百三十七層:星をまわす.03
グリヴェスの商船がヴェルトルクの港へ碇泊したのは、ガットが静かな帰還を果たしてから一刻と経たない頃だった。
夜のヴェルトルクは、灯を落とした家屋の群れが影絵のように沈み、ハーウェンの薄光だけが石畳を静かに撫でている。
誰も戦場に立ってはいない。
けれど、誰もが戦地から戻ってきた者のような、重さと疲労と、
言葉にできない余韻を胸に抱えていた。
戦士たちは、島民からの「おかえり」の声に軽く会釈を返しながら、静かに廃闘技場へ向かっていく。
その手には治療道具を抱える者もいれば、酒瓶を提げた者もいる。
灯がつかない闘技場。
崩れかけた入口に足を踏み入れた瞬間──
ゾムリスの呼吸が止まった。
石畳の中央に、横たわった人影がひとつ。
その頭上には、銀の球がゆっくりと軌道を描いていた。
──誰かが倒れてる。
誰が……?
考えるまでもなかった。
「ジャック…!!」
叫ぶなり、戦士たちが慌てて駆け寄る。
倒れた影を抱き起こそうとして──
「……は?」
ぐったりと気を失っているのは、見知らぬ男だった。
長い銀髪ではない。
金を雑に茶色へ染めた、くすんだ髪。
汚れた白衣、だらしない寝顔、分厚いゴーグル。
そして、後ろ手に回された腕には、親指だけが縛られている。
「……誰だこいつ。知ってるか?」
「いや、知らねえ……見たことねえ」
「戦士じゃなさそうだ。鍵……もないね」
ラスターが手際よく持ち物を探る。
安全靴、工具のついた作業着。
ポケットから殴り書きのメモが出てくるが──
「……これ、イデラ語っぽいっすねえ」
アウディが首をかしげる。
確かによく見れば、靴もゴーグルも、イデラ層のものだ。
情報が少ないどころか、むしろ多すぎて混乱が深まる中──
銀球がふわりと高度を下げた。
「彼はアントラ。私を開発した天使です」
「うわ喋った!」
アウディが跳ね上がるように叫ぶのを無視して、ネクは続けた。
「脈拍は安定しています。ただし体温の低下がみられます。屋内への移動を要請します」
ネクの淡々とした声が闘技場に落ちる。
一拍の沈黙。
……この銀の球、普通に話しかけてくんのかよ。
いいのか、これに反応を返して?
なんとも言えない空気が闘技場を満たしていく。
その静けさを破ったのは、戦士たちの背後から近づく軽い足音だった。
遅れて輪に加わったグリプが、目をまんまるにしてネクを見上げる。
「……その……そもそもこれは一体……?」
「私は観測用ユニット、ネクです」
銀の球体は、ごく自然に名乗った。
「……ネク?」
グリプの眉が跳ねる。
機械に“名前”という概念があるなんて、思いもしなかった。
バンズが横から口を挟む。
「クリスんとこの監視用とか、そんなとこだろうねえ」
倒れた男と、宙に浮く球体。
それを囲んで騒ぐ男たち。
少し離れた瓦礫に腰をかけ、凌はその様子を眺めていた。
武器を担いだり、軽装とはいえ戦う装いでいる者たちの中に、不自然に浮く銀球。
……ファンタジーと現代科学のチャンポン。胃がもたれそう。
闘技場の影で凌がそんなことを考えているなど露知らず、ラスターが額に手を当てながらネクへ尋ねる。
「で、その開発者がなんでここに?そもそも、君、ジャックにべったりだったじゃないか」
ネクはわずかに沈黙を置いた。
処理のための間──ではなく、“判断”のための間。
ここで自分からガットの名前を出していいのか。
ジャックが彼らへ告げるべきことなのか。
あるいはガット本人の問題か。
──自分が口を挟む領分ではない。
そう結論づけた沈黙だった。
ネクが何も言わないまま浮いているのを見て、戦士たちが顔を見合わせる。
やがて誰かがため息をつき、気絶したアントラを肩に担ぎ上げた。
「とりあえず、死なれたら目覚めがわるいし、移動させるか」
ゾムリスが煙草を片手に口を開く。
「……ジャックはこのこと知ってんのか?」
「はい」
「知ってんすか」
即答するネクに、アウディが目を丸くする。
ゾムリスは深く息を吐き、ラスターとともに管理室の方へ向かった。
「……聞いてくる」
今までなら、
ジャックが知ってて放置してるなら、まあいいか。──それで済ませていたかもしれない。
でも、これまで関わってきた長い年月で、気が付いてしまった。
あいつは、黙っていたら何も変わらない。
致命的なほどに、察せない。
いや、知識がないものに対して、ひどく察しが悪くなるのは、仕方がないことなのだが。
それに加えて、察しの良すぎるガットが長年そばに居たせいで、ジャックが自ら言わないことが多すぎる。
