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第四十五話 エピローグ:ありふれた風景

 2024年。

 東京。

 小さな喫茶店。

 午後3時。

 平日の、穏やかなひかりが差し込む時間。

 店内には、5人の客がいた。

 窓際の席に、60代の男性。

 スマートフォンでニュースを見ている。

 カウンター席に、30代の女性。

 ノートパソコンを開いている。

 奥の席に、大学生らしい若い男女。

 小声で話している。

 そして、入り口近くの席に、70代の老人。

 ただ、コーヒーを飲んでいる。

 店のスピーカーから、音楽が流れている。

 ジャズ。

 ピアノ・トリオ。

 ピアノ、ベース、ドラムス。

 古い録音。

 しかし、美しい。

 60代の男性は、スマートフォンから顔を上げた。

 この曲、聞き覚えがある。

 何だったか。

 思い出せない。

 だが、懐かしい。

 彼は、またスマートフォンに戻った。

 30代の女性は、パソコンを打つ手を止めた。

 この音楽、好きだ。

 クラシックみたいな、ピアノ。

 でも、ジャズ。

 不思議な音楽。

 彼女は、スマートフォンを取り出した。

 音楽認識アプリを開いた。

 検索したが、認識できなかった。

 古い録音だからか。

 彼女は、メモアプリに打ち込んだ。

「後で店員さんに聞く」

 大学生の男女は、音楽に気づいていなかった。

 試験の話をしている。

 レポートの締め切り。

 サークルの予定。

 音楽は、ただ背景だった。

 70代の老人は、目を閉じていた。

 コーヒーカップを、両手で包んでいる。

 温かい。

 音楽を、聴いている。

 この曲を、知っている。

 昔、よく聴いた。

 40年以上前。

 1980年代。

 ベルリンでの録音。

 オイゲン・キケロ。

 ニールス・ヘニング・ウアステッド・ペデルセン。

 トニー・インザラコ。

 老人は、目を開けた。

 窓の外を見た。

 東京の街。

 人々が、歩いている。

 車が、走っている。

 普通の、午後。

 老人は、思い出していた。

 初めて、このレコードを聴いた時のことを。

 1980年代。

 東京の、小さなレコード店。

 ジャズのコーナー。

 店員が、薦めてくれた。

「これ、いいですよ。ベルリンでの録音です」

 ジャケットを見た。

 三人の、絵。

 イラストレーション。

 タイトルは、『オイゲン・キケロ・イン・ベルリン』。

 日本盤だった。

 家に帰って、聴いた。

 最初の音が、流れた瞬間。

 心を掴まれた。

 何度も、何度も聴いた。

 そのレコードを。

 すり切れるまで。

 それから、40年以上。

 老人の人生にも、いろいろあった。

 結婚。

 子供の誕生。

 仕事の成功と、挫折。

 両親の死。

 そして、定年退職。

 しかし、この音楽は、いつも一緒だった。

 嬉しい時も。

 辛い時も。

 喫茶店のマスターが、カウンターから声をかけた。

「お代わり、いかがですか?」

 老人は、頷いた。

「お願いします」

 マスターが、新しいコーヒーを淹れる。

 豆を挽く音。

 お湯を注ぐ音。

 そして、コーヒーの香り。

 音楽は、まだ流れている。

 曲が、変わった。

 次の曲。

 明るい。

 跳ねるような、リズム。

 春を思わせる。

 30代の女性が、また手を止めた。

 この曲も、いい。

 彼女は、微笑んだ。

 そして、カウンターに向かって、声をかけた。

「すみません、この音楽、何ですか?」

 マスターは、微笑んだ。

「ああ、これですか。ベルリンでの録音です。1977年。オイゲン・キケロと、ニールス・ヘニング・ウアステッド・ペデルセン」

「素敵な音楽ですね」

「そうでしょう」マスターは嬉しそうだった。「47年前の録音ですが、今でも色褪せない」

 老人は、その会話を聞いていた。

 微笑んだ。

 女性は、スマートフォンにメモした。

「オイゲン・キケロ、ニールス・ヘニング・ウアステッド・ペデルセン」

 そして、また仕事に戻った。

