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異世界ビール物語~醸造家の異世界転生~  作者: 麦汁酵生


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第七十三話 淡き米風、迅き白昼 ―Rice Lager―

黄金律が王都と砦と隊商に広がり始めたころ、グランエッジには別の種類の声が集まるようになっていた。


 それは、戦でもない。


 政治でもない。


 遠征でもない。


 もっと単純で、もっと切実で、もっと逃れようのないもの――


 暑さだった。


 春が終わり、山あいの風にも湿り気が混じり始めると、人は酒に求めるものを変える。重たいものは昼に嫌われ、香りの濃いものは夜へ回される。朝から荷を背負う者、日中に畑へ出る者、鍛冶場の火の前に立つ者、水車や粉挽き小屋で動き続ける者。そうした連中にとって、必要なのは華やかな驚きではなく、“口を通った瞬間に余計な重さが落ちる酒”だった。


「Session IPA はいい酒よ」


 村の洗濯女たちのまとめ役である中年女は、樽の前で腕を組みながら言った。


「でも昼には少し香りが立ちすぎる時がある」


「Cold IPA は?」


 ミーナが訊く。


「仕事によるね」


 女は即答した。


「頭をしゃんとさせたい人にはいい。でも、あれはちょっと“気持ちが前に出る”のさ。洗濯や炊事や畑仕事ってのは、急げばいいもんじゃない」


「じゃあ何が欲しい?」


 醸が静かに問う。


 女は、しばらく考えてから言った。


「風みたいに入って、汗を邪魔しないやつ」


 その言葉に、酒蔵の空気が少しだけ止まった。


 汗を邪魔しないやつ。


 レティシアが、妙に感心した顔をする。


「それ、すごく分かる表現ね」


「でしょ」


 女は鼻を鳴らした。


「暑い日に飲むもので一番嫌なのは、身体の外に出ようとしてるものを、内側で引っかける感じさ。べたつくのも嫌だし、妙に腹にたまるのも嫌。飲んだあと、仕事に戻れるやつがいい」


