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異世界ビール物語~醸造家の異世界転生~  作者: 麦汁酵生


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第三十四話 白い風は、声なき場所へ ―Witbier―

砦の門をくぐった瞬間、ミーナが小さく肩をすくめた。


「……寒い、だけじゃないね」


「ああ」


 醸は短く答えた。


 石造りの城壁に囲まれた砦の中は、外の風を防いでいるはずなのに、妙に冷えて感じられた。気温のせいだけではない。行き交う兵の足取りは重く、担架を運ぶ者たちは口数が少ない。治療室へ向かう廊下には薬草と血と湿った布の匂いが混ざり、術具を運ぶ兵の肩には目に見えない緊張が張り付いていた。


 誰もが働いている。


 誰もが持ち場を守っている。


 だがその空気の底には、長く続いた疲弊が沈殿していた。


 砦というのは、村とは違う。


 村の疲れは顔が見える。誰が無理をしているか、誰が痩せたか、誰が眠れていないか、なんとなくわかる。だが砦では、人が多いぶん、誰かの限界は簡単に景色の一部になる。立っているならまだ大丈夫。歩いているならまだ平気。命令に返事があるなら持つだろう――そんな雑な判断のまま、少しずつ人が削られていく。


 案内役の伝令兵が振り返った。


「ビール薬師殿、まずは治療所へ。砦長もそちらに」


「わかった」


 荷馬車から下ろした樽を、護衛の兵たちが慎重に運ぶ。ラガー、エール、Weizenbock、そして白く濁ったWitbierの小樽。まだ新しいその一杯が、この場でどれほど通じるか、醸自身にも完全な確信があるわけではなかった。だが必要なはずだという予感は、門を入った瞬間に強くなっていた。


 重い。


 とにかく、空気が重い。


 治療所へ入ると、その感覚はいっそう濃くなった。


     


 砦の治療所は、村の集会所を流用した簡易のものとは比べものにならない広さだった。長机が並び、薬草棚が壁を埋め、治癒術の補助具が整然と吊るされている。だが整っていることと、余裕があることは別だ。


 寝台には負傷兵。


 床には包帯の入った桶。


 壁際には空になった薬瓶。


 奥の術式卓には、使い込まれた触媒と、書き込みだらけの羊皮紙。


 そして、その中央で指示を飛ばしている一人の女性がいた。


「次、三番台の縫合確認! 火傷処置は冷却石を挟んでから再固定! 術後の震えが来てる子は毛布を二枚!」


 声はよく通っていた。動きにも淀みがない。白に近い灰色の法衣の袖をまくり、結い上げた栗色の髪は何本も乱れて額に張り付いている。年は三十前後だろうか。疲れているのは明らかなのに、眼差しだけは鋭く、周囲の全てを見渡していた。


 彼女が、ここを回している。


 醸はひと目でそう悟った。


 すると向こうもこちらに気づき、足早に近づいてきた。


「あなたがグランエッジのビール薬師?」


「ああ。大麦醸だ」


「治療主任のセレネです。噂は聞いています。回復のラガー、魔力回復のエール、さらに消耗を束ね直す強い小麦酒まで」


「ずいぶん早いな」


「必要な情報は早く回します。この砦では」


 簡潔で、無駄がない。


 それだけで、彼女がどれだけ切迫した日々を送っているかがわかる。


 セレネはすぐに周囲へ視線を巡らせた。


「負傷者は多いですが、重傷者は今は落ち着いています。まず効果確認をしたい。傷へはラガー、魔力消耗にはエール、寒冷と疲弊にはWeizenbock――そこまでは理解しています」


