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Shangri-La ─ 生きて、死を越え、何かを遺せ。  作者: sora
【第二幕】問いの幕開け

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252/356

百二十九層:問いの幕開け.01



『──告ぐ』



全層一(ぜんそういち)の美しさを誇る浮島群。

その昼下がり、陽は穏やかで、雲さえ緩やかに流れていた。

いつもと変わらぬ風の音の中──不意に、クリスの声が落ちた。


『三日後、“神獣の島”ソルファリウムにおいて、ジャック・J・ジッパーに対する審問を執り行う。審問はソル・ベリリウムの御名のもとに開かれる。彼が社会に受け入れられるか否か、その是非を問う最後の場とする。拒むならば──』


一拍の間。

風が彼女の声を攫いきる前に、冷たい声が落とされる。



『戦いによって、裁かれるだろう』



一瞬の沈黙。

その言葉が届いた時、誰もが──あの空が揺れた気がした。


クリスが行った、天使社会に向けた公式宣言。

それは、ガット・ビターの逃亡を報じた号外すら上回る衝撃を、浮島全体に与えた。



誰もが、恐れていたことだった。



低空に沈むヴェルトルクで、静かに眠っていた“化け物”に向けての──

実質的な討伐宣言だと、天使たちは皆、理解していた。


本来神獣の前で言葉で断じられるべき、“審問”。


──お前は、社会の枠組みに入れるのか?


最後の問いに、あの“災害”が応えるとは、誰も期待していなかった。


クリスが設けた最後の慈悲の場は、あっけなく戦場へと変わるだろう。

むしろ、そうなることを前提とした年月を天使たちは過ごしてきた。

戦士を募集し、訓練を重ね、“殺す”ための技術と能力を高めてきた。


だから、全ての島に浮いているのが日常になった四角い鉄のスピーカーから、

クリスの冷え切った声が音のウフによって響いたとき、“蒼殻(そうかく)”全土は“音”を失った。


その声は、鉄の檻だった。

浮島のどこにいても逃れられず、

ただ、風が島の淵にぶつかる“空洞の音”だけが、世界をかろうじて繋ぎとめていた。



誰もが耳を疑い、誰もが息をのんだ。


「……なんで、今なのよ…?」


“愛と文化の島”アネモルムでは、明日に結婚式を控えた天使が、嘆くように空を仰いだ。

首には新品の金製ネックレス。

つい数か月前、恋人とお互いにかけあったそれを、握りしめて。



「…ついにきちまったのか」


“鉄鋼の島”ティティルでは、山のように積み上がる多様な武器を眺めながら、鍛冶職人が深く息を吐く。

鉄の粉塵が巻く風の中で──

“使い捨て”前提に作られたそれらが、次々にソルファリウム行きの船に積み込まれた。


赤煉瓦の街のはずれ。

煙が立たない唯一の鍛冶工房で、ユニフは外から滑り込んできた“鉄の声”に目を伏せた。

討伐対象は、バカ息子──ゾムリスが傾倒しているあの化け物だ。


もう何律動前か覚えていない。

でも、鉄箸を地面にたたきつけて“勘当”を言い渡したはずのあいつが、ヴェルトルクの化け物に会った後、一度だけ、戻ってきた。


グリヴェスの島主、グリプとの面会権利をもぎとって。


あいつは、この工房には顔も出さずにまたヴェルトルクへ戻っていったらしい。

港にいた若い鉱夫に「ユニフを会わせてやってくれ」とだけ告げて。

そしてひとりの少年を、工房へと寄越した。


ライパビの息子。一目でわかった。

夕日のような橙の髪と、昼の空のような青い瞳。

ゆるく編んだ三つ編みまで、そっくりだった。

そして、ようやく自分を恥じた。


ライパビの死後、全ての浮島との交易を引き継いでおきながら、“顔出し”を一切しなかったグリプ──

いや、周囲の大人の判断に、長い付き合いだった自分が例外になれなかったことを怒り、一方的に交易を絶ったこと。

もう250年以上前の話だ。

それなら当時、この子供は、もっと幼かったはずだった。


しわの多い自分の手と、まだ骨張りもしない滑らかな手を見比べて──

ユニフはひとつだけ、涙を流した。


あの日から、グリヴェスとティティルの交易は再開した。

そして同時に、ユニフは()()()()()()()()



