百三十五層:星をまわす.01
夜が訪れ、戦場が一時的な静寂を取り戻したころ。
エザンバウトの司令室では、誰も“勝った”などとは思えない空気が支配していた。
「…被害報告、続けて」
心理担当官が低い声で促す。
けれど、報告を続けていたモニター班の口は重かった。
「…前線兵士のうち戦闘不能者、四割以上。戦意喪失による行動不能、二割強。武器の放棄、離脱…予想を遥かに超えています。特に市民、戦士あがりの多くがそのまま救護班へ……」
「あの混戦で、誰ひとり“ジャックの致命に届かない”というのか…?」
戦略担当の声が、静かに震えていた。
綿密に張り巡らせた包囲網。完全な空間制圧。
ありとあらゆるパターンでの想定と演習を繰り返してきた「ジャック・J・ジッパー専用討伐戦」。
二十年もの間、つらい訓練に耐えてジャックへの怨念を募らせた市民たちが、今日この日に“待て”ができるとは誰も思っていなかった。
……統率のとれた戦術が嫌いな、戦士崩れたちも。
だから、彼らによる乱闘、そしてジャックの体力消耗まではすべて想定内だったにも関わらず──
「彼の消耗──脇腹への刺創ひとつだけ、です。止血もせずに、立ちっぱなしで、話して……その後、日没まで、動き続けていました」
報告の声が小さくなる。
誰もがモニターに、言葉を失っていた。
「……恐ろしいのは、あれだけの混戦の中、確かに何度も殴られていたのに──顔が腫れ上がることすらなかったという点だ」
「あれの体は何でできてるんだ……?拳もそうだが、あれほどの適性外を重ねて、なぜあんなに動ける」
誰かの指が震える。
あの“死ななさ”は、一体どこからくるんだ……
「日没直前、呼気の乱れは確認できました。ですが、あの動きの量にしては……」
「市民、戦士の消耗率が増加後は、前線兵士が消耗戦を続けさせましたが、それでも奴は眩暈一つなく……」
報告官たちが互いに視線を交わす。
誰もが同じ答えを胸に浮かべていた。
──いよいよ化け物じみてきた。
全員の心がひとつになったその中で、ひときわ目立って狂っていたのは、白衣の男だった。
「ギャアアア!!もうムリ無理無理無理!!」
机を蹴り、白衣のポケットから図面と資料を撒き散らしながら、アントラが床に倒れて暴れていた。
「こっちはあの数の鍵、全部調べて!リスト化して!“予測モデル”まで作ったのに!!アイツ、そもそも“武器”って認識してないんじゃん!!じゃあ何!?鍵束って、ただのくじ引き?!」
「…しゅ、主任!」
モニターには、ジャックが挙句神殿の屑を投げ、槍で転ばせ、盾で敵を一閃するという、“意味不明”な戦いの連打が続く。
それでも、全てが成立している。いや、圧勝している。
「何が“武器選択ジャンケンの最適化AI”だよ?!何が“標準装備との干渉反応率”だよ!!くじ引きで武器投げるとか、想定できるかあ!!」
「アントラ主任、落ち着いてくださ…」
「落ち着いてられるかああ!!適性外で燃えながら拳を使ってんだぞ?!あれ何?!適性外ってなんでそう言うか知ってる?!文字通りウフの放出許容量超えてんの!同じ“炎”でも、適性外が握れば──焚火と地獄の業火くらいレベチなの!!」
隣で冷静に記録を取っている戦術担当者がぼそりと呟く。
「奴は、“武器”を“記号”として扱ってる様子がありません……何をどう引こうと、身体で完結させてしまう。情報じゃなくて、本能だ」
「本能で“ウフの相性”突破してくるの!?おかしいでしょ!!なんで!?天才なの!?バカなの!?え!?バカなのに天才なの!?」
別の端末が、開幕五分までは高速で演算を行っていたAI予測システムのログを表示する。
《武器識別不能》