「Witbierもある」


「白く濁った小樽のそれですね。説明を」


「空気の重い場所で使うといい。息を詰めている人間に、呼吸を戻す酒だ」


 セレネは一瞬だけ眉を動かした。


「……抽象的ね」


「そうだな」


「でも今、この治療所には抽象的な不調が溜まりすぎているのも事実です」


 その言葉に、醸はわずかに引っかかった。


 セレネの口調は平静だった。


 だが最後の一文だけ、ほんの少し、自分のことを含んでいた。


 ミーナも気づいたらしい。醸の袖を引き、小声で囁く。


「ねえ」


「なんだ」


「あの人、平気な顔してるけど、たぶん一番だめなやつ」


「……たぶんな」


「最初に助けるの、あの人じゃない?」


「そう簡単にはいかないさ。ああいう人は自分を後回しにする」


 だが、醸の中でも結論はほとんど同じだった。


 Witbierが最初に救うべき相手。


 それは、倒れている者ではない。


 まだ立っている者だ。


 立っているから誰にも気づかれず、だがこの場の空気を最も深く吸い込んでしまっている者。治療所の真ん中で、人を救い続けながら、自分の呼吸だけを忘れている者。


 この主任治療師セレネこそ、最初の相手にふさわしい。


     


 効果確認のため、まずラガーとエールはすぐに役立った。


 肩を裂かれた兵の傷口にラガーが反応し、止血と肉のつながりを早める。連続で火付け術を使い、術式枯れを起こしかけていた若い術兵にエールを飲ませると、青白かった顔に少し色が戻った。Weizenbockは寒冷見張り帰りの兵に飲ませると、足の震えが和らぎ、目の焦点が戻る。


 どれも確かだった。


 セレネも短く息を吐く。


「本当に効くのね……」


「噂よりは地味だろ」


「十分すぎるほど実用的よ」


 だが忙しさは、それで終わらない。


「主任! 六番台、また息が浅いです!」


「冷却布交換! あと脈を見て、落ちるようなら呼んで!」


「術具班から補助灯の交換要請!」


「後回し! 今は人命優先!」


 次々に飛ぶ声。


 返答する声。


 金属器具の触れ合う音。


 包帯を裂く音。


 呻き声。


 足音。


 セレネはその全てへ、途切れなく反応していた。まるで一人で十人分の仕事をしているようだった。だが近くで見るほど、危うさもよく見えた。


 呼吸が浅い。


 動きは正確だ。指示もぶれない。だが一つ一つの合間に入る息が短い。胸が上がるばかりで、深く落ちていない。しかもそれを本人が全く意識していない。周囲の緊張を全部引き受けた結果、自分の肺だけがずっと半分しか開いていないような状態だ。


 醸は木杯にWitbierを少量注ぎ、近づいた。


「飲め」


「今はいい」


「今だ」


「患者が先です」


「だからこそ、お前が先だ」


 セレネの目が細くなる。


「立ててるわ」


「立ってるだけだ」


「失礼ね」


「本当のことだろ」


 彼女は言い返そうとして、しかしその直後、ほんの小さく咳き込んだ。湿った咳ではない。詰まった呼吸が胸につかえた時の、短く乾いた咳だ。


 ミーナが一歩出る。


「飲んで」


「あなたまで……」


「だって、さっきからずっと吸えてないよ」


「……」


 セレネは初めて、わずかに言葉を失った。


 図星だったのだろう。


 だがそれでも彼女は首を振る。


「私一人抜けたら、ここが回らない」


「杯一つ飲む時間もないほどか?」


「ないわけじゃない。でも、止まれないの」


「止まるんじゃない。吸い直すだけだ」


 醸は木杯を差し出したまま動かなかった。


「お前がここを回してるのは見ればわかる。でも、そのやり方を続けたら、お前が最初に壊れる。壊れたら治療所全体が沈む」


「脅し?」


「職人の経験談だ」


 その一言に、セレネの目が一瞬だけ揺れた。


 前世の記憶が、醸の中で鈍く軋む。


 まだやれる。


 まだ止まれない。


 自分が抜けたら回らない。


 そう思って働き続け、気づいた時には床に伏していた自分。


 だからわかる。


 あの目は、限界を知らない目ではない。


 限界を知っているのに無視し続けている目だ。


「……一口だけよ」


 セレネがついに言った。


「それでいい」


     


