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異世界ビール物語~醸造家の異世界転生~  作者: 麦汁酵生


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第九十二話 獣の香りを嗤う者 ―Brett Beer―

 ベルメの夜は、都市であるがゆえに暗くなりきれない。


 運河沿いには灯りが浮かび、石橋の欄干には夜番の提灯が下がり、酒場の二階からはまだ酔客の笑い声が漏れていた。だがその明るさの裏で、街は静かに軋んでいた。昼間の喧騒を保ったまま、どこか一歩踏み外せば崩れる綱の上を歩いているような、不穏な張りつめ方だ。


 で仕込んだ Mixed-Fermentation Sour Beer は、確かにベルメのあちこちで働き始めていた。診療所に運ばれた患者の呼吸は落ち着き、酒場でうつろに椅子へ座り込んでいた者は少しずつ会話を取り戻し、施粥所では粥を食べたあとに倒れる者の数も減っている。


 だが、それで終わる敵ではなかった。


「南運河、東倉庫街、西の高架水路下――三点とも、汚染の濃度は下がってます」


 ハインツが走り書きの記録帳を広げる。


「ですが完全には消えていない。しかも妙です。抑えたはずの場所で、違う匂いの残滓が新しく見つかる」


「別働隊?」


 ミーナが訊く。


「あるいは、最初から二重三重に仕込んでいたか」


 レティシアが答えた。


「一つ潰されても次が浮くように」


 醸は、南運河沿いの古い石壁に手を当てていた。


 湿り気を帯びた壁面からは、水路の匂い、古樽の匂い、苔の匂い、都市の生活そのものの匂いが立ち上がる。そこへ、たしかに異物が混じっている。冠液の、あの人を従わせるための薄く冷たい臭気。だがそれだけではない。


 もっと乾いていて、もっとしつこくて、奇妙に生き生きした香り。


 革。


 干し草。


 古い木箱。


 わずかに馬小屋。


 それでいて、ただ不潔なのではなく、鼻を近づけると底の方に果実めいた甘い影もある。


「……いるな」


 醸は低く言った。


「何が?」


 レティシアが身をかがめる。


「醸造を知ってるやつだ」


「敵に?」


 ハインツの声がわずかに上ずる。


「間違いない。冠液の失敗作をばら撒くだけなら、こんな残り方はしない。これは“汚染”をただ撒いてるんじゃない。街の中で、わざと生かしてる」


「生かす?」


 ミーナが首をひねる。


「微生物を?」


「ああ。しかも雑にじゃない。場所によっては酸を伸ばし、場所によっては臭いを残し、場所によっては神麦の残滓を守ってる。偶然じゃない。誰かが、発酵の続き方を読んでる」


 レティシアの目つきが変わる。


「敵の中に職人がいる」


「職人……って呼びたくはないけどな」


 醸は唇を歪めた。


「でも、少なくとも発酵を“道具”として使う頭はある」


 四人はまず、もっとも濃い反応を示した南運河の旧水門へ向かった。


 そこはすでに閉鎖された荷揚げ場で、いまは使われていない石造りの揚水室と、水底へ続く古い鉄梯子が残っているだけだった。昼間はただの廃施設に見えたが、夜になると話は別だ。


 水門の下には、灯りを落とした小舟がつながれていた。


 人の気配もある。


 レティシアが片手を上げ、三人を止める。


 彼女は風に溶けるように前へ出ると、石柱の陰へ滑り込んだ。数息後、短い笛のような合図が返る。道は開いた、という意味だ。


 醸たちが足音を殺して水門内部へ入ると、そこには樽が三つ並んでいた。


 どれも酒樽に見える。


 だが近づいた瞬間、醸ははっきりと顔をしかめた。


「……ひどい」


「冠液?」


 ミーナが鼻を覆う。


「いや、もっと厄介だ」


 樽の蓋はずれており、中には濁った液体が揺れている。これまで見てきた冠液残滓のような単純な酸臭ではない。もっと複雑で、もっと不快で、しかも妙に完成されていた。


 不潔なようで、不潔だけではない。


 果実酒の古樽をわざと長く使いすぎたときのような、あの獣じみた香り。


 けれど普通の失敗臭なら、ここまで均一には残らない。


「ブレット……」


 醸はほとんど反射でそう呟いた。


「ぶれっと?」


 ハインツが聞き返す。


「現実の……いや、俺の前世の醸造でもいた微生物だ。正確には酵母の一種。使い方次第じゃ複雑な香りを出す。でも扱いを誤れば、他の酒まで台無しにする」


「それが、ここに?」


「たぶん近いものがいる。いや、この世界なら神麦の影響も受けて、もっと厄介になってるか」


 そのときだった。


 揚水室の奥から、乾いた拍手が響いた。


「素晴らしい。匂いだけでそこまで読むか」


 暗がりの向こうから、一人の男が姿を現した。


 年の頃は四十代半ばほど。細身で、背の高い男だった。髪には白いものが混じり、袖をまくった術衣の上から革の前掛けをつけている。錬金術師にも、蔵人にも見える、妙に境界の曖昧な恰好だった。


