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異世界ビール物語~醸造家の異世界転生~  作者: 麦汁酵生


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第二十四話 黒の輪郭、沈黙の刃 ―ミュンヒナー・ドゥンケルからシュヴァルツビアへ―

 Kellerbierが夕暮れの広場に笑いを生み、若い力で人々の背を押す酒だとすれば、ドゥンケルは仕事終わりの家の灯りに似ていた。誰かを大きく驚かせることはない。だが、ひとたび蔵の在庫が減りすぎると、村人たちは決まって不安そうな顔をした。


「ドゥンケル、まだあるよな?」


「今夜は一杯だけ分けてくれ」


「昨日、あれ飲んで寝たら、朝の足腰が違った」


 そんな声が、醸の耳には毎日のように届く。


 村長などは帳簿片手に深刻な顔で、


「これは良くない」


 と言った。


「売れすぎる酒は対策が立てやすいが、必要とされすぎる酒は底が見えない」


「褒めてるのか困ってるのか、どっちだ」


「両方だ」


 と真顔で答えたものだから、醸も苦笑するしかなかった。


 それでも、胸の内には確かな手応えがあった。


 若さの勢いを掬い上げたKellerbier。


 静かな支えとして夜を守るドゥンケル。


 その二つを得たことで、醸の中にはひとつの筋道が見え始めていた。


 酒の力は、強ければいいわけではない。


 速ければいいわけでもない。


 人を救う酒には、それぞれ役目がある。


 前へ押し出す酒。


 倒れた体を起こす酒。


 削れた芯を戻す酒。


 ならば次に必要なのは何だろう。


 その問いが答えへ変わるまで、そう時間はかからなかった。


     


 きっかけは、あの旅装の男だった。


 ドゥンケルを試飲し、「踏みとどまらせる酒だ」と言い残して去った、正体の読めない男。彼が置いていった銀貨は、村の流通ではあまり見ない刻印を持っていた。王都寄りの都市圏で使われるものに近いが、それとも微妙に違う。少なくとも、この山村の通りすがりが無造作に持つには少し不自然な硬貨だった。


 醸がそれを指で弾いていると、レティシアが言った。


「その男、また来ると思う?」


「来るかもな」


「嫌な言い方ね」


「嫌な予感ってのは、だいたい外れてほしい時ほど当たる」


 蔵の外では、夕方の風が木々を鳴らしている。春は近づいているはずなのに、山の上から吹く空気にはまだ冬の刃が混ざっていた。


 レティシアは腕を組んだ。


「北の見張りから報せが来てる。ここ数日、街道沿いで荷の抜き取りが増えた」


「山賊か?」


「断言はできない。でも妙なの。荷馬車を全部襲うわけじゃない。食料と保存の利く薬品、それに火薬草みたいな一部の物資ばかり狙われてる」


「……選んでるのか」


「たぶんね」


 醸は眉を寄せた。


 偶然ではない。飢えた盗賊なら、もっと手当たり次第に奪うはずだ。だが特定の物資だけを狙うとなると、誰かが先で集めている可能性が高い。組織だった動き。あるいは、長く動くための備え。


「踏みとどまるための酒が必要な場所がある、か」


 醸が小さく呟くと、


「またそれ?」


 とミーナが首をかしげた。


「でも、ドゥンケルのことを言ったんでしょ? それで終わりじゃないの?」


「終わらない気がするんだよ」


「なんで?」


「“踏みとどまる”の次は、“耐えながら削る”って段階があるからだ」


 ミーナはぽかんとした。


 レティシアのほうが先に理解したらしい。目つきが少しだけ険しくなる。


「長く動く相手がいるなら、正面からの大きな戦いばかりじゃない」


「ああ」


 醸は頷いた。


「見えにくい消耗戦になる。夜、冷え、疲れ、焦り。そういうものの中で、じわじわと優位を取る奴が出てくる」


「ドゥンケルは、こちらが崩れないための酒」


「でも相手を鈍らせるには、もっと別の何かが要る」


 言葉にした瞬間、醸の脳裏には、黒い液面が浮かんだ。


 ドゥンケルよりもさらに暗い。


 だが、重いだけの黒ではない。


 夜の底のように澄み、鋭く、静かな輪郭を持つ黒。


 焦げたようでいて、焦げでは終わらない。


 香ばしさの奥に、引き締まった苦みと研がれた後口。


 ただ温めるだけではなく、眠気を払うように意識を細く研ぎ、長い夜の中で崩れない集中を与える酒。


「……Schwarzbier」


「出た、難しい名前」


 ミーナが即座に言った。


「黒いラガーだ」


「黒いのにドゥンケルと違うの?」


「違う。ドゥンケルは褐色の守りだ。Schwarzbierは、黒の輪郭だ」


「わからない」


「自分で言ってて少し詩的すぎるとは思った」


「少しじゃない」


 レティシアが呆れたように言う。


「でも、なんとなく言いたいことはわかるわ。温かい酒じゃなくて、冷たい夜に目を開かせる酒でしょ」


「そう、それだ」


 醸は指を鳴らした。


 守るだけでは足りない。


 長い夜には、眠らず、鈍らず、静かに立ち続ける力が要る。


 ドゥンケルが“戻す酒”なら、次は“研ぐ酒”。


 それが、この先の必要になる気がした。


     


