第三十話 白き雲、笑う泡 ―ヴァイスビア/ヘーフェヴァイツェン―
American Wheat Beerが、張りつめた村へ風を通した翌日から、グランエッジの空気はたしかに少し変わった。
誰も、窪地のことを忘れたわけではない。
監視塔の先に潜む連中も、白い霧の裂け目も、灰色の草も、相変わらず不穏なままだ。見張りは続き、調査隊は休まず動いている。異常はまだ山の奥で息をしていて、こちらが油断すれば、いつでもまた村の暮らしへ冷たい指を伸ばしてくるだろう。
けれど、それでも。
American Wheat Beerを飲んだあとの村には、たしかに笑いが戻っていた。
鍛冶屋は仕事終わりに鼻歌をうたい、木工職人は「今日は肩が石じゃなく木くらいだ」と訳のわからないことを言い、見張りから戻った若者たちは、火を囲んでようやく“見張りの話以外”をするようになった。
村にとって、その変化は小さくない。
重い酒が人を守る。
強い酒が前へ出す。
だが、笑える空気を戻す酒もまた、同じくらい大事なのだ。
そんな広場の様子を見ながら、醸はふと考えていた。
軽くする酒はできた。
風を通す酒もできた。
なら次に必要なのは何だろう。
その問いに、答えは意外な場所から落ちてきた。
「ぶはっ……くしゅん!」
朝の仕込み小屋に、派手なくしゃみが響いた。
振り向くと、ミーナが両手で鼻を押さえたまま、涙目になっている。
「おい、大丈夫か」
「だいじょうぶじゃない……小麦の粉、鼻に入った……」
「そりゃ入るだろ、顔突っ込みすぎだ」
「だって香り見たかったんだもん」
「犬かお前は」
「犬じゃないけど、いい匂いは気になる」
そのやり取りを見ていたレティシアが、珍しく声を上げて笑った。
「ほんと、あんたたち見てると緊張感が逃げるわね」
「今はそれでいいんだよ」
醸はそう返しながら、小麦の袋を見下ろした。
白い粉。
立ちのぼるやわらかな香り。
小麦の酒は、American Wheat Beerで“風”として使った。なら今度は、もっと小麦そのものの表情を前へ出してみたい。
より丸く。
より香り豊かに。
より明るく、賑やかに。
飲めば肩の力が抜けるだけじゃない。
思わず顔がほころび、笑い声まで引き出してしまうような、陽気な白い酒。
前世で幾度も仕込んだ、あの泡立ちの良い、白濁した小麦のビールが脳裏に浮かぶ。
バナナのようなやわらかい果実香。
クローブを思わせるスパイシーな余韻。
小麦のふくよかな口当たりと、泡の軽やかさ。
「……Hefeweizen」
醸はぽつりと呟いた。
「へーふぇ……?」
ミーナが鼻を押さえたまま首をかしげる。
「今までで一番噛みそう」
「Weissbierでもいい」
「そっちはまだ言いやすい」
「じゃあ今回はそっちを先に覚えろ」
「白いビール?」
「そうだ。白濁した小麦の酒だ」
「American Wheat Beerと違うの?」
レティシアが訊く。
醸は頷いた。
「違う。前のは風を通す、軽くてすっきりした小麦だった。今回はもっと香りが賑やかで、泡も豊かで、飲んだ時の表情が明るい」
「表情?」
「酒の」
「また始まった」
「始まったな」
「でも今回はそこ、大事なんだよ」
醸は笑った。
「この酒は、“ほどく”だけじゃなくて、“笑わせる”までいきたい」
「笑わせる酒?」
ミーナの目が丸くなる。
「そんなのできるの?」
「回復薬みたいに効くわけじゃない。でも、沈んだ顔を上向かせる酒にはできるかもしれない」
「……今の村に、いるかも」
レティシアが静かに言った。
その通りだった。
窪地の調査は続いている。
見張りも休めない。
