百三十六層:星をまわす.02
ハーウェンの月光が、窓から静かに差し込んでいた。
ガットは肩をすくめ、ジャックの言葉にいつもの調子で返す。
「……命があるだけいいだろ」
言葉とは裏腹に、少しだけ、長い買い物でもしてきたかのような言い草だった。
ジャックは笑うでもなく、呆れるでもなく、ただいつものように返す。
「サボんなよ。一日目終わったぞ」
何が、と言う必要はなかった。
ふたりの間で交わされる言葉には、それ以上の説明はいらない。
ジャックは無造作に、巻き直された包帯を投げた。
宙を舞うそれを、ガットは片手で掴む。
わずかに血が滲む白に一瞬目線を落として、手のひらで転がしながら。
「……言い訳は趣味じゃねえが、ほんのさっき帰ってきたとこだ」
ジャックは「へえ」とだけ短く返す。
彼は無関心を装っているが、“待っていた” ことを隠せてはいない。
声も、仕草も、目線も、鼓動も。
あの日のままなのに、ガットが使っていたベッドに埃が溜まっていないことも。
あらゆるものから察するガットのコバルトブルーが、全てを見ていた。
ガットは薄く笑う。
「……手土産あるから許せよな」
ジャックが初めて、ほんの少しだけ目を見開いた。
ガットの言葉に、ジャックは一瞬だけ沈黙する。
そして、ふっと息を吐いた。
「……酒か?」
その声が、どこか安堵を滲ませていることを、ガットは聞き逃さなかった。
「いや。残念だが食えるもんじゃねえな」
「チッ」
「全部終わったら奢ってやるよ」
「へえ?刑期ぶち壊して逃げてきた奴に払える金があんのか?」
「犯罪者らしく、もらえるもんはもらってきてる」
くつくつと、イタズラが成功したかのようにふたりは笑った。
そんな彼らの周りを、ネクは静かに回る。
ベッドへ腰掛けたジャック。
その傍に椅子を引き寄せガットも座ると、受け取ったばかりの包帯を置き、ブルゾンのポケットから消毒液を取り出す。
「どこからくすねてきた?それも裁判所かよ?」
「いや。これはエザンバウトだ」
「手癖わりぃ」
言いながら、責めるでもなくゆるく笑う。
管理室の闇に、ふたつの影が静かに並ぶ。
それだけで、今夜は静かに満たされた。
けれど夜はまだ終わらない。
戦いも、まだ終わらない。
「…通信機の中枢、潰してきた」
ジャックの横腹の傷の消毒をしながら、ガットが呟く。
それに対して、ネクの軌道がわずかに揺れた。
「へえ。いるか?それ」
「ただでさえわけ分かんねえお前の戦いぶりで大混乱なのに、最高のトドメだろ」
「さすが、裏で動く奴は頭も回るよな」
どうでもいいと言わんばかりに、ジャックは治療を受けながら酒を煽る。
「土産ってそれか?」
「あと、中枢システム直せる科学者の身柄ひとつ」
「…いらねえ」
「こういう根回しが、明日の自分を楽にすんだよ」
学べよなとガットはかすかに笑う。
見ないうちに口が軽くなったような気がして、ジャックは面白くなさげに空の酒瓶を転がした。
「長引かせんのは趣味じゃねえだろ」
そのくせ、根底は何も変わっていないようだった。
ジャックが一瞬だけガットを見る。
ガットは当然のように、ジャックが捨てた酒瓶を取り上げて、屑籠へ投げる。
…懐かしいな、このおせっかい。
そんなことを思いながら、ジャックはふっと笑った。
「……それより、この丸いの、邪魔だな」
不意に、ガットがネクを睨む。
ふたりの頭上を回っていた銀球が、静かに目線の高さへ降りてきた。
「……クリスの監視用だろ」
「私は観察用ユニット。──ネクです」
「……」
「撃つなよガット」
嫌そうに細められたガットの目が、ジャックを見る。
「……視線がうるせえ」
「ねえだろ、目」
「音がしねえ。表情が読めねえ。感知システムが致命だ」
「慣れろよ」
「慣れたらしまいだろ」
ガットがぼそりと呟き、ネクを射抜くように見る。
ネクは回る角度を少しだけ変えて、次の行動へ移る。
「……ところで、確認事項があります」
「あ?」
ジャックが返事をするよりも早く、ネクの瞳が赤く点滅する。
「先ほどガット・ビターの発言にあった、“通信中枢を潰した”という件。現在のエザンバウト司令部との交信が一時的に遮断されています。さらに、同時刻を境にアントラ主任の個人発信信号も──途絶しました」
ガットは無言のまま。
