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異世界ビール物語~醸造家の異世界転生~  作者: 麦汁酵生


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第九十一話 街を呑む酸、街を救う酸 ―Mixed-Fermentation Sour Beer―

 交易都市ベルメは、遠目には美しかった。


 白壁と赤茶の屋根が幾重にも重なり、その向こうには運河が銀の帯のように走っている。大小の荷船が行き交い、石造りの橋の上では商人と旅人が絶えずすれ違う。香辛料、布、鉱石、薬草、塩漬け肉、南方の果実、北方の毛皮――あらゆるものが流れ込み、流れ出ていく、まさに王国の喉元と呼ぶにふさわしい都市だった。


 だが、その喉元はいま、ゆっくりと毒されていた。


「……ひどい匂いだな」


 城門をくぐった瞬間、醸は思わず眉を寄せた。


 人いきれ。魚市場の生臭さ。香辛料の刺激。馬糞と煤。酒場から漏れる麦酒の香り。


 本来なら雑多なそれらが、この都市の活気として一つに溶けるはずだった。けれど今は、その下にもう一層、嫌な膜のような匂いが張りついている。


 酸っぱい。


 だがStraight Sour Beerのような、清く伸びる酸ではない。


 甘さを引きずり、腐敗を孕み、しかも妙に人を誘う匂い。


「街全体に、あの残り香がある」


 ミーナが低く言った。


「村の時より広いわ。薄いけど、あちこちに点在してる」


「一点汚染じゃないな」


 ハインツが運河の方を見る。


「酒場、井戸、屋台、施薬所……流通の要所に少しずつ撒かれてる」


「わざと追跡しにくくしてるのね」


 レティシアが肩越しに後方を警戒する。


「さすがに街一つ丸ごと倒すつもりじゃないだろうけど」


「いや」


 醸は首を振った。


「たぶん逆だ。倒すつもりじゃない」


 三人の視線が集まる。


「完全に壊れたら、都市は使い物にならない。敵が欲しいのは混乱だ。荷は止まり、商人は疑い合い、衛兵は市民を押さえつけ、神官は医師を責め、医師は水路局を責める。そうやって街の仕組み全部が噛み合わなくなる」


「そこへ“従順な兵”を流し込む」


 ハインツが苦い顔をした。


「都市一つを戦わずして縛るつもりですか」


「ベルメなら価値がある」


 レティシアが吐き捨てるように言う。


「ここを押さえれば、王都への物流も地方への供給も握れるもの」


 醸は運河の水面を見つめた。


 陽光を受けた水はきらめいて美しい。なのにその底で、見えないものが広がっている気がした。


 で作ったStraight Sour Beerは、確かに効いた。


 異常な酸を、まっすぐな酸で洗い流す。


 だがあれは、あくまで一人ひとりに飲ませる対処だ。村のような小規模なら間に合っても、この都市では足りない。


 ベルメは広すぎる。


 人が多すぎる。


 汚染源が多すぎる。


 必要なのは、もっと複雑で、もっとしぶとい対抗策だった。


     


 彼らはまず、街の中心にある大市場ではなく、運河沿いの下町へ向かった。


 冠液のような“薄く撒く毒”は、富裕街より先に、こういう場所へ染みる。安酒、共同井戸、路地の屋台、泊まりの安宿。人の出入りが激しく、記録も残りにくい場所だ。


 案の定、症状は広がっていた。


 露店の魚売りが、包丁を持ったままぼんやり立ち尽くす。


 荷運び人夫が、声をかけられるまで何分もその場から動かない。


 酒場では酔ってもいない男たちが、妙に素直に、妙に静かに椅子へ座っている。


 しかもの村と違い、ベルメでは症状が一つではなかった。


「この子は下痢と脱水」


 ミーナが路地の診療所で言う。


「こっちは逆に便秘と腹の張り。あっちは高熱、そっちは熱なし。目の焦点がぼやける子もいれば、逆に妙に興奮する者もいる」


「一種類じゃないな」


 醸が答える。


「混ぜてる」


「何を?」


「冠液の失敗作だけじゃない。雑菌、薬草の抽出、たぶん安酒の残りや発酵途中の果汁まで。場所ごとに違うものを混ぜてる」


 ハインツが帳面をめくる。


「街の北区では安い葡萄酒が原因と噂され、南運河では井戸水、東の倉庫街では配給粥が疑われています。つまり住民同士の情報が食い違っている」


「敵の狙い通りね」


 レティシアが壁にもたれて言う。


「真犯人を見失わせるために、汚染の顔をいくつも作ってる」


 醸は診療所の棚に並ぶ陶器瓶を見た。


 酢。塩水。煎じ薬。古い麦粥。果実酒。


 人を救うためのものと、人を壊すためのものの境目は、紙一重だ。


「Straight Sour Beerじゃ足りないな」


 彼は呟いた。


「やっぱり?」


 ミーナが聞く。


「あれは“まっすぐな酸”で、一本の狂いを戻すにはいい。でも今この街で起きてるのは、一本じゃない。水路の汚染、食い物の腐り、酒の変質、冠液の残滓、たぶん魔術触媒まで混ざってる。一本で押し返しても、別の一本が残る」


