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異世界ビール物語~醸造家の異世界転生~  作者: 麦汁酵生


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第六十四話 深海の王冠、嵐湾に挑む漆黒の杯 ―Imperial Stout―

 American Stout――“潮騒の黒鉄”を積んだ第二便が港町ブリッジヘイヴンへ下ってから、グランエッジの酒蔵は妙に落ち着かなかった。


 忙しいのはいつものことだ。


 瓶を洗い、樽を締め、麦を挽き、温度を見て、帳面を付ける。


 だが今回の落ち着かなさは、手元の作業量の多さとは別のものだった。


 港の夜へ届いたはずの黒い酒が、その先でどう使われるのか。


 見張り台で飲まれるのか、夜警の詰所か、桟橋の繕い場か。


 それとも嵐の近づく沖待ち船の上か。


 考え始めると、醸の意識は何度も山の向こうへ向かった。


「師匠、また海のこと考えてる」


 発酵桶の蓋を拭きながら、ミーナが言った。


「顔に出てるか?」


「出てる。目の前は工房なのに、頭だけ港に行ってる顔」


「便利な判定だな」


「長い付き合いだもん」


 ミーナは胸を張った。


 その言葉に、醸は少しだけ笑ったが、否定はしなかった。


 実際、頭の半分は港にあった。


 American Porter で“帰るための酒”を送り、American Stout で“夜を越えるための酒”を送った。


 では、その先は何だろう。


 その答えは、その日の夕暮れに運ばれてきた。


     


 灰鴎商会の馬車が着いたのは、日が山の端に沈みかけた頃だった。


 先頭の馬は汗を吹き、車輪には泥が厚くこびりついている。通常の商隊帰還よりも明らかに荒れた様子で、見張り役が駆け込んできた時点で、レティシアの表情が変わった。


「何かあったわね」


「ああ」


 醸もすぐに外へ出る。


 馬車の扉が開き、最初に降りてきたのはマルタだった。


 だがいつもの余裕はない。外套の裾は塩と泥で汚れ、頬には浅い擦り傷、目の奥には疲労が濃く沈んでいる。続いて降りてきた護衛たちも、皆どこか消耗していた。


「無事、とは言い切れないわね」


 レティシアが低く言う。


「でも帰れた」


 マルタは短く答えた。


「その代わり、急ぎで相談がある」


 客間へ通されるなり、彼女は湯も待たずに話し始めた。


「第二便の Stout は、港で当たりだった。夜警頭バスコも、見張り番も、沿岸船の船長たちも認めた。問題はその後よ」


「その後?」


「三日前、外海から入ってくる予定だった大型輸送船が、嵐湾の外縁で足止めを食った」


「嵐湾……」


 村長が顔をしかめる。


「ブリッジヘイヴンの南西、暗礁と逆巻く潮で有名な海域ですな」


「そう。その湾口で、季節外れの低気圧に捕まったの」


 マルタは机に海図のような紙を広げた。


 湾の入口、黒く塗られた岩礁帯、風向きの書き込み、そして赤い印。


「船は二晩、沖で耐えた。けど寒気と波で乗員の消耗が激しい。特に、帆を繰り返し畳んだり張り直したりした上甲板組と、舵を握り続けた夜番がひどい」


「American Stout では足りなかった?」


 醸が尋ねると、マルタは躊躇なく頷いた。


「足りない。効いたのよ、もちろん。でも“持ち直す”までだった。“立て直して、さらに押し返す”には、まだ一段足りない」


「……なるほど」


 部屋が静まる。


 American Porter が帰るための酒。


 American Stout が夜を越えるための酒。


 ならば、そのさらに先――嵐と寒気と長時間労働の極限で、人を折れさせないための黒は何か。


 答えは一つしかなかった。


 Imperial Stout。


 より濃く、より重く、より深い焙煎。


 強い黒、強い熱、強い余韻。


 ただし力任せでは駄目だ。異世界の神麦を使う以上、ただ濃度を上げれば効能も跳ね上がる。下手をすれば“効きすぎる”酒になり、現場では扱えなくなる。


 必要なのは、非常時の切り札。


 常飲ではなく、嵐の晩、帰港直後、凍えた甲板、あるいは命の境へ踏み込む夜のための杯。


「……作るしかないな」


 醸は静かに言った。


「予想してた」


 マルタは疲れた顔で笑う。


「だから私は、帰り道でずっと“どうやって頼もうか”考えてた」


「頼み方は簡単だ。現場が必要としてるって言えばいい」


「じゃあ言うわ。必要よ、大麦」


 その声には商売の匂いより、責任の重みが濃かった。


     


