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異世界ビール物語~醸造家の異世界転生~  作者: 麦汁酵生


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第三十三話 白き風、香草の祈り ―Witbier―

王都近郊の砦へ向かう準備が、本格的に始まった。


 グランエッジの酒蔵の前には、朝から樽や木箱が並べられ、ミーナが帳面片手に行ったり来たりしている。レティシアは荷の固定具を点検し、ガルドは村の若い衆に護衛の段取りを伝えていた。醸自身は蔵の中で、ラガー、エール、そして昨夜仕上がったばかりの Weizenbock の状態をひとつひとつ確かめている。


 砦には、傷を癒やす酒がいる。


 魔力を満たす酒もいる。


 そして、削れた者を立ち直らせる Weizenbock もきっと役に立つ。


 だが、それだけでは足りないと、醸は感じていた。


 戦場に近い場所というのは、ただ負傷者が多いだけではない。寒さ、疲労、緊張、張りつめた空気、連日の警戒。そうしたものが積み重なれば、人はやがて視野を狭める。周囲を見る余裕を失い、息を吸うことすら下手になる。治ってもなお、胸の奥に澱のような重さが残ることがあるのだ。


 その時、蔵の戸が軽く叩かれた。


「入るぞ」


 現れたのは、旅の魔術師ユリウスだった。


 先日の夜、Dunkles Weissbier によって深い眠りを取り戻した彼は、まだ細身ではあったが、目の下の影はだいぶ薄くなっていた。旅装を整えた姿は、昨日までの“壊れかけた術者”とは別人のようにも見える。


「もう動いて大丈夫なのか」


 醸が尋ねると、ユリウスは苦笑した。


「本来なら、もう少し休むべきだろうね。でも王都近郊で砦が騒がしいと聞いてしまった。術具の補修を請けたまま放ってはおけない」


「働きすぎの気配しかしないな」


「そこは返す言葉もない」


 ミーナが顔を出す。


「あ、ユリウスさん! ちゃんと眠れた人!」


「その呼び方はどうなんだろう」


「でも本当でしょ?」


「本当だ」


 ユリウスは笑ってから、蔵の中へ一歩踏み込んだ。そして空気を嗅ぐように、ゆっくり息を吸う。


「……Weizenbockか」


「わかるのか」


「昨夜、双子の片割れから少し分けてもらった。強かった。押し流すんじゃなくて、立たせる酒だ」


「そういう狙いだ」


「見事だったよ」


 そう言ったあと、ユリウスはふと表情を改めた。


「だが、砦へ持っていくなら、もう一つ必要になるかもしれない」


「何がだ?」


「空気を変える酒だ」


 醸は眉を上げた。


「空気?」


「戦線が長引くと、人は気配で疲れる。血や鉄の匂い、湿った毛布、冷えた石壁、焦げた火薬、魔術の残滓……そういうものがずっとまとわりつくと、怪我や魔力切れがなくても心肺が浅くなる。兵も術者も、息の仕方を忘れるんだ」