「じゃあどうするの」


「複数を、こっちでも混ぜる」


 レティシアが目を細めた。


「嫌な予感しかしない言い方ね」


「今回は当たってるかもしれない」


 ハインツが真面目な顔でうなずく。


「ですが必要でしょう。敵が複合汚染で街を侵しているなら、対抗も単純では足りない」


「そういうことだ」


 醸は深く息を吸い、ベルメの匂いをもう一度受け止めた。


 運河の湿り気。


 市場の果皮。


 古樽の内側に染みた酵母。


 魚の血。


 石畳にこぼれた酒。


 パン窯の熱。


 下町の乳酸発酵した漬物樽。


 南方から来た柑橘の皮。


 そして、街中に薄く漂う、冠液の歪んだ残響。


 ベルメはすでに、一つの巨大な発酵槽みたいなものだった。


 雑多で、危うくて、けれど生きている。


「Mixed-Fermentation Sour Beerだ」


 醸は言った。


「この街そのものを相手にするなら、それしかない」


     


 仕込み場所は、下町の廃倉庫に決まった。


 もともと果実酒商が使っていた建物らしく、石壁は冷え、梁には古い酵母の匂いが染みついている。運河にも近く、水の確保はしやすい。何より、ハインツの伝手で口の堅い倉庫番を確保できたのが大きかった。


