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異世界ビール物語~醸造家の異世界転生~  作者: 麦汁酵生


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第六十三話 潮騒の黒鉄、夜勤番たちの守護酒 ―American Stout―

港町ブリッジヘイヴンへ向かった第一便――“黒き橋の酒”こと American Porter が山を下ってから、十日あまり。


 その報せは、潮の匂いをまとって戻ってきた。


 昼下がり、酒蔵工房の前に灰鴎商会の荷馬車が止まったとき、ミーナは樽洗いの手を止めて真っ先に飛び出した。続いてレティシア、村長、そして醸も表へ出る。馬車の幌が開き、中から顔を見せたのは、見慣れた濃紺の外套――マルタ・グレイベルだった。


「戻ったわよ、大麦」


「顔を見る限り、悪くなさそうですね」


「悪くないどころじゃない」


 彼女は荷台から飛び降りると、いつもの帳簿を片手に、珍しく隠しきれない高揚を浮かべていた。


「完売、とまでは言わない。でも試験輸送分は、三日で全部行き先が決まったわ」


「三日?」


 ミーナが目を丸くする。


「そんなに早く?」


「港を甘く見ないで。あそこは人も荷も流れが速いの。倉庫番、橋の見張り、荷役頭、船大工、夜間の繕い職人……一度評判が回れば、欲しい人間は次々に現れる」


 American Porter は、思った以上に港の現場へ深く刺さったらしい。


 仕事終わりに一杯飲めば、肩と腰の重みがほどける。


 喉の荒れがやわらぎ、浅くなっていた呼吸が深く戻る。


 強すぎず、眠りに落ちすぎず、それでいて翌朝には足が前へ出る。


 まさに“黒き橋を渡る酒”として、港湾労働者たちに受け入れられたのだ。


「よかった」


 醸は素直にそう言った。


「現場に合ったなら何よりだ」


「ええ。ただし――」


 そこでマルタの声の温度が変わる。


 商談の成功を告げる明るさから、次の問題を持ち込む現場責任者のそれへ。


「足りないのよ」


「量が?」


「それもある。でも今言いたいのは“種類”の方」


 レティシアが腕を組む。


「また別口の注文?」


「ええ。しかも、少し厄介な連中から」


     


 応接の席で、マルタは港の状況を詳しく話した。


 ブリッジヘイヴンは、ただ荷物が多いだけの町ではない。外海へ出る船と、川を上る内陸船。その両方が交わるため、昼の港と夜の港では顔が違う。昼は荷下ろしと商談、夜は補修と見張り、そして潮待ちの船員たちが集まる。火を絶やせず、縄を点検し、帆布を繕い、積荷を守る者たちがいる。


「American Porter は、日勤や荷役上がりにはぴったりだったわ」


 マルタは指先で机を軽く叩いた。


「でも、夜勤番と外洋帰りの船員には、少し優しすぎる」


「優しすぎる?」


「ええ。連中が欲しがってるのは、もっと芯の太い黒よ」


 醸は黙って続きを促した。


「夜の港は、冷える。潮風で骨まで冷えるし、沖帰りの船員は何日も揺られて、身体の軸がずれてる。しかも、眠いからといって崩れられない。積荷の見張り、夜間の火の番、密輸の監視、荒くれの仲裁……気を抜けば事故か騒ぎが起きる」