ジャックはどうでも良さそうに、今度は手のひらをガットへ突き出した。
「アントラって誰だよ」
「クリス陣営の開発技術局主任アントラ・ター・ビッキ。私を開発した天使です」
「へえ」
「……」
しれっと、ガットはジャックの治療を続けながら聞こえないふりをする。
「お前が攫った天使が、そのナントカってやつか?」
「アントラです、ジャック。彼は私の生みの親です。生存確認を求めます」
「……」
「だってよ、ガット」
「…生きてはいる」
意識はないと短く答え、ガットは包帯を巻き終える。
「闘技場の床に置いてきた」
「気になるなら見てこいよ、ネク」
「……了解しました」
ネクの軌道が一瞬だけ揺れ、その後すすすと扉の隙間から消えていく球体。
それを見送る、ガットの目。
警戒が滲むのは、ネクのデータがクリス陣営に利用されているからだろう。
それさえ覆すことが容易なジャックからすれば、いくら見られてもどうでもいい事だった。
しかし、隠密や裏仕事が専門のガットからするとその存在を受け入れるのは困難だった。
ネクの機械眼に、熱や生体反応を感知させられるだけではない。
常に他人の呼吸や脈拍、微細な変化を読んで動く彼にとって、“沈黙”が無限の機械は危険物だった。
ただ、黙って帰ってきたガットを認識しても、ネクがあえて警戒アラームを鳴らさなかったのが全てだと、ジャックは思っていた。
そして、ジャックが少なからず信頼を置いていると読み取れたからこそ、ガットはネクを初手で撃ち抜くことを控えていた。
ネクが消え、闘技場に再び静寂が落ちた。
ジャックは丁寧に巻かれた包帯を触りながら、ガットをちらりと一瞥する。
「……そのアントラってやつは、生きてんだよな?」
ガットは息をつき、フードの奥でジャックを見た。
かすかにコバルトブルーを細める。
「頸椎に一発。……あのくらいじゃ死なねえ」
「……」
「気になんのか」
「気にしてねえ。けど──」
ジャックはベッドにもたれ、ゆっくりと目を閉じた。
呼吸が少しだけ深くなる。
「……死んでたら、明日、また面倒が増えるって思っただけだ」
ガットは笑わず、返事もせず。
けれどその沈黙には確かな“帰還”があった。
フードを深く下げたまま、ガットは影に隠すようにわずかに口角をあげた。
……なんにも変わってねえ。
窓の外で、ハーウェンの光だけが静かに揺れていた。
「……で。明日はどうすんだ?」
扉をぴったり閉めるガットへ、ジャックが質問を投げた。
肩をすくめながら、ガットはいつの間にか増えていた酒瓶を手に取る。
「援護してやりてえところだが、誓約破りで武器が使えなくなった」
「はあ?」
素っ頓狂な声とともに、ジャックが目を開けた。
「向こうに行った時に結ばされた“死神の誓約書”ってのがあんだよ。それを破って出てきたから、時間のウフはもちろん、自前の銃も──お前風に言えば、今じゃただの鈍器だな」
あっけらかんと明かされるには、あまりにペナルティが重いように聞こえる。
が、ジャックは自分の鍵束を漁り、目当ての一本を引くと、ガットへ投げ渡した。
銀の鍵。
そのつまみには、掠れた羽模様が刻まれた、林檎の意匠。
ガットはそれを月明かりに照らしながら、わずかに顔をしかめた。
「…おい、俺は手を焼きながら撃つのはゴメンだ」
「何本か、ウフが使えねえ武器がある。そいつもだ」
「……誓約破りの武器ってことか?」
「さあな。理由は知らねえ。前は使えてたような気がすんだけどな」
つまみの凹凸を確かめるように鍵を握れば、手のひらの上にスナイパーライフルが姿を現す。
型番は違くても、その重みはあまり変わりがない。
慣れた手つきで、ガットはスコープを覗いた。
「他にもショットガンとかある。そっちはウフありだけどな。確か雷」
「……騒がしくなる武器はいらねえ」
「銃火器は俺もいらねえ」
それから二三、鍵を同様に投げて、ジャックは綺麗に巻かれた包帯の手を頭の後ろに組んだ。
そのまま硬いベッドへ寝転がる。
「これで明日には片付くな」
「……俺も参戦すんのは決定事項かよ。お前の審問だろ」
「暇だろ?手伝えよ」
誰のために立ってると思ってんだと、ジャックは笑う。
ガットはわざとらしくため息をついて、長く使われてなかったわりに、埃がないもうひとつのベッドへ体を倒した。