皆、少しずつ気を張ったまま生きている。
American Wheat Beerが日常へ戻る風を通したなら、次はその日常へ、もう一度人らしい明るさを入れたい。
笑い。
おしゃべり。
気の抜けた顔。
飲んだあと、ほんの少しだけ前向きに明るくなる心。
白く泡立つ小麦の酒は、そのためにうってつけだった。
Weissbierを造ると決めた時、醸は久しぶりに“酵母”を強く意識した。
これまでの酒でも、もちろん発酵は重要だった。だが、ラガー系の整った酒や、重厚で支える酒たちは、どちらかといえば麦の設計や熟成の持つ力が大きい。
しかしWeissbierは違う。
香りの賑やかさ。
飲んだ瞬間の明るさ。
あの果実みたいで、少しスパイスめいた独特の魅力は、酵母の働きがものを言う。
異世界で完全に同じ酵母があるわけではない。だが、この世界でも小麦生地や果実の皮に住む発酵の精はいる。神麦と合わせた時に、どの香りがどんな風に立つか――そこを見極めるのが、今回の勝負だった。
「今回は、桶の匂い嗅ぎ係をやってもいい?」
ミーナが張り切って言う。
「名乗り方が雑だな」
「でも必要でしょ?」
「今回はたしかに必要だ」
「やった!」
「ただし、顔を近づけすぎてくしゃみするな」
「うっ」
「前科が新鮮すぎるんだよ」
神麦に小麦をたっぷり合わせる。
比率は高め。
小麦のふくよかさをきちんと前へ出したい。だが、ただぼんやり丸いだけでは駄目だ。神麦の清い芯がなければ、この世界の“ビール薬師の酒”としての骨が弱くなる。
仕込みの湯へ麦を落とした瞬間、蔵の空気がふわりと変わった。
「わ……」
ミーナが自然に声を漏らす。
「甘い」
「ああ」
醸も息を吸い込む。
「前のアメリカン・ウィートより、もっと丸いな」
小麦の香りは、ただのパンではない。
やわらかい生地。
少し甘い焼き菓子。
そこへ神麦の清らかな穀物香が混じって、どこか明るい朝食みたいな空気を作っていた。
ホップは控えめ。
主役は香りと口当たりだ。
今回は苦味で引き締めるより、やわらかな泡と発酵由来の表情を生かすことが大事だった。
「今までの中で、一番“楽しい匂い”かも」
ミーナが言う。
「楽しい匂い、ね」
「だって、なんか笑いそうになる」
「それ、けっこう核心かもしれない」
醸は頷いた。
酒は必ずしも厳粛でなくていい。
命を救う酒があるなら、気持ちを軽くする酒もある。
気持ちを軽くする酒があるなら、そこから一歩進んで、場そのものを明るくする酒があってもいい。
それが、Weissbierの仕事になるかもしれなかった。
発酵は、予想以上に賑やかだった。
桶の中で泡が立ち、ふくふくと膨らむ。香りは日ごとに変わり、最初の麦の甘さに、徐々に果実を思わせる明るさが加わってくる。
「これ、昨日と違う」
ミーナが真面目な顔で言った。
「昨日はもっとパンだったのに、今日はちょっと……甘い果物みたい」
「いい観察だ」
醸は桶の上へ身を乗り出す。
「本当に出てきたな」
「何が?」
「Weissbierらしい顔」
「また顔って言った」
「言う」
「もう止めないんだ」
「今さらだろ」
レティシアも香りを嗅ぎ、少しだけ目を見開いた。
「これ、面白いわね」
「だろ?」
「小麦の匂いなのに、果物っぽい」
「発酵の力だ」
「不思議」
「酒はだいたい不思議だ」
「その一言で全部片づけないで」
さらに数日経つと、そこへほんのりとしたスパイス感が現れた。
クローブのような、鼻の奥をきゅっと締める軽い刺激。
けれど鋭くはない。
やわらかな甘みの輪郭を、きれいに整える程度のもの。
「なんか、前より大人っぽい」
ミーナが言う。