「つまり、休ませるだけじゃ駄目」


「そう。American Porter は“終業に戻す酒”だった。でも夜の港が欲しいのは、“踏ん張りながら支える酒”よ」


 村長が低く唸る。


「難しいですな。疲れを癒やしつつ、眠らせすぎない」


「しかも、荒っぽい連中にも“効いた”と分かるくらいの手応えが必要」


 マルタは苦々しく笑った。


「夜勤番っていうのは、上品な酒評をしないの。『で、効くのか?』が全てよ」


 その物言いに、醸の脳裏へ新しい輪郭が浮かぶ。


 American Porter より濃い。


 焙煎はより深く、香りも骨格も力強い。


 しかし Imperial ほど暴力的ではなく、あくまで現場で使える範囲に留める。


 港の寒気、潮風、夜番の緊張、外洋帰りの消耗、それらをまとめて抱きとめる黒。


 American Stout。


 コーヒー、ダークチョコレート、ロースト麦芽、しっかりした苦味、どっしりした飲み口。


 それでいて、重すぎず、荒っぽい食事や塩気にも負けない。


 “黒い労働酒”としてのポーターを一段深く掘り下げた先にある、力の酒だ。


「……なるほど」


 醸はゆっくり頷いた。


「次は、港の夜を支える黒だな」


「話が早いわね」


「たぶん、答えは見えてる」


 ミーナが身を乗り出す。


「何を作るの?」


「American Stout」


「ポーターより、もっと強い黒?」


「強い、というより深い、かな」


 レティシアが目を細める。


「危なくない?」


「そこが腕の見せどころだ。濃くて強いだけなら、身体を沈める。欲しいのは、寒さと摩耗に負けない芯だ」


 マルタはそこで、帳簿から一枚の紙片を取り出した。


「もう一つ、面倒な話がある」


「まだあるんですか」


「あるのよ。これ、港の夜警頭からの伝言」


 紙片には、乱暴だが勢いのある字で、こう書かれていた。


 ――“黒き橋の酒はよかった。だが、嵐の晩に見張り台へ持ち込むには、まだ軽い。


   夜を殴り返せる黒を寄越せ”――


 ミーナが吹き出し、レティシアが眉をひそめ、醸は苦笑した。


「注文の言い方が荒いな」


「港の夜警頭、バスコ・ドレイン。元捕鯨船の銛打ち」


 マルタが肩をすくめる。


「言葉も拳も重い男よ」


「会ってみたいような、会いたくないような」


「どっちにしろ、そのうち会うことになると思う」


 醸は紙片を見ながら、静かに決めた。


 ならば作ろう。


 橋を渡る酒の、その先にある酒を。


 働き終えるための黒の、さらに一歩先。


 夜の寒さと緊張を押し返し、人を立たせ続ける黒を。


     


 仕込みは、これまで以上に慎重さを要した。


 American Porter の配合を土台にしつつ、ロースト麦芽の比率を引き上げる。だが焦げの嫌な角は出したくない。黒は深く、香りは強く、口当たりには厚みを持たせる。けれど、夜勤の最中や帰港直後でも飲めるよう、重苦しすぎてはいけない。


 醸は粉砕された麦芽を指で擦りながら、前世で扱った黒ビールたちの記憶を辿っていた。


 スタウトは強い印象を残す。


 だが、印象の強さと“使える強さ”は違う。


 現場で必要なのは、飲んだ瞬間に殴りつけるような濃さではなく、身体の中心に火を入れるような持続力だ。


「今回は、苦味を芯にする」


 醸が言うと、ミーナが小首を傾げた。


「苦いと嫌がられない?」


「嫌がるやつもいる。でも港の夜勤番には、このくらい分かりやすい輪郭があった方がいい」


「効いた、って感じが必要だから?」


「そういうこと。香りだけじゃ伝わらない相手もいる」


 神麦を主軸に、ロースト麦芽、少量の濃色麦芽、そして口当たりを支えるための工夫をいくつか加える。ホップも Porter よりやや強めに。潮風や塩気に負けない骨格を持たせつつ、飲み終えた後には、胸の奥にじんわり熱が残るように。