だからこそ、間違った方向へ突っ走るなら、誰かが止めてやらなきゃならない。
年長者で、言える者が、しつこいくらいに教えていく必要がある。
……それでも、あの背中を見捨てられるほど冷たくはなれねえ。
……とはいえ。
「ガキじゃねえんだろ……」
深いため息が落ちる。
ラスターが、肩をすくめて笑った。
「ガキだよ。中身は誰よりも」
「……知ってる」
ゾムリスも肩を落とした。
戦士たちの間を少しずつ冷たい夜風が通り抜けていった。
*
廃闘技場の二階にある管理室の、軋む木製扉。
その前に立ったゾムリスは、一瞬だけ拳を止めた。
今日の戦いを見てしまった以上、
今までどれだけ“ジャックをジャックとして扱う”つもりでいたとしても、
自分のどこかで──
“美しい戦士として散る道”を期待していた事実が、胸の奥を刺した。
もちろん、生きて帰ってきたことが、心臓が震えるほど嬉しかったし、ほっとした。
……でも。
何度も間違って、何度も反省しながらも、俺は“目を覚ました”と思ってた。
あいつのままに生きることを肯定していたつもりだった。
間違った時には声をかけなきゃいけないとも思っていた。
…今でも。
でもその根底には──“こうであってほしい”という、勝手な理想が、まだまだ残ってる。
誰に責められるわけでもないのに、その自覚が、ひどく堪えた。
だから今、こうして呼びにきたことが正解なのか、わからない。
自分だけで完結すんな。ちゃんと情報は共有しろ。
アントラの身柄のことだけじゃない。
嬉しかったことも、悲しかったことも……どうでもいいことも。
そういうのを“言える関係”が、どれほど大事なのか。
伝えたいことは山ほどあるのに、それさえ“理想の押しつけ”なんじゃねえかと、足元がぐらつく。
それでも──叱ってやれるうちに叱らねえと、あいつはまたひとりでどこかへ行っちまう。
ノックのために持ち上げた拳が、ほんの一瞬、空中で止まる。
息を深く吸い込み、腹に力を入れ──
軽く、手の甲を振り上げた、その瞬間。
扉が、開いた。
ドアノブは捻っていない。
ノックもしていない。
それなのに──
内側から、自然に、風のように。
暗がりの奥から現れた影は、
大きく、分厚く、そして不気味なほど静かだった。
ゾムリスとラスターは、本能で息を止めた。
「……用がねえなら帰れ」
低く落ち着いた声。
けれど“声質”を忘れてしまいそうなほど時間が経っていたはずの、
懐かしい音色だった。
深くかぶったフードの奥。
闇の中から、コバルトブルーの瞳が静かにこちらを射抜く。
「……ガット……?」
ラスターが息を吸い込むように名前を呼ぶ。
だが、ガットは四十年ぶりの再会だというのに、
まるで道端で知人とすれ違ったかのように、片眉をわずかに上げただけだった。
“だからどうした”とでも言いたげに。
「……いや、もうちょい驚いてもよくないかい?」
ラスターが素で動揺する。
しかし、扉の前に立つ黒衣の男は、心底どうでもよさそうに首を軽く傾けるだけだった。
「……うるせえな。寝かせろよ」
管理室の奥から、さらに別の声が響いた。
不機嫌と眠気を煮詰めたような、聞き慣れた声。
ふらりと顔を覗かせたジャックは、まるで“今起きた”と言わんばかりの気怠い目つきでラスターを睨んだ。
その体はすでに治療を終えていて、ゾムリスの眉がぴくりと動く。
……ジャックの性格で、あんな丁寧に包帯が巻けるわけがねえ。
「はあ?だってガットだよ?帰ってきたんだよ?」
「知ってる」
しれっと即答するジャック。
ラスターの神経が見事に逆撫でされる。
「知ってる、じゃない……!!」
一方でゾムリスは、震える手で煙草に火を点けながら、深く、深くため息を落とす。
「いつ帰ってきたんだ?」
ガットはフードの奥で視線だけ動かした。
「……さっき」
ゾムリスは、頭を抱えた。
「……お前らな……」
まるで親が不良息子を前にしたみたいな顔だった。
「もしかして……俺らが今ここに来なかったら、このまま寝て終わりだったのか?」
ジャックが目を細める。
ガットは静かにまぶたを閉じた。
「明日の審問二日目も、何も言わねえまま行く気だったのか?」
その問いに、ジャックはやっと状況を掴んだのか──
ひどく曖昧に呟いた。
「……もしかしてこれ、今叱られてんのか、俺ら」
即座にガットが突き放す。
「……お前がな」
「どっちもだよ!!」
ついにゾムリスが怒鳴った。
ラスターも横で同調するように大きく肩を震わせている。
本当はそのままそこで説教してやりたかった。
不遜な態度のバカガキふたりに、なんで今叱られてるかをきっちりと。