 セリナが壁にもたれて腕を組む。


「王都は秩序の酒を欲しがった。街道は持続の酒を欲しがった。今度は白昼の生活そのものね」


「白昼の生活……」


 ミーナが呟きながら、帳面にそのまま書き留めた。


 醸は、火床の前で少しだけ目を閉じた。


 前世の記憶が、じわりと浮かぶ。


 暑い季節の工場。


 仕事終わりではなく、仕事の合間に頭の中で想像したくなる軽い酒。


 喉を流れる速さ。


 余計な甘さのなさ。


 透明に近い淡さの中にある、きちんとした麦の輪郭。


 そして、そこへ別の記憶が重なる。


 この世界で見つけた“白粒稲”。


 Cold IPA で使った、あの乾いて軽やかな穀物。


 米に近く、香りは淡く、酒の胴体をすっと軽くする力を持つ素材。


「Rice Lager」


 醸はゆっくりと言った。


「今度はそのまんまだな」


 レティシアが笑う。


「まあ、分かりやすいだろ」


 醸も少し笑った。


「米――いや、この世界じゃ白粒稲だけど、それに近い穀物の軽さを活かしたラガーだ。明るくて、軽くて、でも空っぽじゃない」


「West Coast-Style Pilsener とどう違うの?」


 ミーナがすぐに訊く。


「向こうは“律”が主役だった」


 醸は指先で机に一本線を引いた。


「透明感も苦味も、全部が整ってることの美しさに向いていた。けど Rice Lager はもっと生活の側だ。整列させるんじゃない。身体の流れを邪魔しない」


「邪魔しない酒」


 セリナが繰り返す。


「面白いわね。強く効くのではなく、“引っかからないこと”が価値になる」


「そういう一杯だと思う」


 今回の仕込みは、これまで以上に“引き算”の勝負になった。


 神麦のうまみは残す。


 だが前へ出しすぎない。


 白粒稲で輪郭を軽くし、口当たりの抜けをよくする。


 発酵は低温で清潔に。雑味は許さない。


 ホップは最低限、草や花の淡い影を添える程度。


 苦味も必要だが、喉に引っかけてはいけない。


「今回、地味そうに見えて、一番怖いね」


 ミーナが配合表を見ながら言う。


「なぜ?」


「だって“すごい香り”とか“強い効果”とかに頼れない」


「その通り」


 醸は頷いた。


「しかも、飲んだ瞬間に分かりやすい派手さも少ない。だからこそ、雑に造るとすぐばれる」


 レティシアが樽を拭きながら笑う。


「先生、こういうの好きよね。本当に」


「職人だからな」


「いや、性格」


「うるさい」


 最初の試作は、悪くなかった。


 明るく、軽く、飲みやすい。


 だが、それだけだった。


「……水っぽい」


 レティシアが容赦なく言う。


「薄いとは違うけど、まだ“酒として残る芯”が足りない」


「だな」


 醸は素直に認めた。


 二度目は神麦を少し戻した。すると今度は、軽さが鈍る。


 三度目では発酵は美しいのに、後味にわずかな重たさが残った。


 四度目では香りを足しすぎて、白昼向けの無垢な抜けが損なわれた。


「難しい……」


 ミーナがまた呻く。


「毎回言ってる」


 レティシアが肩をすくめる。


「でも本当に難しいんだよ、こういう酒は」


 醸は苦笑した。


「濃い酒は“飲んだ感”を作りやすい。でも軽い酒は、“自然にうまい”ところまで持っていかないと意味がない」


 五度目の試作で、ようやく酒蔵の空気が変わった。


 液体は、淡い金というより、白い光を少しだけ溶かしたような色だった。


 澄んでいる。


 だが冷たすぎる印象ではない。


 泡は細やかで柔らかく、香りはごく淡い――新しく刈った草、白い花、炊きたての穀の湯気の、そのさらに手前。喉を通ると、まず軽い。次に神麦のほのかな甘みが一瞬だけ触れ、すぐに白粒稲由来の乾いた抜けが後をさらっていく。


