第1話:運命の大夜会、初めての語り合い
【マリアの心情】
(どうしてこんなことになってしまったんだろう。私はただ、少しだけエドワルド殿下とお話ししたかっただけなのに。
私は、しがない男爵家の娘だ。このきらびやかな王宮の大夜会なんて、本来なら一生縁のない場所だった。周囲を見渡せば、目が眩むほど豪華なドレスをまとった公爵令嬢や、胸元に勲章をいくつも付けた高貴な殿方ばかり。みんな、私を見る目が冷たい。まるで「身の程知らずの野良猫が紛れ込んできた」とでも言いたげな、あの軽蔑の視線が本当に怖かった。
そんな私を優しくエスコートして、守ってくれたのがエドワルド殿下だった。殿下の後ろに隠れながら、私は押しつぶされそうな罪悪感に苛まれていた。
だって、今から、誰もが恐れるこの国の至宝、氷の公爵令嬢ルミリア様が、殿下の手によって断罪されるのだ。殿下は「マリア、君がいじめられている証拠はすべて揃った。僕が必ずあの悪女を排除し、君を救ってみせる」と言ってくれたけれど……。本当に、ルミリア様がそんなひどいことをしたのだろうか。私、ドレスに泥水をかけられた覚えなんてない。でも、殿下の側近の方々が「証拠がある」と言うから、きっとそうなのだろう。
ルミリア様は婚約破棄を告げられたら、一体どんな顔をするんだろう。プライドの高いお方だから、きっと屈辱に耐えかねてその場に泣き崩れるに違いない。可哀想に、と思う。でも、弱小男爵家の私にはどうすることもできなくて……。ただ、早くこの恐ろしい時間が過ぎることだけを、胸の前で手を組みながら、神様に祈っていたの。
そう、ルミリア様が、あの信じられない一言を放つ、その瞬間までは――)
まばゆいばかりの結晶が幾千も連なり、夜空の星々をそのまま閉じ込めたかのように輝く、王宮の第一夜会会場。
天井に吊るされた巨大なシャンデリアの光は、床の最高級大理石に反射し、室内を昼間よりもなお白く照らし出していた。オーケストラが奏でていた優雅なワルツは唐突に鳴り止み、今はただ、重苦しい静寂だけが会場を支配している。
その中心に立っていたのは、この国の第一王子であり、次期王位継承者の筆頭であるエドワルド・フォン・アルベールだった。
彼は一国の王子にふさわしい、彫刻のように整った容姿の持ち主である。しかし、今その顔に浮かんでいるのは、慈悲深い王族の表情ではなく、悪を討ち滅ぼした英雄気取りの、傲慢で勝ち誇った笑みだった。
エドワルドは、白い手袋に包まれた人差し指をまっすぐに突き出し、対峙する一人の令嬢を指し示した。
「ルミリア・フォン・グロースター公爵令嬢! 貴様の悪逆非道な行いは、すべて調べがついている! もはや言い逃れはできんぞ!」
殿下の張り裂けんばかりの、堂々たる声が大理石の壁に反響し、ドーム状の天井へと吸い込まれていく。
その声を合図にしたかのように、周囲を取り囲む何百人もの貴族たちが、一斉にざわめき始めた。
「おい、始まったぞ……」
「やはりグロースター公爵家の噂は本当だったのか」
「あんなに美しく、完璧な令嬢に見えて、裏ではそんな陰湿なことを……」
「いや、元々あの女は冷徹すぎて怖かった。自業自得さ」
あちこちから、事実確認すらしていない無責任なヤジや嘲笑が飛び交う。貴族たちにとって、高貴な公爵家が没落の危機に瀕する断罪劇は、何よりも極上の娯楽であった。
エドワルド殿下のすぐ背後では、可憐なピンク色のドレスをまとった男爵令嬢マリアが、小刻みに身を震わせている。彼女はまるで嵐の中の小鳥のように怯え、殿下の豪奢な上着の袖を小さな手でギュッと掴んでいた。その守ってあげたくなるような姿が、余計に周囲の同情を誘い、ルミリアへの敵意を煽り立てる。
「貴様は、そこにいる可憐で心優しいマリアに対し、日常的に陰湿極まる嫌がらせを行ってきた! 彼女の教科書をズタズタに引き裂き、お気に入りのドレスに泥水を浴びせ、あまつさえ先週の放課後には、学園の階段から彼女を突き落とそうと画策した! 違うか!」
殿下は一歩前に踏み出し、胸を張って糾弾を続ける。
「この国の次期正妃となるべき者が、嫉妬に狂って身分の低い令嬢を虐げるとは、言語道断! グロースター公爵家の権勢を笠に着た貴様の悪行、我がこの目で見過ごすわけにはいかん! よって――我が父なる国王の名において、貴様との婚約を破棄し、我が真に愛するマリアとの婚約をここに発表する!」
そして、運命の大夜会が始まる。
周囲の視線は冷酷にルミリアへと突き刺さり、「さあ、泣け」「床に跪いて許しを乞え」と言わんばかりの圧迫感が、会場全体を満たしていた。
しかし、当事者であるルミリア・フォン・グロースターは、取り乱すどころか、美しい眉をピクリとも動かさなかった。
彼女の髪は、夜の闇を溶かし込んだような見事な艶黒。その瞳は、深海の底に眠る氷晶のように冷たく、そして澄んでいた。
