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異世界ビール物語~醸造家の異世界転生~  作者: 麦汁酵生


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第七十四話 伊の薄刃、香る金風 ―Italian-Style Pilsener―

 Rice Lager が白昼の酒として広がり始めると、グランエッジには不思議な便りが届くようになった。


 王都の貴族街からではない。


 軍からでもない。


 街道沿いの宿場町や地方都市、それも少し豊かな、けれど王都ほど派手ではない町々からだ。


 そこに共通していたのは、奇妙な言い回しだった。


 ――軽いのに、もう少し“品”が欲しい。


 ――昼に飲めるが、客前でも映える酒が欲しい。


 ――透き通っていて、香りがさりげなく残るような。


 ――日常使いは Rice Lager で十分だが、もう半歩だけ洗練されたものを。


「……贅沢だな」


 醸は羊皮紙を束ねながら苦笑した。


「でも分かるわ」


 レティシアが帳簿を閉じる。


「Rice Lager はすごく良い。でも“生活に馴染む良さ”が強いでしょ。そうすると今度は、その生活より少しだけ上等な場に置きたくなる人が出る」


「昼餐とか、商談前とか、小さな祝宴とかね」


 セリナが補った。


「王都の夜会ほど仰々しくなく、村の共同食堂ほど気安くもない。そういう中間の場は意外と多いのよ」


 ミーナが帳面を抱えたまま首を傾げる。


「じゃあ、Rice Lager をそのまま高級にすればいいの?」


「それだと違う」


 醸はすぐに首を振った。


「高級に見せるだけなら簡単だ。でも、今回求められてるのは“値段が高い酒”じゃない。“仕草がきれいになる酒”だと思う」


「仕草?」


「うん」


 その言葉を口にした瞬間、醸の中で、前世の記憶がひとつの像を結んだ。


 ラガーの清潔な骨格。


 ピルスナーの明るい黄金。


 そこへ、繊細だがはっきり感じるホップ香を、あとから薄く重ねる。


 濁りではなく透明。


 重さではなく、余韻の線。


 派手な果実香ではなく、花と草と柑橘の皮の気配。


 そして、“飲みやすいのに妙に印象が残る”という不思議な上質さ。


「Italian-Style Pilsener……」


 醸は静かに呟いた。


「また長い名前」


 レティシアが笑う。


「でも今回は、なんとなく響きが綺麗」


 ミーナは少し楽しそうだった。


「どう違うの?」


「伝統的なピルスナーのきれいさを土台にして、香りを少し今っぽく、少し華やかに寄せるんだ」


 醸は机に配合案を広げた。


「ただし West Coast-Style Pilsener みたいに、苦味や輪郭を硬質に立てるんじゃない。もっと柔らかく、もっと上品に」


「じゃあ、西風の黄金律が“きっちり整った列”なら」


 セリナが言う。


「こっちは“整った所作”って感じ?」


「まさにそれだ」


 醸は頷いた。


 今回の酒は、秩序のためではない。


 白昼の実用だけのためでもない。


 美しく振る舞うための余白を、人の中に生む酒だった。


 仕込みは、ここまでのビール中でも特に繊細だった。


 神麦は、癖が少なく、香りの清らかなものを選ぶ。


 白粒稲は今回は使わない。Rice Lager のような軽やかさではなく、麦由来の細い芯を残したいからだ。


 発酵はラガーらしく低温で、清潔に。


 苦味はしっかりつけるが、鋭くしすぎない。


 そして何より重要なのは、仕上げの段階で加える“香りの薄膜”だった。


「ここで足すの?」


 ミーナが驚く。


「ああ。主役にしない程度に、後から香りを触れさせる」


「まるで香水みたい」


「少し近いかもな」


 醸は笑う。


「ただし、香りで塗りつぶしたら終わりだ。酒の骨格が見えていて、その向こうから花や草が風に乗るくらいがちょうどいい」


 ホップは、強烈な果実香ではなく、草原、白花、柑橘の皮、そして少しだけ薬草を思わせるものを選んだ。煮沸で苦味の骨を作り、仕上げに香りを薄く重ねる。だが、その量が難しい。少なすぎれば意味がない。多すぎれば、ただの現代的ホッピーラガーになってしまう。