「……」


「そういう場所には、重い酒だけだと沈みすぎる。白い酒は軽やかすぎるかもしれない。褐色は寄り添うが、前線では少し静かすぎる場面もある」


 醸は黙って聞いていた。


 たしかにそうだ。


 ラガーは治す。


 エールは満たす。


 Dunkles Weissbier は休ませる。


 Weizenbock は立たせる。


 だが、張りつめた空気そのものを洗い流すような一杯は、まだない。


 部屋の重みをひと息で軽くし、深く吸い込める風を運ぶ酒。


「前に君は、“笑いの白”を造っただろう」


 ユリウスが続ける。


「あれは人の口を開かせる酒だった。なら次は、人の胸を開かせる酒があってもいい」


「胸を開かせる……」


「香りで空気を変えるようなものだ。術者の感覚で言えば、淀んだ魔力の流れに外気を通す感じかな」


 その言葉が、醸の中に強く残った。


 空気を変える酒。


 胸を開かせる酒。


 淀みに、白い風を通す酒。


 小麦を使うなら、まだ道はある。白く濁り、やわらかな口当たりを持ちながら、ヴァイツェンとは異なる香りの設計――酵母任せではなく、香草や果皮で風を纏わせる一杯。


 コリアンダー。


 オレンジピール。


 前世の記憶の中にある、異国の白い小麦酒が鮮やかに蘇る。


「……Witbier」


 醸が呟く。


「知っているのか?」


 ユリウスが問う。


「ああ。白く、やわらかく、香りに風がある酒だ」


「風?」


「柑橘と香草の、息を深くするような風だよ」


 ミーナの目が一気に輝いた。


「それ、絶対いい! 砦って重そうだもん!」


「まだ造ってもいない」


「でも師匠がそういう時は、だいたいもう半分できてる顔だよ」


「困った弟子だな……」


 レティシアが腕を組む。


「持っていく酒の種類を増やしすぎると、運搬がきついわよ」


「わかってる」


「それでも必要?」


「必要だと思う。今の話を聞いて確信した」


 傷を塞ぐ酒だけでは、人は長く戦えない。


 魔力を戻す酒だけでも足りない。


 心を休ませ、身体を立たせる酒があってもなお、空気の重さに押されることはある。


 ならば次に必要なのは、風だ。


 白く濁った小麦酒に、香草と果皮をまとわせる。


 胸にたまった澱を、やさしく外へ逃がしてやるような一杯。


 砦へ出る前に、どうしてもそれを形にしたかった。


     


 仕込みは、その日の午後から始まった。


 神麦と小麦麦芽を主体にしながら、ヴァイツェンほど酵母香を前へ出しすぎない設計にする。目指すのは“酵母が主役の白”ではなく、“香りの風が抜ける白”だ。口当たりは軽やかで、やわらかく、しかも薄すぎてはいけない。疲れた身体にすっと入るが、ただの水のようでは意味がない。


 そして何より、この一杯の鍵になるのは副原料だった。


 小さな布袋に分けて置かれた、乾かした橙の皮。


 そして、すり潰す前のコリアンダーの粒。


 ミーナがまじまじと見つめる。


「これ、ほんとに酒に入れるの?」


「入れる」


「薬草っぽい匂いする」


「半分はそういう役目もあるかもしれないな」


「食べ物にしか思えないけど」


「前の世界じゃ、それでちゃんと一つのビールになってた」


 醸はコリアンダーを掌で転がした。爽やかで、少し青く、どこか柑橘を思わせる香りが指先に移る。そこへオレンジピールを近づけると、白い小麦の柔らかな土台の上に、鮮やかな輪郭が立ち上がるのがもう想像できた。


「これまでの小麦酒とは、かなり違う方向ね」


 レティシアが言う。


「ああ。優しさは残す。でも“寄り添う”より、“空気を入れ替える”感じだ」


「戦場向き?」


「閉じた場所向き、かな。砦の兵舎、治療室、術具の工房……そういう息が詰まる場所で効く気がする」


「なるほど」


 仕込み鍋に湯気が立ち、砕いた麦芽が落ちていく。


 小麦由来の淡い甘みが立ち上がる。


 白くやさしい香り。


 そこまでは既存の小麦酒と似ていた。


 だが煮沸の終盤、醸はタイミングを見計らってコリアンダーを軽く砕き、オレンジピールと共に投じた。


 その瞬間だった。


 空気が、変わる。


 蔵の中を満たしていた麦の温かな匂いの上を、すっと白い風が走った。柑橘の明るさ。草の青み。けれど刺さらず、角も立たない。湯気に混ざって立ち上るその香りは、まるで曇った窓が一枚開いたかのように、場の重さをふわりと持ち上げた。


