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異世界ビール物語~醸造家の異世界転生~  作者: 麦汁酵生


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11/18

第十一話 収穫の歌、祭りを支える黄金樽 ―フェストビア―

グランエッジの朝は、ここしばらくずっと何かを待っているような空気をまとっていた。

 山から吹き下ろしてくる風は、夏の名残よりも秋の乾きを多く含むようになり、村の畑では穂を垂れた作物が陽を受けて波のように揺れている。沢の水は相変わらず冷たく澄み、朝靄の向こうでは荷車の軋む音が小さく響いた。

 収穫の季節だった。

 村にとって、収穫祭はただ楽しいだけの催しではない。無事に冬を越えられるかどうか、その見通しが初めて形になる節目だ。畑から穀物が戻り、山から木の実が集まり、塩漬け肉や乾燥野菜の備えが整い始める。人はようやく「今年も生き延びられるかもしれない」と思える。

 だからこそ、祭る。

 神へ。山へ。水へ。土へ。そして、共に働いた人間たちへ。

 大麦 醸は、朝の光の差し込む酒蔵小屋の中で、大鍋の前に立ちながら深く息を吸った。

 麦の香りがした。

 粉砕した神麦に、村で採れた穀物を少しだけ合わせた香り。甘く、やわらかく、どこか温かい。前に造ったヘレスよりも、少し厚みがあり、少し豊かで、だが重すぎない。喉を潤すだけではなく、集まった人々の胸を明るく押し上げるような、祭りにふさわしい酒を目指した配合だった。

「……よし」

 醸は静かに頷き、櫂を鍋に差し入れた。

 後ろでは、ミーナが大きな木箱の上に座り、脚をぶらぶらさせながら見ている。

「今日のは、前の祝い酒と何が違うの?」

「前のヘレスは、やさしい祝杯だった」

「うん」

「今回は、もっと大きい。村全体を持ち上げる酒だ」

「わかるようでわかんない」

「お前、最近ずっとそれ言ってるな」

「でも最後には飲んでわかるよ?」

「そこは信頼してる」

 ミーナはえへへと笑った。

 その横で、レティシアが樽の栓を点検している。鍛冶屋が作った金具と密封具のおかげで、酒蔵小屋は以前よりずっと“蔵らしく”なっていた。樽も、棚も、冷却槽も、まだ王都の大きな醸造所には遠く及ばないだろう。だが少なくとも、もう雨風をしのぐだけの小屋ではない。

 酒を継続して造り、守り、貯える場所だ。

「で?」

 レティシアが顔も上げずに言う。

「祭り酒ってことは、今回は大量仕込み?」

「そのつもり」

「村人だけじゃなく、麓からも人が来るわよ」

「聞いてる」

「行商人も何人か寄るらしい」

「それも聞いてる」

「兵士まで来るかもしれないって」

「……それは今初めて聞いた」

 醸が顔を上げると、レティシアは肩をすくめた。

「この前、あんたの琥珀酒を飲んだ巡回兵が、休暇に合わせて寄りたいとか言ってた」

「祭りに?」

「祭りに」

 醸はしばし黙り込んだ。

 兵士たちを癒やした琥珀のラガー。鍛冶屋のための黒ラガー。村を祝うヘレス。そうして少しずつ広がった評判が、いよいよ村の外の人間を“祭り”にまで引き寄せ始めている。

 嬉しくないわけではない。

 だが、同時に胸の奥がざわつく。

 人が増えるということは、酒の価値を知る者も増えるということだ。純粋に楽しみに来る者ばかりではないかもしれない。値踏みする者、買い叩こうとする者、秘訣を探ろうとする者。そういう連中が混ざる可能性も、十分にある。

「顔、硬いよ」

 ミーナが言った。

「そうか?」

「うん。仕込みの顔になってる」

「仕込み中だからな」

「そうじゃなくて、難しいこと考えてる顔」

「……弟子が鋭くなってきたな」

「えっへん」

 ミーナはまた胸を張った。

 レティシアが小さく笑う。

「まあ、警戒は私がする。あんたは酒を仕上げなさい」

「簡単に言うな」

「でも、あんたが一番やるべきことはそれでしょ」

「それはそうだ」

 醸は鍋を見下ろした。

 そうだ。まずは造ることだ。

 どれだけ村が変わろうと、どれだけ外の目が増えようと、自分の役割の芯は変わらない。原料を選び、香りを見て、温度を読み、酵母の機嫌をうかがい、飲んだ者の顔が少しでも明るくなるような一杯に仕上げる。

