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異世界ビール物語~醸造家の異世界転生~  作者: 麦汁酵生


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第九十八話 金の杯は、誰のために輝く ―Belgian Tripel―

 グラン=セル聖騎士府の朝は、いつも白かった。


 山間から流れ込む靄が石造りの回廊を薄く包み、尖塔の先を隠し、鐘楼の影を曖昧にする。夜のあいだに冷えきった空気は肺の奥まで澄んでいて、ここが俗世から切り離された場所なのだと嫌でも思い知らされた。


 だが、その白さの下では、確かに何かが動いていた。


 大麦 醸が仕込んだ Belgian Dubbel は、内陣の奥にいた高位修道士たちへ“自分の本音”を突き返した。


 それは大騒ぎになるような変化ではなかったが、静かだからこそ厄介だった。


 昨日まで「清さ」「献身」「正しさ」という言葉で整列していた者たちが、今日はほんのわずかに足並みを乱している。


 僧兵は命令に応じる前に一拍だけ考える。


 修士は祈りの文句を唱える前に喉を詰まらせる。


 記録係は、上意をそのまま写す代わりに、余白へ小さな注記を入れる。


 ほんの僅か。


 しかし、その僅かが秩序の最上層にとっては毒になる。


「醸さん」


 早朝の醸造室に、ミーナが駆け込んできた。


「上が、揉めてる」


「そりゃ揉めるだろうな」


 麦芽袋を縛りながら、醸は落ち着いた声で答えた。


「いきなり皆が善人になるわけじゃないし、皆が目を覚まして仲良くなるわけでもない」


「そうじゃなくて、もっと露骨。内陣のさらに上……“光冠座”の人たちが動いてる」


 ミーナの声がひそむ。


「光冠座?」


 レティシアが壁にもたれたまま眉を上げた。


「まだ上がいたのね」


「いるわよ。いて当然でしょ、こういう組織は」


 後ろから現れたセリナが、朝の冷気にもかかわらず妙に艶のある声で言った。


「内陣が“悩む場所”なら、光冠座は“決める場所”。信仰の象徴を管理し、王侯貴族との折衝を握り、聖騎士府の名誉と権威を磨き上げる、最上位の連中よ」


「最悪の匂いがするな」


 醸が言うと、セリナは肩をすくめた。


「ええ。しかも美しく磨かれた最悪」


 その表現に、醸は少しだけ目を細めた。


 美しく磨かれた最悪。


 確かにそういうものはある。


 露骨に人を傷つけるものより、むしろ厄介だ。


 乱暴な支配は反発を生む。だが“美しい正しさ”で包まれた支配は、人に感謝させながら膝をつかせる。


「何を出してくる?」


 醸が問う。


 セリナは少しだけ間を置いて答えた。


「聖別の金酒。祝冠式にだけ使われる秘蔵の酒らしいわ。表向きは“高位の祝福を授ける黄金の杯”」


「中身は?」


「噂だけならある。“飲めば迷いが浄化される”“恐れが栄光へ変わる”“自らの小ささを忘れ、神意に近づける”」


「……要するに」


 レティシアが吐き捨てる。


「自分で考えなくてよくなる酒」


「そういうこと」


 醸は無言になった。


 Dubbel が褐色なら、次に来るのは金だ。


 褐色の酒が内面へ沈み、本音を見せる酒なら、黄金の強い酒はその逆になりうる。


 人を高く持ち上げる。


 軽くする。


 自分が特別で、清く、選ばれた存在だと信じさせる。


 その瞬間、醸の脳裏にひとつのスタイルが浮かぶ。


 Belgian Tripel。


 黄金。高いアルコール。華やかな酵母香。軽やかに見えて芯は強い。


 本来なら、修道院の技術が到達した美しい均衡の酒。


 だが使い方を誤れば、それは「高みに酔わせる酒」になる。


「なるほどな」


 醸は小さく呟いた。


「次は“褐色の本音”に対して、“黄金の理想”をかぶせてくるわけか」


「対抗できる?」


 ミーナが不安そうに訊く。


「できるさ」


 醸は即答した。


「ただし、同じ土俵に立たなきゃならない」


     


