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異世界ビール物語~醸造家の異世界転生~  作者: 麦汁酵生


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第八十六話 森の濁杯、祖霊は木桶に眠る ―Sahti―

 王都から戻った朝、グランエッジの空は、妙に低かった。


 雲は山肌に重く垂れこめ、風には湿った土の匂いが混じっていた。旅帰りの馬車が村の入口をくぐるころには、誰もが口数を減らしていた。王都最大の酒会で、醸のビールは喝采を浴びた。名だたる醸造家も、口うるさい商人も、鼻持ちならない貴族たちですら、最後には杯を置いて沈黙した。あの夜、黄金に輝く三重奏は、間違いなく王都を魅了したのだ。


 だが、勝って帰るはずの道中で届いた伝令は、その余韻を一息で断ち切った。


 神麦畑が荒らされた。


 その一文だけで、醸の胸は冷えた。


「……こっちです」


 馬車を降りるなり、ミーナが駆け出す。レティシアも無言でその後を追い、醸は荷も降ろさず畑へ向かった。村外れ、清流の曲がる先に広がる段々畑。そのうち最も奥、山の気配が濃い場所にある区画が、ひと目で“やられた”とわかる姿になっていた。


 踏み荒らされた土。へし折られた支柱。根元から引き抜かれた神麦。刈り取るのではなく、怒りか焦りのまま掴んで捻ったような跡。まだ幼い穂が泥にまみれて転がり、朝露ではなく無残な湿りをまとっている。


 醸は畑の端で立ち止まり、その光景をしばらく見つめた。


 怒りは、すぐには来なかった。


 先に来たのは、喪失に似た静けさだった。


 自分が異世界で初めて手にした奇跡。村が共に守ってきた恵み。癒やし、支え、笑い、繋がり、そして生き延びる力の源になってきた神麦が、足で踏みにじられている。その事実が、あまりに生々しく、あまりに幼稚で、かえって現実味を欠いて見えた。


「二列、まるごと持っていかれてる」


 レティシアがしゃがみ込み、地面に触れた。声は低く、固かった。


「雑だ。盗むだけなら、もっと丁寧に掘る。これは……探したけどわからなくて、腹を立てて荒らした感じね」


「結界柱も折られてる」


 ミーナが噛みしめるように言う。


「でも、変。侵入を知らせる鈴は鳴ってない。土の符も、半分しか反応してない」


 醸はゆっくり畑の中へ入った。踏まれた土に膝をつき、折れた穂を拾う。まだ青さの残る粒は、指先でかすかに光った。死んではいない。けれど、痛めつけられているのがわかる。まるで、畑全体が怯えているようだった。


「……ごめん」


 誰に向けたのか、自分でもわからなかった。


 神麦にか。村にか。あるいは、この世界でようやく見つけた居場所そのものにか。


「醸」


 レティシアが呼ぶ。


「怒っていいのよ」


「怒ってるよ」


「なら顔に出しなさい」


「出したら、たぶん仕込みが駄目になる」


 自分でも驚くほど平らな声だった。レティシアは何か言い返しかけて、やめた。


 代わりにミーナが、小さな拳を握る。


「見つけよう。誰がやったか。今までだって、酒が教えてくれたこと、いっぱいあった」


「酒だけじゃ足りないこともある」


「でも、酒でしか届かないところもあるよ」


 その一言が、妙に深く入った。


 醸は畑を見回す。荒らされた区画の向こう、まだ無事な列が風に揺れていた。山から吹き下ろす湿った風が、神麦の葉を震わせる。その音はざわめきというより、何かを耐える呼吸に近かった。


 そのとき、背後からしわがれた声がした。


「なら、森に聞くしかないね」


 振り向くと、村のはずれで薬草を扱う老婆、エッダが立っていた。腰は曲がっているが、目だけは妙に若い。グランエッジでも最古参の一人で、酒蔵ができる前から、山の草木と獣道と風向きを覚えて生きてきた女だ。


「森に……?」


「人間は嘘をつく。土も隠される。けど木はな、見てるよ。樽も桶も、見てる。あんたはまだ新しい醸造師だから知らないだろうけどね」


 エッダは畑の端にしゃがみ込み、倒れた神麦を一本拾った。


「この村のもっと古い連中は、記録なんて持たなかった。字を書ける者も少なかった。だから、木に預けたのさ。切り出した木に、削った桶に、酒の匂いに、季節の怖さに。そういうのは、ずっと残る」