 マスターが、コーヒーを持ってきた。

「お待たせしました」

「ありがとう」

 老人は、一口飲んだ。

 美味しい。

 老人は、また音楽を聴いた。

 目を閉じた。

 あの三日間。

 1977年2月27日、28日、3月1日。

 ベルリン。

 クライネス・シアター。

 小さなクラブ。

 100人の観客。

 三人の音楽家。

 老人は、その場にいなかった。

 録音でしか、知らない。

 しかし、感じることができる。

 あの場の、空気。

 あの瞬間の、緊張と興奮。

 三人が、一つになった瞬間。

 それが、音楽に記録されている。

 永遠に。

 曲が、終わった。

 拍手の音が、録音されている。

 ベルリンの観客の、拍手。

 47年前の、拍手。

 しかし、今も聞こえる。

 老人は、目を開けた。

 窓の外を見た。

 東京の街。

 人々が、歩いている。

 仕事に行く人。

 学校に行く人。

 買い物をする人。

 友達と会う人。

 そして、この喫茶店にいる人たちも。

 60代の男性。

 スマートフォンを見ている。

 30代の女性。

 パソコンを打っている。

 大学生の男女。

 試験の話をしている。

 そして、70代の老人。

 コーヒーを飲んでいる。

 みんな、それぞれの人生を生きている。

 オイゲン・キケロ。

 ルーマニアで生まれた。

 共産主義の国で。

 自由を求めて、亡命した。

 命がけで。

 そして、音楽家として生きた。

 59年間。

 音楽に、すべてを捧げた。

 成功があった。

 しかし、故郷を失った。

 家族がいた。

 しかし、孤独な夜もあった。

 それでも、音楽があった。

 それが、彼の人生だった。

 ニールス・ヘニング・ウアステッド・ペデルセン。

 デンマークで生まれた。

 自由な国で。

 家族に囲まれて育った。

 しかし、自由であるがゆえの、重さがあった。

 家族を守る責任。

 期待に応える責任。

 それは、時には辛かった。

 しかし、彼は、それを受け入れた。

 そして、音楽家として生きた。

 58年間。

 家族と、音楽に囲まれた。

 幸せがあった。

 しかし、別れもあった。

 温もりがあった。

 しかし、ツアーの夜は淋しかった。

 それでも、家族がいた。

 それが、彼の人生だった。

 二人とも、偶然、その国に生まれた。

 キケロは、ルーマニアに。

 ニールスは、デンマークに。

 それが、二人の運命を決めた。

 キケロは、自由を求めて戦った。

 ニールスは、自由の中で責任を背負った。

 しかし、音楽で、二人は出会った。

 1977年。

 ベルリンで。

 そして、奇跡を起こした。

 老人は、コーヒーを飲み干した。

 そして、立ち上がった。

 レジに向かった。

 マスターが、会計をした。

「ありがとうございました」

「ごちそうさま」

 老人は、店を出た。

 外は、春の陽気だった。

 3月。

 桜が、咲き始めている。

 老人は、歩き始めた。

 家に帰る。

 喫茶店の中では、まだ音楽が流れている。

 次の曲が、始まった。

 30代の女性が、また手を止めた。

 この曲も、いい。

 彼女は、微笑んだ。

 そして、また仕事に戻った。

 60代の男性は、ニュースを読み終えた。

 そして、コーヒーを飲んだ。

 音楽が、耳に入る。

 いい音楽だ。

 大学生の男女は、まだ話している。

 音楽には、気づいていない。

 しかし、それでいい。

 音楽は、ただ流れている。

 誰かが聴いても。

 誰も聴かなくても。

 ただ、流れている。

 東京の、小さな喫茶店。

 午後3時。

 平日の、静かな時間。

 人々が、それぞれの人生を生きている。

 音楽が、流れている。

 47年前の、音楽が。

 ベルリンでの、三日間の音楽が。

 日常の中に、音楽がある。

 それが、人生だ。 


         完


    『ベルリンの夜に響く音』

       全四十四話

         了

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