スイカが割れるとしたら
「スイカ割りがしたい」
「なに言ってるんですか、貴女は」
僕の過去を模した領域で、母の形をしたキャラクターはそう言った。
頭の中では、そう理解していても、目の前の母は実在しているようにしか思えない。
その質感も、眼差しも、まとっている雰囲気も。
疑いようもなく、かつての母のもので、五感が『本物』だと訴えてくる。
――白亜湊、君にとっての現実とはなんだ?
僕にとっての現実とは、一体、なにを示しているのか……わからなくなる。
この世界は、夏を迎えていた。
窓の外で、アブラゼミとミンミンゼミが鳴いている。
空調の効いた病室でも、日本特有の蒸し暑さが伝わってくる。介護補助ロボットたちは、涼しそうに気楽に動いていたが、夏の訪れを感じている患者さんたちは、無意味に袖をまくっていたりした。
葵は、ノースリーブワンピースを着ている。すらっと伸びた素足の先には、黄色のカエルを模したサンダル。サングラスタイプのモニターをかけて、コントローラーを両手にゲームをプレイしていた。
「戯言をほざくのはやめなさい」
ナースの井上さんは、テキパキと、母の体温を確認しながらため息を吐く。
一般病床で、爺さん婆さんたちと一緒に詰め込まれている母は、この中では最も若いせいかアイドル的な存在だった。BBAを初めとしたジジババ軍団は、なにかと母を甘やかしていたが、唯一、井上さんだけが戒め役として機能していた。
「そうは言うけど、井上さん。私、現実的には、可能だと思うのよね。病院でスイカを割ってはいけないなんて日本国憲法なんて存在しないわけだから」
「どこの中学生ですか、貴女は……。
この病院内では、私を含めたナースと先生たちが法です。そして、ナース・ドクター法によれば、病院ではスイカを割ってはいけません」
「えぇ~? ウタさんも、スイカ、割りたいよねぇ~?」
自分のベッド上で、詩集を読んでいたウタさんことBBAは、面倒くさそうに顔を上げてから微笑んだ。
「あたしは、あんたさんの頭を割りたいねぇ」
「おっ? なんだ? やるか?」
お互いに、武器(枕と詩集)を構えた瞬間、井上さんが間に入る。
「私よりも年上のクソガキたちやめなさい」
「うわ! 二十代が、自分の若さをアピールしてくる! 病院のホームページに匿名で『肉欲を持て余した井上が、いやらしい手つきで採血してくる』って送ってやる!」
「あたしは、もう『井上の胸が、無闇矢鱈に大きすぎる』って匿名でクレーム送っといたよ」
「貴女たち、窓の代わりに鉄格子が視えるお部屋に引っ越ししたいんですか?」
胸ぐらを掴まれて、母とBBAは「すいません……」と謝罪を口にする。
端から視れば、看護師による患者虐待の瞬間だったが、慣れきった同室の爺さん婆さんたちは見て見ぬ振りで躱していた。
「でもでもぉ、湊も、スイカ割り、したいわよねぇ~? ねぇ~?」
「幼気な湊くんを誘惑しないでくれますか?」
ぎゅっと、抱き締めるような形で、井上さんが僕の両耳を押さえた。確かに、無闇矢鱈に大きすぎるなとは思った。
「ひぃ! ついに、井上が、10歳児童にまで手を出したよ! ナースコールで呼び出される社畜的快感だけじゃあ我慢ならなくなったのかい!」
「葵ちゃん! 葵ちゃん、危ないから、こっちおいで! ショタイケる女は、大抵、ロリもイケちゃうから!! ロリショタに一家言あるタイプの女よ、この女は!!」
「コイツら……10%キシロカイン急速静注で冥土に送ってやろうか……」
ぱふぱふ、手のひらで、耳元をくすぐられてから井上さんに解放される。
葵のほっぺたをぷにぷにと触っていた母は、数分経ってからようやく、真剣な顔で本筋に戻った。
「スイカ、割りましょう。病院外で」
「言っておきますが、暫く、外出許可は出ませんよ」
他の患者さんの脈を測りながら、井上さんは母に釘をさす。
「なら、湊と葵ちゃんに割ってきてもらうしかないか~……どう、湊? お母さん、スイカ食べたくなっちゃったから、スイカ、割ってきてくれる?」
「……良いよ」
当時は、真に受けていた『母のわがまま』。
後からわかったのは、こういった母のわがままは、親として最低限の務めを果たそうという努力の結果だった。こういったわがままは、井上さんに却下されると知りながら口にして、僕に少しでも楽しんでもらおうという図らいだった。
その気持ちは、井上さんとBBAも織り込み済みで、当時の僕は大人ぶって『やれやれ、仕方ないな』なんて思っていたが……本当の大人と言うのは、いともたやすく、己を殺して他を生かそうとするのだ。
たぶん、大人と子供は――己を虐げられるかどうか、で分けられている。
「じゃあ、お母さん、葵ちゃんのお母さんたちに連絡しておくから。ちゃんと、良い子で、楽しくスイカ割ってきてね? できる?」
「うん」
「よしよし、さすが、私のカワイイ息子。
あぁ、あとね」
母は、屈託のない笑顔で言った。
「あんまり、お母さんのお見舞い、来なくて良いからね。お友達とたくさん遊んで、楽しいこといっぱいして。湊がしたいことをして良いから。たま~に、来てくれるくらいで、大丈夫だから。ね」
母のお決まりの文句だった。
きっと、僕の重荷になりたくなかったんだろう。
世間一般の子供たちは、夏休みを迎えていて、普通は大人にたくさん甘えて、楽しく遊んでいることだろう。鬱々とした病院で、アルコールの臭いを嗅ぎながら、一日の大半を寝て過ごす半死人に付きそうことなんてないのかもしれない。
だから、この時期、僕は母の命令どおりに遊んだ。
一時期、母の存在を忘れていたこともある。葵のお父さんとお母さんと一緒に、本当の子供みたいに、たくさん甘やかしてもらった。間違えて、葵のお母さんのことを『お母さん』なんて呼んだこともある。
今、思えば、なんて残酷なことをしたのだろうかと思う。
やり直せたら。
やり直せたら、と、何度も思った。
やり直せたら、今度こそ、僕はお母さんを喜ばせてやれるのにと。
だから、僕は、微笑んで言った。
「ううん、僕、お母さんと遊ぶの楽しいよ」
母は、一瞬、呆けた顔をして――
「そっか」
心底、嬉しそうに笑った。
「うん」
僕は、微笑を浮かべて。
目の前の虚構が、現実へと裏返っていくのを感じた。