「で、Mixed-Fermentationって何なのよ」


 レティシアが樽を転がしながら言う。


「前の“野生”とどう違うの」


「野生は偶然を受け入れる酒だった」


 醸は神麦を選り分けながら答えた。


「今回はもっと意図的だ。酵母も、酸も、時間差も、役割を分けて混ぜる」


「酵母を何種類も?」


 ミーナが食いつく。


「そう。普通の発酵を進めるやつ、酸を作るやつ、遅れて働くやつ、樽の中で香りを整えるやつ。全部一斉じゃなくて、順番や住み分けを考えて使う」


「ずいぶん面倒ね」


「面倒な街には、面倒な酒が要る」


 まず土台には、清浄な神麦と淡色麦芽。


 そこへ少量の小麦を加え、柔らかな酸の足場を作る。


 次に、村で用いた乳酸系の安定した酸を導入する。


 だがそれだけでは終わらない。


 ベルメの果実酒倉から借りた古樽の内側には、ぶどう由来の穏やかな微生物が残っていた。


 下町のパン窯近くから採った酵母は、立ち上がりが早く、香りを持ち上げる。


 運河沿いの湿った木材から採取した遅働きの菌は、単体では危険だが、制御すれば後半に複雑さを作る。


 もちろん、そのまま使えば危うい。


 だから醸は、嗅ぎ、舐め、煮沸し、分け、殺し、残す。


 使える命だけを選び抜く。


「まるで兵の選別ね」


 レティシアが言う。


「やめろ。縁起でもない」


「でも似てる」


「似せたくないから、ちゃんと見極めるんだよ」


 醸は真顔で答えた。


 敵がやっているのは、命を削って同じものにする作業だ。


 自分がやるのは逆。


 違う働きを持ったものを、それぞれ生かしたまま、一つの酒へまとめる作業。


 似ているようで、まるで違う。


 仕込みは二段、三段に分かれた。


 最初の槽でまっすぐな酸を作り、次の樽で香りと幅を足し、最後の小樽で神麦の力と結び直す。


 Straight Sour Beerが一本の刃なら、こちらは幾重もの網だった。


 その途中、倉庫の外では街の不穏がますます大きくなっていた。


 南運河で配給された粥を食べた労働者十数人が、仕事場で一斉に座り込んだ。


 北区の酒場では、無料の一杯を飲んだ客が数時間後に意識混濁を起こした。


 東の市場では、水売りと薬売りが互いに毒を疑って殴り合いになった。


「時間がないわ」


 ミーナが戻ってくるなり言った。


「患者は増える一方。しかも症状が日ごとに変わる。最初は腸だけだったのに、今は眠気、幻聴、怒りっぽさまで出てる」


「混合汚染が街の中でさらに混ざり直してるんだ」


 醸は舌打ちした。


「悪い組み合わせが新しく生まれてる」


「都市規模の二次発酵ってわけですね」


 ハインツが皮肉のように言う。


「笑えないな」


「まったくです」


 レティシアが倉庫の戸を閉めながら振り返る。


「それで、その酒は間に合うの?」


「完成品にはならない」


 醸は即答した。


「でも、完成品じゃなくていい」


「またそれ?」


「今回は“完成”を待ってたら街が死ぬ。必要なのは、途中段階でも効果を発揮する構造だ」


 彼は樽の一つを軽く叩いた。


 中で、異なる微生物たちがそれぞれの速さで働いている。


 あるものは酸を作り、あるものは尖りを削り、あるものは香りを結ぶ。


 未完成でありながら、すでに互いを抑え合い、支え合っていた。


「つまり……」


 ミーナがゆっくり言う。


「一杯で全部治すんじゃなくて」


「症状の違う汚染に、それぞれ別の場所から効いていく」


「ああ。腸を整える酸、思考を濁らせる残滓を流す酸、魔力回路の刺を鈍らせる香り、冠液の命令性を剥がす神麦の流れ。ひとつじゃなく、いくつも重ねる」


「混ざってるからこそ、混ざったまま返せる」


 ハインツが小さく息を漏らした。


「……理屈はわかります。やっていることは相変わらず無茶ですが」


「職人の仕事は大体そんなもんだ」


     


 最初の試飲は、ベルメ下町の診療所で行われた。


 村の時と違い、今回は患者を一括では扱えない。


 症状が違いすぎるからだ。


 そこでミーナの判断で、腸症状の強い者、思考鈍化の強い者、興奮症状の強い者、軽症者の四群に分け、それぞれ量と濃度を調整して投与することになった。


「混ぜるのに、飲ませ方は細かいのね」


 レティシアが言う。


「当たり前だろ。街に広げるからって、雑にやったら敵と同じだ」


 醸は小さな木杯を並べ、一人ひとりに手渡していく。


 液色は淡い金に、わずかな霞。


 香りは単純ではない。乳酸の清さに、果皮のほのかな渋み、古樽の丸み、神麦のやさしい甘みが重なっている。


 飲み口も一言では言えない。最初にきゅっと酸が立ち、その後に柔らかくほどけ、最後に少しだけ乾いた余韻が残る。


「……すっぱい」


 最初の患者が顔をしかめる。


「でも、この前タダで貰ったやつより変じゃない」


「それで正しい」


 醸が答える。


「今回は“飲み続けられる”のも大事なんだ」


 一刻。


 二刻。


 結果は、はっきり出た。


 下痢を起こしていた者は腹鳴が落ち着き、水分を受け付けるようになった。


 虚ろだった者は、まず眠り、その後に目の焦点が戻った。


 苛立っていた者は発汗ののち、肩の力が抜けた。


 軽症者では、そもそもの悪化が止まった。


「効いてる……しかも、ばらけた症状に」


 ミーナが驚きを隠せない。


「完全な解毒じゃない。でも、“街で混ざった汚染”に対して、まとめて底上げできてる」


「狙い通りだ」


 醸は唇の端を上げた。


「Mixed-Fermentation Sour Beerの効果は、一点突破じゃない。複合汚染のほつれを、あちこちから緩める」


「広域戦向きってわけね」


 レティシアが頷く。


「配るだけじゃなく、街のいくつかの発酵拠点に種として置けるかもしれない」


 ハインツが言った。


「酒場、パン窯、施粥所、果実酒倉。そこから薄めて回せば、都市の複数地点で同時に対抗できる」


「それだ」


 醸は即座に食いついた。


「この酒自体を大量に造るんじゃない。各所で“正しい発酵の起点”にする」


 敵は都市の流通網を使って毒を撒いた。


 ならこちらは、都市の生活網を使って酒を返す。


 酒場には酒場の樽。


 パン窯には酵母。


 粥場には酸。


 果実酒倉には樽香。


 街に元からある発酵文化を、逆に利用するのだ。


「ベルメ全体を、一つの醸造場にする」


 醸は低く言った。


「敵が街を巨大な腐敗槽にしたいなら、こっちは街を巨大な再生槽に変える」


     


