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異世界ビール物語~醸造家の異世界転生~  作者: 麦汁酵生


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第九十七話 褐衣の奥で、沈黙は熟す ―Belgian Dubbel―

 聖騎士府グラン=セルは、外から見るとただの灰色の要塞だった。


 高い石壁。風に鳴る旗。見張り塔。鉄で縁取られた門。祈りと武力が結びついた場所らしく、無駄のない厳しさがそこにはあった。だが一歩中へ入ると、そこは砦というより、ひとつの秩序そのものだった。


 白い回廊。


 磨かれた石床。


 一定の間隔で灯る聖油灯。


 僧兵たちの足音さえ揃いすぎていて、まるで建物全体がひとつの巨大な儀式のように思えた。


 大麦 醸は、その静けさがどうにも好きになれなかった。


「静かすぎるな」


 彼が低く言うと、横を歩くレティシアが小さく鼻を鳴らした。


「兵営でも修道院でも、規律が行き届いた場所はこんなものよ」


「いや、そういう意味じゃない」


 醸は回廊の奥を見ながら答えた。


「ここは、人が静かなんじゃない。静かでいることを、建物の方から強いてる感じがする」


 ミーナがきょろりと天井を見上げる。


「音が吸われてる……みたい」


「ああ」


 醸は頷いた。


「祈りのため、って言えば聞こえはいい。でも、ずっとこの中にいたら、自分の腹の底の声まで小さくなる」


 彼らを案内しているのは、前日も応対した若い修士アルノーだった。痩せた顔、伏せがちな目、きちんと整えられた褐色の法衣。物腰は穏やかだが、その穏やかさの下に緊張がある。


「本日、皆さまをお通しするのは内陣第二書庫と、その先の黙想堂です」


 アルノーは振り返らずに言った。


「黙想堂?」


「高位修道士のみが入る区画です。通常、外部の方を入れることはありません」


「なのに俺たちを?」


「……院代さまが、“話すべき時期に来ている”と」


 その言葉に、レティシアの表情が硬くなった。


 昨日までに見てきたものだけでも十分に異様だった。信徒たちへ配られる淡い日常酒。巡礼者の不安をほどきながら、同時に異議も薄めていく祝福酒。清廉さと禁欲を掲げながら、少しずつ判断の軸を外部へ預けさせていく、静かな仕組み。


 だがそれらは、まだ入口にすぎなかったのだろう。


 さらに奥にあるものは、もっと濃い。


 もっと選別され、


 もっと正当化され、


 もっと“高位の者だけに許された救い”として扱われているはずだった。


 そう考えたとき、醸の胸の奥で、職人の勘が鈍く疼いた。


「上に行くほど、酒も濃くなる」


 彼は呟いた。


「え?」


 ミーナが見上げる。


「人を包むだけじゃ足りなくなるからだ。上へ行くほど、もっと深く“納得”させたくなる。理屈じゃなく、心の奥の柔らかいとこまで」


「……嫌な言い方ね」


 レティシアが言う。


「でも、たぶん当たってる」


     


 黙想堂は、礼拝堂と呼ぶには暗かった。


 高い天井。細い尖塔窓。そこから落ちる光は白というより青く、冬の朝の刃のように冷たい。壁面には古い聖人たちの浮彫が並び、その目はみな伏せられていた。中心には円形の石卓。卓の上には、銀ではなく古びた銅色の器が置かれている。


 香の匂いがした。


 だが甘くない。


 乾いた木、薬草、焦がした糖、そしてごく微かな果実香。


 それを嗅いだ瞬間、醸の眉がぴくりと動く。


「……褐糖か」


「わかるの?」


 ミーナが囁く。


「少なくとも、ただの麦だけじゃない。糖を足してる。しかも精製しきってない暗い糖だ」


 石卓の向こうに立っていたのは、白髪を短く刈り込んだ老修道士だった。法衣は他の修士より深い褐色で、胸元には金ではなく黒鉄の十字架が下がっている。華美ではない。だが、この場にいる誰よりも格が高いと一目でわかる存在感があった。