 その夜、港から同行していたもう一人の客が姿を見せた。


 大柄な男だった。


 四十前後、日焼けした肌に荒れた手、片目の端に古い傷。厚い外套の下からでも、肩と背中の幅が分かる。酒蔵の入口をくぐるだけで、空気が少し狭く感じるほどの圧があった。


「バスコ・ドレインだ」


 ぶっきらぼうに名乗る。


「港の夜警頭、兼、嵐湾航路の臨時監督」


 例の伝言――“夜を殴り返せる黒を寄越せ”――を書いた男で間違いない。


「大麦 醸です」


「知ってる」


 バスコは短く言い、部屋を見回した。


「思ったより小綺麗な工房だな」


「思ったより失礼な人ですね」


「港の人間はたいていこうだ」


 マルタが横から言う。


「とくにこの人は」


 バスコは気にした様子もなく、醸の正面へ座った。


「Stoutはよかった」


「ありがとう」


「だが、嵐湾じゃ足りねえ」


「詳しく聞かせてください」


「聞きたいか?」


「必要なんで」


 男は少しだけ口元を歪めた。笑ったのだろう。


「嵐の船はな、疲れるだけじゃねえ。削られるんだ」


「削られる」


「冷え、恐怖、揺れ、濡れ、怒鳴り声、眠気、塩で裂けた手、足の踏ん張り、いつ甲板から持っていかれるか分からねえ緊張。あれを二晩もやると、怪我がなくても人間の芯が削れる。Porterは帰す酒だ。Stoutは支える酒だ。だが嵐で欲しいのは、“沈まねえ酒”だ」


 沈まねえ酒。


 その表現が、醸の胸へ重く落ちる。


「飲んだ人間が、身体の奥に錨でも打ち込まれたみてえに、持ってかれなくなる酒だ」


 バスコはさらに言う。


「ただし酔わせるな。眠らせるな。頭を鈍らせるな。だが、恐怖には負けさせるな」


「無茶言うなあ」


 醸が苦笑すると、バスコは肩をすくめた。


「無茶な海の話をしてんだ。無茶な酒が要る」


 レティシアが横で目を細める。


「気に入らない言い方だけど、要点は分かりやすいわね」


「港の連中は、細工した言葉を信用しねえ」


 バスコは言った。


「効くか効かねえか、それだけだ」


 醸はゆっくり頷いた。


 ならばこちらも、言葉ではなく酒で返すしかない。


     


 翌朝から、仕込みは始まった。


 だが今回は、これまでのどの黒ビールより難しい。


 Imperial Stout は、現実世界でも濃密で力強いスタイルだ。


 高いアルコール感、重厚なボディ、強いロースト、濃い余韻。


 それを異世界の神麦で作れば、効能もまた強く出る。狙いを誤れば、飲んだ者を一気に回復させる代わりに、その反動で脱力させる危険もある。


「濃いだけじゃ駄目だ」


 醸は麦芽を前に呟いた。


「濃いのに制御されてる必要がある」


「難しい?」


 ミーナが真顔で聞く。


「かなり」


「でも師匠、そういう時の顔、ちょっと楽しそう」


「……職人だからな」


 ベースはいつもの神麦。


 そこへ大量の濃色麦芽、ロースト麦芽、深みを支える副原料を慎重に積む。


 口当たりは厚く。だが重く垂れすぎないように。


 焙煎香は深く。だが焦げの刺々しさは抑える。


 ホップは黒の骨格に埋もれないよう、はっきりと苦味の柱を立てる。


 そして今回、醸は一つだけ、これまでより強い意志をもって配合へ手を加えた。


 微量のオレンジピールと、ほんの少しの黒胡椒に似た山香辛料。


 主張するほどではない。


 だが黒の奥に、熱を巡らせ、呼吸を深くするための火種として忍ばせる。


「スパイスを入れるの?」


 ミーナが驚く。


「少しだけ。分かるか分からないか、ぎりぎりのところで」


「狙いは?」


「冷えを追い出すのと、濃さの中に通り道を作る」


「黒の中に、道?」


「ああ。深くて重い酒ほど、身体の中で迷子になることがある。そうならないようにする」


 煮沸が始まると、工房はこれまでにない香りに包まれた。


 American Stout が“港の黒い柱”なら、これは“嵐夜の炉心”だった。


 ビターカカオ、焦がした糖、深煎りの豆、焼けた樽、黒パンの耳、微かな柑橘の皮、遠くに熱い香辛の気配。


 香りを嗅いだだけで、喉の奥が熱を思い出す。


 バスコが腕を組んだまま鼻を鳴らした。


「……今までで一番、海の修羅場に近い匂いがする」


「褒め言葉ですか?」


「たぶんな」


 マルタは帳簿を閉じ、珍しく黙って香りを吸い込んだ。


「これ、売れるとかそういう話じゃないわね」


「非常用だ」


 醸が答える。


「本当に必要な場面で出す酒になる」


「なら余計に、間違えられない」


 その言葉どおりだった。


 これは流行らせる酒ではない。


 使いどころを見誤らないための基準が要る。


 書庫向けのブラウンエールとは別の意味で、記録と運用が重要になる。


     