「……あ」


 ミーナが香りを嗅いで目を丸くした。


「どうした」


「消えた」


「何が」


 彼女は自分の胸元に手を当てた。


「さっきまでちょっと、暑いって思ってたの」


「うん」


「でもこれ飲んだら、“暑い”が残らない」


「それだ」


 醸は即座に頷いた。


「消すんじゃなく、残らない」


 その感覚を確かめるため、今回の試飲役はこれまででもっとも“普通の生活者”に寄せられた。


 洗濯女たち。


 畑仕事の若者。


 鍛冶場の助手。


 水車小屋の番人。


 市場で昼まで立ち働く野菜売り。


 それに、村の子らを相手に読み書きを教えている初老の女教師まで呼ばれた。


「教師さんまで?」


 ミーナが不思議そうにする。


「白昼に頭が熱くなる仕事だからじゃない?」


 セリナが答えた。


「子ども相手って、体力だけじゃなく消耗の仕方が独特でしょう」


 女教師は苦笑しながら杯を受け取った。


 最初に反応したのは、鍛冶場の助手だった。


 彼はいつも汗だくで、暑いとすぐ顔が真っ赤になる若者だ。ひと口飲むなり、目をぱちぱちさせた。


「……喉が仕事の邪魔をしない」


「それ、どういう意味?」


 ミーナが首を傾げる。


「暑い時って、水飲んでも腹がたぷたぷする時あるだろ」


 若者は身振りで説明する。


「酒だと、なおさら重くなることもある。でもこれは違う。喉を通った後、そこに残らない。なのに、ちゃんと“飲んだ”って分かる」


「残らないのに、空じゃない」


 醸が静かに言う。


「うん、それ!」


 洗濯女たちはもっと実感的だった。


「汗が変に止まらない」


「腕がだるくならない」


「気が散らないのがいいね」


「昼飯の前でも後でも飲めそう」


 女教師は、少し驚いたような顔で杯を見つめた。


「声が荒れにくいわ」


「声?」


 醸が聞き返す。


「暑い日に子どもたちへ読み聞かせをしていると、喉だけじゃなく気も乾くの」


 彼女は穏やかに微笑む。


「でもこれは、喉を冷やす感じじゃない。むしろ気のほこりが落ちるようで、同じ話をもう一度しても苛立ちにくい」


 市場の野菜売りの女は、笑いながらこう言った。


「値切りの相手に腹が立ちにくい!」


「それ大事なの?」


 ミーナが真顔で問うと、その場に笑いが広がった。


「大事さ」


 女は肩を揺らす。


「昼の日差しの中じゃ、ちょっとしたことで人は棘だらけになる。でもこれは、不機嫌を消すんじゃなくて、“まあいいか、次の客だ”って流せる」


 その感想の積み重ねから、醸はゆっくりと結論を組み立てていった。


 Rice Lager の効能は、劇的な回復ではない。


 集中の鋭化でもない。


 規律の可視化でもない。


 これは――


 白昼の熱と摩耗を、生活の速度の中で洗い流す酒だ。


 疲れを消し飛ばすのではない。


 暑さをなくすのでもない。


 ただ、熱と苛立ちと小さな摩耗が、身体や心のどこかに引っかかって蓄積していくのを防ぐ。


「白昼向きだな」


 醸が呟く。


「しかも、かなり広く」


 セリナが補足する。


「誰か特定の職に尖らない。だからこそ危ないくらい強いわ」


「危ない?」


 レティシアが振り返る。


「だってこれ、“特別な場面の酒”じゃないもの」


 セリナは淡々と言う。


「毎日の昼に欲しくなる酒よ。そういうのが一番、生活に根を張る」


 その通りだった。


 West Coast-Style Pilsener が組織に求められたのに対し、Rice Lager は暮らしそのものに求められた。


 村の共同食堂。


 街道沿いの昼の休憩所。


 市場の飯屋。


 港の荷捌き場。


 暑い季節の鍛冶場。


 畑仕事の昼休み。


 気づけば、王都からではなく、地方の小さな町や村々から先に注文が来るようになっていた。


「珍しいわね」


 レティシアが帳簿を見ながら言う。


「いつもは王都が先に騒ぐのに」


「今回は違う」


 セリナが答える。


「これは流行で広がる酒じゃない。必要で広がる。しかも、王都より地方の方が昼の労働は重いもの」


 ところが、その広がり方が新しい問題を呼んだ。


 人気が出たのはいい。


 だが Rice Lager は、あまりにも“普通に飲めてしまう”のだ。


 劇的な効能の酒なら、人は身構える。


 濃厚な香りの酒なら、特別なものとして扱う。


 だが軽やかで白昼向きの酒は、“ただの便利な飲み物”として乱用されやすい。


 実際、ある宿場町で、昼の休憩所に置かれた Rice Lager を水代わりに何杯も飲んだ荷運びたちが、午後になってさすがに足元をゆるめるという騒ぎがあった。


「そりゃそうだ」


 醸は報告を読んで呆れた。


「軽くても酒は酒だ」


「人って、飲みやすいと忘れるのよね」


 レティシアが肩をすくめる。


「便利すぎるものの宿命ね」


 セリナもため息まじりに言った。


 そこで刻印には、新しい工夫が必要になった。