 翌日から、蔵の空気はまた変わった。


 ドゥンケルの時は、焙いた麦の優しい香りが蔵を包んでいた。黒パンやナッツ、穀物の甘やかな匂い。どこか家庭の食卓を思わせるあたたかさがあった。


 だが、今回の仕込みで醸が目指すのは、その先だ。


 より深く焙く。


 ただし、焦がしすぎない。


 黒くするために焼きつぶすのではなく、黒いのに飲みやすい、軽やかな輪郭を出す。


「難しそう」


 ミーナが素直に言った。


「難しい」


「今回は正直」


「Schwarzbierは、その難しさを隠せないタイプなんだよ」


「どういうこと?」


「黒い酒って、雑に作ると“苦い・重い・焦げた”で終わる。でも本当は違う」


 醸は焙燥した麦芽を指先でつまみ、砕いて香りを見た。


「黒いのにすっきりしてなきゃいけない。香ばしいのに、重く沈みすぎちゃいけない。輪郭は鋭いのに、飲み口は滑らかでないと駄目だ」


「注文が多い」


「職人だからな」


「面倒」


「定期的に刺すなあ」


 レティシアは焙燥炉の前で漂う香りを静かに嗅いだ。


「ドゥンケルは、“火のそば”って感じだった」


「うん」


「今回は、“火が消えたあとの鉄”みたい」


 その言葉に、醸ははっとした。


「……お前、時々すごいな」


「褒めてる?」


「かなり」


「じゃあ受け取っておく」


 まさにそれだった。


 ドゥンケルが火のぬくもりを残した酒なら、Schwarzbierは、火をくぐった鉄の表面に宿る静かな強さだ。熱いわけではない。だが、芯に硬さがある。無駄な柔らかさを削り落とし、必要なものだけを残したような印象。


 仕込み配合は慎重を極めた。


 神麦のベースはしっかり使う。そこに色をつけるための焙燥麦芽を少量ずつ足し、黒さと香ばしさの境界を探る。ドゥンケルのような甘やかな厚みを出しすぎないよう、ボディはやや締める。ホップも派手にはしないが、最後の輪郭を整えるだけの苦味は要る。


 煮沸中、湯気の立つ釜からは、前回よりも鋭い香りが昇った。


 パンの香りはある。


 だがそれだけではない。


 焙煎した穀物、乾いたカカオの殻、消えかけた炭火の名残、冷たい朝の台所で嗅ぐ鉄鍋のような匂い。


 黒い。


 それでいて、重くない。


「なんか、夜更かしした時の匂い」


 ミーナが言う。


「どういう感性だ」


「静かで、ちょっと苦くて、でも嫌じゃない」


「……その表現、悪くない」


「やった」


「たぶん今回の酒にも合う」


「えへへ」


 発酵は低く、静かに進んだ。


 醸は桶のそばで長く過ごした。泡の立ち方、香りの変化、液面の表情。ドゥンケルの時は、見守るような気持ちが強かった。けれど今回は違う。わずかな粗さや濁りが、そのまま“鈍さ”へつながる予感がある。だから、静かなままに研ぎ澄ませる必要があった。


 夜中、誰もいなくなった蔵で、醸はひとり発酵桶を見つめながら考える。


 前世でも、黒いビールには不思議な二面性があった。重く慰めるものもあれば、軽く締まって意外なほど飲みやすいものもある。色だけ見て想像した味と、実際に口にした時の印象がずれる。それが黒いビールの面白さだ。


 異世界の神麦で造るなら、その“ずれ”はきっと力になる。


 黒いから重いと思わせて、実は冴える。


 暗い色なのに、視界が晴れる。


 夜の酒なのに、眠らせず、むしろ立たせる。


「……いいな」


 醸は小さく笑った。


「それは使える」


 誰に対して?


