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異世界ビール物語~醸造家の異世界転生~  作者: 麦汁酵生


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9/10

第九話 深き炉火、鍛冶屋のための黒ラガー ―チェコ・ダーク・ラガー―

兵士たちが去ってから三日ほど、グランエッジは妙に忙しかった。

 巡回隊が持ち帰った酒の話は、まだ遠くへ広がるには早い。だが村の中では、その余波がすでに現れていた。見張り台の補強、蔵の戸の強化、運搬用の箱づくり、樽を並べる棚の増設。酒蔵がただの小屋では済まなくなりつつあることを、村人たちの誰もが感じていた。

 そして、その変化の中心で最も働いているのが、鍛冶屋のボルドだった。

 村はずれの鍛冶場からは、朝から晩まで鉄を打つ音が響いてくる。

 かん、かん、かん。

 一定のようでいて、疲れた日は微妙に重い音になる。

 醸はそれが最近、気になっていた。

 仕込み小屋の前で木栓の具合を確かめていた時も、遠くから響くその音はいつもより鋭く、そしてどこか荒れて聞こえた。

「また聞いてる」

 ミーナが言った。

「何を」

「鍛冶屋さんの音」

「わかる?」

「前は“仕事してる音”だった。今は“無理してる音”」

「……お前、そういうのわかるようになったな」

「弟子ですから」

「それ、弟子関係あるか?」

「たぶんない」

 ミーナは胸を張ったあと、すぐに真顔になった。

「でも本当に、最近ずっとだよ。昼も夜も。昨日なんて暗くなってからも火が消えてなかった」

「そうか」

「酒蔵の金具とか、樽の輪っかとか、見張り台の留め具とか、全部引き受けてるんでしょ?」

「たぶんな」

「倒れないかな」

「……それは俺も思ってた」

 そこへ、レティシアが坂道を上がってくるのが見えた。

 今日も巡回帰りらしいが、剣を肩に担いだまま渋い顔をしている。

「ちょうどいいところにいた」

「どうした?」

 醸が訊くと、彼女は鍛冶場の方角を顎で示した。

「ボルドがやけどした」

「何?」

「大したことはないって言い張ってるけど、左腕を結構やってる。しかも隠して仕事してた」

「隠して?」

「仕事が止まるからでしょうね」

「馬鹿だな……」

「職人ってそういうものじゃないの?」

「否定しにくいな」

 レティシアは半眼で醸を見る。

「他人事みたいに言わない」

「はい」

 鍛冶屋ボルド。

 大柄で無口で、必要以上のことは言わないが、酒蔵づくりにおいては誰よりも早く動いてくれた男だ。小屋の扉の補強も、樽の締め具も、見張り台の固定具も、全部あの腕が支えている。

 その男が火傷を負い、しかもそれを隠して働いている。

 嫌な予感しかしなかった。

「行くぞ」

 醸が言うと、ミーナはすぐに頷き、レティシアは「最初からそのつもり」と言わんばかりに先へ歩き出した。

      

 鍛冶場に入った瞬間、熱気が顔にぶつかった。

 土壁と石組みで囲われた簡素な工房。

 炉の前には赤く息づく炭があり、その上で鉄が熱を抱えている。壁にはハンマー、火箸、鑿、釘型、輪っか状の金具、蝶番の半製品がいくつも吊るされていた。床には鉄粉と煤が落ち、空気は焦げた金属と汗の匂いで満ちている。

