敵はたぶん、眩しい酒を作ってる」


 醸が言った。


「眩しい?」


 ミーナが首をかしげる。


「ああ。怖さも苦さも隠して、“これを飲めば幸福に近づける”って顔をした酒だ」


「……それ、厄介ね」


 レティシアが眉を寄せる。


「人は暗いものより、明るいものに騙されやすい」


「だからこそ」


 醸は笑った。


「こっちも金色で行く」


「嫌な予感しかしないんだけど」


「今回は殴るより難しいぞ」


「なおさら嫌」



 ヴィスタ台地の手前にある宿場町で、四人は一泊することになった。


 宿の裏には小さな醸造小屋があり、巡礼者向けの軽い麦酒を作っているらしい。設備を見た醸は、ほとんど反射で小屋の中へ吸い込まれていった。


「本当に懲りないわね」


 レティシアが呆れる。


「道具を見ると落ち着くんだよ」


「落ち着く人の顔じゃない」


「創作意欲に火がついてるだけだ」


「それを落ち着いてないって言うのよ」


 醸は笑って受け流しつつ、仕込み槽を撫でた。


 木は若いが悪くない。水も台地の湧水で硬すぎず、麦芽もそこそこ。ここなら試作はできる。


 今回必要なのは、単なる対抗酒ではない。


 光に見えるが、眩ませない酒。


 高揚を与えるが、酔わせて従わせはしない酒。


 祝祭にふさわしい明るさを持ちながら、飲んだ者が自分の足で立てる酒。


「難題ね」


 ミーナが言う。


「いつものことだ」


「その“いつものこと”で世界が動いてるの、やっぱり変だと思う」


「俺もたまに思う」


 Belgian Blond Ale の発想は、Belgian Pale Ale と近くて遠い。


  Belgian Pale Ale が、日常の中で心をほどく穏やかな琥珀だったとすれば。


 今回必要なのは、もっと明るく、もっと人目を引き、しかも“ありがたそう”に見えるものだった。


 土台は淡色麦芽を中心に。


 神麦は前回よりわずかに増やす。


 ただし、支配方向へ傾かないよう、抽出ではなく発酵の中で自然に馴染ませる。


 糖分は軽やかさのために少し高めにし、後味は重くしない。


 ホップは控えめだが、香りの輪郭を残す。


 酵母は果実香を持ち上げるもの。


 そして最後に、サン・ルーヴェで押収した記録を逆読みして見つけた、“光輝相”を生むための薬草のうち、精神誘導に寄らず、純粋に香気と明るさだけを与える部分だけを選び出す。