もう、誰のために鉄を叩けばいいか、分からなかった。



けれど、クリスの庇護下から外れたわけでもないティティルは、ジャック討伐を掲げたエザンバウトからの指示で、武器鋳造を余儀なくされた。

本来戦わない天使であった者たちにも、武器を支給するために。



旧友の息子に交易を頼りながら、

その息子が信じる男を殺そうとする者たちへ、

彼が育てた鍛冶職人たちは、静かに鉄を打つ。



グリプは何も責めてこない。

むしろ、自分が顔を出さなかったことで、長らく交易を損なったティティルを思い、ユニフの目の前で頭を下げた。

そして今、クリスの部隊のためにこの島が武器を作っていることも、知っていて、何も言わない。


「……何を打ってたんだろうな、俺の手は」


ユニフは槌を持たなくなって久しい手のひらを見つめた。

……どうか、せめてゾムリスだけは、誇りに潰されずに、生きられますように。

そう祈ることしかできなかった。



「三日後に全てが決まる。審問は最後の慈悲だ。だが──奴は、クリス様に応えないだろう」


クリスの宣誓直後のエザンバウト。

整然と並ぶ戦士たちの前を、軍隊長がコツコツと踵を鳴らしながら歩き、声を張る。

この二十年間、すべてを訓練へと注いだ兵士たちが、精悍な顔つきでそれを見つめる。


整然と並ぶ戦士たちの腰には、同じ刻印の剣が輝いていた。

鞘の模様はティティルのもの。


「敵がひとりの天使だと侮るな。しかし、奴の沈黙の間に、我々は奴を殺すためのあらゆる対策を施した。──覚悟を決めろ。これは単なる討伐戦ではない」


軍隊長の声は、重く、低く、鋭い。


「これは“社会が掲げる正義”の真価を問われる戦争である」


胸に拳を当てる戦士の目は、恐怖ではなく高揚で燃えていた。

けれど列の後方、若い兵士の肩がわずかに震えていた。

誰かが握りすぎてくすんだ金の花のネックレスを指先でなぞる。


また誰かの“愛”が散る。

だがジャックがこのまま不殺を掲げてくれるなら──

その散る数は、圧倒的に少なくて済む。


救いに見えたのは──その涙が、“ジャックを愛する者だけ”に限られるということだった。



*



「ジャック、審問への正式な召喚要請が届きました。三日後、ソルの時間の始まりとともに、ソルファリウムの地へ赴くことが指定されています」


ネクがそう告げたのは、ヴェルトルクの小さな街に浮く鉄の箱から、クリスの声が落とされた直後。

ネク本体へ個別に送られてきた、ジャックに宛てた“呼び出し”だった。


静かに落ちた機械音声に、天使たちがざわめいた。

雲が、ソルの目を横切る。


ネクの声はどこまでも無機質に告げるだけだった。

けれど、それは全社会の耳に響いた檻のような声よりも、よほど重たく聞こえた。


「へえ。考えることは同じか」

「ですが……ジャック。これは審問とは名ばかりの、“戦争”である可能性が極めて高いと予測されます」

「だろうな」


さらりと流すジャックに対し、ネクが言い淀むように言葉を足す。

それでも、ジャックはまるでそれが当然と言わんばかりに自然と受け止める。



「──私はあなたを心配しています、ジャック」



高度を下げ、ジャックの目線へ滑り込むネク。

冷たい風が頬を撫で、銀の光がその瞳に映った。

ジャックはその赤い機械眼を見返し、軽く鼻で笑った。


笑った口元とは裏腹に、その言葉に、胸の奥がわずかに疼いていた。


“心配”なんて言葉、こいつの口から聞く日が来るとは思わなかった。

……悪くねえ。