 ボルドは上半身裸に革の前掛けだけという格好で、右腕一本で鉄を打っていた。

 左腕には布が巻かれている。だが布の端は黒ずんでおり、ところどころ薬草の汁が滲んでいた。

「何してるのよ」

 レティシアが開口一番に言う。

「見ての通りだ」

 ボルドはハンマーを止めずに答える。

「仕事だ」

「左腕やったんでしょ」

「大したことはねえ」

「大したことあるから来たの」

「お前はうるせえな」

 そう言いながらも、声にいつもの太さがない。

 醸は炉の前まで歩み寄り、ボルドの動きを見た。

 右腕の打撃はまだ強い。

 だが、体の軸が微妙にぶれている。

 左腕をかばうせいで力の乗せ方がずれていて、呼吸も浅い。

 このまま続ければ、火傷だけでなく肩や背中まで壊しかねない。

「見せてください」

 醸が言った。

「酒屋は鉄が打てるのか」

「打てません。でも、無理してる人間の顔くらいは見えます」

「……」

「見せてください」

「嫌だ」

「子どもか」

 レティシアが呆れたように言う。

「うるせえ」

「うるさいのはお互い様」

 ミーナはすでに薬草師の老婆に教わったらしい手つきで、水桶と清い布を探し始めていた。

 醸は一歩近づく。

「ボルドさん」

「何だ」

「酒蔵、誰のおかげで形になり始めてると思ってます?」

「村みんなの手だろうが」

「その通りです。でも、金具と締め具と扉と輪っかがなかったら、俺の酒は全部漏れて終わってます」

「……」

「だから、あんたには倒れてもらっちゃ困るんです」

 しばらく沈黙が落ちた。

 炉の火の音だけが、小さくぱちぱちと鳴る。

 やがてボルドは、深いため息と共にハンマーを置いた。

「……わかった」

「最初からそうしてください」

「うるせえな、お前も」

 布をほどくと、左前腕の外側が赤くただれ、ところどころ皮膚が剥けていた。

 深すぎる火傷ではないが、鍛冶仕事を続けながら治すには明らかに無茶だ。しかも肘から肩にかけても筋肉が張り切っている。

「これで“大したことない”は無理がある」

 醸が言う。

「鍛冶屋はこれくらい普通だ」

「普通でも無茶は無茶」

「同じこと、あんたにも返せるけどね」

 レティシアが横から刺す。

「ぐっ」

「図星でしょ」

「図星だった」

 ボルドは鼻を鳴らしたが、少しだけ口元が緩んだ。

「で、どうする」

「応急で今ある酒を使います」

 醸は答えた。

「でも、それだけじゃ足りない」

「また新しいのを考えてる顔だ」

 レティシアが言う。

「わかる?」

「最近はね」

「俺にもわかるぞ」

 ボルドが低く言った。

「その顔は、面倒な酒を作る時だ」

「失礼だな」

「実際そうだろうが」

「……否定しきれない」

 鍛冶屋のための酒。

 いや、もっと正確に言えば、村を形にしている職人たちのための酒だ。

 重労働。

 高熱。

 火傷。

 筋肉の酷使。

 しかも、作業精度は落とせない。

 兵士向けの赤銅酒は“戦いの後”を整える酒だった。

 だが鍛冶屋には、火と鉄に向き合い続ける者のための別の一本が必要だ。

 醸の脳裏に浮かんだのは、チェコ・ダーク・ラガーだった。

 暗い色合い。

 だが重すぎず、ラガーらしい清潔さと飲み口を保つ。

 焙煎の香ばしさ、わずかなカラメルやパンの耳のような深み。

 黒いのに沈みすぎず、芯がある。

 そしてこの世界の神麦なら、そこへ“火に負けない体”と“崩れない集中”を宿せるかもしれない。

「作ります」

 醸は言った。

「鍛冶屋向けの黒いラガー」

「黒い酒?」

 ミーナが目を丸くする。

「前に夜用のダークラガーはあったでしょ」

「あれとは違う」

 醸は首を振る。

「あれは夜警と寒さ向けだった。今回は炉火、疲労、火傷、持続する集中。もっと“仕事の火”に寄せる」

「難しそう」

「難しい」

「また?」

「まただよ」

「知ってた」

      