《攻撃意図逸脱》
《精神状態推定不能》
しかし、そこに映るのは真っ赤なエラーコードばかり。
機械すら匙を投げ始めていた。
「やだもうほんと、イデラの子ども用アニメのほうがロジックあるよ……あの変形ロボのがまだ戦闘スタイル理解できるって……何この現実……!!」
アントラは机の下で泣いていた。
もはや、科学者でも技術士でもない、ただの崩れ落ちた天才。
「データ…こんなのデータって言わない…!こんなの“神話”じゃなくて、“概念のバグ”だよ……なにこれ。“戦闘”じゃなくて“思想”だよ。どうやって止めんの……」
「……」
心理担当者は、アントラをちらりと見てから、やがて静かに報告書に目を戻す。
「…実際、今日の記録のうち“理論化可能な挙動”は、全体の27%にとどまっています。残りは、倫理、合理性、常識のいずれかを逸脱しています」
「逸脱っていうか!!天使の戦い方じゃないもんアレ!!」
アントラが再び床を転げながら吠える。
「…ジャック・J・ジッパー……マジで狂ってる…狂ってるって!!」
そこへ、冷ややかな心理担当者が言う。
「狂っているのは、彼ではなく──我々の“定義”かもしれませんよ」
沈黙が落ちる。
心理担当者は冷ややかなまなざしで、ソルファリウムの現在を映す画面を見つめていた。
その先にいるのは、彼女──クリス。
彼女の“弱者救済”に共感してついてきたものの……
信仰を蔑ろにしてまで組み上げた戦場が、まるで意味を持たなかった。
それどころか、奴は“ある物を利用する”天才だ。
武器や地形、瓦礫、我々の戦術に限った話ではない。
通信機の存在など気にも留めていない顔をして、言葉ひとつで蒼殻の全天使の心を揺さぶる。
そしてその命をとした問いかけに──クリス様は答えなかった。
心理担当官は静かにまぶたを閉じる。
その隣で、戦術担当官が重苦しく呟いた。
「──だとしても。明日は来る。奴はまた来るんだ。どうする、アントラ主任」
アントラは白衣の中からクシャクシャの資料を取り出して、机の上にぶちまける。
「分かんないよ……でも、やるしかないだろ……!」
その目だけは、まるで追い詰められたネズミのように、ギラギラと研ぎ澄まされていた。
「生き物である限り、なんか、なんかあるはずでしょ!“ジャックを止める方法”が…!じゃなきゃウチが積み重ねてきた“科学”が負ける…!!」
白衣の男は、もはや「誇り」や「正義」とは別の領域で、ひとりだけ執念を燃やしていた。
そしてその扉の外で──
影が、音もなく静かに歩み寄っていた。
*
戦略と心理の担当者たちが会議室へと移動し、司令部が慌ただしく動く中──
アントラは、技術局の自室にひとり残った。
「……せめて通信装置だけは。次の戦況報告、止めるわけにもいかないしな……」
顔面蒼白のまま、手だけが震えながらも装置をいじっている。
「“同層間通信装置”……お前だけは、まだウチの科学でしょうよ…?」
この二律動で飛躍的に普及したとはいえ、天使社会でもまだ不安定な通信機器。
それらを安定させられる者は数少ない。
まして、今回戦場で使っている全兵士が耳に付けている複数受信型については、アントラを除いて誰も理解に及んでいない。
狂いそうな現実の中で、唯一「自分の理解で動くもの」がそれだった。
だから、彼はそこに縋るように、メンテナンスを始める。
彼の声だけが、無人の研究室に響く。
通信装置の小さなランプが、かすかに点滅を繰り返した。
端末の光が青く灯り、接続が正常なことを示す。
ふっと息を吐いた途端に、空白が生まれた脳裏を、爆速で武器を切り替え戦い続けるジャックの姿が走り抜けた。
