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異世界ビール物語~醸造家の異世界転生~  作者: 麦汁酵生


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第十話 淡き陽光、村の祝祭と白金の一杯 ―Munich Helles―


 グランエッジの朝は、どこかそわそわしていた。


 いつものように薪を割る音は聞こえるし、家畜の世話をする声もする。


 沢から水を運ぶ娘たちの笑い声も、鍛冶場から響く鈍い鉄音も、普段と変わらない。


 だが、その全部の底に、かすかな浮き立ちが混じっていた。


 それもそのはずだった。


 ついに、酒蔵小屋がひとまず完成したのだ。


 もちろん、“王都の大醸造所”などと比べれば、話にもならないだろう。


 木と石で組まれた、小さな仕込み場と保管棚と冷却槽を備えた程度のものだ。


 だが、最初に醸がこの村で鍋一つから始めたことを思えば、それは十分すぎる進歩だった。


 小屋の正面扉には、ボルドが作った厚い金具が打たれている。


 蝶番も留め具も頑丈で、樽棚は木工職人と鍛冶屋の合作だ。


 沢水を引いた冷却用の溝は村の若者たちが掘り、薬草師の老婆は防虫と清めの香を入口脇へ吊してくれた。


 つまり、この小屋は醸一人のものではなかった。


 村の手で造られた、村の酒蔵だ。


「……すごいねえ」


 ミーナが小屋の前でくるりと回る。


「昨日までまだ板とか縄とか散らばってたのに、今日見たらちゃんとしてる」


「ちゃんとしてるって何だよ」


 醸が苦笑する。


「でもまあ、言いたいことはわかる」


 新しく張られた屋根板は朝日を受けてまだ明るく、壁の木肌にも新しさが残っていた。扉の金具は黒く焼き締められ、取っ手にはボルドなりの装飾が少しだけ入っている。実用一点張りの男にしては珍しく、蔓草のような曲線がわずかに彫られていた。


「ボルドさん、ああいうの作るんだ」


 ミーナが取っ手を見ながら言う。


「意外」


「な。俺も少し驚いた」


「聞いたら、“村の顔になるなら無骨すぎてもつまらん”だって」


 レティシアが後ろから言ってきた。


「へえ」


「言うようになったわよね、あの人も」


「酒蔵に巻き込まれてるからな」


「巻き込んでるのは、あんたよ」


「……否定しにくい」


 レティシアは扉を軽く叩いた。


「でも、いい小屋」


「うん」


 醸は静かに頷く。


「本当に、いい小屋だ」


 前世では、自分の蔵なんて持てると思ったこともなかった。


 小さな町工場で、タンクの洗浄や配管の確認、仕込みの管理に追われる日々。


 それはそれで誇りはあった。


 だが、ここは違う。


 この扉の向こうには、自分の手で造った酒があり、村の手で支えられた設備があり、そしてこれから先の可能性がある。


 その事実が、胸の内側をじんわりと熱くした。


     