だが、今は夜。明日も戦場が待っている。
それに、ガットの帰りを待ってたのは、俺らだけじゃない。
ゾムリスとラスターは顔を見合わせ、有無を言わせずジャックとガットの腕をつかんだ。
「行くぞ」
「は?なんで」
「うるせえ黙ってついて来い!!」
そのままふたりを闘技場まで引っ張り出した。
黒衣の影と銀髪の影が、夜の石畳に、ずるずると連行されていく。
引きずられながら、ジャックは黙って従うガットを一瞥した。
フードの下の顔は相変わらずの無表情だ。
でも、ほんの少しだけ、長く息を吐いたのが分かった。
小言を聞くのは怠い。
でも、まあ、ひとりじゃねえならまだマシか。
そんなことを考えながら、ジャックはラスターの手を乱雑に払った。
月明りしかない闘技台の上では、いつの間にか目を覚ましたアントラが大騒ぎしていた。
「どこ?!ここ?!誰?!あ!ネクがいる?!てことはヴェルトルク?!」
「落ち着いてくださいアントラ。ここは──」
冷静すぎるネクの声と、取り乱したアントラ。
その対比に、戦士たちがそろって呆れた目を向ける。
そんな喧噪のさなか──
複数の足音が闘技場の入口に近づいてきた。
ふり返った戦士らの目に、四つの影が映る。
四つ?
ジャックを迎えに行ったのはゾムリスとラスター。
一つはジャック。
だが──その後ろに寄り添う黒い影は、あまりにも見覚えがあった。
「……嘘だろ?」
思わず漏れた誰かの声。
その瞬間、月光がふわりと差し込み、最後の影を照らす。
見慣れた灰色のブルゾンではない。
全身、漆黒。
それでも、深くかぶったフードの奥にのぞくコバルトと金の髪──
そして、傷。あの十字傷。
なにも変わっていなかった。
アウディが喉を鳴らした。
隣の戦士は、こらえきれず鼻をすすった。
「……ガットさんが……!」
名前がやっと音になったとき──
堰を切ったように、静寂は爆ぜた。
「……ガットが、帰ってきたぞ!!」」
「うおおお本当かよ?!本物か?!嘘じゃねえよな?!」
闘技場の空気が一瞬でひっくり返る。
肩に腕を回され、背中を叩かれ、フードを強引にめくられ、髪はぐしゃぐしゃにされていく。
「……おい、やめろ」
ガットが眉をひそめる。
だが、その反応すら“変わっていない証拠”として扱われる始末だ。
「出た!怖え〜!でも変わってねー!」
「お前いつ帰って来たんだよ?!こっちはすげえ探したんだぞ?!」
少し離れたところで、ジャックが呆れたように息を吐く。
「探すほど見つかんねえって言ったろ」
「うるせえジャック!お前知ってて黙ってたのか?!」
「ずるいっすよ!ガットさん帰ってたなら言ってくださいよ〜!!」
うるさい熱気に、ジャックは面倒くさそうに耳を手でふさぐ。
ガットは絡みつく腕をひとつずつ剥がしながら、短く吐き捨てるように言った。
「……うるせえ」
「ちょっとは感動しろや!!」
バシンと広い背中を叩く音。
戦士らは笑いながら文句を言い合う。
その混線の渦──
グリプは目じりの涙をそっと拭い、
バンズは肩をすくめて苦笑し、
凌は、ほんのわずかに口角を上げるだけにとどめていた。
静かに、でも確かに。
“帰ってきた”という事実が、みんなの胸を温めていた。
「おい、いつまでも騒いでるわけにゃいかねえ。夜は短い。明日も来るぞ」
ゾムリスが場を締めにかかる。
でも、声はどこか優しかった。
その横でラスターがふいにアントラを指さした。
「なるほど……今思うと、これ、君の仕業だったんだね、ガット」
ガットは無言。
その無言が答えを肯定する。
「そうです!この天使に連れてこられました!!」
アントラが告げ口のように言うと、ガットがフードの影から鋭く睨んだ。
「ヒッ」
アントラが情けない声を上げた瞬間──
ネクが、すっと彼の前に降りてきた。
まるで庇うように、無機質な身体でアントラの視界をふさぐ。
銀の球体ひとつで、空気がまた少しだけ落ち着いた。
ゾムリスが腕を組みながら、アントラをじろりと見おろす。
「アントラってのは、技術界隈じゃ有名な名前だったよな。通信機発明したっていう」
「あー、それね。設計は確かにしたけど、大元はイデラ技術に則ってるから“発明”って言われ方嫌なんだよねえ。実際ゼロベースで生み出した発明家にめっちゃ失礼っていうか──」
「めんどくせえなテメー」
アントラの早口を、ジャックが即座にばっさり切り捨てた。
気だるげな声。だがそのエメラルドの目は鋭い。
拘束されたままのアントラは、一瞬で黙り込む。
……いや、あれだけ殴り合ってたのに、なんで顔がそんな綺麗なんだよ……?