 作戦が動き出したのは、その夜だった。


 ハインツが商人組合の中でも信用できる者を選び、協力を取り付ける。


 ミーナは診療所ごとに濃度を指示し、神官たちには「祈祷用の清め酒」として配らせた。


 レティシアは街道と運河の警戒を強め、不審な配給荷を片端から押さえた。


 醸は倉庫にこもり、種樽を仕分ける。


 酸の強いもの。香りを整えるもの。神麦の流れを支えるもの。


 それぞれ小樽に分け、行き先を書き、送り出していく。


 まるで前世の工場で出荷準備をしていた頃みたいだ、と一瞬思った。


 だが決定的に違うのは、今回送り出すものが商品ではなく、街そのものを守るための“火種”だということだった。


 深夜、最後の樽を閉じたところで、レティシアが血のついた短剣を布で拭きながら戻ってきた。


「南運河で荷車を一台押さえたわ」


「中身は」


「安酒の樽に偽装した薄い冠液。あと、水路図」


「水路図?」


 ハインツが顔色を変える。


「地下の配水路に流す計画か」


「そのつもりだったでしょうね」


 レティシアが肩をすくめる。


「でも間に合わなかった」


 醸は拳を握る。


 危なかった。


 あと一歩遅れていれば、ベルメはもっとひどいことになっていた。


「……まだ終わってない」


 ミーナが静かに言う。


「押さえたのは一台だけ。別働がいるかもしれない」


「ああ」


 醸は頷いた。


「しかも、敵はもう気づいてる。自分たちの汚染が、どこかで剥がされ始めてるって」


 倉庫の外から、遠く鐘の音が聞こえた。


 火事ではない。


 夜間の非常警戒の鐘だ。


「来るわね」


 レティシアが剣帯を締め直す。


「次は隠密じゃ済まないかもしれない」


「上等だ」


 醸は、最後に残った一杯を木杯へ注いだ。


「どうせなら、こっちも見せてやる」


 Mixed-Fermentation Sour Beer。


 単純な正しさではなく、違うもの同士が互いを殺さず、活かし合いながら一つの力になる酒。


 冠液が一つの命令で人を塗り潰す液体なら。


 これは、多様な命をそのまま束ねて街を守る酒だった。


 醸はそれを飲み干し、胸の奥で広がる感覚に目を細める。


 運河と市場と石畳。


 酒場と診療所とパン窯。


 ベルメという都市に無数に走る“生活の流れ”が、一本ずつ浮かび上がって見える。


 敵の汚染は、そのどこかを切り裂いて入り込んでいる。


 だがこちらの酒もまた、いま街の各所へ流れ始めていた。


「見える……」


「何が?」


 ミーナが問う。


「街のどこがまだ苦しんでて、どこが持ち直してるか」


 醸はゆっくり息を吐いた。


「この酒、広域の発酵網に触れられる。配った先の“流れ”が、薄く返ってくるんだ」


 ハインツが驚く。


「索敵まで?」


「そこまで都合よくはない。けど、汚染が濃い方向はわかる」


「なら十分すぎる」


 レティシアが即座に地図を広げた。


「どこ?」


「南運河の旧水門、東倉庫街の施粥所、あと……西の高架水路の下」


「三点」


 ハインツが唸る。


「同時展開ですか」


「敵も本気だな」


 醸は木杯を置いた。


「だったらこっちも、本気で街ごと醸すぞ」


     


 ベルメの夜は深い。


 だが、その夜の深さは、の谷とも、の村とも違っていた。


 ここには人が多い。


 声が多い。


 事情が多い。


 だから汚染も複雑になり、対抗もまた複雑になる。


 けれど醸は、ようやく確信し始めていた。


 神麦の力とは、ただ人を癒やすことではない。


 別々に生きているものを、無理なく、壊さず、必要な時だけつなぐこと。


 だからこそ敵はそれを奪い、一本の命令へ変えたがる。


 だからこそ、自分はその逆を醸さなければならない。


 Straight Sour Beerが、一人を自分へ戻す酸なら。


 Mixed-Fermentation Sour Beerは、街を街へ戻す酸だ。


 混ざってしまったものを、ただ切り捨てるのではない。


 違うまま受け止め、悪い混ざりだけを解きほぐし、生きるための複雑さへ組み直す。


 それはたぶん、酒造りだけの話じゃない。


 王国も。


 都市も。


 人の心も、きっと同じだ。


「醸」


 レティシアが扉の前で振り返る。


「行くわよ」


「ああ」


 ミーナが薬箱を背負い、ハインツが記録帳を閉じる。


 倉庫の中では、まだ樽が静かに息をしている。


 街の各所へ送り出された小さな種酒たちもまた、それぞれの場所で働き始めているはずだった。


 敵がベルメを、巨大な従属の器に変えようとしているのなら。


 自分たちは先に、この街を巨大な発酵槽として取り戻す。


 醸は戸を押し開き、夜の石畳へ踏み出した。


 湿った風が、運河の匂いを運んでくる。


 その中にもう、絶望だけはなかった。


 酸っぱい。


 複雑だ。


 面倒だ。


 けれど、生きている。


「よし」


 大麦醸は笑った。


「ベルメ中の発酵、まとめて面倒見てやる」


 その言葉を合図に、四人は三つの汚染源へ向けて走り出す。


 街を呑む酸を、街を救う酸へ変えるために。


 そしてその先に待つ、さらに深い“冠液”の本流へ辿り着くために。


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