 その眼だけが、爛々と輝いていた。


「初めまして、と言うべきかな。あるいは、ようやく会えたと言うべきか」


「誰よ、あんた」


 レティシアが剣先を向ける。


 男は剣先など気にも留めず、むしろ樽の一つを愛おしそうに撫でた。


「名乗りは軽いものほど美しい。だが今夜は礼を尽くそう。私はオルヴァン。かつて王立醸成院に席を置き、今は志ある方々のために神麦の応用研究をしている」


「応用研究?」


 醸の声が低くなる。


「人を壊す冠液がか」


「壊すとは浅い。再編だよ」


 オルヴァンはうっすら笑った。


「人の意志は脆すぎる。迷い、裏切り、臆病、嫉妬、怠惰。酒もまたそうだ。放っておけば濁り、揺らぎ、思わぬ方向へ行く。だが導けば、より高次の形へ整えられる」


「整える、だと?」


「君のような職人ならわかるだろう。酵母の好きにさせていては、狙った酒にはならない」


 醸は一歩前へ出た。


「ふざけるな」


「ふざけているのは君の方だよ、大麦醸」


 オルヴァンの声は静かだった。静かであるぶん、ひどく冷たかった。


「神麦の力を見出しながら、それを“癒やし”にしか使わない。回復酒、魔力酒、自由だの自分らしさだの。ずいぶんと甘い。神麦はそんな小さな奇跡のためにあるんじゃない」


「人を縛るためでもない」


「縛る? 違うね。統べるのだ」


 その言い方が、醸には我慢ならなかった。


 この男は、発酵を知っている。


 知っているからこそ、なお悪い。


 ただの無知な簒奪者ではない。微生物も、樽も、時間も、変化も、その価値を理解したうえで、人を道具として並べ替えるために使っている。


「この匂い……お前がやったのか」


 醸は樽を睨んだ。


「冠液の残滓に、わざとブレット系の発酵を噛ませてるな」


「ブレット系、か。どこの呼び名かな。面白い」


 オルヴァンは笑みを深めた。


「そうとも。冠液の失敗作は不安定だ。薄く広げれば、すぐ腐敗へ落ちる。だが特定の遅働き酵母を噛ませれば、神麦の残滓を守りながら街の隙間に居座らせられる」


「……居座らせる?」


「水路、酒場、木樽、倉庫、パン窯。都市の発酵圏そのものへ“癖”を刻むのだ。そうすれば、一度ばら撒かれた残滓は簡単には消えない。君のような応急の酸では払いきれない」


 ハインツが顔をしかめる。


「都市に、慢性的な汚染を残すつもりですか」


「慢性化させるのが重要なのだよ。今日明日の恐慌ではなく、“少しずつ当たり前になる不調”こそ支配に向いている。人は突然の鎖には抵抗するが、日常化した不自由には慣れていく」