「残るって……記憶が?」


「記憶なんて立派なもんじゃない。癖だよ。土地の癖。木の癖。人の手の癖。それを起こす酒がある」


 醸の脳裏に、ひとつの名が浮かんだ。


 古い農家の酒。濾さず、若く、素朴で、けれど土地の匂いを丸ごと抱き込んだ酒。ホップではなく、杜松を使い、木の槽を通し、濁りごと飲む、北の森の酒。


「……Sahti」


「名前は知らないよ。けど山の古老は、昔そういう“森の酒”を作ってた」


 エッダがにやりと笑う。


「木桶を寝床にした祖霊を起こす酒だってね」


     


 その日のうちに、醸は蔵の奥から、しばらく使っていなかった古い発酵桶を引っ張り出した。


 酒蔵が大きくなるにつれ、金具を強くし、温度管理を工夫し、石と銅と新しい木材で精度を上げた樽が増えていた。けれど、いちばん古い桶だけは、なぜか捨てずに残してあった。最初期、村人たち総出で削り、削り目も粗いまま使っていた大桶だ。表面には細かな染みが重なり、木目は飴色に沈み、耳を寄せれば乾いた森の匂いがまだ生きている。


「それ使うの?」


 ミーナが目を丸くした。


「うん。今回は、きれいすぎる道具じゃ駄目だ」


「古いほうがいいの?」


「新しい酒じゃなくて、古い記憶を起こしたいからな」


 Sahtiは、前世の知識では極めて古式のビールだった。麦芽を主体に、ときにライ麦を混ぜ、ホップの代わりに杜松を使い、木槽と枝で濾して、濁りごと生きたまま飲む。長期熟成ではなく、土地と家と季節の息遣いそのものを閉じ込める酒。


 グランエッジの今に合わせるなら、ただの再現では足りない。


 必要なのは、“この村の森が覚えていること”を掬い上げる一杯だ。


「神麦はどうする?」


 レティシアの問いに、醸は少し黙った。


 荒らされた直後の今、神麦を多く使うのは危険だ。収量も読めないし、敵がもう一度来ない保証もない。だが一方で、神麦なしではこの土地の深層には届かない気がした。


「主役にはしない」


 醸は答えた。


「土台は大麦とライ麦。神麦は、傷ついてない列から少しだけ借りる。味の芯じゃなくて、この土地の声をつなぐ糸として使う」


「……いける?」


「やるしかない」


 村人たちも集まり始めた。荒らされた畑を見て怒っている者、不安に顔を曇らせる者、ただ静かに手伝いを申し出る者。醸はその顔ぶれを見回し、あらためて思う。もうこれは、自分ひとりの酒じゃない。


「エッダさん。杜松、取れますか」


「任せな。若枝と実、両方あったほうがいい」


「鍛冶屋には、石を熱してほしい。煮沸の代わりに使う」


「熱した石を麦汁に?」


 村長が眉を上げる。


「火の芯を落とすんです。森の酒だから、森の火で温度を入れる」


「毎度思うが、お前さんのやることはわけがわからん」


「わけがわからないほうが、たまにうまくいきます」


 そう言うと、珍しく小さな笑いが起きた。空気が少しだけ緩む。


 その夜、仕込みは蔵の外で行われた。


 大鍋ではなく、広い木槽。洗い清めた杜松の枝を底に敷き、その上に砕いた麦芽とライ麦を重ねる。神麦はほんの一握りずつ、祈るように散らした。熱した石を慎重に投入すると、じゅっと低い音がして、槽の中から湿った森の香りが立ち上る。麦の甘い湯気に、杜松の青い樹脂香が混ざり、夜気の中へ細く伸びていった。


 甘いのに、薬草のようでもある。清らかなのに、土の体温を思わせる。今までのどのビールとも違う、もっと原始的で、もっと生活に近い匂いだった。


「なんか……山小屋そのものみたいな匂い」


 ミーナが鼻をひくつかせる。


「酒っていうより、森を蒸してる感じね」


 レティシアも珍しく興味深そうに槽を覗き込む。


「それでいい。たぶん今回は、飲み物を造るっていうより、土地を一回、液体にするんだ」


 醸は杜松の枝越しに滴る麦汁を見つめた。淡い茶金色に濁り、澄明さとは無縁だ。だが、ひどく力強い。濾し布ではなく枝を通した液は、木の香りと若い穀物の荒さをそのまま抱えていた。