「薄い線で絵を描くみたいだね」


 ミーナが言う。


「いい表現だ」


 醸は頷いた。


「太い筆じゃ駄目なんだ」


 最初の試作は、きれいだが凡庸だった。


 次は香りを足しすぎて、ピルスナーの気品が崩れた。


 三度目では苦味が少し先走り、口当たりに硬さが出た。


 四度目では、香りも味も整っているのに、なぜか“記憶に残らない”。


「綺麗なのに、忘れちゃう」


 ミーナが首を傾げる。


「それだ」


 醸は小さく唸った。


「今回いちばん駄目なのは、実はそれかもしれない」


 高級そうに見えるだけの酒ならいくらでもある。


 だが、本当に良い酒は、飲んだあとに言葉の端や姿勢に余韻を残す。


 五度目の試作で、ようやくその線が見えた。


 液体は、West Coast-Style Pilsener と同じく澄んでいる。


 だが、あちらが玻璃のような硬質な黄金なら、こちらはもう少し柔らかい。


 光の粒が細かく、金糸を淡く溶かしたような色。


 泡は上品で、長く保つ。


 香りは、近づくとまず白い花、次に草、最後に柑橘の皮が薄く立つ。口に含むと、苦味はきれいに通るが主張しすぎず、後から香りがすっと鼻へ抜けていく。


「……きれい」


 ミーナがまたそう言った。


「今回は“きれい”でも種類が違うわね」


 レティシアが杯を揺らす。


「前の黄金律は“整ってるきれいさ”。こっちは“仕立てのいい服”みたいなきれいさ」


「服」


 醸は少し笑う。


「言い得て妙だな」


 試飲役には、これまでにない顔ぶれが呼ばれた。


 地方都市の上級宿の主人。


 婚礼の仲立ちを生業にする女。


 王都から来た若い仕立て師。


 礼法を教える初老の男。


 そして、なぜかセリナが個人的に呼んだ旅芸人の女。


「なんで旅芸人?」


 ミーナが訊く。


「観客の空気を読む仕事だから」


 セリナはそっけなく答えた。


「場をきれいに見せる感覚は、案外こういう人が鋭いのよ」


 最初に反応したのは、礼法教師だった。


 彼は一口飲んだあと、背筋を伸ばしたまま、静かに息をついた。


「言葉尻が荒れにくい」


「いきなりそこですか」


 レティシアが少し笑う。


「礼法とは、何も堅苦しさではない」


 教師は真顔で答えた。


「人は気が逸ると、言葉の角が立つ。逆に弛みすぎれば品が落ちる。だがこれは、そのどちらにも寄らない。音の終わりがきれいに収まる感じがある」


「音の終わり……」


 ミーナが急いで書き留める。


 上級宿の主人は、もっと実務的だった。


「客の目線が散らない」


「どういうこと?」


 ミーナが訊く。


「料理、器、部屋、相手の話、全部に少しずつ意識が向く」


 男は指を折る。


「派手な酒だと、酒ばかりが主役になる。でもこれは違う。場全体が一段上等に見える」


「それ、かなり重要だな」


 醸が低く言った。


 婚礼仲立ちの女は、杯を持ったままにやりと笑った。


「これ、縁談にいいわ」


「また妙なことを」


 レティシアが呆れる。


「本当よ」


 女は楽しそうだ。


「若い子ってね、緊張すると喋りすぎるか、黙りすぎるかなの。でもこれなら、変に浮つかず、気取らず、でも地味にもならない」


「中庸を整えるのか」


 醸が呟く。


「違うわね」


 旅芸人の女がそこで口を挟んだ。


「中庸っていうより、“ちょっとだけ自分を上手に見せられる”酒よ」


「……」


 一同が少し黙る。


 彼女は杯をくるりと回し、鼻先で香りを拾った。


「舞台でもそうだけど、客は完璧さより“美しく余裕がある”方に惹かれるの。これは、そういう余裕を作る」


「余裕」


 ミーナが繰り返した。


「ええ。頑張ってるのが見えないのに、ちゃんとして見える感じ」


 旅芸人は笑った。


「そういうのって、一番強いのよ」


 最後に仕立て師の若者が、少し赤くなった頬で言った。


「布の落ち方が想像しやすい」


「また妙な方向から来たな……」


 醸が苦笑すると、若者は必死に首を振る。


「いや、本当なんです。服って、飾りだけじゃなくて、着た人がどう見えるかの流れが大事で」


 彼は身振りを交えて言った。


「この酒を飲むと、その“流れ”が綺麗に見える。線が柔らかいのに、だらしなくない」


 その瞬間、醸の中で効能の輪郭が定まった。


 Italian-Style Pilsener の力は、


 所作と印象の洗練。


 強制するのではない。


 緊張させるのでもない。


 ただ、立つ、座る、話す、聞く、目を向ける、杯を置く――そうした細い所作の流れを、ほんの少しだけ美しく整える。


「香る金風、だな」


 醸は静かに言った。


「薄刃みたいに鋭いけど、切りつけるんじゃなくて、輪郭だけ整える」


 セリナが珍しく素直に頷く。


「これは売れるわね」


「またそれか」


「だって本当にそうだもの。しかも今回は、王都だけじゃない。地方の上級宿、小商会の客間、婚礼、顔合わせ、地方貴族の昼餐会……全部で欲しがる」


「でも、派手に取り合いにはならなさそう」


 ミーナが言う。


「どうして?」


「たぶん、飲んだ人が“これ見せびらかすものじゃないな”って思う気がする」


 彼女は少し考えながら続けた。


「なんか……静かに良いから」


 その感覚は当たっていた。


 この酒は Hazy IPA のように噂で爆発しない。


 Juicy 系のように王都を面で覆うこともない。


 だが、飲んだ者が一段深く理解し、静かに手放さなくなる。


「次の会食にも、あれを」


「婚礼の口合わせには外せない」


「宿の格が上がる」


「料理の品まで良く見える」


「無理に酔わせないのがいい」


 そんな声が、各地からじわじわと積み上がっていった。


 だが当然、問題も起きる。


 まず、模倣が難しいのに、模倣したがる者が多い。


 軽く香るラガーなら簡単だろうと考えた連中が、香草や花を雑に漬け込んだだけの酒をそれらしく売り始めた。だが本物の魅力は香りを足したことではない。土台の清潔さと苦味の均整、その上に乗る薄い香気の設計にある。