「最低ね」


 レティシアが吐き捨てる。


 だが醸は、別の部分に引っかかっていた。


「……だからブレットか」


「ほう?」


「遅い。しつこい。木や布や空気に残る。ほかの発酵に紛れ込みやすい。しかも一度根を張ると、表面を洗ったくらいじゃ消えない」


「その通り」


 オルヴァンは満足げにうなずいた。


「君はやはりわかる。だからこそ惜しい。こちらへ来る気はないか?」


「寝言は寝て言え」


「君の酒は尊い。だが個人の救済で終わる。私の酒は都市を変える」


「それを“酒”って呼ぶな」


 空気が、ぴんと張る。


 オルヴァンの背後に、二人、三人と人影が現れた。


 護衛ではない。どちらかといえば工房作業員に近い体つきの連中だが、その目は鈍く、動きは不自然に揃っている。


 冠液の影響を受けた者たちだ。


「ベルメは実験場として優秀だよ」


 オルヴァンが言う。


「交易都市は発酵の坩堝でもある。果実、穀物、水、酵母、人の移動。何もかもが混ざる。だからこそ、一つの“癖”を植えつければ街全体が私の温床になる」


「Mixed-Fermentationを逆用しやがって」


 醸は舌打ちした。


「逆用? 違うな。本質だよ。混ざるというのは、優位なものが他を飲み込むことでもある」


「違う」


 醸は即座に否定した。


「混ざるってのは、殺し合わずに成り立たせることだ」


 その言葉に、オルヴァンの目が初めてわずかに細くなった。


「理想論だ」


「職人の現場だよ」


 醸は腰の革袋から、小ぶりの陶瓶を取り出した。


 中身はの Mixed-Fermentation Sour Beer をさらに寝かせ、南方果皮と古樽香を少しだけ噛ませた試作品。まだ名前も決めていない。だがここへ来る途中、ベルメの空気の中で、必要になる気がして持ってきたものだ。


 ブレット系の遅働き香――それは厄介だ。


 うまく使えば、凡庸な酒を複雑な名酒へ押し上げる。


 だが下手を打てば、全てを獣臭く汚してしまう。


 つまり問題は、存在そのものではない。


 どう共存させ、どこまで働かせるか、その“境界”なのだ。


「お前、ブレットを利用してるつもりなんだろ」


 醸は瓶の栓を抜いた。


「でも本当は逆だ。お前は“しつこさ”に頼ってるだけだ」


「何?」


「しつこく残るから便利、くらいにしか見てない。だから冠液の鎖と組ませる。けどな、あれはそんなに従順じゃない」


 ふわり、と瓶の口から香りが広がった。


 獣。


 干し草。


 少しの革。


 けれど樽の中の不快な臭気と違って、それはどこか乾いた果実のような明るさも含んでいた。


 不潔ではない。野趣だ。


 暴れ馬を手綱で締め上げるのではなく、走る方向だけを見極めて共に走るような、そんな香り。


 オルヴァンの表情が、初めて本気で揺らいだ。


「……それは」


「Brett Beerだ」


 名づけるなら、そうだった。


 ベルメの街で拾った複雑さを活かしながら、あえて遅働きの獣じみた香りを制御下で開かせた酒。


 敵が“残留汚染”のために使うなら、こちらは“しぶとい生命力”として使う。


「まえの酒が、街を街へ戻す網なら」


 醸は一歩踏み出した。


「これは、その網に引っかかった厄介な獣を、暴れさせずに走らせる酒だ」


 レティシアが小さく笑う。


「説明が職人すぎる」


「通じればいい」


 醸はその場でひと口、Brett Beer を飲んだ。


 舌に乗った瞬間、独特の乾いた香りが抜ける。


 だがの Wild Specialty Beer のような偶然頼みではない。の Mixed-Fermentation Sour Beer よりもさらに一歩先、遅く、しつこく、消えにくい香りを、きちんと“味方側”へ組み込んだ感覚だ。