 発酵は早かった。


 神麦を少量混ぜたせいか、あるいは古い桶に宿った見えない酵母のせいか。翌朝には、桶の表面に細かな泡が立ち、耳を寄せれば低い息づかいのような音が続いていた。ぷつ、ぷつ、と単純な発酵音ではない。もっと間の長い、水面下のささやきに近い。


 ミーナは本気で顔をこわばらせた。


「……ほんとに何か寝てる?」


「酵母だよ」


「酵母って、そんなに“誰かいる感”出す?」


「今回は、ちょっと出してるかもな」


 醸も同じことを感じていた。


 桶に近づくと、ただアルコールになる途中の香りだけではない気配がある。濁りの奥に、雨に濡れた木肌、冬の薪小屋、春先の畑を踏む長靴の泥、子どものころに飲んだ薄い粥の湯気――そんな、断片的で生活じみた匂いがいくつも重なっていた。


 まるでこの桶自体が、村の時間を少しずつ吐き戻しているようだった。


     


 三日目の夕方、試飲の場が設けられた。


 場所は蔵の中ではなく、荒らされた神麦畑の前だった。まだ倒れた株は片付けきれていない。痛々しい光景だ。だが、だからこそここで飲む意味があると醸は思った。


 小さな木杯に注がれたSahtiは、濁っていた。黄金でも琥珀でもなく、森の夕暮れを溶かしたような曖昧な色。泡は荒く、立ってもすぐに薄くなる。香りは独特だった。杜松の青さ、ライ麦のざらりとした穀物感、神麦のほのかな光、それから発酵由来の熟れた果実の匂いが、整然ではなく重なっている。


 洗練よりも、生命力。


 完成された美より、土地に根ざした雑味の厚み。


 それでも、杯を近づけた者はみな、無意識に息を深く吸い込んだ。


「まずは俺が飲む」


 醸はそう言って、一口含んだ。


 舌に最初に来たのは、柔らかな甘みだった。だがすぐにライ麦の野性味が広がり、続いて杜松の青く澄んだ香りが鼻へ抜ける。濁りは重たいのではなく、むしろ液体の中に細かな手触りを残していて、飲み込むと胸の奥でじんわり熱がほどけた。


 その瞬間だった。


 視界が、ふっと揺れた。


 畑。風。折れた穂。そこまでは現実と同じだ。だが次の瞬間、足元の土の色が少しだけ深くなり、周囲の音が遠のいた。代わりに聞こえてきたのは、湿った長靴が泥を踏む音。粗い息。押し殺した声。


 ――こっちだ。印の出た列を抜けろ。


 ――鈴が鳴らないぞ。


 ――司祭の札が効いてる。急げ。全部じゃない、根を持っていけ。


 ――くそ、どれだ。光るやつだけか?


 ――見分けがつかん、まとめてやれ!


 醸は息を呑んだ。


 映像ではない。夢でもない。ただ、土地に染みた“起きたこと”が、酒を通して耳の奥に流れ込んでくる。


「醸?」


 レティシアの声が遠くからした。


「見えた」


「何が」


「……聞こえた、かな」


 彼は杯を握ったまま、荒らされた列の中央へ歩いた。踏み荒らしの中心。そこに立つと、Sahtiの熱が喉から胸、胸から指先へと広がり、桶の中で眠っていた何かが、木の匂いと一緒に起き上がる感覚があった。


 人の姿は見えない。


 だが、“痕跡の輪郭”は見える。


 四人。いや五人。重い靴。うち二人は騎士装備に近い。残りは作業用の革靴。結界を眠らせたのは、修道院式の沈静札。けれど、畑を荒らした手つきは修道士のそれではない。もっと乱暴で、畑仕事を知らない者の壊し方だ。