 その日の午後、彼らはついに光冠座へ招かれた。


 招かれた、というより呼びつけられたに近い。


 通されたのは内陣よりさらに高い位置にある尖塔区画だった。白大理石の階段、金箔をわずかに散らした壁面、色ガラス越しの陽光。これまでの回廊の白さや、黙想堂の褐色の静けさとは明らかに質が違う。


 ここには“見せるための神聖さ”がある。


 天井は高く、窓は広い。


 風が入るたび、薄い香煙が金の筋になって漂う。


 飾られた聖像は痩せた苦行者ではなく、どれも勝利と恩寵の姿をしていた。


「わかりやすいな」


 醸が呟く。


「何が?」


 ミーナが小声で返す。


「下は沈黙で支配して、上は輝きで支配する」


 広間の中央には、三人の人物が待っていた。


 一人はすでに知るベルナール院代。


 ただし今日は褐衣ではなく、黒に近い深褐色の正式法衣をまとっている。顔色は昨日より悪いが、その目はどこか諦めきっていない。


 残る二人は初対面だった。


 ひとりは痩身の老女。白金の刺繍が施された法衣をまとい、目元には厳しい知性が宿る。


 もうひとりは四十代半ばほどの男で、金糸の縁取りが入った白衣をまとい、その姿だけ見れば高潔そのものだった。


「光冠座筆頭、セラフィーナ猊下」


 アルノーが震える声で紹介する。


「ならびに典儀長ルシアン卿」


 セラフィーナは微笑んだ。


 その笑みは礼儀正しく、気品に満ち、氷のように冷たい。


「大麦 醸殿。噂は聞いております。人の心を酒で乱し、しかもそれを救いだと言い張る異邦の醸造師」


「ずいぶんな紹介が流行ってるな」


「不正確ですか?」


「半分はな」


「では半分は正しいのでしょう」


 ルシアンが前へ出る。


 彼の動きには無駄がなく、言葉にも淀みがない。


「先に申し上げます。あなたの酒が内陣へ与えた影響は看過できません。高位修道士たちの判断は揺らぎ、僧兵の指揮系統には遅滞が生まれ、施療院では“自分の本音を話したい”などという申し出が増えた」


