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異世界ビール物語~醸造家の異世界転生~  作者: 麦汁酵生


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第三十一話 焦がれ雲、傷ついた魔術師の夜 ―Dunkles Weissbier―

笑いの残り香というものは、不思議と夜の冷えをやわらげる。


 あの白い小麦酒が村に笑い声を戻してから、グランエッジの空気はほんの少しだけ変わっていた。相変わらず山の夜は冷たく、窪地の異常も、森のざわめきも、消えたわけではない。酒蔵の仕事が楽になったわけでもないし、村の備えが急に十分になったわけでもない。それでも、誰かが少し冗談を言うと、前よりも素直に笑いが返るようになった。


 張り詰めた糸が、切れない程度に少しだけ緩んだのだ。


 大麦 醸は、その変化を悪くないと思っていた。


 酒はいつだって強い力だけを持つべきではない。命を救う酒、傷を癒やす酒、魔力を満たす酒。どれも必要だ。だがそれだけでは、人は長く保たない。踏ん張る理由や、立ち上がる気持ちまで含めて支えるものがなければ、どこかで心が先に折れる。


 だからこそ、笑わせる酒には意味があった。


 けれど――笑いの白の次に来るべき一杯は、ただ明るいだけのものではない。


 火の消えかけた夜に寄り添い、沈みきった者の底へそっと熱を落とすような、もっと深くて、もっと静かな小麦酒。


 そんな予感が、醸の中にあった。


 その夜、村へ駆け込んできたのは、麓の町から来た荷運びの若者だった。


「カモスさん! 酒蔵に、カモスさんいるか!」


 戸を叩く音が切羽詰まっていた。外はもう日が落ちており、山風が木戸を鳴らしている。仕込みの片付けをしていた醸は、すぐに手を止めて入口へ向かった。レティシアも壁際の長椅子から顔を上げ、ミーナは麦袋の陰からひょこりと顔を出す。


「どうした」


「町で……町で魔術師が倒れたんだ」


「魔術師?」


 若者は息を整えるのももどかしそうに頷いた。


「旅の魔術師だ。護符の修復だとか、古い術式の点検だとかで何日か前から来てた人で……昼までは普通だったんだ。でも夕方から急に立てなくなって、熱もないのに震えて、目だけが妙にぎらついて……」


「怪我か?」


「見た目にはない。でも、町の薬師が言うには、魔力の使い過ぎと、頭と心の疲れが一気に来てるんじゃないかって」


「魔力枯れか」


 ミーナが呟いた。


 醸はすぐにレティシアと視線を交わした。の白いWeissbierで、エール系が魔力回復に強く働くことはもう確かめている。しかも、笑いと会話を引き戻すような柔らかな作用も見せていた。だが、今求められているのは単なる魔力補給ではないだろう。


 使い過ぎた術者は、ただ器が空になるだけではない。張り詰めすぎた精神が、魔力と一緒に摩耗する。前へ向く力そのものがすり減るのだ。


「ただの白じゃ足りないかもしれないな……」


 醸が低く呟くと、ミーナがすぐ反応した。


「もっと濃い小麦?」


「たぶん必要なのは、濃さだけじゃない」


「どういうこと?」


「明るさを戻す酒じゃなくて、沈んだところに寄り添う酒だ。浮かせるんじゃなく、支える感じの」


 自分で口にしてから、その像が少しずつ輪郭を得ていくのを感じた。


 白く軽やかなWeissbierが“笑いの白”なら、その次は“夜をくぐり抜ける褐色の小麦”だ。


 小麦の柔らかさは残しながら、少しだけ焙いた麦芽の深みを乗せる。香りは華やかさ一辺倒ではなく、熟れた果実のぬくもりと、ほのかなパンの耳、淡い焦がし砂糖のような落ち着きを持たせる。気持ちを無理に上向かせるのではなく、「疲れていても、ここにいていい」と言える一杯。