 それが大麦 醸という男の、生き方だった。

      

 収穫祭の準備は、仕込みと同じくらい慌ただしかった。

 広場には長机が運び出され、女たちは山菜の酢漬けや干し肉の煮込み、焼きたての平たいパンの支度を進めている。子どもたちは意味もなく走り回り、年寄りたちは藁飾りの編み方について口を出し、若者たちは舞台代わりの板を組んでいた。

 村長はすでに朝から三回は誰かに呼ばれており、そのたびに「落ち着け」「順番に話せ」「だから儂は一人しかおらん」と言っていた。

 醸はその喧騒の中を抜け、裏手の冷却槽へ向かう。

 発酵を終えた酒は、沢から引いた冷水でゆっくり落ち着かせていた。樽の蓋を開けると、ふわりと香りが立つ。

 明るいモルト香。焼きたての白パンのような柔らかさ。蜂蜜ほど甘くはないが、祭りの空気を連想させる丸い香り。ヘレスより厚みがあるのに、重くない。喉を通る頃には、きっとするりと消えて、もう一口を呼ぶだろう。

「いい匂いだ」

 振り向くと、鍛冶屋のガランが腕を組んで立っていた。煤けた前掛けのまま来たらしく、頬に黒い汚れがついている。

「鼻が利くようになったな」

「そりゃ毎度ここへ出入りしてりゃ少しはな」

「祭りの金具、終わったのか?」

「終わらせた。屋台の留め具も、樽台の補強も、見張り台の柵も、全部だ」

「無茶してないだろうな」

「それを言うならお前だろ」

 ガランは鼻で笑ったが、その顔は少し疲れていた。

 醸は眉をひそめる。

「また寝てないのか」

「祭り前だぞ」

「お前の理屈だと年中寝てないことになる」

「だいたいそうだな」

 まったく笑えない。

 過労と火傷をきっかけに黒ラガーを造った時から、ガランは酒蔵の最重要協力者の一人になった。だがその分、自分の限界を雑に扱う癖は相変わらずだ。

 醸は樽を見ながら呟いた。

「……やっぱり今回の酒、正解かもしれないな」

「なんだ?」

「祭り向けだけど、ただ浮かれるだけじゃない。働き続けた人間の足を、最後まで持たせる酒にしたい」

「また効能の話か?」

「今回は少し違う」

「どう違う」

「一気に傷を塞ぐとか、寒さを凌ぐとか、そういうはっきりした効果じゃない。大勢が同じ調子で動き続けられる感じだ」

「祭りのための持久酒、か」

「まあ、そんなところ」

 ガランは顎を撫でた。

「悪くない。祭りってのは浮かれてるようで、裏方は案外きついからな」

「だろ」

「だが一つ言っとく」

「なんだ」

「うまくなきゃ許さん」

「お前にだけは言われたくないな」

「なんだと」

「冗談だよ」

 ガランは大声で笑い、去っていった。

 その背中を見送りながら、醸は樽の中の酒を見つめる。

 祭りは、人が笑うためのものだ。

 だがその笑いは、裏で働く者たちがいて初めて成り立つ。

 酒も同じだった。

 表では金色に輝く一杯だが、その奥には麦を刈る者、水を運ぶ者、火を焚く者、樽を削る者、見張りに立つ者、帳面をつける者――多くの手がある。

 ならば今回の酒は、その全部を支える樽でありたかった。

      