包帯ですら、陶器の肌に似合ってるのが、むしろ怖い。
え、ていうか今更だけど、生ジャックじゃん。
ラスターが話題を変えるように口を開いた。
「彼を連れてきたのは、明日の下準備……ってことだよね?」
「……それ以外にねえだろ」
ガットが肩をすくめながら、短く返す。
アウディは頬を掻きながら、呆れ半分に言った。
「てことはクリス側、明日通信機なしで戦うってことっすか?」
ゾムリスも腕を組む。
「あの人数の兵士を統率すんのに、“声”なしじゃ厳しいだろうな」
戦士たちの間に、同情にも似た沈黙が落ちる。
この闘技場で、ジャック相手に複数人対一の手合わせを何度もやってきた。
最大人数十二名。
それでも、たったひとりのジャックを倒せないどころか、膝をつかせることすらできなかった記憶がよみがえる。
それは強さや技術だけの問題ではなく、単に、“統率訓練”が足りていない。
個の戦闘に長け、武器も長さも重さも違う戦士たちの足並みを揃えるのは、非常に困難だった。
クリスの私兵はこの二十年間、対ジャック討伐へむけて相当な訓練を積んだはずだ。
だとしても、ソルファリウムに並ぶ兵士の数は尋常じゃなかった。
……ジャックもさることながら、ガットもやっぱり容赦がない。
たったひとりの技術者を奪っただけで、明日はクリスの喉に刃が届く。
誰もそれを否定できなかった。
アントラ自身も事態を理解し、冷や汗が背を伝う。
……え、待って?
ウチ今日から、“国家反逆者の戦略物資”みたいな扱いになってない……?
そんな情けない沈黙の中。
ハーウェンの月がまだ沈みきらない闘技場に、小さな声が落ちた。
「なんにせよ……ガットさん、お帰りなさい」
グリプだった。
そのささやきは、石畳の冷たさよりもずっと暖かい。
ガットは深いフードの奥からちらりとグリプを見た。
鼻をひとつ鳴らしただけ。
それでも十分だった。
ぴん、と張っていた空気がわずかにほどけ、誰ともなく安堵の息がもれる。
月の光に混じって、白く散っていった。
その緩みを断ち切るように──
「……で。テメーらそろって、一回ちゃんと反省しろ」
ゾムリスの雷が落ちた。
ただの叱責じゃない。
今日、“誇りの泥”を上空から見届けた男の声だった。
歴戦の戦士たちが、しれっと立っているジャックとガットを、別の意味で囲む。
「なんにも言わねえっての、いい加減やめろよな!」
「帰ってきたなら、ただいまくらい言え!」
「今日このまま朝迎えてたら、本気でぶん殴ってたからな?!」
ジャックはうるさそうに耳を塞ぎ、ふてくされる。
「やってみろよ」
「……煽んなジャック」
ガットが低く制した。
その声は、静かだが、どこか諦念に似た色を帯びていた。
“口は禍の元”と、言わんばかりに。
輪の外に座り込んでいたアントラが、青ざめた顔でぼそりと呟く。
「……ネク、ウチ、生きて帰れる?」
ふわりと降下したネクが、アントラの周りを一周した。
「生存確率は非常に高い数値を維持しています」
「……そ。よかった」
いや、よくない。全然よくない。
でも二十年もの間、化け物退治だの処刑だのと騒いできた天使社会が、
今はこうして“ただの喧噪”で満ちていることのほうが、よほど現実味があった。
バンズは風に煽られる帽子を押さえながら、呆れたように言う。
「あーあー……明日も審問あるんでしょうよ」
けれどグリプは、目尻の涙をひと拭いして小さく笑う。
「うん。でも、もう少しはいいんじゃない?」
石壁に寄りかかって眺めていた凌の紅い目が、月光を受けて静かに細められる。
昼間のソルファリウムで見た殴り合いとは、まるで別物だ。
この喧噪は、誰かを傷つけるためじゃない。
ただ、生きて再会できた者同士の、ささやかな“熱”だった。
凌はひとつ息を吐く。
白くならないそれが、いつもより少しだけ温かく感じられた。