 視界の奥に、旧水門周辺の発酵の流れが広がる。


 木樽の中。石壁の苔。濡れた縄。小舟の底板。


 オルヴァンの仕込んだ遅働き酵母は、たしかにあちこちへ根を伸ばしている。だがその広がり方は支配ではない。むしろ、好む場所を選ぶ“癖”だ。


「見えた」


 醸は低く言う。


「お前の汚染、全部が冠液じゃない。ブレット系の残り香に神麦の残滓を絡めて、“居つく場所”を作ってるだけだ」


「それがわかったところで?」


「なら追い払える。いや、もっといい。居場所を奪える」


 オルヴァンが手を上げる。


「やれ」


 命令と同時に、鈍い目をした作業員たちが一斉に動いた。


 速くはない。


 だがためらいがない。


 しかも揚水室は狭く、水気で足元が悪い。剣を大きく振るうには不向きな地形だった。


 レティシアが最前へ出る。


 彼女の剣は短く、鋭く、最小限の動きで相手の手首と足首を叩き落としていく。殺さない。冠液に侵された者たちを、可能な限り生かすための動きだ。


 ハインツは後方から投擲用の鉛玉を投げ、敵の膝を砕く。


 ミーナは壁際で気絶した者へ解毒用の小瓶を無理やり口に流し込みながら、近づく敵には薬草粉を叩きつけた。


 そして醸は――戦わなかった。


 いや、戦い方が違った。


 彼はBrett Beer の陶瓶を、水門脇の水槽へざばりと流し込んだ。次いで、樽の一つの中身を逆にぶちまける。


 濁った冠液残滓が石床へ広がり、獣臭い匂いがあたりを満たす。だがその上から、醸の酒の乾いた香りが重なると、空気の質が少しずつ変わり始めた。


「何を――」


 オルヴァンの声に、初めて苛立ちが混じる。


「お前の“居つく場所”を、こっちの香りで塗り替えてる」


「馬鹿な、そんなことで」


「ブレットは残る。だからこそ、どこに何として残すかが大事なんだよ」


 醸はもう一本の瓶を壁際の古樽へかけた。


 古い木が酒を吸い、内部の微生物相が変わる。


 オルヴァンの仕込んだ遅働きの癖が、少しずつ居心地を失っていくのがわかった。


「お前は冠液を主役にしてる」


 醸は怒鳴った。


「でもブレットみたいな遅働きのやつは、主役にされたがらない。場の隙間で、自分の好きなように動くんだ。そこへ鎖を混ぜたから、いま歪んでる!」


 オルヴァンの顔から笑みが消える。


「黙れ」


「黙らない」


「黙れ!」


 彼が杖を振るうと、樽の中の液体が刃のように飛び散った。


 レティシアが醸を突き飛ばし、その斬撃めいた液を受け流す。石壁がじゅっと音を立てて焦げた。


 ただの酒ではない。冠液と術式の混合だ。


「醸!」


「平気だ!」


 醸は床を転がりながらも、最後の陶瓶を抜いた。


 これはまだ本当に試作段階で、効果も不安定だ。だが今使わなければ意味がない。


 彼は一気に飲み干した。


 乾いた獣香が鼻へ抜け、喉の奥に古い木樽の余韻が残る。


 次の瞬間、揚水室に満ちたあらゆる残り香の輪郭が、くっきりと分かれた。


 冠液。


 神麦の核の痕跡。


 オルヴァンの人為的な操作。


 そして、その下で本来好き勝手に生きたがっている遅働き酵母たち。


「そこだ!」


 醸は杖を持つオルヴァンの足元、石床の割れ目を指差した。


「レティシア、その下! 樽じゃない、床の下に本命がある!」


「了解!」


 剣閃が走る。


 石床が砕け、その下に埋め込まれていた細長い陶管が露出した。


 中には、濃縮された黒褐色の液体。


 樽は囮。水路へ少しずつ流す本流は、床下に隠してあったのだ。


「馬鹿な……!」


 オルヴァンが息を呑む。


「お前の負けだ」


 醸は立ち上がった。


「香りは嘘をつけても、住みつき方までは隠せない」


 その隙を、レティシアは逃さない。


 剣の柄でオルヴァンの手首を打ち、杖を叩き落とし、返す刀で膝裏を払う。


 男は石床に崩れた。すぐさまハインツが拘束具を投げ、両腕を締め上げる。


「終わりだ、オルヴァン」


 ハインツが言う。


「王立醸成院の名を汚した罪も含め、洗いざらい話してもらいます」


「終わりではない」


 オルヴァンは床に伏したまま、なお笑った。


「私一人ではない。君たちはまだ、冠の縁に触れたにすぎない」


 その笑みに、醸は胸騒ぎを覚えた。


「どういう意味だ」


「神麦の核は、ベルメだけではない。都市は点だ。線はすでに結ばれつつある」


「線?」


 ミーナが顔を上げる。


 オルヴァンは答えず、ただ血の混じる唾を吐き、薄く目を閉じた。


 気絶したのか、あるいは黙秘を決めたのかはわからない。


 だが、言葉の意味だけは残った。


 都市は点。


 線が結ばれる。


 つまり、ベルメの汚染もまた王国全体の一部にすぎない。


     


 旧水門の制圧後、ベルメでは状況が目に見えて好転した。


 床下の本流を断ち、種樽を各所へ回したことで、下町一帯の“しつこい残り香”は少しずつ弱まっていった。の Mixed-Fermentation Sour Beer が広域の底上げを支え、の Brett Beer が頑固な残留汚染の居場所を奪う。二つの酒は、思った以上に噛み合った。