「わっ……!」


 ミーナが思わず声を上げる。


「なにこれ、すごい」


「どうした?」


「息が楽」


「まだ麦汁だぞ」


「でもほんと! 胸のとこ、すっとする!」


 ユリウスも目を細めていた。


「術場で淀んだ魔力を祓う時の感覚に近い……」


「そんなにはっきりか」


「君の酒は、いつも予想の半歩先へ行く」


 レティシアは窓を見た。


「風、入ってきた?」


「いや、閉めてる」


「じゃあこの香りのせいね。たしかに、部屋が広くなったみたい」


 醸の脳裏に、砦の石造りの通路が浮かぶ。湿った空気、乾いた血の匂い、張りつめた沈黙。そこへこの白い香りが流れ込めば、きっと誰かは一度深く息を吸えるはずだ。


 そうだ。


 この酒の役割は、回復の前に“呼吸を取り戻す”ことかもしれない。


     


 発酵に入ってからも、Witbier は不思議な気配を見せた。


 ヴァイツェンのように果実香が厚く出すぎることはなく、もっと淡く、もっと軽やかだ。白く濁った液はまだ若いのに、香りはすでに完成形の輪郭を帯びている。小麦の柔らかさの上へ、柑橘と香草が薄いヴェールのように重なり、鼻先を過ぎると一気に胸の奥が開く。


「今までの小麦酒って、どれも“中へ入ってくる”感じだった」


 ミーナが発酵桶を見つめながら言う。


「白いのも、褐色のも、強いのも。みんな内側に効く感じ」


「うん」


「でもこれは違うね。“外から空気が入ってくる”感じ」


「いい表現だ」


 醸は頷いた。


「おそらくこの酒は、閉じたものを開く」


「笑わせるのとは違う?」


「違う。笑いは結果として起きるかもしれない。でも目的はもっと手前だ。息を詰めてる人間に、“吸っていい”と思い出させることだな」


「……それ、大事かも」


 ユリウスが静かに言った。


「砦でも、術者は息を止める。兵も止める。深く吸ったら弱る気がして、浅くなる」


「でも浅い呼吸は、余計に人を削る」


「その通りだ」


 発酵が進むほど、Witbier の香りは完成へ近づいていった。


 白く濁る見た目。


 ふわりと軽い泡。


 最初に届くのはオレンジピールの明るさ。


 そのすぐ後ろから、コリアンダーの青く澄んだ香り。


 そして小麦のやさしい甘さが、全体を丸く包む。


 飲み手を抱きしめる酒ではない。


 叩き起こす酒でもない。


 澱んだ部屋に、窓を開ける酒だ。


 醸は木杯に少量を注ぎ、慎重に口をつけた。


 やわらかい。


 軽い。


 だが薄くはない。


 小麦の白いまろみが舌をなで、その上を柑橘の香りが明るく抜ける。苦味はほとんど角がなく、コリアンダーの爽やかさが喉の奥に小さな広がりを作る。飲み下した瞬間、胸の中の重さが少しだけ外へ流れていくような感覚があった。


「……これだ」


 醸が言う。


「息が入る」


「ほんと?」


 ミーナがすぐ木杯を覗き込む。


「少しだけだぞ」


 杯の香りを確かめたミーナは、ぱちぱちと目を瞬かせた。


「あっ、ほんとだ! なんか、背中が丸くなってたのが伸びる感じ!」


「それ、姿勢じゃない?」


 レティシアが言う。


「でも気持ちもそう! こう……曇ってたところが晴れる前の匂い!」


「言いたいことはわかる」


 ユリウスも一口含み、息を吐いた。


「これは良い。砦の術工房に欲しい」


「そこ限定か?」


「いや、治療室にも欲しい。あと会議室にも」


「会議室?」


「煮詰まった連中ほど、これを飲ませたいからね」


「なるほど、それは効きそうだな」


 皆の間に、小さな笑いが生まれた。


 だがそれはの“笑いの白”のような弾ける笑いではない。張っていた肩が少し下がった時に、自然とこぼれる穏やかな笑いだった。


 Witbier は、人を笑わせる前に、まず人へ呼吸を返す。


 その結果として、場がゆるみ、言葉が戻り、視界が開けるのだろう。


     