「果物だけじゃなくなった」
「そう。そこが面白い」
醸は嬉しそうに笑う。
「ただ甘くて明るいだけじゃない。ちゃんと芯がある」
「笑うだけの酒じゃないってこと?」
「うん。笑わせるけど、薄くはしない」
「それ、今回のテーマ?」
「かもしれないな」
白濁した小麦の酒が、ただ陽気なだけではなく、どこか品のある賑やかさを持つように。
その設計は、今のグランエッジにとてもよく合う気がした。
村は緊張の只中にある。
だからこそ、必要なのは“何も考えなくなる酒”じゃない。
ちゃんと今を生きたまま、顔を上げて笑える酒だ。
完成の日。
樽から注がれた酒を見て、ミーナがまず歓声を上げた。
「白い!」
「完全な白じゃないけどな」
醸は笑う。
「でも、いい濁りだ」
液体は淡い金色に白い霞を抱き、豊かな泡が高く盛り上がった。透明感よりも、柔らかさが先に目へ入る。見るだけで口当たりが想像できるような、丸い見た目だった。
香りは華やかだった。
バナナを思わせるやさしい果実香。
少しだけスパイスを感じる締まり。
小麦のふくらみ。
そして神麦が奥に残す、清らかな筋。
「……これは、いいな」
醸が素直に言うと、
「まだ飲んでないのに?」
とレティシアが笑う。
「香りの時点で、すでに場が明るい」
「たしかに」
まず自分で口にする。
泡はやわらかく、ふわりと舌へ乗る。
口当たりは丸い。
小麦のふくよかさが先に来て、そのあと果実香がふっと広がる。さらに後ろから、クローブのような軽いスパイス感が全体をまとめ、最後は意外なほど軽やかに切れていく。
重くない。
だが薄くない。
American Wheat Beerが“空気を入れ替える風”なら、こっちは“その風に乗って笑い声が戻る酒”だった。
飲み下した瞬間、胸のあたりがふっとゆるみ、口元に勝手に笑みが浮かぶ。
「……ああ、そうか」
醸は思わず笑った。
「どう?」
ミーナが前のめりになる。
「笑いやすくなる」
「えっ」
「いや、本当に」
「そんなことある?」
「たぶん、この酒の香りと泡がそうさせるんだ」
醸はもう一口飲む。
「肩が下がるだけじゃなくて、表情まで上向く感じがある」
「それ、すごくいい」
ミーナがぱっと顔を輝かせる。
「今の村にぴったりじゃん」
「そうだな」
レティシアも口にし、珍しく一口目で少し笑った。
「……何これ」
「失礼だな」
「違う、そうじゃなくて」
彼女は杯を見つめたまま言う。
「飲んだ瞬間に、“まあ少しくらい笑ってもいいか”って気になる」
「だろ?」
「戦いのことが消えるわけじゃない。でも、全部を険しい顔で抱えなくていい気がする」
「それだ」
醸は深く頷いた。
「必要だったのは、たぶんそれなんだ」
薬草師の老婆は、ひと口飲んでからからと笑った。
「こりゃあいい。病人より、深刻ぶってる連中に飲ませたい酒だね」
「言い方」
レティシアが半眼になる。
「だって当たってるだろ?」
老婆は平然としていた。
皆が、少しずつ笑う。
その笑いそのものが、もう効果の証みたいだった。
その日の夕方、醸は広場で小さな試飲会を開いた。
American Wheat Beerの時より、さらに雰囲気は明るい。木杯へ注がれる白濁した金色の酒は、見るだけで人の顔をやわらげた。
鍛冶屋が一口で言う。
「なんだこれ、うまいな」
木工職人は二口目でもう笑っている。
「軽いのに、ちゃんと満足する」
見張り帰りの若者たちは顔を見合わせ、
「なんか喋りたくなる」
「わかる」
「静かに飲む酒じゃない気がする」
と次々言い始めた。
ミーナは誇らしげに胸を張る。
「でしょ。笑う酒なんだよ」