 それはきっと――Dunkles Weissbier。


「町までどれくらいだ」


「急げば一刻半!」


「レティシア」


「行くわ」


「ミーナ、前の白は残ってるか」


「少しだけ。でも、あれは“笑いを戻す”方向」


「つなぎにはなる。持てるだけ持ってくれ」


「うん!」


 若者はほっとした顔をしたが、醸はすぐに言い添えた。


「ただし、本命は今から作る」


「今から!?」


「今夜のうちに最低限の形にする。町の薬師に持たせる分だけでも間に合わせる」


 レティシアが眉を寄せる。


「短すぎない?」


「本来なら足りない。でも、この世界の神麦と、この前育った小麦酵母なら、荒くても立ち上がりは早いはずだ」


「……また無茶するわね」


「助けたい相手がいる時の俺は、だいたいそうだろ」


「否定できないのが腹立つわ」


 醸はすでに頭の中で配合を組み始めていた。


 主体は神麦と小麦麦芽。だが、白いWeissbierの軽さだけでは届かない。そこで少量の濃色麦芽を加える。強く焦がした黒ではない。あくまで褐色のやさしさを出す程度。香りの奥に、安心感と温度を宿すための色だ。ホップは控えめ。苦味が前に出ると、弱った術者には刺さりすぎる。酵母由来の果実香とクローブめいたスパイス感は残しつつ、明るさよりも包容に寄せる。


 酒蔵の空気が、一気に張った。


     


 夜仕込みは、昼の仕込みと違う。


 外の暗さがそのまま鍋の底へ沈むようで、火の色と湯気の白さばかりが際立つ。銅鍋の縁に揺れる橙色の光を見つめながら、醸は砕いた神麦と小麦を慎重に湯へ落としていった。


 ふわりと立つ香りは、まず白かった。


 やわらかいパン生地のような、小麦の淡い甘み。そこへ、焙いた麦芽を少しずつ加える。すると香りの芯に、やわらかな褐色が差してきた。焦げる一歩手前の香ばしさ。焼きたての皮。夜に食べる温かなパンのような、安心する匂い。


「……あ、これ、やさしい」


 ミーナが小さく言った。


「まだ麦汁だぞ」


「でもわかる。前の白みたいな“楽しい!”じゃない。もっと……隣に座ってくれる感じ」


「それだ」


「そんなので効き目まで変わるの?」


「この世界じゃ、たぶん変わる。いや、前の世界でも、飲んだ時に人が受ける印象は変わる。だったら神麦がそこを増幅してもおかしくない」


 レティシアは腕組みしたまま、湯気越しに鍋を見た。


「酒の理屈はわからないけど、今夜のこれは、なんだか騒がしくないわね」


「必要なのは勢いじゃないからな」


 醸は櫂を回す手を緩めずに答えた。


「心も魔力も擦り切れた相手に、上へ引っ張るだけの酒は危ない。たぶん、立ち上がらせる前に、まず休ませなきゃいけない」


 町で倒れたという魔術師の姿を、まだ見てもいないのに思い浮かべる。高位の術者であるほど、周囲から頼られる。頼られる者は、往々にして、自分が限界に近いことを最後まで認めない。使えるから使う。まだ詠めるから詠む。まだ術式が組めるから続ける。そうしてある瞬間、糸が切れるように倒れる。


 それは前世の職人にも似ていた。まだ働ける。まだ仕込める。まだ回せる。そうやって自分の消耗を後回しにして、ふとした日、取り返しのつかないところまで削れている。


 醸は事故の日の冷たい床を思い出した。


 あの時、自分はどこまで疲れていたのだろう。


 仕込み鍋から立つ褐色の香りは、その記憶の痛みにも、そっと蓋をするようだった。


     


 煮沸を終えた麦汁を冷まし、前回の白から取っておいた小麦酵母を慎重に移す。酵母は目に見えない。だが醸にとっては、毎回この瞬間こそが一番緊張する。ここから先は、どれだけ経験を積んでも、完全には支配できない命の働きだ。


 神麦はそれを増幅し、この世界の不思議はときに常識を飛び越える。


 だからこそ、祈るしかない。


「頼むぞ……今夜は特に」


 ミーナが隣でこくんと頷いた。


「わたしも祈っとく」


「ミーナのは酵母に?」


「半分は酵母、半分は知らない魔術師の人」


「じゃあ、それで十分だ」


 発酵桶を囲んで三人で待つ時間は、妙に静かだった。


 白いWeissbierの時は、香りが立つだけで気分が弾んだ。今回は違う。立ち上がってくる香りは、果実香があるのに落ち着いている。熟したバナナのような甘みの奥に、クローブめいたスパイス感。そして、褐色麦芽が生むやさしい陰。まるで夜更けの暖炉の前で毛布にくるまっているような匂いだった。