 祭りの前日、村に最初の客がやってきた。

 麓の町から来た行商人が二人。以前、街道で助けたあの年嵩の男もその一人だった。荷馬車から降りるなり、彼は広場を見て目を丸くする。

「本当に祭りをやるのか」

「やるみたいですね」

 醸が答える。

「みたい、じゃなくて、主役の一人だろう」

「酒担当なだけですよ」

「その酒の噂で人が来るんだが?」

 それは否定しづらかった。

 行商人の後ろには、休暇で立ち寄ったらしい巡回兵が三人いた。前の時に負傷者を連れてきた部隊の一部らしく、レティシアを見るなり親しげに手を挙げる。

「よう、相変わらず怖い顔してんな」

「そっちは相変わらず軽い口ね」

「祭りだぞ?」

「勤務中なら叩き出してたわ」

「今日は休みだ」

 笑いが起きる。

 醸はその様子を見ながら、少しだけ肩の力を抜いた。少なくとも今来ている連中は、酒蔵を奪いに来たわけではない。純粋に村と酒を楽しみに来ている顔だ。

 だが、その夕方になってから、もう一組の客が現れた。

 質の良い外套を着た男と、その従者らしき二人。荷は少ないが、靴も手袋も上等で、村の泥が似合わない。男は丁寧に頭を下げたが、その目は笑っていなかった。

「突然の訪問をお許しください。私は麓の町で商いをしております、ベルノと申します」

「商人か」

 村長が答える。

「収穫祭の噂を聞きましてな。ぜひ村の賑わいを見学したく」

「見学だけか?」

「もちろん、それに少しばかり酒の話もできればと」

 その言い方に、レティシアの目が細くなる。

 醸も直感でわかった。こいつは“楽しみに来た客”ではない。計算しに来た人間だ。祭りで人が集まり、酒の評判が広がる瞬間を見て、その先の利益を測りに来ている。

 ベルノは醸に向き直った。

「あなたがビール薬師殿ですかな」

「ただの醸造師です」

「謙遜を。山村の小さな蔵から、兵士も商人も欲しがる酒が出る。じつに興味深い」

「祭りを見に来たんでしょう」

「ええ。まずは」

 男は微笑む。

「まずは、ですが」

 嫌な言い方だった。

 レティシアが一歩前へ出ようとしたのを、醸は手で制した。

「酒の話は、祭りのあとで」

「ほう?」

「今日は村のための日です。商談なら明日以降で」

「……なるほど。では従いましょう」

 男はあっさり引いたが、その分だけ不気味だった。

 ミーナが小声で囁く。

「嫌な感じ」

「同感」

「追い返さないの?」

「祭り目当ての客を理由なく追い返したら、こっちの評判が悪くなる」

「大人って面倒」

「ほんとにな」

 だが、だからこそ次の一杯は大事だった。

 祭りを成功させること。

 村の人間が心から笑うこと。

 そして、酒がただの儲け話ではなく、この村の生き方そのものだと示すこと。

 それができれば、安い打算だけでは触れにくい土台になる。

      

 収穫祭の朝は、雲ひとつない青空で始まった。

 広場には布飾りが張られ、神麦を模した金色の藁飾りが門に吊られ、焼き台からは香ばしい煙が上がっている。沢沿いには簡易の卓が並び、子どもたちは朝から落ち着かない。女たちは大皿に料理を盛り、男たちは樽を運び、兵士たちは早くもつまみ食いをしてレティシアに睨まれていた。

「おい、それまだ配る前だろ」

「少しくらいいいじゃないか」

「少しで済む顔してない」

「怖いなあ」

「当たり前でしょ」

 醸は酒蔵小屋の前に積まれた樽を見上げた。

 今回の主役――フェストビア。

 ヘレスよりややしっかりとした麦の旨味を持ち、祭りの食事にも負けない。しかし重さではなく、明るさで押す酒。宴をだらけさせず、心地よい高揚のまま人を前へ歩かせるような設計。村人たちが朝から晩まで動き、歌い、食べ、笑っていられるようにと考え抜いた一杯だった。

「いけそう?」

 ミーナが訊く。

「いくしかない」

「それ、毎回言ってる」

「毎回本心だからな」

「職人って大変」

「今さら知ったのか」

「でも、かっこいい」

「そういうの急に言うな」

 ミーナはけらけら笑った。

 開宴の合図は、村長の短い言葉だった。

「今年も、よく働いた。よく生きた。山と水と畑に感謝しよう。そして、隣にいる人間にも感謝しよう。……乾杯だ」

 拍手と歓声が上がる。

 醸は最初の樽の栓を抜いた。

 ふわり、と黄金の香りが広がった。

 注がれた酒は、明るい金色にほんの少しだけ深みを帯びている。陽光の下で見れば、まるで熟した穂をそのまま液体にしたようだった。泡は白くやわらかく立ち、香りはパンのような穏やかなモルト、軽い花、そして祭りの料理に寄り添う丸みを持つ。