 Witbierを注いだ木杯は、治療所の灯りの下で淡く白く濁っていた。


 泡は軽やかで、香りはすぐに立つ。


 小麦のやさしい甘み。


 オレンジピールの明るい輪郭。


 コリアンダーの青く澄んだ風。


 治療所の薬草臭と血の匂いの中にあっても、その香りは負けなかった。むしろ、澱んだ空気の上へ一筋の外気を差し込むように、すっと場を切り替える。


 セレネは眉をひそめた。


「……変わった匂い」


「嫌か?」


「いいえ。驚いただけ。治療酒っていうより……」


「窓を開けたみたいだろ」


「まさにそれ」


 彼女は木杯を口に運ぶ。


 一口。


 喉が動く。


 次の瞬間、セレネの肩が目に見えて落ちた。


 まるで、ずっと見えない高さまで引き上げられていたものが、やっと本来の位置へ戻ったみたいに。


「……あ」


 小さな声だった。


 だがその一音には、驚きと、安堵と、少しの戸惑いが全部混ざっていた。


「どうだ」


 醸が尋ねる。


「息が……入る」


「うん」


「何これ……胸の前に固まってたものが、ほどける……」


 セレネは思わずもう一口飲んだ。


 そして、今度ははっきりと深く息を吸った。


 吸える。


 そのこと自体に、彼女自身が驚いているようだった。


「今まで、こんなに浅かったの……?」


「おそらくな」


「嘘でしょう……」


「周りは気づいてたぞ」


「気づいてたの!?」


 ミーナがこくこく頷く。


「すごく」


「ものすごく」


 レティシアも淡々と付け足す。


 セレネは少しだけ呆然とし、それから苦笑した。


「最悪ね……」


「いいや、まだ壊れてない」


 醸は答える。


「だから間に合った」


 その時だった。


 治療所の奥で、先ほどまで怯えた顔をしていた若い看護兵が、はっとしたようにこちらを見た。


「……主任、顔色」


「え?」


「さっきより、ずっといいです」


 別の補助術師も声を上げる。


「あと、なんか……空気、変わってません?」


「わかる?」


 ミーナが嬉しそうに言う。


「はい。息苦しさが少し……」


 Witbierの効果は、ただ飲んだ一人だけに閉じていなかった。


 いや、直接効いたのはセレネだろう。だが彼女が呼吸を取り戻したことで、この治療所の中心に張っていた見えない糸の緊張が緩んだのだ。場を最も強く支えていた人間が、ほんの少し息を吸い直した。それだけで、周囲の空気もまた変わる。


 治療所という場所は、中心にいる者の状態がそのまま場へ染みる。


 ならばWitbierが最初に救うべき相手がセレネだったのは、間違いではなかった。


     


 だが、セレネはセレネだった。


 呼吸が整った次の瞬間には、もう次の指示へ戻ろうとする。


「……ありがとう。で、三番台の交換布を」


「待て」


 醸が止める。


「まだ働くの?」


「働くわよ」


「さっき吸えたばかりだぞ」


「吸えたから働けるの」


「理屈としてはわかるが、雑すぎるだろ」


 するとセレネは、今度こそ少しだけ笑った。


「そんな顔もするんだな」


「どういう意味?」


「もっと怖い人かと思った」


「忙しい時は、たいていそう見えるの」


 その会話を遮るように、奥から慌てた声が飛んだ。


「主任! 術後の子、また過呼吸気味です!」


「どこだ」


「八番台!」


 セレネが反射的に動き出そうとした瞬間、醸が先にWitbierの小樽へ手を伸ばした。


「そっちは俺が見る」


「見られるの?」


「酒でな」


 八番台に寝ていたのは、まだ十代半ばの術兵だった。腕に包帯を巻き、火傷の痕が首筋まで伸びている。命に別状はない。だが目は見開かれ、呼吸が上ずり、指先が震えていた。戦場の熱と音がまだ身体から抜けていないのだろう。