でも、自分がここで死ねば、この球体も、ただの“記録装置”として回収されるのだろう──

そんな想像が、先に浮かんでしまった。


だからこそ、声にするつもりはなかった。


ジャック以外の天使らは、ネクのことをいつも静かに彼の周りを巡るだけの銀球だと思っていた。

戦士も島民も、誰もその存在が何をしているのか、正確には知らなかった。

ただ、クリスがジャックを監視するために張り付けた“機械”。

その程度の認識。


だが、明らかに、その銀の球はジャックの肩をもつような発言をしている。

そのことが、“機械が話せる”という衝撃を上塗りしていく。


結局、あれはいったいなんなんだ。

誰もが聞きたくても、今はそれどころでもない。


島民たちがお互いに目配せし、数人が街へ続く道を駆けていく。

戦士たちは逆に闘技場へ踏み入り、観客席の石段に立ったままのジャックを見上げた。

そんな戦士らに押されるように後退したバンズは、両手で頭を抱える。


「いや……本気か?行くのかい?審問って体裁取ってるってことは、それつまり、“あんたひとりで来い”っていう、限りなく綺麗な死刑宣告だぞ?」

「今か、三日後か、その違いだろ」

「こんな形、黙って受け入れられるわけねえだろ」


ゾムリスが煙草を折って踏みつぶした。

凌は一歩後ろへ下がり、事の成り行きを見守る。

全ての視線を集めるジャックは、いつものエメラルドグリーンを一度空へ向けた。



その先に見える、もっとも高空の島──ソルファリウムを瞳に映す。



「ジャック、君が強いのはみんなが分かってる」


ラスターが言葉を探すように視線を彷徨わせる。

数名が見上げ続けられず、目を逸らした。


おそらくジャック以外、全員が知っている。

クリスがジャックに備えて、どれだけ兵士を募り、技術開発を進めてきたかを。

皮肉にも、その技術の躍進のおかげで、日常生活まで便利になった点は多い。

でもその間、ジャックは島民たちの日常を手伝っていて、鍵さえ握らない日々が続いていたことも、ずっと見てきていた。


戦士なら誰もが羨む、ジャックの鮮やかな戦闘スキル。

それでも、現実は──甘くない。


「単騎なんてやめといた方がいい。ちゃんと戦力を揃えるべきだよ。……クリスは、ジャックがここにいる間、ずっと──君を殺す準備をしてきたんだ」


ジャックは何も言わなかった。

答えることなく、ふわりと石畳へと降り立った。

そしてそのまま、中央に突き立てられたままの重力の剣へ向かう。

握りはしない。

ただ、懐かしむように、剣の柄に指を滑らせる。


「戦争がしたくて行くんじゃねえ」


やがて、ジャックは呟いた。


「全天使が俺を殺したくても、どうでもいい」

「どうでもいいって…」

「全員に好かれたくて、生きてるわけじゃねえ」

「……」


それでも何かを言いたそうなラスターや、周囲の戦士。

ジャックは両手剣を見つめたまま、はっきりと告げる。


「それに、戦力を揃えりゃ、そりゃ確かに早く戦場を畳むことはできる。けど、それは散る命の可能性を増やすってことだろ」

「……」

「味方だからとかじゃねえ。……ただ、“俺の戦場“なら、“俺だけの方が力加減がやりやすい”ってだけだ」


閉口するラスター。

ジャックはニヤリと笑って、そんな彼を見た。


「お前ら、余計な手出すなよ。呼ばれたのは俺だ」


全てに否定されても歯牙にもかけない。

まっすぐで揺れない、確かな芯が、ジャックの中にはすでにあった。

揺らがない。消えない。


あまりに強く硬く、そして、()()