 発酵は、濃い黒の海のようだった。


 泡は重く厚く盛り上がり、桶の中でどっしりと息づいている。


 だが不思議と、暴発するような荒さはない。


 圧力釜や温度管理の進歩で鍛えられた今の酒蔵だからこそ、ぎりぎり扱える領域だった。


 ミーナが発酵桶を覗き込み、いつになく神妙な顔をする。


「……すごい」


「どう見える?」


「海の底」


「底?」


「うん。真っ暗で、深くて、重たい。でも底のずっと下に、赤い火がある。マグマみたいに」


「相変わらず独特だな」


「でもね」


 ミーナは目を閉じた。


「怖いだけじゃない。あそこまで沈んでも、最後に上へ押し返してくる力がある」


 その表現に、醸ははっとした。


 沈まねえ酒。


 それはつまり、沈みかけたところから押し返す酒でもある。


 だが同時に、不安もあった。


「ミーナ、強すぎる感じは?」


「ある」


「あるのか」


「でも、暴れてない。たぶん使い方を守れば大丈夫。ただ、誰にでも毎日飲ませる酒じゃない」


「だろうな」


 その場にいた村長も深く頷いた。


「用途をはっきり定めるべきですな。港の常飲酒ではなく、緊急時か極限労働後の特別配給に」


「ええ」


 醸は即答した。


「この酒は切り札にする」


 バスコもそれで異論はないようだった。


「安酒場で垂れ流す気はねえ」


 男は腕を組んだまま言う。


「命を張る晩にだけ出せりゃいい」


「それなら、こっちも設計しやすい」


「最初からそう言ってる」


 ぶっきらぼうだが、話の通じる男ではあるらしい。


     