「大丈夫だ」


 醸は低く声をかける。


「今は砦の中だ」


「……っ、でも、音が、まだ」


「耳じゃなくて胸が覚えてるんだ」


 木杯に少量注ぎ、そっと唇へ寄せる。


 少年は震えながら一口飲み、びくりと目を瞬かせた。


「みかん……?」


「似たようなもんだ」


「酒、なのに……」


「深く吸えるだろ」


「……う、ん」


 呼吸が一拍だけ止まり、次の吸気が少し深くなる。


 もう一口。


 胸の上下がわずかに落ち着く。


 そして三口目で、少年はようやく寝台へ力を預けることができた。


「空、みたい」


 彼は掠れた声で言った。


「空?」


「曇ってたのが……ちょっとだけ……」


 セレネが、その様子を見て息を呑んだ。


「こんなふうに効くの……」


「さっき自分でやったろ」


「自分の時は、たぶん驚いてよく見えてなかった」


 さらにもう一人、治療の補助に当たっていた若い女性兵が、壁際で静かに座り込んでいた。怪我はない。だが顔面蒼白で、指が冷えきっている。過労と緊張で軽く眩暈を起こしているらしい。そこにもWitbierを少量。すると彼女は顔を覆っていた手をゆっくり下ろし、ぽつりと呟いた。


「……なんか、泣かなくて済みそう」


「泣いてもいいけどな」


 醸が答えると、彼女は苦笑した。


「今は、まだ持ち場だから」


 その言葉に、セレネが目を伏せる。


 おそらく彼女も、ずっと同じことを思っていたのだろう。


 泣いてもいい、崩れてもいい、休んでもいい――頭ではわかっていても、持ち場に立つ者はそれを自分に許せない。


 だからWitbierは必要だった。


 笑わせるためではなく、


 無理やり休ませるためでもなく、


 まず息を入れて、「まだここにいていい」と身体へ思い出させるために。


     


 昼を回る頃には、治療所の空気は朝より明らかに変わっていた。


 忙しさは相変わらずだ。


 怪我人は来る。


 怒号も飛ぶ。


 薬草の匂いも、血の匂いも消えない。


 それでも、人の声に少しだけ柔らかさが戻っていた。


「主任、次の消毒液!」


「そこ、慌てなくていい、順番で!」


「はい!」


「八番台、呼吸落ち着いてます!」


「よし、そのまま少し寝かせて!」


 どこかに余白がある。


 朝にはなかった、わずかな呼吸のための隙間が。


 砦長も途中で治療所へ顔を出し、ラガーやWeizenbockの効果を見て目を丸くしていたが、最終的に一番長く視線を留めたのはWitbierの小樽だった。


「傷を塞ぐ酒も驚いたが、これはまた別の意味で恐ろしいな」


「恐ろしい?」


 醸が聞き返す。


「場の空気を変える。そういうものは、ときに剣より効く」


「剣よりは言い過ぎだ」


「いや。兵は空気で潰れる。術者もそうだろう」


 ユリウスが横で頷いた。


「その通りです」


 砦長はしばらく考え込んでから言った。


「これを最初に使うべき場所は、前線の詰所か、治療所か、術工房か……悩ましいな」


「全部だ」


 セレネが即答した。


 皆がそちらを見る。


 彼女は少し疲れた顔のまま、だが朝よりずっと穏やかな目で続けた。


「少なくとも治療所には必要です。怪我人だけじゃなく、看る側が息を詰める。詰めたまま長く保つと、判断が鈍るし、手元も狂う」


「実感こもってるな」


 醸が言うと、セレネは不本意そうに眉を寄せた。


「ええ、非常に」


「なら最初の救助対象は間違ってなかった」


「……まだ言うのね」


「大事なことだからな」


 ミーナがにやにやする。


「最初に救われたの、主任さんだもんね」


「言い切らないで」


「でも本当じゃない?」


「……否定はしない」


 ようやく、セレネが降参したように息を吐いた。


 その吐息は、朝とは違って深い。


 醸はそれを見て、胸の中で小さく頷く。


 Witbierが最初に救ったのは、砦で最も声を張っていた人間だった。


 だが同時に、最も自分の声を聞いていなかった人間でもあった。


 それが自然だった。


 なぜなら、この酒は倒れた者を起こすより先に、立ち続けている者の胸を開く一杯だからだ。


     


 夕方、治療所の騒ぎがいったん落ち着いた頃、セレネはようやく壁際の長椅子に腰を下ろした。


 その姿を見た時、周囲の補助員たちが揃って安堵した顔をしたのが、何より印象的だった。きっと彼女はいつも座らないのだろう。立ち続けることでしか、この場所を保てないと思っていたに違いない。


