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鉄脚の進撃

 六足型の開発は順調そのものだった。しかし、ノモンハン事件が終結し、欧州での戦況が伝えられるようになると、57mm砲、良くて九五式軽戦車が搭載する短砲身37mm砲では威力不足ではないかと疑問視されるようになってくる。


 実際、陸軍においては戦車砲の威力強化に取り組んでおり、九五式軽戦車にも、改良型戦車砲が装備されようとしていたが、戦闘騎には190kgを超えるその砲を載せるには再設計や脚の強化を必要としており、輸送騎の評価に引きずられて鉄脚型戦闘車を買っていた陸軍の戦闘騎への評価は一気に下がって行く事となった。


 それでも薄殻榴弾の試験結果を見た陸軍は戦闘騎自体の有用性を認め、導入を決めることとなった。ただ、その導入数については、当初、1個中隊60騎前後というモノで、輸送騎の様に大量発注がなされたわけではない。結局、1943年までに200騎程度が納入されたが、そこで調達は中止され、以後は輸送騎の生産に注力することになった。そのため、輸送騎は最終的に2万騎近くが生産され、ビルマには半数の1万騎前後が送られたともいわれている。戦闘騎については、後にビルマでの評価を受けて再生産されることになるが、1945年に入ってからの話であったため、生産は思うように進まず、空襲や資材枯渇から終戦までに完成したのは50騎程度であったと言われている。


 こうして配備されていった鉄脚は中国大陸へ渡る事は無く、太平洋へと出ていくことになった。フィリピンやマレーで少数が使用され、故障が少なく、修理も現場で簡単に可能な事から好評を得る。


 ただ、修理の簡単さというのは各ブロック事を総替えすることで成り立っていたので、戦争末期には共食い整備が常態化し、稼働率をどんどん下げていくことになった。そのため、太平洋の島々には砲や建物と共に錆びた鉄脚がそのまま野ざらしになっている姿を見ることが出来る。


 さて、話しの本題であるインパール作戦だが、1942年5月に予想より早くビルマ攻略が成功裏に終了すると、大本営では援蒋ルートの要衝ともなっているインパールを攻略することで、大陸での戦いを有利に進めようと意図していた。南方軍においても同様の構想があり、大本営へと上申したが、参加兵力とされた第15軍はその計画に反対し、なかなか作戦をまとめることが出来ずにいた。

 しかし、10月には英軍の反攻作戦が行われ、撃退はしたものの、更なる反攻作戦を警戒し、こちらから攻勢作戦を仕掛けるべきだという意見が南方軍や大本営では大勢となり、第15軍を突き上げることになる。

 しかし、現地の情勢を知る第15軍側では輸送の困難さを理由に頑として首を縦に振らなかった。自動車の増強を打診しても、「ぬかるみで自動車が使える訳が無い」とまるで取り合わなかった。

 1943年に入り、3月には司令官が牟田口に交替した。それを機に、再度作戦実施を求めたが、彼も現地を知るだけに、首を縦に振りはしなかった。ただ、「そんなに作戦実施をして欲しければ、噂の鉄脚を1万寄こしてもらおうか」と、啖呵を切ったという。ただ、これが事実だとの証言はどこからも取れてはおらず、後の創作である可能性が高い。


 牟田口の啖呵が事実かどうかはともかく、1943年5月には牟田口に対し南方軍は司令官更迭まで口にして作戦実施を迫り、その代わりとして鉄脚7000騎を基幹とした独立特騎部隊を第15軍に組み込んでいる。

 雨季の最中の6月、牟田口は数度にわたる脅迫に負け、とうとう作戦実施を受け入れるが、それはさながらやりたくない人間が出来ないことを示すために立てたような作戦案だった。

 雨季の道がどこにあるかも分からない様なビルマにおいて、一月分の物資輸送を前提とした作戦計画を提出し、作戦実施を8月としていた。そう、これは牟田口による完全なサボタージュ工作であった。


 しかし、牟田口は運の悪い事に、さらに鉄脚3000騎の追加と共に作戦承認を受け取ることとなる。そのことで何か吹っ切れたのだろう、彼はインパールだけでなく、コヒマ攻略まで作戦に追加し、予定より遅れて10月に作戦を開始した。