──“誇り”のために死ぬ。



「お前を失いたくない」と、喉まで出かかった言葉は、結局、誰の口からも漏れ出ることはなかった。


鍵を奪って、形骸化された文化に成り下がったと社会に示した本人が、

今、それを体現しようとしている。

そう、気づいてしまったから。


「……ほんと、なんも変わってないねえ…」


帽子のつばを下げて、バンズが大きなため息をつく。

ネクがくるりとジャックの周りをまわる。

ゾムリスは苦々しげに目を伏せ、ラスターは拳を握る。

アウディたち他の戦士も、島民たちも、ノイマンも──


この瞬間に、ひとつの覚悟を問われていた。



それはこの火が燃え尽きる“最期”を、目をそらさずに見届けられるか。



そんな、冷たく重い、命の問いだった。


その答えを試されるのは、──三日後だ。



*



ソルファリウムの草原は広い。

浮かぶ島は楕円形で、山もなければ坂も、川もない。

ただ、だだっ広い空間に、短く生える空草(そらぐさ)と、割れた白い石畳が広がっている。


島の中央には“ソルの神殿”が建ち、崩れた遺跡の中心に、風のウフで組まれた囲いと共に、“不滅の炎”が灯っている。


昼の火は太陽に滲んで見えにくい。

だが、日が傾きソルが寝静まると、崩れた遺跡が透かし彫りのランタンのように、周囲へ光が漏れ出した。



一日目。


かつて自然のままに存在していたそこは、陽傘(ひがさ)が島全体の空を薄膜で覆って久しい。

ソルの眩しすぎる陽をそのままに、薄く白い膜が高空の冷風をこしている。

さらに、体温維持のために草原のあちこちには大きな金の火鉢が置かれ、組まれた木材の中心に灼熱に光る炎のウフが煌めいている。


もう二十年。


クリスがジャック討伐を掲げてから、この地は戦場のために整えられてきた。


ソルファリウムの地には、次々と天使の部隊が集結していた。

戦士、各階層の隊長たちが“審問”の名のもとに呼び出される。

技術者たちも、来る日のために生み出した兵器を運び込む。

作戦指示書の配布。ネクのデータの最終分析。


ジャック討伐戦へむけて、最終想定訓練が現地で始まる。


“審問”という薄皮で包まれた、冷たく殺伐とした“殺意”。


「……やっぱり、来ちまうよな」


誰もが感じていた。

もはや後戻りはできないと。



一方、ヴェルトルクは緊張を孕みながらも、いつもと同じ今日を始めていた。

いや、いつも通りにしようと、努めていた。


決まった時間にパン屋は開き、いつもの手順で漁へ向かう船。

けれど、井戸端の会話は不自然に止まる。

戦士たちが気まずく目をそらす。

貧乏ゆすりする男、洗濯物を止めそこなう女の震える手。

子供たちでさえ、この日は闘技場へ遊びに行けなかった。


バンズは昨日のうちにグリヴェスへ舞い戻り、ジャックの意向を伝えていた。

彼を止めることは不可能だ。

だったら、“その先”を読んでボスのために動くしかない。



──その先にどんな結果が待っていようと。



戦士たちはその後、何度か「本当にひとりで行くのか」と問いかけた。

ジャックはそれに対してただ一言。


「しつけえ」


それだけ言って、いつものように闘技場の石畳に腰を落ち着かせてしまった。

言葉が足りないのはいつものことだ。

だが、今回はゾムリスも、ラスターも、アウディも、誰も問い詰められなかった。


見えていた。

ジャックの中には、すでにひとつの“覚悟”が固められていることが。

多くの戦士の脳裏に、かつてジャックに(たお)されにきたディセルの背中が思い出される。

あの時燃えた、闘技場脇の環炎壇(かんえんだん)に、今は誰も視線を向けられない。

それでも時間は過ぎていく。

今度は、自分たちがそれを受け止められるのか、それだけが問題だった。


数名の戦士を連れて、ラスターは“蒼殻(そうかく)”を出た。

悪魔やクリスたちより先にガットを探すために、ゼノラ(そう)へ向う。

ジャックはそれを止めなかった。

ただ「無駄だぜ」と軽く笑っただけ。

それでも、戦士たちは何もしないということが、できなかった。


日をまたいでなお戦士たちが戸惑いを隠せない中で、どこ吹く風の男がひとり。

闘技場の瓦礫のひとつに腰かけたまま、冷たい風に白い息を流しもせず、そこにいる。

──凌だった。


その異様さに、ジャックは目を細めた。


「…テメーは戻んなくていいのか」


視界から外れているはずなのに、観客席から声が落ちてくる。

ガットと同じく、恐ろしく視野の広い男だと、凌は銀の天使を見上げた。


「好きなタイミングで帰るよ」

「へえ」


無言で座る、風に飛ばされそうな淡い存在。

ジャックは珍しく、興味深い眼差しで凌を見た。

やれることもなく、ただ闘技場へ残ったアウディたちも、ようやく存在を思い出したようにしげしげと目線を向ける。


「……テメーは、なんなんだ?」


ただガットの無事を伝えにきただけなのは明白だった。

それ以上でも以下でもなく、何もしないでそこにいる。

でもそれが逆に、ジャックの不思議に思う気持ちを募らせる。


戦争間近で──

最も危険だと噂される自分の元に、その情報だけを運んでくる。

その底がしれない。


雑すぎる疑問に、凌はどうでもよさそうに答えた。


「獏だよ」

「……聞いたことねえ種族だな」

「俺の他には、もういないから」


ピピ、と頭上を回るネクが記録する音が聞こえた。

戦士の誰かが息をのんだ。

ジャックはわずかに目を細める。



「絶滅すんのか?」



無遠慮に問う。

凌は淡々と。



「──そうだね」



短く答えた。

ジャックは口を閉じた。

何かを思うように、目線を空へ向ける。


これ以上の会話は続かなかった。

けれど、互いに絶妙な距離を保ったまま、廃闘技場に座っていた。


風が、言葉の代わりにふたりの間を通り抜けた。



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