 昼前になると、村長が広場に人を集めた。


 村人たちは半円を描くように並び、完成した酒蔵小屋を見上げる。


 鍛冶屋ボルドは腕の火傷もだいぶ治り、相変わらず不機嫌そうな顔で腕を組んでいた。


 薬草師の老婆は杖をつきながら目を細め、子どもたちは「ここで酒がいっぱいできるの?」と無邪気に騒いでいる。


 村長は一つ咳払いし、低く通る声で言った。


「皆、よく働いてくれた」


 ざわめきが少し収まる。


「最初、この村に酒を造る男が現れた時、正直に言って、わしは半分疑っておった」


「半分なのか」


 ボルドがぼそりと呟く。


「三分の二くらいだと思ってた」


「私もそれくらいだと思ってた」


 レティシアが続け、周囲に小さな笑いが起きる。


 村長は咳払いをし直した。


「……とにかく、疑っておった。だが今は違う。この小屋は、我らの村の新しい力だ。傷を癒やし、疲れを支え、夜を守り、外へ繋がる道を開きつつある」


 そこで村長は醸を見る。


「大麦 醸殿」


「はい」


「お主が来てから、この村は確かに変わった」


「……」


「だから今日は、小屋の完成を祝いたい」


 その一言に、広場の空気が一気に明るくなった。


「祝いだ!」


「やっと飲める!」


「おい、また酒のことしか考えてないぞ」


「だって酒蔵の祝いだろ!」


 口々に声が上がる。


 子どもたちは意味もなく跳ね、女たちは「なら料理を増やさなきゃ」と相談を始め、若者たちは樽運びを買って出た。


 醸は少し呆然としたまま、その光景を見ていた。


 祝う。


 酒蔵を。


 今までの酒は、何かしらの必要に迫られて生まれてきた。


 怪我人がいた。旅人が倒れた。兵士が消耗した。鍛冶屋が無理をした。


 だから酒を造った。


 けれど今度は違う。


 誰かを助けるためではなく、皆が嬉しいから、祝いたいから酒を造る。


 それは当たり前のことのはずなのに、醸にとっては妙に新鮮だった。


「どうしたの?」


 ミーナが覗き込む。


「いや……」


「嬉しくない?」


「嬉しいよ」


 醸は笑った。


「ただ、なんか不思議で」


「不思議?」


「今まで“必要だから造る”が多かったからな」


「今回は?」


「嬉しいから造る」


「いいじゃん」


 ミーナはにっと笑う。


「それ、すごくいい」


 その言葉に、醸もようやく素直に頷けた。


     


 祝いの酒に選んだのは、Munich Hellesだった。


 明るい金色。


 過剰に苦すぎず、派手すぎず、だが芯のある麦の旨味を持ったラガー。


 穏やかでやさしく、誰が飲んでも「うまい」と感じやすい。


 それでいて、きちんと上質。


 祝祭向けとしてはFestbierがいずれ来る。


 だが今は、大がかりな祭りではなく、小さな村の小さな喜びにふさわしい酒が欲しかった。


 Hellesは、その意味でちょうどいい。


「今回は明るいのね」


 レティシアが言う。


「うん。派手すぎない祝いの酒」


「白銀泡じゃ駄目なの?」


 ミーナが訊く。


「駄目じゃない。でも白銀泡は“見せる酒”なんだ」


「見せる?」


「商会とか外の人間に、格を見せるための酒」


「なるほど」


「今回は違う。村のみんなが、気負わずに飲める、それでいてちゃんと特別な酒がいい」


「難しいの?」


「……やっぱり難しい」


「知ってた」


 ミーナが即答し、レティシアが吹き出す。


 今回の仕込みでは、あえて極端な効能を狙わなかった。


 もちろん神麦を使う以上、何らかの作用は宿るだろう。


 だが最優先するのは、祝う場にふさわしい穏やかさと、明るさと、飲みやすさだ。


 粒ぞろいの神麦を選び、焙燥はごく浅く、麦のやわらかな甘みを残す。


 火を入れすぎず、重さを出しすぎず、ただし薄くはしない。


 明るく、なめらかで、村人たちが杯を重ねたくなるように。


 仕込み湯の中に麦を落とした瞬間、ふわりと立ち上った香りは、今までのどれとも違った。


 やさしい。


 そう思った。


 蜂蜜より軽く、パンより白く、草より穏やか。


 朝の光がそのまま匂いになったみたいな、やわらかな香りだった。


「……これ、好き」


 ミーナがすぐに言う。


「まだ早いぞ」


「匂いだけ!」


「でもわかる」


 レティシアも言った。


「今までの酒みたいな“目的”の尖りがない」


「そうしたいからな」


「なんていうか……普通においしそう」


「そこ最高の褒め言葉だからな」


 普通においしい。


 それは、奇跡や効能ばかりが先に立ってきたこの村の酒にとって、とても大切な言葉だった。


     


 祝いの準備は、仕込みと並行して村全体で進んだ。


 広場には長机がいくつか運ばれ、村の女たちが煮込みや焼き野菜を用意し、狩人たちは干し肉の良いところを切り分ける。木工職人は即席の看板まで作り、「グランエッジ醸造」と拙いながらも力強い文字を刻んだ。