「修道院だけじゃない」


 醸は低く言った。


「手を組んでる。札を持ち込んだのは、あっちだ。でも踏み込んだのは兵だ。……貴族の私兵か、金で雇われた連中」


「断言できる?」


 レティシアが一歩寄る。


「半分は勘だ。でも、半分はこの酒が教えてる」


「充分ね」


 彼女はすぐに畑を見直した。長靴跡、折れた支柱、踏みしめの深さ。


「確かに、訓練された兵ならもっと静かに入れる。こいつらは結界に胡坐をかいて雑になった。しかも、神麦そのものを知らない」


「だから抜いたあと、半分以上を駄目にした」


 ミーナが悔しそうに言う。


「欲しかったのは畑そのものじゃなくて、“持ち帰れる何か”だったんだ」


 エッダがSahtiをひと口飲み、しばらく目を閉じたあと、ぽつりと言った。


「杜松が怒ってるね」


「杜松が?」


「木は、踏み荒らした足を覚える。しかも一人、右足を少し引きずってる。昔傷めた膝だ。重いくせに、最後に転びかけて支柱を折ってる」


 レティシアの目が細くなる。


「それ、追える?」


「村の猟師ならね」


「追えるわ。昨日の雨で、まだ消えてないはず」


 そこで初めて、醸の中に怒りがはっきり形を持った。


 怒鳴りたいわけではない。殴りたいわけでもない。ただ、踏みにじられたものを、踏みにじられたまま終わらせたくない。そのために必要なのが剣なら剣でいい。追跡なら追跡でいい。だが、自分にできるのはやはり酒を造ることだ。


「もう一樽、仕込む」


 醸は言った。


「え」


 ミーナが振り向く。


「今のは“聞く酒”だ。次は“繋ぐ酒”がいる。追う側の感覚を合わせる。森の音を同じように拾えるようにする」


「間に合うの?」


「若い酒だから早い。濁りが生きてるうちに飲ませたい」


 村長が腕を組む。


「また畑の前で仕込むつもりか」


「ええ。今度は、無事な神麦じゃなくて、踏まれた列から助けられる粒も混ぜます」


「……いいのか?」


「いい悪いじゃない。踏まれたものにも、まだ役目があるなら、捨てたくない」


 誰も、すぐには言葉を返さなかった。


 やがてミーナが、涙をこらえるような顔で笑った。


「うん。それ、醸らしい」


「褒めてる?」


「たぶん」


     


 追跡隊が組まれたのは、その夜のことだった。


 レティシアを先頭に、村の猟師二人、若い警備手三人、そして索敵補助のためにミーナが加わる。本来なら醸は後方に残るべき立場だったが、今回は外せないとレティシアが言った。


「あなたの酒がなきゃ、こっちの目も耳も揃わない」


「足手まといにならない?」


「今さらでしょ」


「ひどい」


「でも事実よ」


 言いながら、彼女はSahtiの入った小さな革袋を腰に下げる。濁りが沈まないよう、ときどき軽く揺するためだ。


 夜の森に入る直前、全員が少量ずつ酒を飲んだ。


 冷やしていないSahtiは、体温に近い温度で喉へ落ちた。すると不思議なことに、森のざわめきがただの騒音ではなく、層になって聞こえ始める。風が撫でる葉擦れ。小動物の走る気配。遠くの水音。そして、人間の通った不自然な“途切れ”。


「……わかる」


 猟師の一人が低く呟く。


「匂いじゃねえ。流れだ。ここだけ、森が一度止まってる」


「そっち」


 ミーナが杖を向ける。


「結界札の残り香がある。弱いけど、ある」


 追跡は想像以上に進んだ。


 犯人たちは山道を避け、獣道を選んでいたが、Sahtiを飲んだ者たちには“森の違和感”として痕跡が浮き上がった。折れた下草、泥の深さ、木の皮についた擦れ。そのひとつひとつが、点ではなく線で見える。


 やがて、谷を越えた先の廃炭焼き小屋に辿り着いた。


 中には、乱雑に積まれた麻袋が三つ。袋の口から覗いていたのは、抜き取られた神麦の株だった。乱暴に扱われたせいで半分は萎れていたが、まだ生きているものもある。


「いた」


 レティシアが剣の柄に手をかける。


 小屋の奥には二人の見張りがいた。どちらも軽装だが、動きは兵士だ。ひとりは右足をわずかに庇っている。


 エッダの言葉どおりだった。


「動くな」


 レティシアの声が夜気を裂く。


 見張りは一瞬で剣を抜いたが、Sahtiで感覚を揃えた追跡隊の動きは早かった。猟師の矢が袖を射抜き、ミーナの拘束光が床を走る。もう一人が逃げようとした瞬間、醸は思わず手の袋から木杯を投げた。情けないくらい場違いな攻撃だったが、杯が顔面に当たって怯んだ隙に、若い警備手が組み伏せる。