「来たな……」


 醸が息を吐く。


「早い?」


 レティシアが尋ねる。


「かなり。でも神麦だから驚かない」


「もう感覚が麻痺してるわね」


「かもしれない」


 必要最低限の若さを残したまま、朝を待たずに上澄みを分ける。完全な熟成ではない。だが荒れたままでもない。その境目を、醸は舌と香りで探った。


 一口含む。


 最初に来るのは小麦の柔らかさ。次に酵母由来の丸い果実香。そして遅れて、褐色麦芽のほのかな香ばしさが喉の奥へ残る。白より重いが、黒ほど沈まない。温かいのに、押しつけがましくない。


「……これだ」


 醸は確信した。


 魔力を戻すだけなら、白でも届く。だがこれは違う。心が擦れて眠れなくなった者に、ようやく息を吐かせるような一杯だ。頑張れと言わない。笑えとも急かさない。ただ、沈んだ場所に少しの灯を置く。


 優しさを含んだ褐色の小麦。


 それが今夜の答えだった。


     


 町へ着いた時、夜はもう深かった。


 麓の小さな町は、村よりいくらか灯が多い。それでも夜更けとなれば静かで、宿屋兼酒場の前にだけ慌ただしい気配が集まっていた。運び込まれた旅の魔術師は二階の一室に寝かされており、町の薬師と宿の主人が不安そうに出入りしている。


「連れてきたぞ!」


 若者が叫ぶと、薬師の老女が振り向いた。


「山の酒蔵の……」


「大麦醸です。状態は?」


「外傷はなし。熱も高くない。だが魔力の流れが乱れ、眠れていないようだよ。意識はあるが、目が休まらない」


「術者特有の消耗か」


「おそらくね。こっちの薬だけじゃ、身体は休んでも中が落ち着かない」


 部屋へ入ると、寝台に横たわる男はまだ若かった。三十に届くかどうか。細身で、顔色は悪く、額には汗が浮いている。瞼は閉じているのに、眼球が落ち着かず微かに動いていた。夢と現実の境をうまく渡れないような顔だ。


「……誰だ」


 男が掠れた声で言う。


「酒を持ってきた」


「今、酒……?」


 宿の主人が戸惑う。


「魔力回復用のエールです。ただし、今回は少し違う」


 醸は木杯に褐色の小麦酒を注いだ。白濁ではない。深い琥珀に褐色を落とし込んだような色合いで、灯りを受けるとやわらかく霞む。泡はきめ細かく、香りは小麦の甘みと、熟れた果実、淡いスパイス、そして包み込むような香ばしさ。