ルミリアは、自分に群がる有象無象の視線を一切無視し、ただエドワルド殿下の一挙手一投足だけを静かに観察していた。その佇まいは、断罪されている罪人ではなく、未熟な生徒を査定する厳格な教師のそれであった。
ルミリアは、身にまとった最高級シルクの夜会用ミッドナイトブルードレスの裾を、実になめらかな所作でパパッと払った。その流れるような動きには、一切の淀みも、無駄な揺らぎもない。
「……なるほど。言葉ではラチがあかない、と」
鈴を転がすような、しかし内側に絶対的な質量を感じさせる重い声が、ルミリアの薄い唇から漏れ出た。
「ふん! 言い訳すら思いつかないか! 罪を認めるのだな、潔いことだ!」
エドワルド殿下は勝利を確信し、さらに声を張り上げた。だが、ルミリアはフッと小さく、何か深い哀れみを含んだような笑みを浮かべた。
「いいえ、殿下。お言葉ですが、貴方のご高説には一分の真実も含まれておりません」
「往生際が悪いぞ! 証拠なら我が側近たちが――」
「ですが」
ルミリアは殿下の言葉を冷徹に遮った。その声の覇気に、殿下は思わず言葉を詰まらせる。
「私の無実をどれほど言葉で証明したところで、貴方は最初から聞く耳を持ってはおいでにならないのでしょう?」
「それは……っ!」
「ならば、これ以上お互いに喉を枯らし、高貴な時間をドブに捨てるのは不毛というもの。言葉という道具は、お互いに理解し合う意志を持つ者同士の間でしか機能いたしませんわ」
ルミリアはそう言うと、静かに視線を足元へと落とした。
そして、誰もが予想だにしない行動に出た。
ガラスの靴を思わせる、美しく装飾された最高級のヒール。彼女はそれを、実にあっさりと、すっと左右の足から脱ぎ捨てたのだ。
コロン、と軽い音を立てて転がるヒール。
裸足になったルミリアの細く白い足が、冷たい大理石の床に直接触れる。彼女の足指は、まるで大地の脈動を掴むかのように、床へと力強く根を張った。周囲の貴族たちは、その奇妙な行動に「何をする気だ?」「狂ったのか?」とさらに困惑を深める。
しかし、ルミリアの動きは止まらない。
彼女は、ボリュームのあるミッドナイトブルーのドレスをまとったまま、スッと右足を大きく後ろへと引き、腰を深く、床すれすれまで落とした。
その瞬間、夜会会場の空気が、肉眼で見えるかのように物理的に「重く」なった。
強烈なプレッシャーが会場を波打つように駆け巡る。ドレスの隙間から、ほんの一瞬だけ覗いた彼女のふくらはぎと太もも。それは、夜な夜な華やかな社交界で男たちと踊るためだけに作られた、か弱い肉体では断じてなかった。
幼少期より、周囲に隠れて重ねてきた地獄のような基礎鍛錬。一分の狂いもなく肉体を制御するための過酷な体幹トレーニング。それによってのみ形成される、極限まで無駄を削ぎ落とした、野生の肉体美がそこにあった。
「ル、ルミリア……? 貴様、一体何をしている……?」
エドワルド殿下の額から、一筋の冷や汗が流れ落ちる。先ほどまでの、世界を統べる王者のような絶対的な自信が、彼女の「構え」を見ただけで、本能的な恐怖へと塗り替えられていく。
ルミリアは、左手をまっすぐに前へと突き出し、手のひらを軽く開いた。右手は拳を固め、自らの顎の横へと添える。
指先の角度、関節の曲がり具合、体重の配分。そのすべてが完璧にコントロールされた、美しくも、圧倒的な破壊を予感させる禍々しい迎撃の構え。
ルミリアは、怯える婚約者を真っ直ぐに見据え、静かに、しかし会場の全員の鼓膜に直接響くような声で告げた。
「では、エドワルド殿下。言葉の代わりに――拳で真実を語り合いましょう」
「……は? 拳……?」
殿下がその言葉の意味を脳内で処理しきれず、完全に呆気に取られた、まさにその刹那。
ルミリアの白い裸足が、王宮の床を爆音と共に蹴り抜く。
ブゥゥゥゥンッッ!!!
ドン、という衝撃音が遅れて響く。最高級の大理石が、まるで爆弾でも炸裂したかのようにクレーター状に爆ぜて四方に飛び散った。
ルミリアの身体は、人間の動体視力を遥かに置き去りにし、一瞬で音速の壁を突破した。彼女が元いた場所には、あまりの急加速によって生じた、白い衝撃波の輪がクッキリと残されている。
「なっ――アッ!?」
エドワルド殿下が驚愕に目を見開いた時には、すでに目の前に、圧倒的な「死」の気配が迫っていた。
ルミリアの放った、文字通り神速の右ストレート。
拳が前方の空気を過剰に圧縮し、赤黒い熱量の光条を纏いながら、殿下の美しい顔面へと肉薄する。
「おおおおお!」
ルミリアの口から放たれたのは、令嬢のそれとは思えぬ、地鳴りのような気迫の咆哮。
彼女の拳が描く軌道は、ただひたすらに真っ直ぐ。悪意も、憎しみも、言い訳もない。ただ、エドワルドという一人の男の魂の芯を捉え、その本音を引きずり出そうとする、純粋な「武」の弾道。
華やかであるはずの断罪の夜会は、開始からわずか数十秒で、激しい爆風と、砕け散った大理石の白煙が激しく立ち込める、超次元の戦線へと姿を変えたのである。
(第2話へ続く)