 その日から、鍛冶場と酒蔵は妙に行き来が増えた。

 ボルドにはまず、常備用ラガーで火傷の痛みを抑え、滋養酒で体力を補った。赤銅酒も少量飲ませ、張り詰めた神経を整える。だが本人が言う通り、それだけでは足りない。

「手が重い」

 ボルドは翌朝、左腕を布で吊ったまま言った。

「痛みは前よりましだ。だが、芯が鈍る」

「鈍る?」

 醸が訊く。

「鍛冶は力だけじゃねえ。叩く位置、角度、戻しの速さ。全部が少しずつずれる」

「なるほど」

「怪我してる時ほど、変に無理して余計に狂う」

 その感覚は、醸にも少しわかる気がした。

 醸造も同じだ。

 疲れている時ほど、温度を見る目、香りを読む感覚、雑味を避ける集中が鈍る。だから“まだやれる”と思って続けるのが一番危ない。

「じゃあなおさらだな」

 醸は言った。

「ただ治るだけじゃなく、手元の精度を戻す酒にしないと」

「できるのか」

「やってみる」

「そればっかだな」

「でも本当なので」

「正直者め」

「褒め言葉として受け取ります」

 今回の麦選びは、これまでで最も慎重だった。

 チェコ・ダーク・ラガーに必要なのは、ただの黒さではない。

 焦げた苦味だけなら意味がない。

 求めるのは、炉のような深い温かさと、鉄を打つ時の芯の通った落ち着き。

 醸は神麦の一部を、乾燥小屋の中でやや強めに焙燥した。

 だが真っ黒に焦がすのではなく、色の変化をぎりぎりで止める。

 薄金から飴色へ。

 飴色から栗色へ。

 そこからさらに、深い褐色へ。

 香りもまた変わる。焼きたてのパン、殻、蜂蜜、土、木、そしてわずかな苦い影。

「……なんか、鍛冶場の匂いと少し似てる」

 ミーナが言った。

「おっ」

 醸は振り向いた。

「それはいい感想だ」

「ほんと?」

「うん。火の匂いだけど、鉄じゃなくて麦の火って感じだ」

「わかんないけど、わかる」

「不思議な日本語になってるぞ」

「異世界語だからいいの!」

「雑だな」

 レティシアが呆れつつ笑う。

 彼女は焙煎中の籠を見ながら言った。

「これ、前の黒ラガーよりも柔らかい匂いがする」

「さすが」

 醸が頷く。

「夜警向けのダークラガーは、不安や冷えを抑えるためにもう少し締まった方向だった。今回は働く者の芯を支えたいから、少し丸みを持たせる」

「なるほど」

「でも重くしすぎると、仕事の邪魔になる」

「じゃあ、かなり面倒ね」

「そうなんだよ」

「やっぱり褒め言葉じゃない?」

 仕込み桶へ麦を落とすと、これまでで最も深い茶褐色が広がった。

 真っ黒ではない。

 だが光に透かせば、底の方に赤い影が宿っている。

 糖化温度はやや高め。

 残る甘みは必要だが、鈍さは不要。

 濾過は丁寧に。

 煮沸では香り草を控えめにして、麦の深みを前へ出す。

 発酵には、夜向けダークラガーの澱と、白銀泡の清い系統を少しだけ組み合わせた。

「混ぜるの?」

 ミーナが覗き込む。

「少しだけな」

「そんなことして大丈夫?」

「大丈夫かどうかは、これからわかる」

「またそれ」

「発酵はな、最後は信じるしかないんだ」

「酵母に?」

「酵母に」

「ほんと、神様扱い」

「かなり近い」

「変なの」

「慣れてくれ」

      

 仕込みの翌日から、ボルドは半ば監視されることになった。

 レティシアが鍛冶場へ顔を出し、無理に左腕を使っていないか確認する。ミーナは薬草師の老婆と一緒にやけどの手当てを覚え、醸は朝晩酒を持っていく。

「お前ら暇なのか」

 ボルドは不機嫌そうに言った。

「暇じゃないから見張ってるの」

 レティシアが即答する。

「倒れられたら困るんで」

 醸も頷く。

「鍛冶屋って、皆こうなの?」

 ミーナが素朴に訊く。

「だいたい意地っ張りだ」

 ボルドが答えた。

「職人は皆そうだろ」

「それは否定しにくい」

 醸が呟くと、レティシアが横目で見る。

「自覚あるのね」

「最近よく言われる」

 とはいえ、ボルドは完全に休んではいられなかった。

 樽の輪を締める金具。

 運搬箱の補強。

 扉の蝶番。

 密封用の留め具。

 どれも酒蔵がこれから先、村の枠を越えていくためには必要なものばかりだ。

 その中で、醸が特に気にしていたのは「密封栓」だった。

 今までは木栓と布、蝋や樹液で何とかしてきた。

 だが王都や町へ本格的に送るなら、輸送中の揺れ、気温差、時間経過に耐える構造が要る。

「金具で押さえる形はどうだ」

 右腕だけで簡単な図を描きながら、ボルドが言う。

「木栓の上から輪をかませて、外れにくくする」

「なるほど」

 醸は食い入るように見た。

「でも樽ごとに木の膨らみ方が違う」

「なら輪も少し遊びを持たせる」

「それ、作れる?」

「俺を誰だと思ってる」

「鍛冶屋だな」

「そうだ」

 そのやり取りを聞きながら、醸は改めて思った。

 酒蔵は、自分一人では成立しない。

 酒を醸す技術があっても、それを運ぶ箱がなければ外へ出せない。

 保つ金具がなければ品質は守れない。

 つまり鍛冶屋の仕事は、酒そのものと同じくらい重要なのだ。

 ならばなおさら、鍛冶屋のための一杯は必要だった。

      