「いいことじゃないか」


「組織にとっては違います」


 ルシアンはきっぱりと言った。


「救いとは、万人が好き勝手に本音をさらけ出すことではない。高位の秩序のもとで、各々が役割へ整えられることです」


「整えられる、か」


「ええ。そして高位の役割には、高位にふさわしい強さが必要です」


 彼は合図し、侍祭が金の蓋付き杯を運んできた。


 蓋が開かれた瞬間、香りが広がる。


 白花。洋梨。蜂蜜をほんの少し。胡椒のような酵母の刺激。


 明るい。高い。天へ抜けるような香りだ。


 色は輝く金色。泡はきめ細かく長く続き、光そのものを液体にしたように見える。


 醸は、心の中で確信した。


 ――Tripel。


 本来ならば、敬意を払うべき酒だ。


 軽やかな口当たりの奥に高い度数を隠し、酵母と糖の設計で複雑さを保ちながら、最後には美しく乾いて消える。


 完成度の高い、誇り高い黄金。


 だが今、目の前にあるそれは違った。


 香りが美しすぎる。


 綺麗すぎる。


 “天へ昇る自分”を思わせるように、あまりにも整えられている。


「これが、祝冠の黄金酒」


 セラフィーナが言った。


「聖別を受ける者のみが口にできる、栄光の杯です」


「で、何が起きる?」


 醸は率直に訊いた。


 ルシアンが答える。


「自らの小さき迷いを超え、己に託された高位の役目を疑いなく受け入れられる」


「疑いなく、ね」


「疑いは必要なものではあります。しかし、高位の執行においては、いつまでも抱くべきものではありません」


「つまり」


 レティシアが冷ややかに口を挟む。


「自分が偉いと気持ちよく信じられる酒」


 ルシアンは一瞬だけ眉を動かした。


「下品な表現ですが、本質を完全に外してはいません」


 ミーナが露骨に顔をしかめる。


「最悪」


「最悪でも必要なのです」


 セラフィーナは静かに言った。


「人の上に立つ者は、己の重圧に潰れてはならない。ならば支えが要る。その支えが黄金であることの、何が悪いのですか」


 その問いに、醸はすぐには答えなかった。


 悪いのは黄金そのものじゃない。


 悪いのは、黄金が“誰のために輝いているか”だ。


 その酒は高位の者を支えると言いながら、実際には高位であることに酔わせる。


 責任を引き受けるためではなく、自分が選ばれた側だと信じるために使わせる。


 神のためではなく、神に近い自分の像を愛させる。


「俺にも飲ませるか?」


 醸が言うと、セラフィーナは頷いた。


「もちろん。見もせず断罪するのは無作法でしょう」


 杯が渡される。


 ひと口、口に含む。


 美しい。


 実に美しい。


 きめ細かい泡は舌の上で淡くはじけ、香りは白い花のように立ち上がる。甘みはあるが重くなく、すぐにアルコールの芯が伸びてくる。余韻は長いのに澄んでいて、あたかも自分まで高く清められていくような錯覚を覚える。


 そして同時に、醸はその危うさを悟った。


 この酒は、罪悪感や迷いを雑に消してしまう。


 “悩む自分”より、“選ばれた自分”の方が心地よくなる。


 人の上に立つ者ほど、その快感から抜け出せなくなる。


「いい酒だ」


 醸は杯を置いた。


「ええ」


 セラフィーナが目を細める。


「認めますか」


「技術としてはな」


「ならば」


「でも、これは人を支えてない」


 醸は言い切った。


「人を高く持ち上げて、足元を見えなくしてるだけだ」


 広間の空気が冷える。


 ルシアンが口調を硬くした。


「異邦の職人風情が、高位の責務を知ったように」


「知らないから言えることもある」


「何を」


「人は空を飛べないってことだよ」


 醸はまっすぐルシアンを見る。


「飛んでる気になったやつは、下を見なくなる。下にいる奴の痛みも、寒さも、泥も、わからなくなる。あんたらの黄金は、そのための酒だ」


 ベルナール院代が、微かに目を伏せた。


 セラフィーナはしばらく黙っていたが、やがて静かな声で言った。


「では問います。高位の者は、何によって立てばよいのですか」


「重さだ」


 醸は答える。


「高く立つほど、軽くなっちゃ駄目だ」


     