「おお……」

「綺麗だ」

「前の祝い酒より、少し力強いな」

 あちこちから声が上がる。

 最初に飲んだのは村長だった。続いてガラン、レティシア、ミーナ、村人たち、兵士たち、行商人たち。皆が口をつけた瞬間、表情がほころぶ。

「……これは、いい」

 村長が目を細める。

「身体にすとんと入るのに、薄くない」

「うん! 元気が下から上がってくる感じ!」

 ミーナが言う。

「騒がしい表現ね」

 レティシアは言いつつ、自分でも二口目を飲んでいた。

「でも、わかるわ。気が浮つきすぎない。動きたくなる」

「祭り向けだろ?」

 醸が訊く。

「悔しいけど、完璧に近い」

 レティシアがそう言うのは、かなりの高評価だった。

 祭りは昼に向かって賑わいを増していった。

 歌う者が出て、手拍子が増え、子どもたちが踊り始める。女たちは料理を配り続け、男たちは樽の交換に追われながらも笑っている。兵士たちは村の若者と腕相撲を始め、行商人は商売抜きで音楽に合わせて足を鳴らした。

 フェストビアは不思議な働きを見せていた。

 傷を劇的に治すわけではない。だが、飲んだ者は疲労の蓄積が和らぎ、身体の重さが抜け、呼吸が揃うように動ける。調子に乗って無理をする高揚ではなく、皆で同じ拍子を刻める高揚だ。

 樽を運ぶ若者が息を切らしすぎず、料理を作る女たちの手元が乱れず、演奏する者たちの指先が最後まで鈍らない。

 祭りを“続けられる”。

 それが、この酒の力だった。

「これ、裏方にすごく効いてるな……」

 醸が呟くと、隣でガランが笑った。

「言ったろ。祭りは見てる奴より支える奴がきつい」

「まさにそれだ」

「だったら大当たりだな」

「……ああ」

 胸の奥で、静かな手応えが広がった。

 ただ楽しい酒ではない。

 ただ実用の酒でもない。

 皆が喜ぶための場を、最後まで壊さず支え続ける酒。

 それは今のグランエッジに、実にふさわしい気がした。

      

 だが、祭りの最中に事件は起きた。

 昼を少し過ぎた頃、山の方から突然、悲鳴が上がったのだ。

「婆ちゃんが落ちた!」

「沢の縁だ!」

 広場の空気が一瞬で変わる。

 レティシアが真っ先に駆け出し、醸も反射的に後を追った。沢沿いの斜面で、祭りの飾りを取りに行ったらしい老婆が足を滑らせ、浅い岩場に転げ落ちていた。幸い深い流れには呑まれていない。だが膝と額を切り、動けなくなっている。

「ミーナ!」

「うん!」

 ミーナが駆け寄り、周囲の石を浮かせて足場を作る。レティシアが素早く降りて老婆を抱き上げた。醸は持っていた小樽を開け、木杯にフェストビアを注ぐ。

「これ、飲めるか?」

 老婆は憔悴しながら頷いた。

 一口、二口。

 金色の液体が喉を通ると、老婆の荒かった呼吸が少しずつ落ち着く。膝の擦り傷の出血が止まり、額の切り傷も浅くなっていった。強烈な回復ではない。だが、痛みに混乱した身体を整え、回復の流れへ戻すには十分だった。

「もう大丈夫だ」

 醸が言う。

「ほら、息して。ゆっくり」

「……う、うう・・・」

「良かった」

 レティシアが背を撫でる。

 広場へ戻ると、皆が安堵の息をつく。村長は胸を撫で下ろし、老婆の家族は何度も頭を下げた。

 そしてその一部始終を、商人ベルノは黙って見ていた。

 彼はしばらく醸を見つめたあと、静かに言う。

「祭りの酒であっても、役に立つのですな」

「酒ですから」

「それだけですか」

「それだけです」

 醸は答えた。

「楽しい場を支えるのも、酒の役目です」

 ベルノは薄く笑った。

「ますます欲しくなる」

「でしょうね」

「売る気は?」

「ありますよ」

「おや」

「でも、村の形を壊す売り方はしません」

「それは商いとしては非効率です」

「でしょうね」

 醸は彼を見た。

「でも、ここで造ってるのは効率だけじゃないんで」

 ベルノの目がわずかに細くなる。

 その瞬間、醸は妙に落ち着いていた。

 以前なら、こういう相手に気圧されていたかもしれない。だが今は違う。背後には村がある。共に祭りを作る人たちがいて、自分の酒が何のためにあるのかを、自分自身がもう知っている。