 出立の日の朝。


 荷馬車には、ラガー、エール、Weizenbock、そして新たに仕上がった Witbier の小樽が積み込まれた。量は多くない。まだ試験的な量だ。だが砦での最初の反応を確かめるには十分だった。


 村人たちが見送りに集まり、ガルドが護衛の最終確認をしている。冷たい朝の空気の中で、白い息が何本も立ち上っていた。


「ほんとに行くのね」


 レティシアが荷を締め直しながら言う。


「行く」


「止めても無駄?」


「たぶん」


「知ってた」


 ミーナは馬車の後ろへ乗り込み、小樽を抱えて満足そうだ。


「白、褐色、強いの、風のやつ。なんか小麦だけでもだいぶ増えたね」


「同じ小麦でも、役目が違う」


 醸は答える。


「笑わせる白、休ませる褐色、立たせる強い小麦、そして息を通す白い風」


「おお、ちょっとかっこいい」


「自分で言ってて少し恥ずかしいな」


「今さら?」


 そこへ、見送りに来ていたユリウスが小さな革袋を差し出した。


「餞別だ」


「これは?」


「砦でよく使う香草だ。乾かしたものだけど、空気の淀みを祓う簡易香に使われる。君の酒に合うかはわからないが、次の試作の足しにはなるかもしれない」


「……ありがたい」


「こちらこそ、借りを返すには全然足りない」


 醸は革袋を受け取り、その重みを確かめた。


 ビールはまだ進化する。


 小麦酒だけでも、こんなに違う顔を見せる。


 ならば Witbier の先にも、きっとまだ知らない景色があるはずだ。


 馬車が動き出す。


 村の入口を越え、山道へ向かうその時、醸は振り返って蔵を見た。自分が転生してから、何度も立ち戻ってきた場所。酒を造り、試し、失敗し、誰かを助け、また次を考える場所。


 だが今回は違う。


 酒を持って、村の外へ。


 王国の戦線に近い場所へ。


 もっと多くの人間が、もっと深く削られている場所へ向かう。


 その中で、Witbier はどう働くのか。


 重い空気を払えるか。


 閉じた胸へ風を入れられるか。


 息を忘れた者に、もう一度呼吸を教えられるか。


 白く濁ったその酒は、樽の中で静かに揺れている。


 まるで曇天の向こうに隠れている薄日みたいだと、醸は思った。


 強烈ではない。


 だがあるだけで、空の気配が違う。


 やがて砦の石壁が視界に入った時、遠くからでも張りつめた気配が伝わってきた。見張り塔、矢傷の残る門、行き交う兵、運び込まれる担架、そして濁った疲労の気配。


 ミーナがごくりと喉を鳴らす。


「……重いね」


「ああ」


 醸は頷いた。


「だからこそ、間に合ってよかった」


 馬車の後ろで、Witbier の小樽がかすかに鳴った。


 それは戦場へ運ばれる、ただの酒の音ではない。


 閉ざされた空気に差し込む、白い風の予兆だった。


 そして大麦 醸は、次の一杯がただ“美味い酒”で終わらないことを、もう知っている。


 砦で待つのは、傷と疲労だけではない。


 焦り、恐れ、沈黙、諦め――そうした目に見えないものとの戦いだ。


 ならば酒もまた、見えないところへ届かねばならない。


 笑いの白から始まった小麦の道は、


 優しさを含んだ褐色へ続き、


 冬越えの強さへ深まり、


 そして今、白き風となって砦へ向かう。


 その先で、どんな顔の人間がこの酒を必要とするのか。


 どんな場で、どんな息が戻るのか。


 それを見届けるために、醸は前を向いた。


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