 印は、白い風を思わせる細い弧。


 その下に、二粒の稲粒を模した小さな雫形。


 意味は、軽やかな穀の風、熱をとどめぬ流れ。


 そして注意文は、ミーナと女教師が一緒に考えた。


 《淡き風は喉を欺く。杯の数は己で量れ》


「いい文ね」


 醸が言うと、女教師は少しだけ笑った。


「子どもにも、大人にも通じる言い方がいいと思って」


「たしかに」


 ミーナも嬉しそうに頷いた。


 正式出荷の日、グランエッジの朝はひどく明るかった。


 空が高い。


 雲が薄い。


 山風はあるのに、もう夏の匂いが混じっている。


 樽も瓶も、これまでのどの酒より軽やかに見えた。


 West Coast-Style Pilsener の玻璃のような美しさとも違う。


 Rice Lager には、もっと生活に馴染む顔がある。


 飾らず、澄んでいて、手に取りやすく、けれど雑には扱えない。


 瓶詰めされたそれを光に透かしながら、ミーナがうっとりしたように言う。


「なんか、白昼って感じ」


「朝じゃなく?」


「朝よりもっと、日が高い時」


 彼女は瓶の向こうに外の光を重ねた。


「働いてる途中の光。暑いけど、まだ倒れてない感じ」


「うまいこと言うな」


 醸は少し感心した。


 荷車だけでは足りず、今回は背負い籠や小瓶のまとまった便も多かった。


 それだけ、細かい場所へ届ける必要があるということだ。


 共同食堂。


 市場の飯屋。


 宿場の昼休憩所。


 港の荷捌き小屋。


 暑さのこもる工房。


「王都向けの華やかな酒とは、全然違う売れ方ね」


 レティシアが帳簿を閉じながら言う。


「でも、こういう方が強いかもしれない」


「どうして?」


 ミーナが訊く。


「だって、生活に入っちゃうから」


 レティシアは樽を軽く叩いた。


「贅沢じゃなくなるのよ。“あったら嬉しい”じゃなくて、“ないとちょっと困る”に変わる」


「それ、すごいことだね」


「うん。たぶん、すごいこと」


 醸はその会話を聞きながら、少しだけ遠くを見た。


 前世でも、派手なビールが脚光を浴びることは多かった。


 だが本当に広く愛されるのは、結局、生活のどこかに自然に入り込める酒だった。


 飲み手が構えず、場面を選びすぎず、季節と一緒に身体へ馴染むもの。


 Rice Lager は、きっとそうなる。


 特別な一夜の酒ではない。


 勝負の酒でもない。


 だが、暑い日々をいくつも支え、白昼の摩耗を減らし、人が少しだけ穏やかに働ける時間を増やす。


 それは派手な奇跡ではない。


 けれど、暮らしにとっては十分すぎるほど大きな力だった。


 出立前、洗濯女のまとめ役が小瓶を一本受け取り、満足そうに言った。


「これなら夏を嫌いにならずに済みそうだ」


「大げさだな」


 醸が笑う。


「大げさじゃないさ」


 女は真顔だった。


「暑い時期ってだけで、人は人に優しくなくなるからね。そういうのが少しでも減るなら、十分ありがたい」


 その一言に、酒蔵の空気が少しだけ静まる。


 暑さは、敵ではない。


 だが人から余裕を奪う。


 余裕を失えば、小さな棘が増える。


 Rice Lager は、その棘を抜く酒なのかもしれなかった。


 荷車が動く。


 小瓶の詰まった籠が揺れる。


 白昼へ向かう風のように、淡い金の酒が村を出ていく。


 ミーナが隣で、ぽつりと言った。


「先生の酒って、最近“すごい効果”じゃなくて、“暮らしに合う効果”が増えてきたね」


「そうだな」


 醸は頷いた。


「この世界で生きてると、そっちの方が大事な気がしてくる」


「王都を驚かせるのも楽しいけど?」


「楽しい」


「街道を支えるのも?」


「大事だ」


「じゃあ、白昼を助けるのも?」


「もちろん、大事だ」


 ミーナはにこっと笑った。


「なんか、いいね」


 それは短い言葉だったが、醸にはよく分かった。


 この世界で酒を造るということは、誰かの特別な瞬間だけでなく、誰かの普通の日を少し楽にすることでもある。


 そして普通の日が少し楽になれば、その積み重ねは、やがて町や村の空気を変える。


 派手な勝利ではない。


 熱狂でもない。


 ただ、白昼の速度が少しだけ良くなる。


 Rice Lager は、そのための一杯だった。


 酒蔵へ戻った醸は、新しい羊皮紙を開いた。


 ――白昼の風、その次。


 ――生活に染みる軽さの先にある、別の輪郭。


 筆先はしばらく止まり、それから静かに動き始める。


 まだ道は続く。


 軽さの中にも、香りの中にも、穀の中にも、見えていない枝がいくつもある。


 ビールの森は広い。


 そして、その一本一本が、人の生き方に結びつき始めている。


 山の外では、もう夏の白い光が街道へ降り始めていた。


 淡き米風は、その光の中へ溶けるように広がっていく。


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