 それでも、醸の表情は晴れなかった。


 夜明け前、倉庫へ戻った彼は、一人で小樽の栓を確かめながら考えていた。


 オルヴァンは危険だ。


 だが、それ以上に気がかりなのは、あの男がどこか“末端”めいていたことだった。


 知識はある。技術もある。だが王を気取るには、あまりに研究者の顔をしていた。


 つまり上がいる。あるいは、別系統の計画がいくつも同時に動いている。


「眠ってないわね」


 背後からレティシアの声がした。


「寝られる顔してるか?」


「してない」


 彼女は即答し、壁にもたれた。


「でも少しは休んだ方がいい」


「わかってる」


「わかってる顔でもない」


「お前、最近そういうの多くないか」


「長い付き合いになってきたもの」


 それはでも聞いたような台詞だった。


 醸は苦く笑う。


「……敵に、職人がいた」


「あれを職人と呼ぶのは癪だけど」


「俺も嫌だよ。でも、知ってるやつだった」


「だから腹が立つ?」


「それもある。けど」


 醸は樽の木目を見つめた。


「少しだけ、わかっちまうのも嫌なんだ」


 レティシアは黙って聞いている。


「発酵って、放っておけば自由に行く。でも狙った酒を造るには、ある程度は導かなきゃならない。温度も、時間も、酵母も、樽も。オルヴァンはその“導く”を、酒じゃなく人間に向けた」


「境界を踏み越えたのね」


「ああ」


 醸はうなずいた。


「たぶん、ほんの一歩だ。最初は“もっと安定した薬酒を”“もっと効率よく供給を”みたいなところから始まったんだと思う。そこから一歩ずつ、目的のためなら人も材料にしていいって方へ行った」


 レティシアはしばらく黙っていたが、やがて言った。


「あなたは行かないわ」


「断言するな」


「する。だってあなた、まず飲むもの」


「何の判断基準だよ」


「自分で飲んで、痛い目見て、それでも人に渡すか決める。そういう人は、たぶん最後の一歩を越えない」


 醸は一瞬、返す言葉を失った。


 それから小さく息を吐く。


「……そうだといいけどな」


「そうよ」


 倉庫の外では、朝の運河が鳴り始めていた。


 荷船の櫂。市場の呼び声。パン窯の火入れ。


 ベルメはまだ傷ついている。だが、生き返ろうとしている。


 その音を聞きながら、醸はで生まれた酒――Brett Beer の小樽を見た。


 厄介で、癖が強く、嫌う者も多いだろう。


 だが一度理解すれば、これほどしぶとく、奥深く、面白い力もない。


 敵はそれを“残る汚染”として使った。


 なら自分は、“残る希望”として使う。


「次は線だな」


 醸は呟いた。


「線?」


 レティシアが訊く。


「オルヴァンが言ってたろ。都市は点、線は結ばれつつあるって」


「つまりベルメの先にも拠点がある」


「ああ。しかも酒だけじゃない。水路、物流、修道院、施薬所……発酵と流通が交わるところ全部が怪しい」


「面倒ね」


「最高に面倒だ」


「そういう時、少し嬉しそうなのやめて」


「職人だからな」


「知ってる」


 やがてハインツとミーナも戻ってきた。


 ハインツは徹夜の顔で新しい地図を抱え、ミーナは寝不足の目で薬草束を結び直している。


「オルヴァンの所持品から、いくつかの記号が出ました」


 ハインツが机に紙片を広げる。


「ベルメ、ルドワ、谷の工房……それから、川沿いの修道町と、旧街道の宿場町に同じ印があります」


「やっぱり点が線になる」


 ミーナが顔をしかめる。


「次はどっち?」


「その前に」


 醸はBrett Beer の小樽を軽く叩いた。


「こいつをもう少し安定させる。今回ので使い道は見えた」


「まだ改良するの?」


 レティシアが半ば呆れたように言う。


「するに決まってるだろ」


「本当に懲りない」


「良い酒は、何度でも懲りずに詰めるもんだ」


 彼は笑った。


 敵が神麦で作ろうとしているのは、王国を縛るための冠。


 なら、自分が作る酒はそのすべてに対する返答でなくてはならない。


 一人を救う酒。


 村を救う酒。


 街を救う酒。


 そしてこれからは、点と点を結ぶ“線”の汚染に立ち向かう酒が要る。


 獣の香りをただ嫌うのではなく、その野性を理解し、味方に引き入れるように。


 王国中へ伸びる陰謀の線もまた、いつか必ず断ち切れるはずだ。


 朝日が、倉庫の隙間から差し込んだ。


 樽の縁が、琥珀色に光る。


 醸はその光を見て、静かに言った。


「よし。次は、線を醸しに行くぞ」


 ベルメの一夜は終わった。


 だが、“冠液”を巡る戦いは、ここからさらに広がっていく。


 都市の汚染を断ち切った先に待つのは、点を結ぶ流通路の闇か。


 それとも、神麦の核を祀る修道の秘密か。


 いずれにせよ、大麦醸が足を止める理由にはならない。


 ビールは、残る。


 香りも、記憶も、癖も、意思も。


 ならばこそ。


 残していいものを、自分の手で選び続けるしかないのだ。


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