 だから、譲れない線もはっきりしていた。

「今日のところは客として楽しんでください」

 醸は言った。

「商談なら、明日あらためて」

「……わかりました」

 ベルノは一礼した。

「では今日は、客でいましょう」

 完全に引いたわけではない。

 だが少なくとも、今日はこの祭りを壊させない。

 その小さな勝利が、醸には少し誇らしかった。

      

 夕暮れになる頃、祭りはむしろ一段深い熱を帯びていた。

 昼の喧騒を越えたあとの落ち着いた賑わい。焚き火の橙色が揺れ、歌は少し低く、少しやわらかくなる。老人は若い頃の収穫歌を口ずさみ、兵士は故郷の節回しで応じ、行商人は知らないはずの歌に手拍子を合わせていた。

 フェストビアは最後まで広場を支え続けた。

 酔い潰れる者は少ない。むしろ皆、ほどよく頬を赤くしながら、長く笑い続けている。疲れて座り込んでも、また少しすると立ち上がって働き、食べ、話し、歌う。

 醸は樽の横に座り、その光景をしばらく黙って見ていた。

「また難しい顔してる」

 ミーナが隣に座る。

「してるか?」

「今日はちょっといい意味のやつ」

「いい意味の難しい顔ってなんだ」

「うれしいけど、泣きそうではない顔」

「ややこしいな」

 ミーナは笑う。

「でも、わたしわかるよ」

「なにが」

「前の世界のこと、たまに思い出してるでしょ」

「……」

「言わなくても、なんとなく」

「鋭すぎるな、お前」

「弟子ですから」

 その言い方に、醸はふっと笑った。

 前の世界。

 町工場のような小さな醸造所。

 誰かの祝いのためにビールを仕込んだことは、もちろんあった。だが、それは仕事だった。依頼に応じて造り、納期に合わせて出し、評価されてもその先に自分の居場所があるとは限らなかった。

 けれど今は違う。

 この祭りの笑い声は、確かに自分の酒の周りで鳴っている。

 誰かに必要とされるだけじゃない。

 誰かに喜ばれている。

 それも、村全体で。

「……いい祭りだな」

 醸が呟く。

「うん」

「酒って、こういうためにもあるんだな」

「前からそう言ってたじゃん」

「頭ではな。でも、今日はちゃんとわかった気がする」

「そっか」

 焚き火の向こうで、レティシアが兵士の一人に酒量を注意している。村長はもう五人くらいに絡まれながらも、なぜか満更でもなさそうだ。ガランは樽の隣で寝そうになっており、そのくせ手にはまだ肉串を握っている。

 笑ってしまうほど、平和だった。

 もちろん、この先もずっとこうとは限らない。ベルノのような商人はまた来るだろう。兵士や役人、あるいはもっと大きな力を持つ者たちも、いずれこの村を見に来るはずだ。

 けれど今日だけは、まずこの一日を胸に刻んでいい。

 村がひとつになって歌い、働き、食べ、笑い、その全部を一樽の酒が支えている。

 異世界に落ちたあの日、大麦 醸は自分が何者になるのか知らなかった。

 だが今なら、少しだけわかる。

 自分はただの酒造りでは終わらない。

 回復薬を作る職人でも、珍しい秘酒を生む変わり者でもない。

 人が生きる場そのものを、酒で支える者になりつつあるのだと。

 村の子どもたちが再び歌い始める。

 大人たちがその手拍子に合わせる。

 焚き火の火が、樽の金具に赤く映る。

 醸は木杯を掲げた。

「乾杯」

 誰に向けて言ったのか、自分でもはっきりしなかった。

 村へか。

 仲間へか。

 前の人生へか。

 それとも、この世界でようやく見つけた、自分の居場所へか。

 だが次の瞬間、あちこちから同じ声が返ってきた。

「乾杯!」

 金色の酒が夜の火を受けて揺れる。

 収穫の歌は続き、グランエッジの秋は、かつてないほど豊かな音で満ちていった。

 そしてその音は、山を越え、街道を渡り、やがてもっと遠くへ届いていく。

 小さな村の祭り酒として生まれたその一樽が、後に“村を守る結束の酒”として語られることになるのを、この時まだ誰も知らなかった。


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