 煮沸が始まると、工房の空気は一変した。


 American Brown Ale のときが静かな書庫の香りなら、American Porter は夜の焚き火。


 そして今回の American Stout は、鍛冶場と港の見張り台を合わせたような匂いだった。


 コーヒー、焦がしたパンの耳、黒糖にも似た深み、少し乾いた木、遠くにビターカカオ。鼻を抜けるのは、優しさより先に“頼もしさ”だ。


「うわ……」


 ミーナが目を丸くする。


「なんか、背筋が伸びる匂い」


「それ、分かる」


 レティシアも珍しく同意した。


「飲む前から『立て』って言われてる感じがする」


「まさに狙い通りだ」


 だが、仕込みの最中にもう一つの変化が起きていた。


 工業町から導入した圧力釜と温度管理の精度が、濃色麦芽の扱いを以前より安定させていたのだ。火の入り方、湯の回り方、糖の抜け方――微妙なぶれが減ることで、黒ビール特有の雑味を抑えつつ、狙った深みを引き出しやすくなっている。


「設備が酒の幅を広げてるな……」


 醸が小さく呟くと、背後から村長が答えた。


「人との縁が、技術になって返ってきておりますな」


「ええ。本当に」


 書庫とつながったことで、“残す酒”を考えた。


 港とつながったことで、“運ぶ酒”を考えた。


 そして工業町とつながったことで、“再現できる酒”が増えていく。


 グランエッジの酒蔵は、もうただの奇跡の場ではない。


 知識、物流、設備、人の営み――それらが絡み合う、生きた工房へ変わりつつあった。


     


 発酵の三日目、ミーナが醸を呼びに来た。


「師匠、見て。今回の魔力、すごい変」


「変?」


「ううん、変っていうか……強いのに、暴れてない」


 醸は発酵桶の前に立ち、静かに液面を見下ろした。泡は厚く、香りは濃い。だが確かに、荒々しさのわりに乱れがない。芯の通った揺れ方をしている。


「どう見える?」


「黒い柱」


 ミーナは迷わず言った。


「海風の中に立ってる、黒い柱みたい。ぐらぐらしないの」


「柱、か」


「その柱の中に、赤い火が入ってる」


「……いいな、その表現」


 夜の見張り台。


 潮風に晒されながら、灯を守る柱。


 American Stout の役割は、まさしくそこだろう。


 しかし、そのときレティシアが少し険しい顔で工房へ入ってきた。


「面倒が起きたわ」


「何だ?」


「港からの護衛が一人、村の入口で倒れた」


「倒れた?」


「長旅の疲れと、たぶん山の冷え。命に別状はないけど、熱がある」


 マルタもすぐに駆け込んできた。


「ごめんなさい。強行軍だったの」


「責めてません。診よう」


 醸たちは急ぎ、客間へ向かった。倒れていたのは二十代後半ほどの男で、がっしりした体格だが顔色が悪い。荷の護衛に付いていたらしく、肩口には塩が白く浮き、喉も荒れている。熱と疲労、そして長距離移動の緊張が一気に噴き出した状態だ。


「今なら Porter でも効くかもしれない」


 ミーナが言う。


「でも、冷えが深いな……」


 醸は男の呼吸を見ながら考える。


 まだ完成前の Stout を使うには危険がある。発酵途中のものは論外だ。ならば、手持ちの Porter に補助を加えるしかない。


「温めた薄めの Porter でいこう。喉を通しやすくして、身体を起こす」


「分かった」


 その処置で男の熱は少し落ち着き、呼吸も楽になった。


 だが醸の胸には、別の確信が残る。


 港から山へ来るだけでも、これだけ身体が削られる。


 ならば、海と夜と風の中で働く者たちには、やはり Porter の先が必要だ。


 American Stout は、単なる注文への回答ではない。


 もう現実に求められているのだ。


     


 試飲は、護衛の男の回復を待って、さらに二日後に行われた。


 木杯へ注がれた液体は、Porter よりさらに深い黒。縁にようやく暗い赤褐色がのぞく程度で、泡は密で、重みのある褐色。香りには、強いロースト、ビターカカオ、深煎りのコーヒー、少しの土っぽさと木の煙を思わせる落ち着き。口に含めば最初にしっかりした焙煎の輪郭が来る。だが鋭すぎず、次に広がるのは温かな厚み。そして後口に、胸の内へじわじわと火を灯すような余韻が残る。