「また綱渡りね」


 ハインツが帳面をつけながら言った。


「美味い金色と、危ない金色の境目を狙ってる」


「その境目が大事なんだ」


 醸は鍋を覗き込む。


「見た目の華やかさが悪いんじゃない。そこに“他人の意志を預けたくなる細工”を入れるのが悪い」


「なら今回は?」


「飲んだ人が“明日も頑張ろう”って思える方向へ持っていく」


「前向きすぎても、また危なくない?」


 ミーナが真顔で言う。


「だから、ちゃんと地面に足をつける芯も要る」


 醸はそこに、ほんの少しだけ前の Belgian Pale Ale の種を加えた。


 穏やかさと本音を忘れないための芯。


 華やぎだけで浮かないようにするためだ。



 発酵は、見ているだけで気分が上向くようだった。


 泡は白く細かく、陽を受けると金色に見える。


 香りは林檎や洋梨のように明るく、そこへ蜂蜜を思わせる柔らかな甘みが寄り添う。


 重たさはなく、しかし軽薄でもない。


 醸は途中で何度も香りを確かめ、そのたびに少しずつ配合を調整した。


「ずいぶん楽しそうね」


 レティシアが腕を組んで眺める。


「こういう酒はな、作ってる方まで騙されやすい」


「騙される?」


「ああ。“綺麗にできてるから、これでいい”って気になりやすい。でも本当に大事なのは、飲んだあと人がどう立つかだ」


「いつもそこに戻るのね」


「戻らないと危ないからな」


 完成した酒は、まさに光を閉じ込めたような色をしていた。


 澄んだ金色。


 泡は白く、香りは明るい。


 一口目は軽快で、二口目でやわらかな甘みと果実香が広がり、最後にごく薄くスパイスと乾いた余韻が残る。


 祝祭にぴったりだ。


 聖堂の大杯に注がれていても似合う。


 だが、そこに危うい甘ったるさはない。


 飲むほどに意識が霞むのではなく、胸の内側がすっと明るくなる。


「……すごい」


 ミーナが試飲して、目を見開いた。


「気分が上がるのに、ぼんやりしない」


「しかも変に万能感も出ない」


 ハインツが続ける。


「“自分は特別に選ばれた”という高揚じゃなく、“今日は少し前を向ける”くらいの明るさです」


「それ」


 醸が頷く。


「祝祭って、本来そういうもんだろ」


「神に選ばれた気になるんじゃなくて?」


「違う。明日も生きようって思えるための灯りだ」


 レティシアが杯を傾け、珍しく表情を和らげた。


「これ、好き」


「お、珍しいな」


「気分は明るくなる。でも剣を置きたくはならない」


「最高の褒め言葉だ」


「そう?」


 Belgian Blond Ale の効果は明快だった。


 心を明るく持ち上げる。希望と高揚を与える。だが、思考を奪わず、盲信や陶酔へは落とさない。

 つまり、敵の“光冠儀”が狙う


 「尊いものに進んで従いたくなる輝き」


 に対して、こちらは


 「自分の足で前へ進みたくなる輝き」


 を返す酒だった。



 ヴィスタ台地の祝福祭は、想像以上に盛大だった。


 大聖堂の白い尖塔は遠くからでもよく見え、丘の斜面には巡礼者の露店が並び、鐘楼前の広場では楽師が演奏し、修道士たちが朗々と祈りを唱えている。


 人、人、人。


 祝いの熱気と、聖なる場所へ来たという高揚感。


 敵にとって、これほど都合のいい場はない。


 四人は巡礼商人の一隊に紛れ、まず祭りの中心に近づいた。


 広場の中央では、銀の大杯を掲げた司祭が、集まった人々へ向かって説法をしている。


「恐れに満ちた日々に、光を」


「迷い多き心に、安らぎを」


「分かたれた人々に、一つの恵みを」


 言葉だけを聞けば、美しい。


 実際、多くの巡礼者は涙ぐみながら聞き入っていた。


 だが醸の鼻には、もうわかる。


 広場の奥、祭壇脇の酒樽から漂う香り。


 蜂蜜めいた甘さ。


 果実香。


 そしてその底に、神麦由来の極薄い“吸引力”。


「……あれだ」


 醸は囁いた。


「敵の本命」


「見た目は?」


 レティシアが問う。


「綺麗な金色だろうな」


「嫌になるほどわかりやすいわね」


 ハインツは周囲を見回した。


「大杯の儀式のあと、樽から一般配布されるはずです。一気に止めるのは難しい」


「なら、混ぜる」


 醸が即答する。


「また?」


 ミーナが呆れ半分で言う。


「この手の祭りは流れが命だ。全部壊せば混乱になる。でも流れの中に、こっちの“光”を差し込めば変えられる」


 手筈は、すでに道中で詰めてあった。


 ハインツが商人側の搬入に紛れて小樽を祭りの酒列へ送り込み、レティシアが見張りの死角を作る。ミーナは配膳所の裏で、香気の強い薬草樽へ細工をして匂いの違いを目立たなくする。