「うわ、本当に書いちゃった」


 ミーナが看板を見上げる。


「なんか急にそれっぽい」


「それっぽいって何だ」


 醸が苦笑すると、ボルドが横から鼻を鳴らした。


「村の顔ができたってことだ」


「珍しくうまいこと言うな」


「俺はいつでもうまいこと言う」


「無口のくせに?」


「必要があればだ」


 レティシアが看板を見て言う。


「悪くないわね」


「だろ」


 ボルドが言う。


「ただの小屋じゃなく見える」


「実際、もうただの小屋じゃないしな」


 醸も頷く。


 酒蔵の完成祝い。


 それは見た目にはささやかなものだ。


 けれど村の空気は確実に変わっていた。


 前は“村に不思議な酒がある”だった。


 今は“村に酒蔵がある”だ。


 その違いは大きい。


     


 仕込みから数日後、Hellesは見事に目を覚ました。


 注いだ液体は、これまでで最も穏やかな金色だった。


 白銀泡のような緊張感のある輝きではない。


 もっとやわらかく、温かな光だ。


 泡は白く細かく、香りはやさしく、麦の甘みがすっと立ち上る。


 醸は一人で最初の一杯を口にした。


 ……うまい。


 派手な苦味はない。


 強烈な回復感もない。


 だが、口にした瞬間から喉へ落ちるまで、どこにも引っかかりがない。


 やわらかな麦の丸みが静かに続き、飲み終わったあとに、胸のあたりへほんのりと明るさが残る。


「どう?」


 いつの間にか後ろにいたミーナが訊く。


「いい」


「今日は“黙らせる酒”じゃない顔してる」


「そうだな」


 醸は笑った。


「今日は、“笑わせる酒”かもしれない」


「それ、いいね」


「うん、いいかも」


 レティシアも頷いた。


 その一言で、醸の中で何かがすっと定まった。


 このHellesに宿った力は、回復でも、防衛でも、集中でもない。


 たぶんこれは、人の気持ちをやわらかくほぐし、喜びを素直に広げる酒だ。


 大げさな魔法ではない。


 だが、祝う場には一番大事かもしれない。


     


 夕方、広場に人が集まった。


 長机には料理が並び、焼いた根菜、肉の煮込み、固いが香ばしいパン、山菜の塩漬け、干した果実が皿に分けられている。子どもたちはまだ酒が飲めないので、蜂蜜水をもらって浮かれていた。