 醸はもう一杯、今度は少し薄めにしたWitbierを渡した。


「今度は断るなよ」


「断る気力もないわ」


「なら進歩だ」


「褒められてる気がしない」


 彼女は木杯を受け取り、今度は落ち着いて香りを嗅いだ。


「……不思議ね」


「何が」


「治療所の薬草とも違う。消毒香とも違う。でも、ちゃんと“整う匂い”がする」


「コリアンダーとオレンジピールだ」


「名前だけ聞くと台所みたい」


「俺の前世では、実際かなり台所寄りだったかもな」


「ますます謎の人ね、あなた」


 一口、二口。


 セレネは静かに飲み、それから木杯を膝の上で包むように持った。


「……朝、自分があんなに浅く呼吸してたなんて、本当に気づかなかった」


「気づけない時もある」


「他人には気づくのにね。患者の息が乱れたらすぐわかるのに、自分のことになると見えなくなる」


「そういうもんだ」


「そういうものなの?」


「責任を背負ってる人間は、だいたいそうだ」


 セレネは少し黙ったあと、ふっと笑った。


「それ、あなた自身にも返る言葉でしょう」


「まあな」


「なら、あなたも飲みなさい」


「……」


「図星?」


「たまにはな」


 レティシアがすかさず横から言う。


「たまにじゃないわね」


「全面的に同意」


 ミーナも頷く。


「お前ら、結託するの早すぎるだろ」


 その場に、小さな笑いが生まれた。


 白い風は、笑いを目的にはしない。


 けれど呼吸が戻れば、張り詰めていた顔がほどける。ほどければ、言葉が出る。言葉が出れば、人はまた人でいられる。


 それで十分だった。


     


 夜、治療所の隅で荷を整理しながら、ミーナがぽつりと言った。


「やっぱり、あの人だったね」


「誰だ」


「最初に助ける人」


「ああ」


「怪我してる兵士じゃなくて、魔力切れの術者でもなくて、主任さん」


「違和感なかったか?」


「ぜんぜん。だって、あの人が一番“息してなかった”もん」


 醸は小さく笑った。


 弟子は、思ったよりずっとよく見ている。


「Witbierは、たぶん派手じゃない」


 醸は言う。


「ラガーみたいに傷が塞がるわけでも、エールみたいに魔力が満ちるわけでもない。Weizenbockみたいに一気に立ち上がらせる力もない」


「うん」


「でも、そういう派手な酒が本当に力を出すには、その前に呼吸が必要なんだ」


「なるほど」


「人は息を止めたままじゃ治れないし、考えられないし、戦えない」


「じゃあ、Witbierは……」


「全部の前にある酒かもな」


 レティシアが荷紐を結びながらこちらを見る。


「それって、かなり大事じゃない?」


「大事だ。だからこそ、狙われたら厄介だろうな」


「またそういうこと言う」


「事実だろ。場を整える酒は、戦でも政治でも価値が高い」


「……否定しにくいわね」


 砦の外では、夜警の鐘が鳴った。


 冷たい空気が石壁をなで、遠くで誰かの足音が反響する。


 この砦には、まだ救うべき者が大勢いる。


 前線の詰所にも、術工房にも、眠れぬ見張り塔にも。Witbierが最初に息を入れたのは治療所の中心だったが、この白い風が通るべき場所はそれだけではない。


 だがその最初の一杯が、セレネに届いたことには意味があった。


 誰かを救い続けている者を、先に救う。


 それは遠回りに見えて、たぶん一番早い。


 砦の治療所で、白い風はまず主任治療師の胸を開いた。


 そこから、看護兵へ、術兵へ、補助員へ、場そのものへと静かに広がっていった。


 派手ではない。


 だが確実だった。


 大麦 醸は、Witbierの小樽に手を置く。


 その樽の中には、白く濁った酒がまだ静かに息づいている。


 次はどこへ風を通すか。


 誰の胸を開くか。


 この砦のどの淀みへ、窓を作るか。


 考えるべきことは多い。


 だが少なくとも一つ、はっきりしたことがある。


 白い風は、声の大きな場所ではなく、


 むしろ声なき場所へこそ最初に必要とされる。


 そしてその“声なき場所”は、いつだって、


 一番よく働いている誰かの胸の奥にあるのだ。


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