 発酵三日目の夕方、小屋の中の香りは明らかに変わった。

 これまでのダーク系ラガーより、重たくない。

 だが薄くもない。

 香ばしさが沈みすぎず、少し高い位置で浮いている。

 焙煎香、穀皮、わずかな蜜、そして静かな苦味。

「喋らないけど、ちゃんといる感じ」

 樽の横でミーナが言う。

「また独特な言い方だな」

「でも前の夜向け黒ラガーより、職人さんっぽい」

「職人さんっぽい酒、って何よ」

 レティシアが笑う。

「なんかこう……黙って仕事してる感じ?」

「案外わかる」

 醸は感心した。

「今回のは、そういう酒にしたい」

「飲んだら無口になるの?」

「それは困るな」

「私は少し静かになる酒でもいいと思うけど」

「お前、それ失礼だぞ」

「知ってる」

 四日目、醸は小さな木杯に少量を取り、自分で口にした。

 ……いい。

 最初にくるのは穏やかなモルトの丸み。

 そのあとに、軽いロースト感。

 しかし焦げてはいない。

 喉へ落ちたあと、体の中心にじわりと熱が広がり、頭はむしろ静かになる。

 白銀泡のように背筋が伸びるのではない。

 赤銅酒のように戦いの後を整えるのでもない。

 これはもっと、手元を安定させる熱だ。

「どう?」

 レティシアが訊く。

「いい」

「いつもの“いい”より?」

「かなり、狙い通り」

「珍しい」

「今回ははっきり言える」

「じゃあ勝ちね」

 ミーナが言う。

「まだ試してない」

「でも顔がそう言ってる」

「出すぎなんだよな、最近」

      