 さらに厄介だったのは、一部の地方貴族がこれを“社交を有利にする酒”として囲い込みたがったことだ。


「断るわよね」


 レティシアが確認するように言う。


「断る」


 醸は即答した。


「今回は少し迷わない?」


 セリナが意地悪く聞く。


「なぜ」


「戦や物流に直結する酒じゃない。むしろ社交向けよ」


「だからこそだ」


 醸は静かに答えた。


「人の印象や会話に関わる酒を、一部の家だけが握るのはよくない」


「ふふ」


 セリナは小さく笑った。


「正解」


 結局、この酒も分散供給の原則が取られることになった。


 大商会、宿、婚礼仲介、地方都市の会食場、料理人組合、そうした場所へ広く、薄く流す。


 独占させず、文化として育てる。


 刻印は、これまででもっとも繊細な意匠になった。


 細い金の弧。


 その上に、風に流れる三枚の花弁のような印。


 意味は、香りが所作に宿る風。


 そして注意文は、礼法教師の言葉をもとに醸が整えた。


 《香は人を飾る。されど飾りは人に勝るな》


「いい言葉」


 ミーナが素直に言う。


「うん」


 醸も頷いた。


「酒が主役になりすぎちゃいけない。場と人があってこその一杯だ」


 正式出荷の日、酒蔵の空気はどこか柔らかかった。


 Rice Lager の時のような白昼の実務感とも違う。


 West Coast-Style Pilsener のような緊張した整頓でもない。


 皆の動きは静かで、けれどどこか丁寧だった。


 瓶に注がれた黄金は、光の中でごく薄い花の影を帯びて見える。


 鼻を近づければ、香りはある。


 だが遠くから叫ばない。


 杯を持つ手を、ほんの少しだけきれいに見せるような香りだ。


「これ、好き」


 ミーナがぽつりと言う。


「珍しく即答だな」


「だって、飲むと自分の動きがちょっと丁寧になる気がする」


「自分で分かるの?」


「うん。なんか、ドンって座らずに、ちゃんと座りたくなる」


「それ、すごく分かる」


 レティシアが笑った。


「しかも嫌な窮屈さじゃないのよね」


 その言葉を聞いて、醸は前世のことを思い出していた。


 工場の仕事は荒っぽく見えて、実は丁寧さの積み重ねだ。


 洗う手つき。


 温度を見る目。


 液を扱う角度。


 慌てれば崩れ、雑になれば味に出る。


 だからこそ、酒には人の所作が映る。


 この世界へ来て、彼は回復や魔力や戦や街道に役立つ酒をいくつも造ってきた。


 けれど今回の一杯は、少し違う意味で胸に残った。


 人を救う酒ではない。


 人を勝たせる酒でもない。


 ただ、人が人前で少しだけ美しくあれる酒。


 それもまた、暮らしには必要なのだと、ようやく分かった気がした。


 荷車が静かに出る。


 婚礼の席へ。


 宿の客間へ。


 地方都市の小さな昼餐会へ。


 どこかの誰かが、少し丁寧に話し、少し柔らかく笑い、少し美しい手つきで杯を置く、その場へ。


「先生」


 ミーナが新しい羊皮紙を差し出した。


「次、どうする?」


「そうだな……」


 醸は少しだけ考える。


「白昼の軽さ、秩序の美しさ、所作の洗練まで来た」


「うん」


「なら次は、また別の方向だ」


「別の?」


「もっと土に近いか、もっと夜に近いか、あるいは、ここまで磨いた薄刃とは逆に、厚みや個性を押し出す方向かもしれない」


 ミーナは嬉しそうに笑う。


「まだ森が続いてる」


「ああ」


 醸も笑った。


「まだまだ、な」


 山の外では、風が少し乾いていた。


 夏の入口に吹く風。


 熱くなりきる前の、金色の軽い風。


 Italian-Style Pilsener。


 それは、白昼を助ける Rice Lager の次に来た、もう半歩だけ美しい一杯だった。


 薄刃のように繊細で、香る風のようにやわらかい。


 人を飾りすぎず、けれど少しだけ、その人本来の輪郭を整えて見せる酒。


 そういう酒が、世界には確かに必要なのだと、グランエッジの酒蔵はまた一つ学んだのだった。


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