「ようこそ、異邦の醸造師」


 老修道士は穏やかに言った。


「私は院代ベルナール。グラン=セルの内陣を預かる者です」


「大麦 醸です」


「聞いています。酒で人を救い、酒で民を繋ぎ、酒で我らの都合を崩した男だと」


「ずいぶんな紹介だな」


「事実でしょう」


 ベルナールは微笑んだ。


 それは柔らかい笑みだった。だが、底にあるものは柔らかくない。


「君はここまで来た。ならば、見るべきものを見てもらいましょう」


 彼は銅の器を指した。


「これが、我らの内陣酒です」


 修士たちが静かに動き、器から小ぶりの杯へ液体を注いでいく。


 色は深い褐色。


 赤銅にも見えるし、暗い琥珀にも見える。光を透かせば縁だけがかすかに赤い。泡立ちは控えめだが、消える寸前まできめが細かい。香りは濃い。干し葡萄、焼いたパン、黒蜜、そしてベルギー酵母らしい胡椒めいた気配。さらにその奥に、祈りの場にふさわしくないほど生々しい温度があった。


 ――Belgian Dubbel。


 醸は心の中でその名を呼んだ。


 派手な黄金ではない。


 祝祭の眩しさでもない。


 外へ広がる酒ではなく、内側へ沈んでいく酒だ。


 褐色。


 沈思。


 禁欲の衣の下に隠した、熱。


「表の酒では届かぬ人間がいる」


 ベルナールが言う。


「痛みに耐え、義務に耐え、沈黙に耐え、そうして自らの欲を殺してきた者たちです。彼らは軽い慰めでは足りない。明るい希望にも酔わぬ。ならば必要なのは、沈んだままでも立てる酒」


「欲を殺してきた、ね」


 醸は杯を見つめたまま言った。


「それで、その酒は何をしてる」


「己の内を静かに見つめさせます」


「都合のいい言い方だ」


「では率直に言いましょう」


 ベルナールは平然と続けた。


「この酒は、迷いを“献身”に変える。未練を“誓い”に変える。私欲を“奉仕”へ変える」


 レティシアが一歩前へ出た。


「変えるんじゃない。塗り替えてるだけでしょう」


「言葉の違いです」


「違わない」


 彼女の声は冷えていた。


「怒りも、恐れも、迷いも、人間が持つから意味がある。それを上から名前だけつけ替えるのは支配よ」


 ベルナールは初めて、レティシアへ正面から目を向けた。


「剣の方ですね。なるほど、君のような者には不快でしょう。迷いながら立つことを誇りにしている顔です」


「誇りにしてるんじゃない。それしか本物じゃないと知ってるだけ」


「本物、ですか」


 老修道士の目がわずかに細まる。


「本物の人間とは、ずいぶん不安定なものなのですね」


 その瞬間、醸の中で何かが決まった。


 彼は杯を鼻先へ持ち上げ、もう一度香りを取る。


 やはり美しい酒だった。


 雑ではない。むしろ見事だ。褐色麦芽の厚み、暗色糖の奥行き、酵母の果実香、すべてが静かな一体感を持っている。技術だけなら高い。思想まで含めて完成してしまっているからこそ、厄介だった。


「ベルナール院代」


 醸は言った。


「この酒、よくできてるよ」


「ほう」


「だからこそ惜しい」


「何がです?」


「人間を“削る”方へ完成してる」


 黙想堂の空気がぴたりと止まった。


「Dubbelはな、本来もっと泥くさい酒だ」


 醸は杯を卓へ置いた。


「立派な顔をした酒じゃない。褐色で、ちょっと地味で、でも口に入れると豊かで、暗いところに灯がともるような酒だ。禁欲を飾るためじゃない。寒い日を越えたり、くたびれた夜に息をついたり、明日も働くために飲む酒なんだよ」


「それが?」


「なのにあんたらは、それを“自分を消すための酒”にしてる」


 醸は真っ直ぐベルナールを見た。


「修道院の高位性なんてもんは、人間を空っぽにした先に立つもんじゃない。欲も悔いもあるまま、それでも人を傷つけないよう踏みとどまる、その重さの上にしか立たない」


 ベルナールの笑みが、初めて少しだけ消えた。


「……では君は、何を見せるつもりです」


「同じ褐色でも、別の答えを見せる」


「この内陣で?」


「ああ」


 醸は頷く。


「ここまで来たなら、奥で返す」


     


 その日の夕刻、彼らは内陣に付属する古い醸造室を借り受けた。


 かつて修道士たちが自給のために使っていたらしい小さな仕込み場だ。石壁、低い梁、地下へ続く涼しい貯蔵穴。設備は古いが、手入れはされている。祈りの場から少し離れているのに、どこか同じ匂いが染み込んでいた。