 そして醸は、自分で持ち込んだ Belgian Blond Ale の小樽を、大配布前の主樽へ少しずつ混ぜ込む。


 無謀だ。


 だが今さらでもある。



 儀式が始まった。


 司祭が大杯を高く掲げる。


 陽光が金属に反射し、まぶしい光が広場へ散る。


 人々が一斉にひざまずき、祈りの声が重なった。


 その瞬間、醸は祭壇脇の酒樽の栓へ手をかけた。


「今だ」


 小さく呟く。


 仕込みは一瞬。


 小樽の栓を抜き、樽口へ滑らせ、香りの流れに合わせて注ぎ込む。


 金色の液が金色の液へ溶ける。


 見た目にはほとんど差がない。


 だが匂いは変わった。


 盲目的に吸い寄せるような輝きが、少しだけほどける。


 代わりに、軽やかで前向きな、でも地面を見失わない明るさが混じる。


「やった?」


 ミーナが囁く。


「まだだ。配られてからが勝負」


 大樽から杯へ、次々と酒が注がれる。


 巡礼者たちが受け取り、祈りとともに口をつける。


 広場にはざわめきと感嘆が広がった。


「おお……」


「なんて明るい味だ」


「胸があたたかい……」


 司祭の口元が、満足げに緩む。


 予定通りの反応、のはずだった。


 だが次の瞬間、様子が変わる。


 一人の巡礼者が、涙ぐみながら言った。


「ありがたい……けど、俺、故郷の畑をちゃんと立て直したい。神さまに全部任せるんじゃなくて、自分でやらなきゃな」


 若い女が、杯を抱きしめて笑う。


「勇気が出た。寄進だけして帰るんじゃなくて、姉に謝りに行こう」


 別の男は、祭壇を見上げたあと、不思議そうに首を傾げた。


「……あれ? なんで今まで、“ただ頭を下げてればいい”って思ってたんだろう」


 ざわめきが広がる。


 だがそれは恍惚のざわめきではない。


 人々がそれぞれ、自分の願いや決意を言葉にし始めるざわめきだった。


 司祭の顔色が変わる。


「何をした」


 低い声が飛ぶ。


「本物の祝福ってやつを、少しな」


 醸が前へ出た。


「貴様……!」


「光ってのは、誰かを眩ませるためにあるんじゃない」


 醸は広場に響くよう、はっきりと言った。


「その人が自分の道を見つけるためにあるんだろ」


 周囲の巡礼者たちが、その言葉に振り向く。


 酒が回った彼らの目には、もう修道町で見たような鈍い均しはない。


 そして今、この Belgian Blond Ale が、そこへ前向きな明るさを灯している。


「私は……息子のために祈るだけじゃなくて、迎えに行きたい」


「俺は借金から逃げるのをやめる」


「修道院に入れば全部楽になるって思ってたけど、本当にそれでいいのか考えたい」


 司祭はそれを“成功”とは呼べない顔で見ていた。


 彼が欲しかったのは、自分へ集約する光だ。


 だがいま広場に広がっているのは、一人ひとりが別々の方向へ歩き出すための光だった。


「……下がれ」


 司祭が周囲の修道兵へ命じる。


「この者たちを確保しろ」


 だが、遅い。


 すでに広場の空気は変わっていた。


 人々はまだ混乱していない。だが黙って従うほど鈍くもない。


 そこへレティシアが剣を抜き、石畳へ切っ先を打ち鳴らす。


「聞きなさい! この祭りで配られていた酒には、人心を誘導する細工がある!」


 彼女の声はよく通った。


「サン・ルーヴェの修道町から押収した記録もある。ベルメの流通記録もある。証拠は揃っている!」


 ハインツが即座に帳簿を掲げ、ミーナが押収した小瓶を見せる。


 人々の顔が揺れる。


 疑い。怒り。戸惑い。


 でもそれでいい。


 それこそが、自分で判断しようとする顔だ。


「落ち着いて聞いて!」


 ミーナが声を張る。


「恐れる必要はないわ。今飲んだ杯は、むしろあなたたちを自分へ戻すためのものよ!」


 その説明は相変わらず大胆だったが、いまはそれで通る空気がある。


 司祭は歯噛みした。


「愚かな……人は迷いなく導かれてこそ救われるというのに」


「違うな」


 醸は答える。


「迷いながらでも、自分で選べるから救われるんだ」


 

 その日の午後、ヴィスタ台地の大聖堂領は大きく揺れた。


 すべてが一度で崩れたわけではない。


 高位聖職者の中にはまだ敵方に近い者もいるし、記録の改竄もあるだろう。


 だが少なくとも、祝福祭の大杯が“純粋な聖別酒ではなかった”こと、そしてそれを飲んだ多くの巡礼者がかえって自分の意志を取り戻したことは、隠しようのない事実になった。


 その夕方、四人は大聖堂領の外れ、葡萄畑を見下ろす丘に立っていた。


 空は茜色で、遠くの鐘楼が金に染まっている。


 風は軽く、祭りの熱気だけがまだ微かに残っていた。


「上手くいった、でいいのかしら」


 レティシアが言う。


「完全じゃないけどな」


 醸は答える。


「でも、“眩しいものにそのまま従う流れ”は一度切れた」


「大きいですね」


 ハインツが頷く。


「光冠儀の完成は、少なくとも遅らせられた」


「それに」


 ミーナが杯を軽く揺らした。


「この酒、ほんとに不思議。飲むと元気になるのに、変な夢を見ない」


「夢を見せる酒じゃないからな」


 醸は笑う。


「目を開けさせる酒だ」


 Belgian Blond Ale。


 明るい。


 親しみやすい。


 祝祭に似合う。


 だからこそ危険にもなれる。


 だが、その同じ性質を使って、希望の向きを変えることもできる。


 敵は“誰かを中心に仰がせる光”を作ろうとした。


 自分は“それぞれの足元を照らす光”を作った。


 同じ金色でも、意味はまるで違う。


「……次はどうする?」


 レティシアが問う。


 ハインツは押収した書類の束を見た。


「ヴィスタ台地は上位拠点の一つでした。ですが、これで全部ではありません。むしろここから先は、さらに露骨に“選ばれし者”を作る方向へ進んでいる気配があります」


「選ばれし者?」


 ミーナが顔をしかめる。


「神麦の核を使った、高位儀礼用の特別酒……そんな記述が少しだけ」


「嫌な予感しかしないな」


 醸が呟く。


 夕陽が、杯の中の金色をいっそう強く照らした。


 美しい。


 だが彼はもう、その美しさだけを信用しない。


 光は尊い。


 でも、それを誰の手に預けるかで意味が変わる。


 酒も同じだ。


 だからこそ、自分はこれからも醸し続けるしかない。


 美味くて、明るくて、でも人を奪わない酒を。


「行くか」


 醸が言う。


「ええ」


「次は、もっと上ね」


 レティシアが剣帯を締め直す。


「上等だ」


 醸は笑った。


「どれだけ眩しい相手でも、酔って足元を見失うのは向こうだけで十分だ」


 その言葉とともに、四人は丘を下り始めた。


 王国を包もうとする偽りの光へ向かって。


 そして、その光の中でもなお、自分の意志で立つ人々のための一杯を探しに。


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