「……あれに勝とうってのは“物理法則と喧嘩する”くらいの覚悟が要るよマジで……朝までに、現実を“技術”で上書きしなきゃならない……」
そう呟いた指先が、ふるりと止まる。
頭痛がして、色の濃いゴーグル越しに、両手で顔を覆う。
「……無理ゲーすぎ……」
また大きなため息をひとつつこうとした瞬間──
研究棟の扉が、音もなく“内側”から閉じられる。
「……あれ、誰か……?」
足音がしない。
なのに、気配だけが背後に立っている。
アントラの手が、咄嗟に警備アラームのボタンへ伸びかけた。
しかしそれよりも早く、頚椎に、針のような衝撃。
「……ッ!」
視界が回る。
後ろに倒れる体。
ブレーカーが落ちるように、彼の意識も闇へと落ちていった。
ランプの光だけが、なお、点滅を続けていた。
*
血だらけの拳で、グリヴェスの商船と合流しないまま、ジャックはヴェルトルクへ帰ってきた。
相変わらず無駄な火が灯らない、暗く静かな島へ。
島民たちは彼へ軽く声をかけるだけで、無用な会話はなかった。
ただ、「おかえり」。それだけ。
ノイマンが軽く食べられるものを詰めた紙袋を手渡す。
この島では、彼の戦い方を見た恐れや困惑はなく、ただ労りだけが出迎えた。
彼は廃闘技場へ真っ直ぐ向い、自身の寝床である管理室へ入る。
赤が滴る手袋を雑に取り、白いジャケットを脱ぎ捨てる。
火傷、凍傷、切り傷、あらゆる痛みが染み込んだその手を、適当に洗う。
静かだった。
戦場の喧騒が嘘みたいに、ヴェルトルクの闘技場は闇に沈んでいる。
水が流れる音と、頭上を浮遊するネクの稼働音だけが聞こえる。
「ジャック、お疲れ様でした」
古傷が重なる、引き攣った手の皮。
利き手は肩まで新たな火傷痕が走っていた。
赤く染まるタオルを無視して水滴を拭くジャックに、ネクが静かに声をかける。
「…しかし、ひとつ、聞きたいことがあります」
「なんだよ」
どこか遠慮するような、少しの沈黙の後、ネクは言葉を続けた。
「……本日、戦闘開始直後から、武器の使用パターンに大幅な乖離を検出しました。ジャック、あれは何だったのですか?」
「なんでもねえよ。いつも通りだ」
ネクは焦りながらも、今日だけで膨大な量になったデータの解析を並行して続けた。
データ上では「武器の識別→戦闘スタイル推定→戦闘性格変化」という推定をしていたが、ジャックの行動は、武器の定義自体を破壊していた。
「……あれほど丁寧に、鍵束から武器をひとつずつ確認していた時間は何だったのか、説明を求めます」
それは、明らかに困惑した声色だった。
「あー、そんな事もあったな」
「私が見てきた限りでは、あんな扱いをしませんでした」
「言ったろ。使ってりゃ、“掴める”気がするって」
けれど気にも留めず、ジャックは適当な手つきで左脇腹の傷にタオルを押し付けた。
「……つまり、元の使用者の“記憶”に沿っていたと…戦闘最適化のための“トレース”ではなく、“記録”目的だったと?」
「さあな。そうだとして、なんか都合悪いか?」
まったく、質問の意図がわからないと言いたげだ。
ゆるく片眉を上げたジャックが、ネクを見る。
「……理解に苦しみます。今日のあなたの行動は、過去の行動データと矛盾しています。あなたは武器を武器として扱っていない。剣で殴り、盾を投げ、銃を鈍器に──それは戦術ではなく“感覚”です。そこにロジックが存在しない」
ジャックは笑った。
どこか混乱したように、理論を突きつけてくる銀の球体に向けて。
「当たり前だろ。“戦場”にロジック持ち込んで、誰が死なねえって保証してくれんだよ」
ネクがふるりと震えた。
目線の高さまで、静かに降りてくる。