 新しい酒蔵小屋の扉は開かれ、中の樽が見えるようになっている。


 看板の前では、村長が少し緊張した顔で立っていた。


「皆、静かに」


 村長が言うと、ざわめきが少しずつ収まる。


「今日、我らは新しい酒蔵小屋の完成を祝う」


 村長の声は、夕暮れの空気によく通った。


「この小屋は、一人の力でできたものではない。酒を造る者、樽を締める者、金具を打つ者、水を引く者、火を守る者、見張る者、支える者。皆の手でできた」


 そして彼は醸を見る。


「そして何より、その始まりを持ってきたのは、この村に落ちてきた一人の醸造師だ」


「落ちてきたって言い方」


 ミーナが小声で笑う。


「事実だからな」


 レティシアが返す。


 村長は続けた。


「だから今宵は、必要に迫られてではなく、喜びのために飲もう」


 その言葉に、広場全体がふっと明るくなった。


 醸は樽の前に立ち、木栓を抜いた。


 しゅ、とやわらかい音。


 杯に注がれるHellesは、夕陽を受けて白金のように見えた。


「きれい……」


 ミーナが思わず呟く。


 最初の一杯は村長へ。


 次にボルド、薬草師の老婆、レティシア、ミーナ……は未成年なので香りだけ。


 そのあと、村人たちへ次々に注がれていく。


 村長は一口飲み、目を細めた。


「……うむ」


「どうです?」


 醸が訊く。


「難しいことは言えん」


「はい」


「だが、飲んだら笑いたくなるな」


「……」


 それを聞いて、醸は少しだけ目を見開いた。


「やっぱり」


「やっぱり?」


 レティシアが訊く。


「この酒、そういう酒だ」


「そういうって?」


「嬉しい気分を素直にする」


「またずいぶん曖昧ね」


「でも、今の村長見たらわかるだろ」


「たしかに」


 レティシアがくすっと笑う。


 ボルドも一口飲み、珍しくすぐに二口目へ行った。


「……軽いな」


「うん」


「だが、薄くねえ」


「そうした」


「仕事終わりにちょうどいい」


「祝いの酒なんだけど」


「祝いの後も飲みたいって意味だ」


「それは嬉しいな」


 薬草師の老婆は、杯を両手で包むように持って飲んだ。


「これはいいねえ」


「どういい?」


 ミーナが訊く。


「胸の中に溜まった曇りが、ちょっと晴れる感じだよ」


「曇り」


「年寄りはね、嬉しくても素直に顔に出にくいんだ」


「そうなの?」


「そういうもんさ」


「じゃあこの酒、すごい」


「すごいよ」


 老婆は笑って、皺だらけの目元をさらに細めた。


 レティシアも飲んだ。


 彼女は最初の一口で、少し驚いたように眉を上げる。


「……あ」


「何だ」


「力が抜ける」


「悪い意味で?」


「違う。ちゃんと楽になる方」


「なるほど」


「剣を置いた後の酒って感じ」


「いいな、それ」


 醸は素直に頷いた。


「戦う前でも、戦った後でもなく?」


「うん。今日は戦う日じゃない、って体がわかる感じ」


 その言葉に、醸はじんとした。


 そうだ。


 たぶんこの酒が一番伝えたいのは、それなのだ。


 今日は、怖がらなくていい日だ。


 今日は、祝っていい日だ。


     


 宴は、思った以上ににぎやかになった。


 村人たちは普段よりよく喋り、よく笑い、普段なら口喧嘩になりそうな軽口も、今日は不思議と丸く収まる。子どもたちも大人の笑顔につられて騒ぎ回り、広場の空気そのものが明るくなっていた。


 ミーナは酒の代わりに蜂蜜水を片手に走り回り、誰にでも「それHellesだよ、今日の新作!」と説明していた。完全に蔵付き看板娘である。


「お前、ずいぶん詳しくなったな」


 醸が言うと、ミーナはえへんと胸を張った。


「弟子ですから」


「最近それ便利な言葉にしすぎじゃない?」


「使えるものは使うの」


「商人かよ」


「帳場の仕切り役みたいね」


「ちょっと違う方向に育ってきたな……」


 一方、ボルドはいつもより口数が多かった。


 酒が軽いからか、祝いの空気に押されたのか、若い連中に酒蔵の扉金具の工夫を得意げに語っている。


「見ろ、この留め具」


 ボルドが指で示す。


「引くだけじゃ開かねえ。少し持ち上げてから押すんだ」


「なんでそんな面倒に?」


 若者が訊く。


「酔っ払いが適当に触っても勝手に開かねえようにだ」


「今その酔っ払い候補がいっぱいいますけど」


「だからだ」


「なるほど」


「あと見た目も悪くねえだろ」


「自分で言うんだ」


「俺が作ったからな」


 それを聞いて、レティシアが肩を震わせて笑っていた。


「ボルドさん、今日すごい喋る」


「Helles効いてるんじゃない?」


 ミーナが言う。


「陽気になる効果?」


「たぶんな」


 醸は頷く。


「でも酔って騒ぐ感じじゃない。素直に気持ちが前に出るだけだ」


「それ、すごくいい酒じゃん」


「うん。たぶん、かなりいい酒だ」


 ふと、醸は広場の隅を見る。


 そこには、これまで酒で助けられた村人たちがいた。


 傷を癒やされた者。


 疲れを支えられた者。


 夜を守った者。


 鍛冶場を支えられた者。


 皆が今、杯を手に笑っている。


 それを見た時、醸の胸の奥に、前世ではあまり感じたことのない温かさが満ちた。


 自分の造った酒が、人を救った。


 それはもちろん嬉しい。


 でも、自分の酒が、人を笑わせている。


 それはまた別の、深い嬉しさだった。


     