 その問いに、今はまだ答えを出さなかった。


     


 数日後、村へ新たな報せが入った。


 街道脇の古い監視塔に、何者かが潜んでいるらしい。数は多くない。だが、夜だけ動き、周辺の荷を抜き、追跡を嫌って痕跡を最小限に消している。正面からぶつかる山賊というより、獣のように身を潜めながら、じわじわ周囲の息の根を削るやり方だった。


「面倒な相手ね」


 レティシアが地図の前で眉をひそめる。


「人数が少ないなら討てるんじゃない?」


 ミーナが言う。


「少ないから厄介なのよ」


 レティシアは地図上の監視塔を指で叩いた。


「大勢なら気配が出る。痕跡も残る。でも少人数で地形を使われると、探す側が消耗する。しかも山は夜が冷える」


「つまり……」


 醸が地図に目を落とす。


「こっちが先に鈍る可能性がある」


「そういうこと」


 その時、薬草師の老婆がぼそりと呟いた。


「疲れと眠気は、剣より人を殺すからねえ」


 その一言で、醸の背筋が冷えた。


 正面からの強敵ではない。


 だが、夜ごとに削ってくる相手。


 眠い目、冷えた手、重くなる足。


 そうしたものの積み重ねが、いちばん危ない。


「ドゥンケルを持っていくか?」


 レティシアが訊く。


「もちろん要る。でも、それだけじゃ足りない」


「やっぱり次の酒ね」


「うん。守るだけじゃ駄目だ。眠気と鈍りを断つものがいる」


 ミーナは両手を打ち合わせた。


「じゃあ、黒いのは“夜番の酒”だ!」


「雑に言えばそうなる」


「わかりやすい!」


「でも軽く考えるなよ」


 醸の声は少しだけ低くなった。


「こういう酒は、強すぎると危ない。研がれすぎた刃は、使う側まで削る」


「……そっか」


「だから、ぎりぎりを見極める」


 その時、醸ははっきりと感じていた。


 Schwarzbierは、回復薬の延長ではない。


 むしろ“状態を整える薬”に近い。


 疲労を消すのではなく、疲労に飲まれないための形へ意識を引き締める酒。


 効果が過剰なら、神経ばかり尖って体が置いていかれるかもしれない。


 逆に弱ければ、ただ黒いだけの酒になる。


 だからこそ、この一杯は難しい。


 だが、難しいからこそ、今やる価値があった。


     


 完成の朝は、冷たい霧が山裾を這っていた。


 樽から注がれた酒を見て、ミーナが最初に息を呑んだ。


「……ほんとに黒い」


「黒いな」


 レティシアも短く言う。


 液体はたしかに黒に近い。だが、完全な闇ではない。杯の縁、灯りの差す角度では、深い栗色や赤褐色の薄い層が見える。泡は淡い茶色を帯び、細かく整っていた。


 香りは予想どおり、いや、それ以上に洗練されていた。


 ドゥンケルのような抱き込む甘さは控えめだ。代わりに、ローストした穀物の乾いた香ばしさ、わずかなビターチョコのような影、そして後ろに引き締まったラガーらしい清潔感がある。重たく鼻に居座らない。吸い込むたびに、視界が細く研がれるような感じがした。


「飲む前から、なんか背筋が伸びる」


 ミーナが真顔で言う。


「それは気のせいかもしれん」


「でもちょっとわかる」


 レティシアが言った。


「ドゥンケルみたいに“ほっとする”じゃない。“目が開く”感じ」


 醸は無言で頷き、まず自分で口にした。


 滑らかだ。


 黒い見た目に反して、重くない。


 焙煎由来の香ばしさはあるが、焦げの嫌な鋭さには寄っていない。喉を通ると、ほのかな苦みが舌を締め、その後で頭の奥に薄い風が通るような感覚が生まれる。


 熱くはならない。


 だが、霧が晴れる。


 眠気が飛ぶというほど乱暴ではない。むしろ、散っていた意識が中央へ集まってくる感じだ。体を無理やり引っ張るのではなく、無駄な鈍りを削ぎ落として、「今ここ」に立たせる力。