「生き残るってのはな、ネク。“何しても命を守る”ってことだ。美しさなんか、命に求めんな。傷だらけでも泥すすっても──生きてりゃそれでいいんだよ」
「……」
「考えてる間に死ぬなら、考える前に身体動かせ。お前、得意だろ?“考える”の」
再び視線を外して、ジャックは手のひらに巻く用の包帯を探し始める。
ネクはそんな彼の背中を見つめたまま、その場に浮かんでいた。
「……矛盾です」
ネクの内部で、いくつもの計算式が生まれては消えていく。
「生きるなんて矛盾の最たるもんだろ」
ネクは言葉を失う。
データでは語れない“矛盾の中の真理”に、何かが揺れる。
ジャックは鼻で笑う。
ようやく見つけた包帯を手の上で転がしながら。
「俺が持った時点で、全部“武器”になるんだよ。この包帯でさえ。──そういう生き方をしてきた」
ジャックは包帯を伸ばす。
けれど。
……巻き方わかんねえな。
“治療”が必要なほど、深く怪我を負ったのはいつだったか。
無機質な壁が脳裏を掠めたが、すぐにやめて雑にシーツが巻かれただけの簡易的なベッドへ包帯を放る。
足を投げ出すように、窓際にある椅子へ腰かけ、外を見た。
今日一日を振り返るまでもなく、形勢は最悪だった。
クリスの軍は数が多すぎる。どこから湧いてきたのか分からねえほどに。
でも、それが今の天使社会の構図ってことだろ。
昔鍵を奪った戦士崩れどもは、どうでもいい。
エザンバウトの島民たち……数は少なくても、あいつらが一番下扱いが難しい。
ただ折り合いをつける。それだけのことなのに、長引きそうだ。
めんどくせえな、と胸の内で呟いてため息を落とす。
それでも、明日はまた戦場に立つ。
それが、ジャックが一度誇りを捨てた果てに手にした “選択” だった。
治療を諦めて、窓枠に置き去りにしていた酒瓶を手に取る。
ひんやりとした瓶の冷たさが、傷だらけの手のひらに沁みた。
口をつけようとした瞬間、ジャックの指が止まった。
……減ってる。
半分ほど入っていたはずの酒が、四分の一も残ってねえ。
……この管理室は、俺の他にはネクしか入ってこない。
島民が入ってくることも、戦士が入ってくることも、一度もなかった。
そういう “線” は守る連中だ。
ジャックは酒瓶をテーブルに置き、床へ目をやる。
そこにあるのは、一つの薬莢。
ガットのものだ。
長く放置されていたそれが、無造作に捨てられている。
まるで、「こんなもんに用はねえ」と言わんばかりに。
……ありえねえ。
誰がどうやって手をつけるってんだ。
これは、ガットしかできねえことだ。
そっと立ち上がる。
部屋を見回して、さっき投げた包帯が視界に入った。
変わらず、ベッドの上に転がってる。
だが、それは、綺麗に巻き直されていた。
それを見た瞬間、ジャックの口元が微かに上がる。
……帰ってきたか。
足音もなく、気配すら残さず、確かにここを通った。
だが、誰にも告げず、ただ “それ” だけを残して去るなんざ、ガットらしいっちゃらしい。
夜の静寂が広がる中、ジャックは何気ないように、けれど、“そこにいることを知っている” かのように呟く。
「……ずいぶん長い休暇だったな」
その瞬間。
影が──動いた。
ジャックが立つ位置から、すぐ後ろ。
彼の影を踏むようにして、いつの間にか──ガットが立っていた。
闇と一体化するほどの黒衣。
静かな光を宿したコバルトの瞳も、雑に掻き上げられた金髪がフードの下から覗くのも、沈黙を守る在り方も、何も変わっていない。
ただ、以前よりも肌が白くなり、少しだけ精悍になった顔つきに、夜の冷たい光が落ちていた。
ふたりの間に、言葉よりも先に、“安堵”が落ちた。