「お前が作ったみたいに言うな」
「だって匂い嗅ぎ係したし」
「そこは認める」
村長でさえ、ひと口飲んで目を丸くした。
「……これは危ない」
「またその感想か」
醸が呆れると、
「違う意味でだ」
と村長は真顔で返す。
「皆、緩みすぎるかもしれん」
「それは悪いことか?」
「悪いだけではない。だが、今の村には“ちゃんと緩む時間”も必要だろう」
「珍しく前向きだな」
「失礼な。私はいつも現実的だ」
その言葉に周囲が笑う。
村長が笑われてむっとし、さらに笑いが広がる。
広場には、久しぶりに“見張り”でも“窪地”でもない笑いが満ちていた。
大声でなくていい。
腹を抱えなくてもいい。
けれど、顔を見合わせて小さく吹き出せるだけで、人の心はずいぶん違う。
白い泡の酒は、そういう場を自然に作っていた。
夜が深くなる頃、醸はひとりで樽の残りを見つめていた。
小麦の酒は不思議だ。
ラガーみたいに整っているわけじゃない。
黒い酒みたいに圧を持っているわけでもない。
それなのに、人の顔を変える。
前世でも、Weissbierは好きだった。
暑い日の一杯としても、気の置けない相手と話す時の酒としても、優秀だった。高尚ぶらず、けれど安っぽくもない。笑いながら飲めて、それでいてちゃんと“いい酒を飲んだ”と思える。
異世界へ来てから、自分はどこか“役目のある酒”ばかりを追ってきた気がする。
もちろん、それは必要だった。
人を救うために、守るために、今も必要だ。
でも、人は救われるだけでは足りないのだろう。
守られるだけでも、生きる形としては少し細い。
笑うこと。
他愛ない話をすること。
明日の不安があっても、今夜だけは少し緩めること。
そういうものまで含めて、人が人でいる形なのだ。
「また難しい顔」
レティシアが隣へ来た。
「考え事だ」
「知ってる」
「もうその流れ定着したな」
「便利でしょ」
「そこは認める」
彼女はWeissbierを少し口にし、目を細めた。
「これ、好き」
「最近素直だな」
「素直に言う価値があるから」
「どう好きなんだ」
「強がらなくて済む」
短い言葉だったが、醸にはすぐわかった。
「……なるほど」
「黒い酒や重い酒は、必要だけど、飲む時まで気を張る感じがある」
「うん」
「これは、別に立派な顔をしなくていい」
「そうだな」
「だから、楽」
ミーナも少し遅れてやってきて、毛布ごと地面へ座り込んだ。
「私も好き」
「知ってる」
「これ、飲むとおしゃべりしたくなる」
「それも大事だな」
「うん。黙ってるの、疲れる日もあるもん」
「……そうだな」
三人でしばらく、白濁した酒を傾ける。
夜はまだ冷たい。
窪地の異常も、石杭の謎も残ったままだ。
だが、今夜のグランエッジには、確かに笑いがあった。
強い酒だけではたどり着けない場所がある。
白い泡と、果実みたいな香りと、少しだけスパイスを含んだ小麦の酒でしか届かない場所がある。
大麦 醸の蔵は、また一つ、新しい役目を知った。
回復の酒。
守る酒。
研ぐ酒。
支える酒。
核を残す酒。
繋がりを戻す酒。
風を通す酒。
そして――笑わせる酒。
そのすべてが、異世界で生きる人間のための一杯だった。
醸は白い泡の残る杯を少し掲げる。
「……笑えるうちに、笑っとこう」
ミーナがすぐに笑う。
「それ、今の村にぴったり」
レティシアも、いつもよりずっとやわらかい顔で頷いた。
「ええ。本当にそうね」
白く濁った酒は、火の灯りを受けてやさしく光っていた。
次に来るのが、もっと深い夜でも。
もっと厄介な異常でも。
この笑いを知った村は、前より少しだけ強い。
そう思える夜だった。