 英側は日本軍の攻勢が開始されると各所で戦略的撤退を開始していく。そして、要地にわざと取り残された形でいくつかの拠点を築き、空輸によって部隊を維持し、日本軍の分散を図り、しかる後に反撃するという作戦を実施していった。

 ただ、英軍側には大きな誤算があった。彼らは鉄脚の輸送能力を完全に見誤り、戦闘騎の存在についてはまるで感知していなかった。

 そのため、戦略的撤退を始めて10日、彼らは予定通りに分断包囲されるが、予想よりも日本軍の攻撃が激しく、さらに、遅滞作戦によって日本軍を疲弊させるはずであった待伏せ部隊が地形的にあり得ない方角から攻撃される事態が頻発していく。

 それでも被害は軽微であったため、計画通りに反攻を開始するのだが、逆に漸減攻撃の罠にはまり込み、神出鬼没な何者かの攻撃にさらされることになった。

 それらの攻撃は、軽迫撃砲程度の威力の爆発力しか持たない砲撃であり、歩兵に対する被害は想定した程ではなかったが、装甲車両は尽く撃破されて行く事になった。

 攻勢に出たはずだった英軍は気が付いたら日本軍の前へと引き出されており、漸減攻撃で装甲車両や火砲の多くを失った状態で立ち向かう事となっていた。

 

 この漸減作戦を行ったのは戦闘騎で構成された独立特騎大隊であり、その中でも相原惣之助さがらそうのすけ中尉はとくに有名である。彼の部隊はまるで忍者の如く英軍を襲い、インパール突入の一番槍も彼であったという。

 彼ら戦闘騎大隊によって補給路を寸断された英軍は撤退もままならず、各所で日本軍へ降伏するしかなくなっていく。インパール自体も補給が乏しくなり、重層陣を敷いて待ち構えていたはずなのに、後方から戦闘騎に襲われ、脆くも瓦解し、そこへ歩兵部隊による夜襲が行われたことで、1944年3月にはとうとうインパールが陥落することとなった。更にコヒマへも攻勢をかけ、6月にはこれも陥落させてしまった。

 

 この大活躍を支えたのは輸送騎であり、輜重隊の牛馬が途中でどんどん潰れていく中、まるで何事もなかったかのように鉄脚だけは目的地へと物資を届けることに成功している。

 もちろん、英軍もインパール陥落を指をくわえて見ていた訳ではないが、航空攻撃で補給線を寸断しようにも、その全容はまるでつかめず、攻撃の多くは軽微な損害を与えるだけでしかなかった。ただ、英軍側では車列への攻撃などを効果的な打撃であったと誤認する事例が続いたことで、より一層日本軍の行動分析を誤り、敗北に敗北を重ねる事態を招いてしまっていた。

 

 英軍の無残な敗走に業を煮やしたのは米国だった。


 米国は早期に成都から日本本土を爆撃する計画を立案しており、その輸送ルートの一つとして、援蒋ルートの利用を望んでいた。

 ただ、インパールでの敗北の結果、英国は地上部隊による反攻をほぼ諦め、欧州での確固とした勝機を見極めた後、海上からの反攻を計画していたため、米国による再三再四の反攻要求にまるで応じようとしなかった。


 業を煮やした米国は民国軍と共同して中国側から攻勢に転じることを決意する。その第一弾としてコヒマから日本軍を誘引する目的も兼ねてミッチーナーへの空挺作戦を行い、これを占領した。

 しかし、コヒマから日本軍を誘い出すには至らず、連動して山岳部から西進して、ミッチーナーへと連絡しようとしていた民国軍は日本軍守備隊との激戦で多大な損害を出すこととなった。

 そうこうしている6月にはコヒマが陥落し、余勢をかって日本軍の一部が東進、少数の守備隊しかおらず、ほぼ占領が確定したと思われたミッチーナーへとやって来ることになった。結局、コヒマ陥落で現地ビルマのカチン人らの離反が起きた米中軍は半ば内部崩壊を起こし、8月の初めには降伏し、連絡のために西進していた民国軍も身動きが取れなくなってしまった。


 

 

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