「まさか本当に、ここで仕込むことになるとはね」


 レティシアが樽を覗き込みながら言う。


「向こうも自信があるんだろうな」


 醸は麦芽袋を開けた。


「内陣の酒に、外から来た俺が勝てるわけがないと思ってる」


「勝てるの?」


 ミーナが訊く。


「勝つっていうより、剥がす」


「剥がす?」


「綺麗すぎる理屈をな」


 今回、醸が選んだのは神麦に加え、軽く焙いた褐色麦芽と、干した黒果実の皮、わずかな糖蜜、そしてほんの少量のコリアンダーだった。


「コリアンダーも入れるの?」


「少しだけだ」


「前みたいな感知補助?」


「いや、今回は違う」


 醸は手を止めずに答える。


「香りを立たせるためじゃない。息を深くさせるためだ。閉じた胸を、少しだけ緩める」


 糖化の湯気が立ちのぼる。


 褐色麦芽が混ざった麦汁は、最初から淡金ではない。赤みを含んだ茶。神麦の明るい芯に、焙いた殻の香ばしさが寄り添い、そこへ糖蜜の影が落ちる。香りは豊かだが、重たすぎない。むしろ底の方に、温かな呼吸の余地が生まれていた。


 醸は鍋をかき混ぜながら、ふと思い出していた。


 前世の自分は、寂しさを大げさに口にしたことがなかった。


 家族がいないことも、


 仕事以外に何もないことも、


 夜が長いことも、


 だいたい「まあ、こんなもんだ」で済ませてきた。


 でも、本当は違った。


 諦めていただけだ。


 欲がないふりをしていただけだ。


 持たない方が傷つかないと、自分を削って軽くしていただけだ。


 だからわかる。


 禁欲や献身の形を借りて、人間から“求める力”を抜くやり方が、どれほど静かに人を弱らせるか。


「醸?」


 ミーナの声で、我に返る。


「ああ、悪い」


「難しい顔してた」


「少し昔を思い出してた」


「嫌な昔?」


「……まあな。でも、その分だけ、今はわかることもある」


 煮沸。


 発酵。


 待つ時間のあいだ、三人は小さな醸造室で交代しながら樽を見守った。


 夜半、石壁の向こうからかすかに聖歌が流れてきた。


 低く、よく訓練された声だ。


 それは美しかったが、どこか同じ音程で揃いすぎていて、個人の震えが消えているようにも聞こえた。


「ここにいると、自分まで整列しそう」


 ミーナが毛布にくるまりながら言う。


「だから崩すのよ」


 レティシアが短く答える。


「まっすぐ並んだものほど、一か所ずれると全部ずれる」


「剣士っぽい言い方」


「褒め言葉として受け取るわ」


 醸は発酵桶の表面を見つめた。


 褐色の液面に、小さな泡がいくつも盛り上がっては消える。


 静かだ。


 だが死んだ静けさではない。


 内側でちゃんと息をしている静けさだった。


「これでいい」


 彼は小さく言った。


「沈むけど、止まらない」


     