 醸は最初の杯をマルタへ。


 二杯目を、回復した護衛の男へ。


 三杯目を自分の前へ置いた。


「American Stout、港向け試作一号です」


「いただくわ」


 マルタは慎重に香りを確かめ、一口飲んだ。


 そのまま無言。二口、三口と続ける。


 護衛の男も、少し緊張した面持ちで飲み下した。


「……重い」


 最初にそう言ったのは男の方だった。


 レティシアが眉をひそめるが、男はすぐに首を振る。


「いや、悪い意味じゃない。身体の中に、錘じゃなくて芯が入る感じだ」


「芯」


 醸が繰り返す。


「そうだ。さっきまで肩が空っぽで、腕だけぶら下がってるみたいだったのに、今は真ん中に柱が通った感じがする」


 マルタが深く息を吐いた。


「……これは、確かに Porter の先だわ」


「どう違う?」


「Porter は“帰る酒”。Stout は“まだ立っていられる酒”よ。夜番の途中、嵐の見張り、帰港直後の桟橋、そういう場面で必要とされる強さがある」


 ミーナも杯の香りを静かに嗅ぎ、目を閉じる。


「火が強い。でも暴れない。寒いところで飲んだら、すごく安心しそう」


「効能は?」


 村長が問う。


 ミーナは集中して答えた。


「冷えの追い出しが Porter より強い。筋肉の深い疲れにも届いてる。あと、気持ちが折れそうなときに、内側から支える感じがある」


「精神にも効くのか」


「うん。元気になるっていうより、“へし折れない”って感じ」


 その瞬間、マルタが笑った。


「夜警頭の言い方を借りるなら、“夜を殴り返せる黒”ね」


「大げさだな」


「でも、気持ちは分かるわ」


 護衛の男が杯を見つめたまま呟く。


「これ、見張り台で飲んだら、朝まで持つ気がする」


 それは、醸にとって十分すぎる答えだった。


     


 その夜、マルタはさらに新しい相談を持ちかけた。


「この酒、港へ流すのはもちろんとして……一部を船にも載せたい」


「船に?」


「ええ。外洋へ出る大型船じゃなく、まずは沿岸の短期航路から。夜間の寒気がきつい便、見張りの多い船、急な嵐に当たりやすい季節の便」


「品質は保てるかな」


「そこが問題。でも試したい」


 醸はしばし考えた。


 山から港へ。


 港から、今度は海へ。


 酒が船に乗る。それは流通の一段階先だ。揺れ、湿気、塩気、温度差――陸上の輸送とは別の難しさがある。だが同時に、新しい扉でもあった。


「面白いな」


「でしょう?」


「ただ、いきなり広げすぎるのは危ない」


「同感。だから試験航路だけ」


「条件を詰めましょう」


「話が早くて助かるわ」


 マルタはそう言ってから、ふと真顔になった。


「でもね、大麦。港での評判が広がるってことは、善いことばかりじゃない」


「……狙われる、か」


「ええ。積荷を狙う盗賊だけじゃない。港には、真っ当な商人以外も大勢いる。密売人、偽薬師、得体の知れない仲買人。あなたの酒を“ただの高値が付く品”と見る連中も増える」


 レティシアが即座に口を挟む。


「護衛は増やす。流通経路も絞るべきね」


「そうしてほしい」


 マルタも頷いた。


「少なくとも最初のうちは、灰鴎商会が責任を持つ」


 醸は杯の黒い液面を見下ろした。


 酒が必要とされることは嬉しい。


 だが、流れが大きくなれば、欲望もまた集まってくる。


 書庫、工業町、港――ここまで広がった以上、もう“村だけの秘密”では守れない。


 ならば、より慎重に、より正しく扱うしかない。


「酒を広めるってのは、結局、人の善意も欲も一緒に運ぶんだな」


 醸が呟くと、村長が静かに言った。


「ええ。しかし、それでも運ばねばならぬ価値があるのでしょう」


「……あります」


 醸ははっきり答えた。


「これは、必要とされてる酒だ」


     