「……これだ」


 醸は杯を見下ろした。


「どう?」


 ミーナがせかす。


「速い回復じゃない。温めもしない。でも、研がれる」


「また詩的」


「今回は本当にそうなんだよ」


 醸はもう一口飲む。


「冷えた夜に立ってても、判断が濁りにくい。疲労の霧を薄くする感じだ」


「見張り向け」


 レティシアが即答する。


「ああ。長い夜番、追跡、警戒、索敵……そういう場面に合う」


 その日のうちに、北の見張り小屋で試験が行われた。


 夜番に立つ三人のうち、一人にはドゥンケル、一人には新しい黒い酒、一人には何も飲ませず、経過を見る。簡易な比較だったが、結果ははっきりしていた。


 ドゥンケルを飲んだ者は、体の冷えと重さが軽く、持久力が安定した。


 黒い酒を飲んだ者は、冷えが消えるわけではないが、眠気と判断の鈍りが出にくい。小さな物音への反応も早く、夜明け前のいちばん辛い時間帯に目が死なない。


 何も飲まない者は、当然ながら夜明け頃には肩が落ち、反応も遅くなった。


「面白いな……」


 醸が記録板に書き込みながら言う。


「ドゥンケルは“崩れない”。こっちは“鈍らない”」


「似てるようで違う」


 レティシアが腕を組む。


「そして両方いる」


「そうだな」


 見張りの若者は、黒い酒の杯を見つめながら言った。


「最初、重いと思ったんです。でも飲んだら逆でした。なんていうか……頭の中の布が一枚剥がれたみたいで」


「布が一枚」


 ミーナが面白そうに繰り返す。


「いい表現だな」


 醸は頷いた。


 ドゥンケルが体の奥へ火を戻す酒なら、Schwarzbierは視界にかかった薄布を払う酒。


 その違いが、ようやくはっきり形になった。


     


 その夜、レティシアは小さな隊を率いて監視塔の周囲を探ることになった。


 人数は最小限。大きく動けば気取られる。醸は荷に、ドゥンケルと、試験用の黒い酒の小樽を分けて積ませた。


「本当に行くの?」


 ミーナが不安そうに言う。


「探るだけだ。討ちに行くんじゃない」


 レティシアは答えたが、その目は硬い。


「でも、相手がこちらを探ってる可能性もある」


 醸が言う。


「だから無茶はするな」


「誰に言ってるの」


「お前に」


「失礼ね。無茶と無理は区別してる」


「たぶん世間一般では、どっちも怖い」


 レティシアは鼻で笑い、小樽を確かめた。


「ドゥンケルは戻す。黒いのは研ぐ。使い分けるわ」


「まだ名前は?」


 ミーナが訊く。


 醸は黒い酒を見た。


 黒い。


 だが沈黙した闇ではない。


 静かに意識を立たせる、夜の輪郭そのもの。


「……次で決める」


「じゃあ、今は?」


「“黒”でいい」


「雑」


「職人にも仮名はある」


 隊が出たあと、蔵に残った醸は妙に落ち着かなかった。


 手元には仕込み帳。


 樽の管理表。


 神麦の在庫計算。


 やることはいくらでもある。だが耳はずっと外の風を聞いていた。


 自分は剣を持てない。


 魔法もろくに使えない。


 できるのは、酒を造ることだけだ。


 その事実を、悔しいと思ったことは何度もある。


 けれど今は少し違った。


 自分の造った酒が、前線でも後方でも、誰かの夜を支えている。そのことは、剣を振るえない自分にも届く戦い方があるのだと教えてくれる。


 火を絶やさない者。


 倒れないよう支える者。


 鈍らないよう整える者。


 酒にも、役目がある。


 それは人と同じだ。


     


 夜明け前、隊は戻った。


 大きな戦闘はなかった。だが、監視塔の周辺に人の出入りの痕跡があり、数も三、四では済まないことが分かったという。食糧の隠し場所らしきものもあり、山賊にしては計画的すぎる。


「やっぱり、どこかが繋がってる」


 レティシアは肩の雪を払いながら言った。


「ただの野盗じゃない。誰かが長く潜ませるために動かしてる」


「怪我は?」


「ない」


「疲れは?」


「ある。でも、いつもより目が死んでない」


 そう言って、レティシアは小さな樽を持ち上げた。


「黒いの、効いたわ」


「どういうふうに?」


 醸が訊く。


「寒いのは寒い。足も重くなる。でも、“鈍って沈む”ところまで落ちない。周囲の音を拾いやすかった」


「そうか」


「ドゥンケルは帰ってきてから欲しくなった。黒いのは、向こうにいる間に欲しくなった」


 その使い分けを聞いて、醸は確信した。


 ドゥンケルからSchwarzbierへの橋は、これで完成だ。


 守る褐色の先に、研ぐ黒がある。


 温める酒の次に、冴えさせる酒がある。


 それは単なる色の深化ではない。


 役目の変化だ。


「次で、名前を正式にする」


 醸は静かに言った。


「Schwarzbierとして」


「うん」


 ミーナが嬉しそうに頷く。


「じゃあ次は、黒の本番だね」


「そうなる」


「なんか、いよいよって感じ」


「実際、いよいよだ」


 外では夜明けの光が、山の端から細く差し始めていた。白んだ空の下で、蔵の樽は静かに息をしている。


 褐色の守りを経て、黒の輪郭へ。


 グランエッジのビール薬師は、また一歩、酒の奥へ踏み込んだ。


 次に造るのは、ただ暗いだけの酒ではない。


 長い夜を裂くための黒。


 眠気と鈍りを断ち、沈黙の中で刃のように働く一杯。


 その名を、Schwarzbier。


 新たな夜の酒が、いま樽の奥で目を開けようとしていた。


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