 その晩、醸は古い醸造室でひとり、長く考え込んでいた。


 Dubbel のときは早かった。


 褐色の酒の欺瞞は、彼自身の過去にも重なっていたからだ。


 だが Tripel は難しい。


 なぜなら Tripel には、本来、本物の高貴さがある。


 それを否定したくはなかった。


 ただ“上品な酒”として片づけるのも違う。


 問題なのは高貴さではなく、高貴さが自分酔いに変わることだ。


「難しい顔ね」


 レティシアが入ってきた。


「そりゃな」


「珍しい。あなた、だいたい酒の方向はすぐ決めるのに」


「今回は相手の酒が悪すぎるんじゃなくて、良すぎるんだ」


「……ああ」


 レティシアは壁に寄りかかった。


「わかる。剣でもある。粗悪な技なら叩き潰せる。でも、美しくて正しい技ほど、使う人間が歪んでると厄介」


「そういうことだ」


「で、どうするの?」


「Tripelで返す」


「同じスタイルで?」


「ああ。同じ金で、別の意味を作る」


 ミーナとセリナも加わり、醸は仕込みの方針を口にした。


 神麦を主軸に、色はあくまで明るく。


 砂糖を用いて軽やかさを出すが、香りは過剰に天へ抜かない。


 酵母は豊かに働かせ、白花や果実の華やぎを残しつつ、最後はしっかり乾かす。


 さらに、ごく少量のオレンジピールと、ほんのひとかけのコリアンダーを使う。


「またスパイス?」


 ミーナが言う。


「うん。今回は飾りじゃない」


 醸は神麦を手で掴んだ。


「オレンジピールは“外へ開く光”だ。でも眩しさのためじゃない。閉じた上位の連中が、下の世界の風を思い出すための香りにする」


「コリアンダーは?」


「視界を澄ませる」


 醸は少し笑った。


「高く昇るためじゃなく、高いところからちゃんと下を見るためにな」


 仕込みが始まる。


 糖化された麦汁は明るい金に近づき、火にかけられると香りが立つ。


 パンの白い芯。花蜜。乾いた香草。柑橘の皮。


 だがセラフィーナたちの黄金酒のような“神々しさの演出”はない。もっと地上に近い。風のある朝のような金色だった。


 発酵は力強く進んだ。


 高発酵の泡が盛り上がり、酵母が生き物のように麦汁を押し上げる。


 醸はその様子を見つめながら、ぼそりと言った。


「Tripelってのは、上へ逃げる酒じゃない」


「じゃあ何?」


 ミーナが尋ねる。


「高いところにいても、浮つかないための酒だ」


     


 三日後、光冠座の広間で再び対座が行われた。


 今度は見物人が増えていた。


 内陣の修士、僧兵隊長、施療院から来た修道女、さらには王都から遣わされた監察使までいる。


 どうやらこの勝負は、単なる酒比べではなくなっていた。


 円卓の上に二つの黄金が置かれる。


 ひとつは光冠座の祝冠酒。


 ひとつは醸の Belgian Tripel。


 どちらも明るく、美しい。


 だが、近くで見ると違いは明白だった。


 光冠座の酒は、磨き上げられた金。祭器のような光。


 醸の酒は、朝日の金。風や体温を含んだ、生きた光。


「始めましょう」


 セラフィーナの合図で試飲が始まる。


 まず祝冠酒。


 飲んだ者たちの背筋がすっと伸びる。


 視線が上がる。


 気持ちは軽く、明るく、そして少しだけ万能になる。


 自分の使命は尊い。自分は選ばれている。迷う必要はない。


 そう思える。


 次に、醸の Tripel。


 ミーナが目を見開いた。


 ベルナールが息を止める。


 僧兵隊長の肩から、力が抜ける。


 そして監察使が、思わず「これは……」と漏らした。


 華やかさはある。


 白花の香り、熟しすぎない果実感、軽やかな泡、すっと伸びるアルコール。


 だがそれは、自分を“上へ引き上げる”ためのものではなかった。


 むしろ胸の奥を澄ませ、今立っている場所の意味を明るく見せる。


 恐れは消えない。


 責任も重いままだ。


 それでも、その重さを“誇張された栄光”で麻痺させるのではなく、まっすぐ受け止めるだけの気力が湧いてくる。


「……高い」


 施療院の修道女がぽつりと呟く。


「でも、遠くならない」


 僧兵隊長が続けた。


「胸が軽いのに、足は地についている」


 ルシアンは無言で飲み干したあと、険しい顔のまま杯を置いた。


「どういう作用です」


「作用なんて大げさなもんじゃない」


 醸は答える。


「黄金を、“自分を飾る光”じゃなく“他人を照らす光”に戻しただけだ」


「詭弁です」


 ルシアンが切り返す。


「高位にある者が強くあるためには、ある種の陶酔が必要だ」


「必要なのは陶酔じゃない」


 醸の声は穏やかだった。


「見晴らしだよ」


「何」


「上に立つなら、下まで見えなきゃ駄目だ。自分が選ばれたと酔うための高さじゃない。たくさんの人間の痛みも愚かさも見える高さ。それに耐えるための明るさが必要なんだ」


 セラフィーナが初めて、興味を隠さず醸を見た。


「ではあなたの酒は、高位の者へ何を与えるのです」


「特別感じゃない」


 醸は黄金の液面を見た。


「責任を引き受ける勇気だ」


 その瞬間、ベルナールが静かに立ち上がった。


「筆頭猊下」


 彼はセラフィーナに向き直る。


「私は昨夜、自らの記録庫を開きました。過去三十年の祝冠式、その後の人事、巡礼院への配給、施療院予算の削減、僧兵再編、すべてです」


「何が言いたいのです」


「祝冠酒が用いられた後、高位者は確かに安定した。しかし同時に、下の現場への視察は減り、異議申し立ては“霊的未熟”として退けられ、上位同士の相互承認だけが強くなっていた」