 翌朝、港向け第二便の準備が始まった。


 第一便には American Porter。


 そして今回、新たに加わるのは American Stout――仮の通称は、まだ皆の口の中で揺れていたが、自然と“潮騒の黒鉄”と呼ばれ始めていた。


「黒鉄?」


 ミーナが尋ねる。


「港の桟橋に打たれた鉄杭みたいだから」


 レティシアが素っ気なく答える。


「潮風に晒されても折れないでしょ」


「いい名前だな」


 醸は少し笑った。


 樽の締め具合を確かめ、瓶を木枠へ収め、緩衝材を見直す。船積みを想定し、いつもより固定を厳重にした。工業町で得た技術と、港から持ち帰った知見が、すでに次の輸送仕様へ反映されている。


 その様子を見ながら、ミーナがぽつりと言う。


「師匠、もう山の酒蔵って感じじゃないね」


「そうか?」


「うん。山にあるけど、山だけの仕事してない」


「……確かに」


 前世で町工場の片隅にいた自分が見たら、信じるだろうか。


 自分の造った酒が、書庫へ、工業町へ、港へ、そして船へ向かおうとしている。


 しかもそれは単なる商売ではなく、人の働き方や暮らし方そのものへ関わっている。


 それは、少し怖い。


 同時に、どうしようもなく胸が熱くなる。


「師匠」


「ん?」


「海、行く日が近いかもね」


「かもしれないな」


「そのときは絶対、私も行く」


「勉強の旅だぞ」


「分かってる。でも楽しみ」


 醸は苦笑しつつ、視線を遠くへやった。


 山の向こうには、港がある。


 港の向こうには、海がある。


 その先には、まだ見ぬ土地と、まだ知らぬ酒の形があるのかもしれない。


 だが、まずは目の前だ。


 今必要なのは、夜の寒気の中で立ち続ける者のための黒。


 橋を渡るその先、見張り台や桟橋や船縁で、膝を折らずに踏ん張るための黒。


 American Stout は、その役目を得て生まれたのだ。


     


 第二便の出立の朝、空は薄曇りだった。


 荷車に積まれた樽と木箱が、きしりと音を立てる。先導する灰鴎商会の馬車の側面には、橋と波の紋。護衛の数は前回より増え、自警団の表情も引き締まっている。


 マルタは乗り込む前に、醸へ向き直った。


「次、港へ来るなら、夜に案内する」


「夜?」


「ええ。昼の港を見ても半分しか分からない。あなたがこの酒を本当に仕上げるなら、見るべきは夜の顔よ」


「分かりました」


「見張り台も、橋の上も、潮待ち船の並ぶ岸壁も全部見せる」


「その代わり、現場の声は全部聞かせてもらう」


「もちろん」


 二人は短く握手を交わした。


 荷車が動き出す。


 今度の積荷は、帰るための酒だけではない。


 夜を越えるための酒だ。


 車輪が山道へ向かって遠ざかるのを見送りながら、醸は胸の内に確かな連なりを感じていた。


 American Porter が、働き終えた者を家へ返した。


 American Stout は、その先で、まだ終われない仕事の夜を支える。


 酒は少しずつ、人の一日の流れそのものへ入り込んでいく。


 朝に起き、昼に働き、夕に帰り、夜を越える。


 そのどこかに、必要な一杯がある。


 それを見つけて造ることが、今の自分の仕事なのだ。


 醸は工房へ戻りながら、小さく息を吐いた。


 次に港へ行けば、きっとまた新しい声を聞く。


 海の上の事情。夜の見張り。潮と樽。船員の食事。帰港後の痛み。


 そこから先には、さらに濃く、さらに強く、あるいは逆に、もっと鋭く軽い酒も必要になるかもしれない。


 物語は、もう山の中だけで閉じない。


 潮騒の黒鉄は、今まさに海へ向かっている。


 その黒が、港の夜を守る柱となるなら――


 グランエッジの酒蔵は、いよいよ王国の血流の中へ、本格的に流れ込み始めたのだ。


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