 試飲は、鍛冶場でやることになった。

 集会所でも小屋でもなく、炉の前。

 それが一番ふさわしいと、醸自身が思ったからだ。

 朝の仕事を終えた後、ボルドは炉の火を少し落とし、鍛冶台を片付けた。

 村長、レティシア、ミーナ、薬草師の老婆、鍛冶屋の手伝いをしている若者、それに興味本位の村人たちが工房の外に集まる。

 醸は小樽を運び込み、炉の赤を背にして栓を抜いた。

 しゅ、と静かな音。

 注がれた酒に、誰からともなく息をのむ気配が生まれた。

 色は深い茶褐色。

 だが夜のような黒ではない。

 炉の火を受けると、底に赤銅の影が揺れる。

 泡は薄茶色がかり、細かく、静かに縁に残った。

「……きれいだな」

 ボルドがぽつりと言った。

「自分の炉の前で見ると余計にな」

「鍛冶場向けだからな」

「ふん」

 最初の一杯は、もちろんボルドへ渡された。

 彼は右手で杯を受け取り、香りを吸い込んで目を細める。

「焦げてねえ」

「焦がしてないからな」

「でも、火の匂いがする」

「そうしたかった」

「……いいな」

 そして一口、二口、ゆっくりと飲み下す。

 皆が黙って見ている中、ボルドは杯を半分空けたところで、左肩を少し回した。次に指を握り開きし、手首を返し、最後に右手でハンマーを持ち上げる真似をする。

「どう?」

 ミーナが待ちきれず訊く。

 ボルドは少しだけ眉を寄せ、言葉を探してから言った。

「腕の痛みは、まだある」

「うん」

「でも、火傷に気を取られすぎない」

「ほう」

「それから、肩と背中の力が妙に一直線になる」

「一直線?」

 醸が身を乗り出す。

「無駄に力まねえ。叩く時の芯だけ残る感じだ」

「……それだ」

 醸は小さく拳を握る。

「そこが欲しかった」

「わかるの?」

 レティシアが訊く。

「鍛冶はわからん。でも、作業の精度が戻るってことだろ」

「まあ、そうだ」

 ボルドは頷いた。

「しかも、気持ちが急かされねえ。焦ると鍛冶は駄目だ」

「なるほど」

 次に、鍛冶の手伝いをしていた若者が飲む。

 彼はここ数日、金具運びと炉の管理で疲れ切っていた。

「……あ、なんか」

「なんだ?」

 ボルドが訊く。

「昨日まで、熱の前に立つだけで頭がぼーっとしてたんですけど、今は息がしやすい」

「それもいいな」

 醸が頷く。

「熱疲れへの耐性も少しあるかもしれない」

 薬草師の老婆も少し舐めるように飲み、笑った。

「黒いのに重たすぎないねえ」

「はい」

「でも、落ち着く」

「そうなってくれてるなら成功です」

「職人向けらしい酒だよ」

 最後に、レティシアが飲んだ。

 彼女はしばらく無言で味わっていたが、やがて鍛冶場の壁に掛けてあった短剣の柄へ視線を向けた。

「……これ、剣の整備する時にも良さそう」

「おっ」

 ボルドが鼻を鳴らす。

「わかるか」

「戦う時の酒じゃない。手入れの時の酒」

「それそれ」

 醸が言う。

「使う前じゃなく、使った後に整えるための熱だ」

「なるほど、あんたらしく面倒な言い方ね」

「褒め言葉として」

「もういいわよ、それ」

 笑いが広がる。

 だがボルドだけは笑わず、残った酒を見つめていた。

「カモス」

「はい」

「これ、欲しい」

「でしょうね」

「俺だけじゃねえ。鍛冶、木工、樽作り、全部だ」

「そう思います」

「名前は?」

 問われて、醸は深い色の酒を見た。

 夜ではなく、炉。

 暗がりではなく、働く火。

 黒いが、底に赤い光を抱えた色。

「チェコ・ダーク・ラガー」

「長い」

 ミーナが即座に言う。

「知ってる」

「村の名前は?」

 レティシアが促す。

 醸は少しだけ考え、鍛冶場の炉を見た。

「……炉黒ろぐろ

「ろぐろ?」

 ミーナが首をかしげる。

「炉の黒。単純だけど、いい」

 レティシアが言った。

「俺は好きだ」

 ボルドも頷く。

「覚えやすい」

「なら決まりだな」

 村長が後ろから言う。

「炉黒。鍛冶と蔵を支える酒だ」

      

 その日の夕方、醸とボルドは鍛冶場の外に並んで座っていた。

 火は落とされ、炉の赤もだいぶ静かになっている。

 山風が汗を冷やし、遠くで村の子どもが笑う声がした。

 ボルドは炉黒を少しだけ口にして、低く言った。

「助かった」

「火傷?」

「それもある。だが、それだけじゃねえ」

「……」

「仕事が増えて、何もかも俺のところへ来るようになってよ」

「うん」

「嬉しくねえわけじゃなかった。むしろ嬉しかった」

「だろうな」

「でも、嬉しいまま無理してた」

「職人だからな」

「うるせえ」

 ボルドは鼻を鳴らす。

「だが、お前もそうだろ」

「否定できない」

「わかってるなら、たまには人に言われる前に休め」

「……善処します」

「信用できねえ返事だな」

「最近言われたばっかりの台詞だ」

 二人で少し笑った。

 ボルドはそのまま真面目な顔になる。

「密封栓の形、もう少し詰める」

「本当か」

「ああ。この酒が町や王都へ行くなら、途中で駄目になっちゃ話にならねえ」

「助かる」

「ついでに、樽の輪も改良する」

「そこまで?」

「やると言ったろ」

「でも腕は」

「炉黒がある」

「万能かよ」

「万能じゃねえ。でも、支えにはなる」

 その言葉が、醸には何より嬉しかった。

 酒は奇跡である必要はない。

 ただ、誰かの仕事を一歩先へ進める支えになればいい。

「ボルドさん」

「何だ」

「酒蔵、あんたがいなきゃここまで来てません」

「知ってる」

「自信あるな」

「俺が打った金具が全部支えてるからな」

「……それはそうだ」

「だから、お前は酒を作れ」

「うん」

「運ぶ方法と守る形は、こっちで考える」

「頼もしい」

「鍛冶屋を誰だと思ってる」

「だから鍛冶屋だろ」

「そうだ」

 山の空は、夕方の青へ変わり始めていた。

 醸は炉黒の残る杯を見つめながら、静かに思う。

 兵士のための酒があり、見張りのための酒があり、旅人のための酒がある。

 だが、こうして村の基盤を支える者たちのための酒が生まれたことで、酒蔵はまた一段深く村に根を下ろした。

 もうこれは“よそ者が作る不思議な酒”ではない。

 村の大工、鍛冶屋、樽職人、見張り、剣士、魔法使い、村長、老婆たち、皆の手で育てるものだ。

 ならばきっと、簡単には折れない。

 炉黒の余韻は、喉の奥で静かに温かかった。

 それは夜を越える火でも、戦いの熱でもない。

 明日もまた鉄を打ち、木を削り、桶を締め、酒を守るための火だ。

 大麦 醸は、その火を胸の奥に感じながら、次に必要なものを考え始めていた。

 酒蔵が形を得たなら、その次は。

 守る扉。

 運ぶ箱。

 そして、村そのものが祝える一杯。

 仕事の火を支える酒があるなら、次はきっと、笑うための酒が要る。


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