 広間がざわめく。


「つまり我らは、重責に耐えるためではなく、高位である自分たちを愛するために黄金を使っていた可能性がある」


 ルシアンが鋭く言う。


「院代、その発言は」


「事実の確認です」


 ベルナールの声は疲れていたが、揺れていなかった。


「Dubbelが私に本音を見せ、Tripelが視界を返した。私はようやく、我らが何を失っていたか理解し始めています」


 セラフィーナは長く黙った。


 彼女は美しい老女だった。


 その威厳は本物で、ここまで組織を保ってきた力量も疑いようがない。


 だからこそ、次の言葉には重みがあった。


「……私は、誤っていたのでしょうか」


 その問いは誰に向けたものでもなかった。


 だが醸は答えた。


「全部じゃないさ」


 セラフィーナが顔を上げる。


「高いところに立つのは、確かにしんどい。支えも要る。綺麗で強い酒が欲しくなる気持ちもわかる」


「ならば」


「でも、その酒で自分を好きになる方へ行っちゃ駄目だ」


 醸ははっきりと言った。


「上に立つやつほど、“自分なんかたいしたことない、それでも見るべきものを見る”って踏みとどまらなきゃ駄目なんだよ」


 広間に差し込む午後の光が、二つの黄金を同時に照らしていた。


 片方は神意を飾る金。


 片方は人を照らす金。


 同じように美しく見えて、意味はまるで違う。


 やがてセラフィーナは、自ら祝冠酒の杯を脇へ退けた。


 そして醸の Tripel を手に取る。


 老女の指先は、ほんのわずかに震えていた。


「軽い」


 彼女は飲んだあと、驚いたように言った。


「なのに、ごまかされない」


「そういう酒にした」


「……眩しさとは、上へ昇るためのものではないのですね」


「うん」


 醸は頷く。


「暗いとこを照らすためのもんだ」


 その言葉に、ミーナがふっと笑った。


 レティシアは腕を組んだまま、どこか満足げに目を細める。


 セリナは薄く唇を上げ、「やっぱりあなたの酒は商売敵として最悪ね」と呟いた。


 そしてその日、光冠座ではひとつの決定が下された。


 祝冠式に用いる黄金酒の配合は停止。


 各地施療院と僧兵団へ、視察と聞き取りの再開。


 高位者の叙任前には、下層区画での奉仕を義務づける。


 さらに、酒の管理権限を光冠座だけに独占させず、施療院・内陣・醸造部の三者で記録する。


 劇的な革命ではない。


 けれど、それは“上だけで完結する黄金”を壊すには十分な一歩だった。


 夕方、広間を出たあとでミーナが空を見上げた。


「ねえ、Tripelって、もっと偉そうな酒かと思ってた」


「そう見えるよな」


 醸は笑う。


「でも本物は違う。強いし、綺麗だし、高いところまで行ける。でもそこで自分に酔わない」


「難しいね」


「難しいさ」


 レティシアが言った。


「剣でも酒でも、いちばん厄介なのは“美しい正しさに酔うこと”よ」


「だな」


 醸は夕日に染まる尖塔を見た。


「だからこそ、ちゃんとした黄金はいる。眩しくても、目を逸らさせないやつが」


 そのとき、山の向こうから一陣の風が吹いた。


 尖塔の鐘が鳴る。


 白い壁が、夕暮れの中で淡い金に染まる。


 まるで聖騎士府そのものが、初めて少しだけ地上の色を思い出したようだった。


 高みにある者は、空へ逃げるために立つのではない。


 より遠くまで見渡し、より低い場所にいる誰かを見失わないために立つ。


 大麦 醸の黄金は、そのために輝いていた。


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