 試飲の日は、雨だった。


 山の霧が低く垂れ込め、屋根を打つ雫が絶えず音を立てる。


 そんな天気が、かえってこの酒にはふさわしかった。


 木杯へ注がれた液体は、もはや黒曜石のようだった。


 光にかざしても、縁にごくわずかな焦げ茶が見えるだけ。


 泡は濃密で、褐色がかった厚い層を作り、ゆっくりと沈む。


 香りは強い。深煎りコーヒー、ビターチョコ、黒糖、焦げたパン、樽の内側、かすかなオレンジの皮、そして呼吸の奥を温める香辛の影。


「……これは」


 マルタが息を呑む。


 醸は最初の杯をバスコへ渡した。


 次をマルタへ。


 三つ目を自分に。


 レティシア、ミーナ、村長は少量を分けて試すことにする。


「Imperial Stout、港・嵐湾対応試作一号」


 醸は言った。


「ただし常飲向けじゃない。扱いを間違えるなよ」


「上等だ」


 バスコはすぐに飲んだ。


 一口。


 男の眉が動く。


 二口。


 胸の奥へ何かを押し込むように、ゆっくり飲み下す。


 三口目を飲んだあと、彼はしばらく黙った。


「……どうだ?」


 醸が尋ねると、バスコは木杯を見下ろしたまま答えた。


「冷えた夜の甲板で飲んだら、腹の底に炉が入る」


「炉」


「それも、火花だけ派手なやつじゃねえ。鍛冶場の炉だ。重くて、長く燃える」


 マルタも小さく頷いた。


「Stout より明らかに強い。でも、不思議と潰されないわね」


「そこが狙いだ」


「身体の奥が一回沈むのに、そのあと持ち上がってくる。……これ、すごい」


 ミーナは香りだけ嗅いで目を白黒させた。


「うわ、すごい香り……でも、温かい……!」


「子どもは香りだけにしておけ」


「香りだけ嗅いでるもん!」


 レティシアは少量を舐めるように確かめ、短く言った。


「戦場向けじゃないけど、修羅場向けね」


「うまいこと言うな」


「褒めてるのよ」


 村長は慎重に味わい、帳面へ何かを書きつけた。


「効能としては、深部冷えの回復、長時間労働による蓄積疲労の反転、恐慌の抑制、身体軸の安定化……といったところでしょうか」


「そんな感じです」


 醸が答える。


「あと、呼吸を深く戻す。嵐の最中って、人は浅くなるから」


「確かに」


 マルタが真剣に頷いた。


 そこでバスコが、ゆっくりと杯を置いた。


「名前を付けろ」


「名前?」


「この酒だ。港の連中は記号じゃ覚えねえ。現場で呼ぶ名が要る」


「そうだな……」


 皆が少し考える。


 雨音。


 黒い液面。


 深海のような重み。


 そして沈まず、押し返す力。


 先に口を開いたのはミーナだった。


「深海の王冠、とか」


「王冠?」


 レティシアが首を傾げる。


「だって、深くて黒いのに、上に泡が載ってて、なんか王冠みたい」


「……悪くない」


 マルタが呟く。


「海の深さを抱えたまま、頭は沈まない感じがある」


「呼び名としても通るな」


 村長も頷いた。


 バスコは少しだけ考え、それから言った。


「いい。嵐湾の連中にも覚えやすい。“深海の王冠”だ」


 こうして、Imperial Stout はその場で通称を得た。


     


 だが、試飲を終えたあとで、問題は別の形で現れた。


「輸送量を増やしたい」


 マルタが言う。


「でも、これを普通便に混ぜるのは危ない」


「盗難か」


「それもある。あと誤用。効き目が強い酒は、噂が先に走るの」


「……だろうな」


 醸は腕を組んだ。


 酒が広がるほど、扱いの難しい種類も増えていく。


 回復酒、魔力酒、書庫向け、港向け、夜番向け、そして今回の極限対応酒。


 全てを同じ流れに乗せれば、必ずどこかで混乱が起きる。


「区分を作る」


 醸は言った。


「樽の焼印、瓶の封蝋、帳簿の記号。用途別に一目で分かるようにする」


「それがいいわ」


 マルタも即座に同意する。


「灰鴎商会側でも対応する」


「深海の王冠は、緊急印付きで」


 レティシアが言う。


「護衛も通常より厚くするべきね」


「そうしよう」


 その話し合いの中で、醸はふと気づいた。


 自分はもう、ただ酒を造っているだけではない。


 酒の分類、輸送、使用基準、保管、配給まで設計している。


 書庫へ記録を送り始めた時点で、薄々分かってはいた。


 だが今やはっきりしている。


 グランエッジの酒は文化であると同時に、制度になり始めているのだ。


 その重みは、ずしりと肩に来る。


 けれど不思議と嫌ではない。


 前世では、作った先まで責任を持ちきれないことが多かった。


 だが今は違う。


 届く先の顔が見える。


 誰のために必要かが分かる。


 だからこそ、どこまで背負うべきかも考えられる。


     


 夜更け、客間の灯りが落ちたあとも、醸は一人で帳面を開いていた。


 頁の上には、新しい項目が増えていく。


 ――Imperial Stout


 ――通称:深海の王冠


 ――用途:嵐湾航路、極寒下の夜番、長時間の荒天作業後


 ――注意:常飲禁止、配給量制限、緊急印付き管理


 そこまで書いて、羽根ペンを止める。


 窓の外では雨がまだ降っている。


 その音を聞きながら、醸は静かに考えた。


 山の酒蔵から始まった物語が、ついに海の修羅場へ届いた。


 傷を癒やす酒から始まり、魔力を満たす酒、知を支える酒、働く者を帰す酒、夜を越える酒、そして沈まぬための酒へ。


 次はどこだ。


 船の上か。


 外海か。


 あるいは、もっと大きな欲望と争いの場か。


 酒が遠くへ届くほど、光だけでなく影も濃くなる。


 けれど、それでも進まない理由にはならなかった。


「師匠、まだ起きてるの?」


 戸口からミーナが顔を出す。すっかりこの時間の常連だ。


「起きてる」


「また書いてる」


「大事な酒だからな」


「深海の王冠、すごかったね」


「ああ」


「でも、ちょっと怖かった」


「正しい感想だよ。強い酒は、怖さを忘れたら駄目だ」


「うん」


 ミーナは少しだけ黙ってから、続けた。


「でもね、怖いだけじゃなかった。すごく、頼もしかった」


「……そうだな」


 頼もしい。


 それがたぶん、この酒の本質だ。


 嵐に対して無敵になるわけじゃない。


 海を消せるわけでも、波を止められるわけでもない。


 ただ、人が最後まで踏ん張るための火を残す。


 それで十分だ。


 いや、そういう酒こそ、本当に必要とされるのかもしれない。


 醸は帳面を閉じた。


 明日からは、深海の王冠の初回仕込み分を輸送仕様へ載せ替え、樽の印を整え、マルタたちと細かな配給条件を詰めなければならない。やることは山ほどある。


 だが胸の内には、確かな熱が残っていた。


 山の工房で生まれた黒は、いまや港を越え、嵐湾の夜へ届こうとしている。


 それはもう、ただの酒ではない。


 人が沈まないために掲げる、小さな王冠のような希望だった。


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