「……醸」


 レティシアが振り向き、半眼になる。


「いや、反射で」


「武器が木杯の醸造師、初めて見たわ」


「俺も初めてです」


 だが、笑っている余裕は長くなかった。


 捕えた二人の口は重かったが、小屋を調べるうちに、ひとつの印章が見つかった。焼き印に使うための小型の鉄片。刻まれていたのは、白い麦穂を輪で囲んだ意匠――修道院の施療院が使う紋章をわずかに崩したものだ。しかし裏には、別の印がある。鹿角を抱く盾。地方貴族、ガルンベル家の私兵印。


「やっぱり……」


 ミーナが顔を曇らせる。


「組んでる」


「修道院の一部と、貴族の一部、ね」


 レティシアが冷静に言う。


「全部が敵じゃない。でも、敵はもう村の外にいるだけじゃない」


「王都で褒めそやされた夜の裏で、これか」


 醸は麻袋の中の神麦をそっと持ち上げた。土がまだ根に絡んでいる。雑に奪われたのに、植物はなお生きようとしていた。


 胸が痛んだ。


 だが同時に、そのしぶとさが誇らしくもあった。


「持って帰ろう」


 醸は言う。


「助かる株は助ける。駄目なやつも、無駄にはしない」


「酒にする?」


 ミーナが問う。


「酒にもする。肥にもする。次の畑の糧にもする。踏みにじられて終わりにはさせない」


 レティシアはしばらく醸を見つめ、それから小さく頷いた。


「ええ。そうしましょう」


     


 村へ戻ったのは、夜明け前だった。


 荒らされた畑はまだ傷ついたままだ。だが、戻された神麦の株が並べられ、助かるものから植え直されていく光景は、昨朝とはまるで違って見えた。失っただけではない。取り返したものがある。掴んだ手掛かりもある。何より、村は怯えるだけの集団ではなくなっていた。


 醸は最後に、残っていたSahtiを木杯に注ぎ、畑の端へ静かに撒いた。


「祖霊に返すの?」


 ミーナが訊く。


「返すっていうか、お礼かな」


「起こしちゃったし?」


「うん。たぶん、だいぶ助けてもらったから」


 風が吹いた。


 杜松の青い香りが、薄く朝靄へ混じる。倒れていた神麦の先が、かすかに揺れた。


 それが答えかどうかはわからない。けれど、醸にはもう充分だった。


 王都の名声は、確かに力になる。けれど、本当に守りたいものは拍手の中にはない。泥のついた畑、眠れない夜を越える村人たち、剣を抜くレティシア、必死に結界を張り直すミーナ、しわだらけの手で杜松を束ねるエッダ、そういうものの中にある。


 そして酒は、そのすべてを繋ぐ。


「醸」


 レティシアが並んだ。


「次はどうするの」


「仕込むよ」


「また?」


「まただよ。奪われるなら、奪われても終わらない造り方を考える。神麦だけに頼らない酒も、もっといる」


「……敵にとっては最悪ね」


「職人としては、燃える展開だな」


「ほんとにそういうとこよ」


 呆れたように言いながら、彼女はわずかに笑った。


 ミーナも眠そうな目を擦りつつ、空になった革袋を掲げる。


「じゃあ次の記録、書かないと。森の酒、追跡成功、結界札の残滓、私兵印、右足引きずり一名」


「最後だけ妙に具体的だな」


「大事だもん」


「そうだな。大事だ」


 醸はもう一度、畑を見た。


 荒らされたままではない。立て直しの途中だ。傷は残るだろう。だが、それでも根は土の中にある。なら、また芽吹く。


 木桶の中で眠っていた祖霊が、もし本当にいたのだとしたら。


 きっと彼らは、ただ昔を懐かしむために眠っていたのではない。必要なとき、いま生きている者の手をほんの少し押すために、静かに息を潜めていたのだ。


 森の濁った杯は、勝利の酒ではなかった。


 だが、守るために立ち上がる者たちの足元を、確かに固める一杯だった。


 夜明けの灰色の空の下、醸は土の匂いを吸い込み、静かに言った。


「……次は、終わらせないための酒だ」


 グランエッジの朝はまだ冷たかった。


 けれどその冷たさの底で、小さく、たしかに、次の発酵が始まっていた。


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