 三日後、黙想堂に再び人が集められた。


 ベルナール院代。


 褐衣の高位修士たち。


 僧兵隊長。


 記録係。


 そして外部立会人として、セリナまで呼ばれていた。どうやって入り込んだのかは聞かない方が良さそうだったが、彼女はいつもの涼しい笑みで肩をすくめた。


「面白そうな席には、招かれなくても縁ができるものよ」


「商人の理屈だな」


「生き残りの理屈よ」


 円卓の上に、二つの杯が置かれる。


 一つは内陣の Dubbel。


 一つは醸の Dubbel。


 見た目は似ていた。


 どちらも褐色。


 どちらも静かな泡。


 だが香りは違う。


 内陣の酒は、よく整っている。干し果実、糖、酵母、規律のような美しさ。


 醸の酒は、そこへ少しだけ“体温”があった。焼いたパンの匂い。暗い糖の丸み。果実香の奥で、言葉になる前のため息みたいな温かさが残っている。


「飲みましょう」


 ベルナールが言う。


 全員が、まず内陣の酒を含む。


 静かな沈思。


 心が下へ落ちていく感覚。


 雑音が遠のき、代わりに“こうあるべきだ”という一本の筋だけが見えてくる。


 次に醸の酒を飲む。


 ミーナが、はっと息を呑んだ。


 レティシアの眉が動く。


 セリナは珍しくすぐに言葉を発しなかった。


 それは深い酒だった。


 だが、沈めるだけではない。


 胸の奥に溜め込んでいたものが、ゆっくり浮かんでくる。


 無理に告白させるわけではない。


 泣かせるわけでもない。


 ただ、“見ないことにしていた本音”が、自分の中でちゃんと輪郭を持つ。


 長い沈黙のあと、最初に口を開いたのは、意外にも僧兵隊長だった。


「……疲れていた」


 低い声だった。


「私は、ずっと疲れていた」


 彼は自分でも驚いたように口元を押さえる。


「守るためだと思っていた。務めだと思っていた。だが違う。怖かったのだ。迷えば責められる。弱音を吐けば失格になる。だから“正しい”の中へ逃げ込んでいた」


 高位修士の一人が立ち上がる。


「隊長、そのような私語は」


「私語ではない」


 僧兵隊長は初めて、その修士を真正面から見返した。


「祈りの言葉ばかり重ねて、本音を言えなくする方が、よほど不敬だ」


 空気が張る。


 さらに、別の老修士が震える声で言った。


「私は……羨んでいた」


 その目には涙が浮かんでいた。


「施療院の若い修士たちを。あの者らは傷ついた人の手を取れる。だが私は、上へ上へと上がるうちに、きれいな言葉しか扱えなくなった。誰かの泥に触ることを、いつからか恐れていた」


 ベルナールは沈黙していた。


 だが、その沈黙はこれまでの支配的な静けさではなかった。初めて彼自身の内側へ向いた沈黙だった。


 醸は彼を見て言った。


「人間ってのは、褐色なんだよ」


「……褐色?」


「白くも黒くもなりきれない。綺麗だけでも、汚れだけでもない。祈りたい日もあれば、逃げたい日もある。誰かのために立ちたい日もあれば、自分のために泣きたい夜もある。Dubbelは、その混ざった重さごと抱える酒だ」


「では君は、欲を肯定するのですか」


 ベルナールがようやく問うた。


「肯定するさ」


 醸は即答した。


「腹が減るのも、愛されたいのも、認められたいのも、休みたいのも、人間だからだろ。問題は欲そのものじゃない。それを隠して、清さのふりをして、他人まで型へ押し込むことだ」


 ベルナールの喉が、かすかに上下した。


 その顔からは、院代としての厳格な仮面が少し剥がれていた。


 老い。


 疲労。


 誇り。


 そして、捨てきれない後悔。


「……私は」


 彼はゆっくりと言った。


「若い頃、一度だけ修道院を出たいと思ったことがある」


 誰も動かなかった。


「山の外の町で、醸造所を見た。麦の香りがして、人々が笑っていた。私はその匂いが忘れられなかった。だが、戻った。己の役目を選んだつもりだった」


「つもり、か」


「ええ」


 ベルナールは杯を見つめた。


「いつからか、それを“正しかったこと”にし続けなければ立てなくなった」


 黙想堂の光が、褐色の酒面に揺れた。


 醸は静かに言う。


「なら、今からでも遅くない」


「何が」


「役目をやり直すのに、だよ。高位ってのは、上から削ることじゃない。下にいる奴の、泥や迷いを知った上で、それでも見捨てないことだろ」


 長い長い沈黙の末、ベルナールは杯を持ち上げた。


 内陣の Dubbel ではない。


 醸の Dubbel を。


「……この酒は、危険です」


 彼は苦く笑った。


「人を従わせる酒より、はるかに」


「そうだな」


「なぜなら、言い訳を奪う」


「ああ」


「そして、自分で選ばねばならなくなる」


「それが人間だからな」


 ベルナールは目を閉じ、ひと口飲んだ。


 その瞬間、黙想堂に満ちていた“揃いすぎた静けさ”が、ほんの少しだけほどけた。


 誰かが息を吐く。


 誰かが肩の力を抜く。


 誰かが初めて隣の人間を見る。


 それは華々しい勝利ではなかった。


 修道院が一夜で変わるわけでもない。


 陰謀が終わるわけでもない。


 だが、確かにひとつ、内陣の奥で凝り固まっていたものに亀裂が入った。


 レティシアが小さく笑う。


「ずいぶん地味な一撃ね」


「Dubbelだからな」


 醸も笑った。


「派手さじゃなくて、腹に残るやつだ」


 ミーナは褐色の液面を覗き込み、ぽつりと言った。


「ねえ、これって、悲しい酒じゃないね」


「うん?」


「深いし、ちょっと苦いし、あったかいけど……でも、悲しいだけじゃない」


 彼女は醸を見上げる。


「ちゃんと、明日の方を向ける味がする」


 醸はほんの少し目を細めた。


「それが本物の修道院酒だろうな」


「祈るための?」


「いや」


 彼は答えた。


「人間のまま、明日も生きるためのだ」


 黙想堂の尖塔窓から差し込む青白い光が、今度は少しだけやわらかく見えた。


 褐衣の奥で、沈黙は熟した。


 そしてその沈黙は、もう誰かに与えられるものではなく、


 それぞれが自分の内側から選び取るものへと、


 わずかに姿を変え始めていた。


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