 薬師が鼻を近づけ、小さく驚く。


「これは……妙に落ち着く匂いだね」


「たぶん、そういう酒です」


 魔術師は半ば疑いながらも、薬師に支えられて少しだけ口をつけた。


 一口目で、強張っていた喉がわずかに動く。


 二口目で、肩の力が少し落ちる。


 三口目で、男はようやく大きく息を吐いた。


「……ああ」


 それは苦しみの声ではなく、安心した時に漏れる音だった。


 部屋の空気が変わる。


 ぎらついていた目が、少しだけ潤みを取り戻す。浅く速かった呼吸がゆっくりになる。乱れていた魔力の波長をミーナが感じ取ったのか、彼女は小さく目を見開いた。


「整っていってる……戻すっていうより、ほぐれてる」


「うん。そうであってほしかった」


 魔術師は杯を持つ手にもう力が入るようになっていた。残りをゆっくり飲み干すと、枕に頭を預けたまま呟く。


「白いのとは……違うな」


「知ってるのか?」


 醸が問うと、男は薄く笑った。


「昼に、町で噂を聞いた。山の村の白い酒は、魔術師の頭を軽くして、口を開かせるって」


「ずいぶん早いな、広まるの」


「術者は、助かる手段の噂を嗅ぎつけるのも早い」


 男は目を閉じた。その閉じ方は、さっきまでとは違う。無理やり闇に落ちるようなものではなく、ようやく休める場所を見つけた者の顔だった。


「これは……沈んだままでも、責められない酒だ」


「……」


「笑えなくても、詠めなくても、今はそれでいいと……そう言われてる気がする」


 その言葉に、醸は胸の奥が静かに熱くなるのを感じた。


 狙いは合っていた。


 笑いの白の次に必要だったのは、立ち上がる前の休息を許す褐色だったのだ。


 しばらくして、魔術師の呼吸は穏やかな眠りへ移っていった。薬師が脈を取り、ほっと息をつく。


「眠ったよ。今夜これだけ静かに落ちたのは初めてだ」


「助かったのか?」


 宿の主人が問う。


「少なくとも峠は越えた。朝までは休ませたい」


「よかった……」


 若者も、薬師も、宿の主人も、皆そろって肩の力を抜いた。


 ミーナは醸の袖を引く。


「ねえ、カモス」


「ん?」


「これ、白の続きだね」


「続き?」


「うん。白は笑うための酒だった。でも、笑えない時だってあるでしょ」


「あるな」


「その時に、“じゃあ今は笑わなくていい”ってしてくれるのが、今夜の褐色」


「……本当に弟子として育ってきたな」


「でしょ」


 レティシアも小さく笑った。


「前より少し、無理をしてる人を見る目が増えた気がするわ。この村の酒蔵」


 醸は答えず、寝台で眠る魔術師を見た。


 彼が明日すぐ元通りになるわけではないだろう。使い潰した魔力も、擦り切れた精神も、一晩で全部が回復するものではない。だが、再起には最初の一歩がいる。そして時にはその一歩は、立ち上がることではなく、安心して眠れることなのだ。


 酒は、何でも劇的に解決する奇跡ではない。


 けれど、次の朝へ人を渡す橋にはなれる。


     


 夜明け前、宿の窓から薄い光が差し込み始めた頃、旅の魔術師は目を覚ました。


「……眠れた」


 開口一番、その一言だった。


 薬師が苦笑し、宿の主人が泣きそうな顔で頷き、若者は大げさに胸を撫で下ろす。男はまだ青白かったが、昨夜の危うさは薄れている。目の焦点も定まり、声にも自分の重さが戻っていた。


「名を聞いていいか」


 醸が尋ねる。


「ユリウス。王都と地方を回って術具の補修をしている」


「働きすぎだな」


「……否定できない」


 ユリウスは力なく笑った。


「魔術師は便利屋にされやすい。できる者ほど、断るのが下手でね」


「職人も似たようなもんだ」


「そうかもしれない」


 ユリウスは昨夜の杯を思い出すように目を伏せた。


「あの白い酒は、たしかに人を笑わせるんだろう。だが昨夜の褐色は……人に、弱っている自分を許させる酒だった」


「そんな大げさなもんじゃない」


「いや、術者にとっては大げさじゃないさ。詠唱も、術式も、集中も、全部“保てる自分”を前提にしている。そこが崩れた時、人は一番、自分を責める」


 その言葉は、醸自身にも刺さった。


 前世の事故の日まで、自分はどれだけ「まだやれる」と思い込んでいたのだろう。


「グランエッジの酒蔵、だったか」


 ユリウスが言う。


「ああ」


「覚えておく。きっと術者たちの間でも、必要になる」


 それは評判の芽だった。だが醸は、その響きをただ喜ぶことはできなかった。必要になるということは、それだけ擦り切れる術者が多いということでもある。


 それでも、酒蔵の役目がまた一つ増えたのは確かだった。


 笑わせる酒の次に、沈んだ者を責めずに支える酒。


 白から褐色へ。


 軽やかな華やぎから、優しさを含んだ深みへ。


 小麦酒はまだ、ここから先へ進める。


 宿を出る頃には、東の空が淡く開き始めていた。山の向こうから差す朝日が町の石畳を薄金に染め、昨夜の褐色酒の名残が、まだ手元の木杯の底に少し残っている。


 醸はそれを見つめ、静かに思った。


 白い酒だけでは届かない夜がある。


 強い酒だけでは救えない心がある。


 だから、次の一杯はいつだって必要になる。


 大麦 醸の蔵は、また一つ、新しい役目を知った。


 回復の酒。


 守る酒。


 研ぐ酒。


 支える酒。


 核を残す酒。


 繋がりを戻す酒。


 風を通す酒。


 笑わせる酒。


 そして――疲れ切った者を、責めずに眠らせる酒。


 それは派手ではない。


 だがきっと、長く生きるために欠かせない力だった。


 ミーナが朝焼けの中で伸びをする。


「ねえ、カモス」


「なんだ」


「次はもっと強い小麦?」


「そう急ぐな」


「でも来るでしょ、たぶん」


「……来るだろうな」


 レティシアが肩をすくめる。


「その時はまた、無茶を止める役をやるわ」


「頼りにしてる」


「止まらないくせに」


「まあな」


 三人は並んで山道へ戻る。


 朝の冷気の中、褐色の小麦酒の残り香だけが、昨夜より少しやさしい温度を帯びていた。


 その温度は、笑いの白の先に生まれた、新しい優しさの形だった。


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