 夜が更ける頃、広場の喧騒は少しだけ落ち着いていた。


 焚き火の周りにはまだ人が残り、穏やかに話し込んでいる。子どもたちはもう眠たそうに親へ寄りかかり、ミーナもさすがに少し疲れた顔で木箱に腰掛けていた。


 醸は、酒蔵小屋の前に一人立っていた。


 新しい扉。


 看板。


 中に並ぶ樽。


 夜気の中に残る、麦と木と火の匂い。


「逃げないのね」


 レティシアが隣に来た。


「何から?」


「こういう時、一人でぼーっとしてると、だいたい考え込んでるでしょ」


「逃げてるわけじゃないよ」


「似たようなもの」


「厳しいな」


「知ってる」


 彼女は小さく笑ってから、酒蔵小屋を見上げた。


「いい夜ね」


「うん」


「今までみたいに、誰かが怪我してるからとか、何かに備えるからじゃないのが、いい」


「そうだな」


「たぶん村のみんなも、それが嬉しいのよ」


「……だろうな」


 少し沈黙が落ちる。


 焚き火の向こうで、ボルドの低い笑い声が聞こえた。


 珍しい。かなり珍しい。


「レティ」


「なに」


「俺さ」


「うん」


「前の世界で、こういう酒をちゃんと造れてたか自信ない」


「こういう酒?」


「喜ぶための酒」


「……」


「うまい酒は造ろうとしてた。でも、誰かの顔を思い浮かべながら造るって感覚は、今ほど強くなかった気がする」


「それは」


 レティシアは少し考えてから言った。


「今の方が、近いからじゃない?」


「近い?」


「飲む人が。助かる人が。喜ぶ人が」


「……ああ」


「工場で遠くに出す酒と、村で顔が見える人に渡す酒は、違うでしょ」


「違うな」


「だから、今のあんたの方が向いてるのかも」


「そんな簡単に言う?」


「簡単じゃないわよ」


 レティシアは肩をすくめた。


「でも、見てればわかる。今の方が、あんた幸せそうだもの」


 その言葉に、醸は返事ができなかった。


 幸せ。


 そんな言葉、前世で自分に使うことはほとんどなかった。


 けれど今、酒蔵小屋の前に立って、村の笑い声を聞いていると、否定もしきれなかった。


     


 宴の最後、村長が再び杯を上げた。


「今日はよく働き、よく笑った」


 村人たちが顔を上げる。


「酒蔵はできた。だが、これは終わりではない。始まりだ」


「また始まりか」


 ボルドがぼそりと呟く。


「この村、最近ずっと始まってるな」


「いいことじゃない」


 薬草師の老婆が笑う。


 村長は続けた。


「これから先、この酒蔵がどこまで行くかは、まだわからん。町へ行くか、王都へ届くか、あるいは面倒ごとを呼ぶかもしれん」


「面倒ごとは確実に来るわね」


 レティシアが小さく言い、醸は苦笑した。


「だが今夜だけは、それを忘れて祝おう」


 村長の声が、静かに力を帯びる。


「この村が、この村の手で、新しい力を持ったことを」


 醸はHellesの注がれた杯を見つめた。


 やわらかな金色。


 白い泡。


 胸を少し軽くする香り。


 この酒は、誰かを劇的に救うわけではない。


 けれど、人が嬉しい時に、その嬉しさをちゃんと広げてくれる。


 それは決して小さな力ではないと思った。


 人は、戦うためだけに生きるわけじゃない。


 耐えるためだけでもない。


 笑うため、祝うための時間があるから、また明日を頑張れる。


「乾杯」


 醸は静かに言った。


 今までの乾杯とは、少し違う響きだった。


 決意の乾杯でも、勝利の乾杯でもない。


 ただ、今この瞬間を嬉しいと思うための乾杯。


 皆の声が重なり、白金の酒が夜の灯りを受けて揺れる。


 その光を見ながら、醸は思った。


 酒蔵は、確かに形になった。


 なら次は、この酒蔵が村に何をもたらせるか。


 守るだけでなく、喜ばせるだけでなく、もっと大きな場へ繋げていく段階が来る。


 祭り。


 収穫。


 外から来る商人。


 そして、この村の名を持って外へ出る酒。


 今夜のHellesは、そのための優しい入口なのだろう。


 夜風が吹き、新しい看板がわずかに鳴った。


 グランエッジ醸造。


 その名はまだ小さい。


 けれど、確かに村の中で根を張り始めていた。


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